メディア・リサーチ

メディアとコンテンツをめぐる雑感と考察

 1982年にサービスを開始し、フランス版WWWとも呼ばれた「ミニテル」(minitel)のサービスが、ちょうど30年後の2012年6月30に終了した。最盛期には、900万のミニテル端末が家庭におかれ、2500万人ものフランス人が利用し、26000ものサービスが提供されていた。提供されていたサービスとしては、電子電話帳、天気予報、チケットの予約、オンラインバンキング、ショッピング、ポルノサイト、メール、チャットなどがあり、WWW開始よりはるか以前に、フランス人は世界でもっとも先進的なネットサービスを享受していたのである。

minitel

 しかし、1990年代に入り、インターネット上でWWW(ウェブ)のサービスが提供されるようになるとともに、ミニテルはこれに対する競争力をもつことができず、1990年代半ばを頂点として、徐々に衰退していったのである。フランスでは、ミニテルの成功によって、インターネットの普及が遅れることになったとも言われている。

 日本やイギリス、ドイツなどでも、ビデオテックスと呼ばれる同種のテレコムメディアが実験的に導入されたが、いずれの国でも失敗に終わったが、フランスだけは例外で、その使いやすさとコンテンツの魅力、端末の無料配布などによって、一時期は大成功を収めたのであった。ミニテルでもっとも人気のあったコンテンツは、「ミニテル・ローズ」(minitel rose)と呼ばれるチャットサービスだった。これは、コールセンターで性的会話のお相手をしてくれる匿名の女性と有料でおしゃべりを楽しむことができるサービスだった。なかには、これにはまって月に何千フランも使うユーザーもいたということである。

 しかし、それもインターネット上で同様のアダルトサイトが提供されるようになってからは、人気が翳ることになった。インターネットを中心とするメディア生態系が繁栄する中で、ミニテルはついに生き延びることができなかったのである。

1982年のミニテル

・ミニテルの終焉:




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ファックスの歴史


 ファックスというメディアの歴史は、電話よりも長いといわれる。FAXの基本原理を発明したのは1843年、アレクサンダー・ベインというスコットランド人の時計技師だったという。しかし、その原理は長く実用化されるには至らなかった。1907年、フランスのエドゥアール・ベランが写真電送装置を開発。1925年、米国ベル研究所でベル式写真電信機を発表し、翌年には写真電送を業務として開始している。日本では、丹羽保次郎氏が1924年に欧米を視察し、帰国後は写真電送の研究に取り組み、小林正次氏と共にNE式写真電送装置を開発したという。1928年、昭和天皇の即位式の際に、新聞写真の伝送用に使われ、ファックスはその威力を発揮した。(以上、「Faxの歴史」ウェブサイトより)。

 ファックスが本格的に使われるようになったのは、1970年代に入ってからのこと。1980年代に入ると、ファックスを業務用に導入する企業が増え、ファックスの普及が進んだ。一般家庭用のファックスが普及し始めたのは、1990年前後だという。

ファックス世帯普及率の推移


 一般家庭用ファックスの世帯普及率推移をみると、下のようになっている(内閣府『消費動向調査』より)。比較のために、パソコンの世帯普及率もあわせて表示する。
 
パソコン、ファックス普及率

 『消費動向調査』のデータは、ファックスの場合、1992年以降なので、それ以前のデータがないが、1992年の時点では、まだ5.5%しかなかった。パソコン普及率のデータは1987年から利用可能であり、1987年の時点で、すでに11.7%と1割をこえている。家庭への普及という点からみると、ファックスよりもパソコンの方が先行していたことがわかる。1992年以降の推移をみると、1999年までは、パソコンとファックスはほぼ並行的に普及を進めていたが、2000年以降は、インターネットの発展やパソコンjの低価格化とも相まって、パソコンが急速に一般家庭に普及し、ファックスを圧倒してきたことがわかる。

 最新の2012年時点でみると、パソコン普及率が77.3%、ファックスの普及率が58.6%となっており、ファックスの普及はほぼ頭打ち状態が続いている。パソコンの普及推移が、ほぼS字型曲線を描いているのに対し、ファックスは「く」の字型で、将来的には減少を続けるのではないかと予想される。

 実際、総務省の「通信利用動向調査」のデータで、ファックスの世帯普及率の動向をみると、下の図のように、2010年に入って、ファックス保有率は激減していることがわかる。パソコンについても、ここ2年ほどは、やや減少する傾向がみられ、普及が頭打ちになっているように見える。

パソコン、ファックス普及率 通信利用動向調査



ファックスは衰退していくのか


 このまま、ファックスはメディアとして衰退の一途をたどるのだろうか?その答えは、「Yes」だろう。家庭での保有率は50%前後ということだが、実際の利用率はもっと少ないのではないだろうか。最近では、文書や写真・その他の画像を送信するメディアとして、インターネットを使う人が大幅に増えているからだ。写真入り文書も、pdf形式にすれば、ファックスよりもはるかに高い精細度で送信することができるし、送られた文書類を長期保存するのも楽にできるからだ。  
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  1年あまり前、マクルーハンのメディア論について、メモ的な書き込みをしたことがあるが、その文章の最後に、「
ドーキンスは、『利己的な遺伝子』の中で、遺伝子情報の生存戦略について詳細に論じたが、この考え方から、「情報のメディア戦略」といった考え方を引き出すことができるのではないかと思う。それについては、別途論じることにする」と書いたままになっていた。ちょうど、マクルーハンの『メディア論』『グーテンベルクの銀河系』を再読する機会があったので、これについて、若干の考察を加えておきたいと思う。
情報の3類型ミニ

 その場合、情報を新たに、上の図のようなものとして再類型化してみたい。

 吉田民人氏が正しく指摘されているように、最広義の情報とは、「物質・エネルギーの時間的・空間的および質的・量的パターン」と定義することができる。このような意味での情報は、宇宙の始原から存在していたと考えることができる。情報が「進化」するものと考えるならば、情報の進化は、宇宙のどこか(地球を含む)で「生命」が誕生したことによってなされたものと想像することができる。地球でいえば、DNAという、記号機能をもつ情報が誕生したことが、情報の進化をもたらしたといえるだろう。これによって、生命に関わる情報を無制限に複製することが可能になり、単一の生命が終わったあとも、子孫にDNA情報が伝えられ、生命情報の長期にわたる「生存」がはかられることになった(生命情報の誕生)。

 しかしながら、生命情報は、子孫に伝えられるにとどまり、子孫が絶えれば、情報の生存も絶えてしまう。それを補うために、生命情報は、「(外部)メディア」を発明し、この外部メディアを通して、個体が不可能であった、時間的、空間的な制約を突破することが可能になった。つまり、文字、活字印刷、ラジオ、テレビといった「外部メディア」に貯えられた情報は、「メディア情報」として新たな進化を遂げることになったのである。マクルーハンが述べたように、メディア(情報)は、「人間の拡張」であり、正確にはその一部分ということになる。

 こうして、情報は二段階で進化を遂げることによって、上の図に示すような三層構造をもったものとなった。この図で、「メディア情報」が、「物質情報」と「生命情報」の間に位置していることに注意していただきたい。「メディア」という言葉の起源は、「中間にあるもの」(medium)という語義にあり、この図は、そのことを直接反映している。

 あるいは、情報の進化を、下のような4類型で捉えることも可能かもしれない。とりあえずは、「社会情報」のことは考えないことにする。

情報の4類型

 ここからは、ドーキンス博士の「遺伝子進化論」「ミーム進化論」とほぼ同じ論旨になるので、あまり新鮮味はないかもしれない。「遺伝子」を「生命情報」と読み替えただけであり、その乗り物を「メディア」に限定しただけである。ただし、この考え方を「メディア構築主義的アプローチ」と呼ぶことによって、なにがしかの新しい知見が得られれば幸いである。「メディア構築主義アプローチ」ということばは、私の造語ではない。最近読んだ論文(このブログでも紹介した)に出てきたもので、これは使えるのではないか、と今は思っている。

 レヴィンソン『デジタル・マクルーハン』によれば、ニューメディアなかでもインターネットの拡張的な性格を考えれば、マクルーハンのメディア論は、今日さらに適切なものだとしている。また、社会構築主義は社会的ニーズと技術的可能性との間のギブアンドテイクの関係を重視するものである。Wilzig and Avigdor (2004)は、この2つのアプローチを総合したものとして、「新旧メディアの間の絶えざる相互作用が進化の成功と失敗、とくにニューメディアの方向付けにおいて重要なものになる」として、これを「メディア構築主義」と呼んでいる。

 レジス・ドブレの「メディオロジー」も、生態学的なアナロジーにもとづくメディア構築主義の一つに数えられるかもしれない。「自然においてと同様、文化においても、生態系は互いに入り組んでいく。各メディア圏はそれ自身、先行するメディア圏が接合したものであり、生きている部分と生き残った部分とを含めて、それらは互いに絡み合っている。そのため体系は不安定で、しかも次第に複合化していく。継起するメディアの各世代が、波乱含みの共存関係の中で、互いに重なり合ったり堆積したりするにつれてである。メディア圏は、互いに他を追いやりながら継起しているのではない。とはいえ、それぞれに固有の統一性、いわば人格が備わっている。」(レジス・ドブレ『一般メディオロジー講義』,p.322)。

 ドブレによれば、「メディア圏」とは、伝達作用(と輸送)の大体系のことをいう。歴史的時代区分として、「言語圏」(表記技術から始まる)、「文字圏」(1450年代~:印刷術から始まる)、「映像圏」(1840年代~:オーディオビジュアル技術から始まる)の3つがあげられている。21世紀の今日では、この3つの加えて、「インターネット圏」(1990年代~:マルチメディアから始まる)をあげることができるのではないだろうか。

 外部メディアを媒介として登場した「メディア情報」は、こうした歴史上の「情報革命」のたびごとに、大きく進化し、爆発的な広がりと奥行きをもったものとなっている。今日的には、「インターネット圏」と「マスメディア圏」の相互作用と共進化がメディア学において最大の研究対象の一つとなっていると考えることができる。同時に、現代人が「メディア情報」から受ける恩恵とともに、「メディア情報」に支配され、利用され、あるいは振り回されるといったネガティブな作用にも注目し続ける必要がある。そのためには、エコロジー的な視点から「情報のメディア戦略」についての考察を深めることが求められているといえよう。
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 インターネットは、従来のマスメディアから大きく進化したメディアといえる。では、一般に、メディアはどのようなプロセスを経て進化するのか?この点に関する論文を紹介しておきたい。「自然史モデル」だ。メディア間の生存競争をモデルとした、「メディア・エコロジー」的な視座がみられる。「イノベーションの普及過程」理論も下敷きにしているようだ。

Lehman Wilzig & Cohen Avigdor 2004 The Natural Life Cycle Of New Media Evolution from Ana ADI

読みやすいpdf版はこちら:

http://portal.tapor.ca/my-texts/148.text


ニューメディアの進化に関するライフサイクルモデルは、とても参考になる:


 life-cycle model of new media evolution
 ニューメディアの進化に関するライフサイクルモデル(Wilzig & Avigdor, 2004, p.712より)
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 今月から朝日新聞デジタル(電子版)に、「紙面ビューアー」のサービスが開始された。日経電子版と同様に、縦書きの紙面のイメージをそのままPC画面上で閲覧できるようになったのだ。これはまさに、待望の新機能といえる。さっそく、毎朝のように試しているが、従来のウェブ版にくらべて、「新聞を読んでいる」という雰囲気を味わうことができるので、たいへん重宝している。

01
(『朝日新聞デジタル』2013年1月25日朝刊1面より)


紙面ビューアーの利点は、次のところにあると思われる。

(1)縦書きの印刷書体なので、とても読みやすい。
(2)両面を開けるなど、一覧性が高い。
(3)字体を大きくできるので、読みやすい
(4)広告を紙版と同様に読める
(5)一つ一つの記事が、ウェブ版と連携しているので、スクラップをとれる
(6)目次機能(またはサムネイル)を使えば、紙面を自由に飛ぶことができる
(7)モバイルPCやタブレット(2月に登場?)を使えば、どこでも読める
(8)毎朝、紙の新聞を読むような新鮮な気分を味わえる(punctuating time function)
(9)記事の重要度が見出しや紙面のサイズ、位置で確認できる(agenda-setting function)

というわけで、私は紙の新聞購読をやめて、デジタル版一つとすることにした。なによりも、紙資源の無駄をなくせるというのが最大のメリットだと感じる。要望としては、紙面ビューアーからダイレクトにスクラップできるとか、紙のイメージでのスクラップが可能になるといいのではと思っている。技術的に難しいのかもしれないが、、、
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 パソコンにあるPDFファイルをkindleリーダーに転送する方法としては、USBケーブルでコピペするのが簡単だが、PCソフト(send to kindle=無料)を使うと、ケーブルをつながなくても、pdfファイルを転送できることがわかった。これで、自炊→kindleへの転送、の仕方がわかった。年明けには、知人から、使っていないという断裁機一式が贈られてくる予定なので、それがいまから楽しみ!来年は、私にとって「自炊」元年になるだろう。
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 私の場合、少しでも安い端末をということで、7980円のpaprewhite(Wi-Fi版)を購入したのだが、いまから思うと、3G版にしておけばよかったかと、若干後悔している。というのは、Wi-fi版だと、外出先の車内など、Wi-Fi環境がないところでも、読んだ部分の記録をクラウドに転送したり、新しい書籍をkindleストアで即購入したい場合にも対応していないが、3G版だと、これらがユビキタスに可能だからである。

 kindleのメリットとして、既読部分を異なるデバイスで自動的に同期してくれるという点がある。例えば、自宅のiPadで読みかけのまま、kindleリーダーをポケットに入れて、電車の中で続きを読みたい場合、読みかけの部分がさっと表示されるので、とても便利なのだ。Wi-Fi版だと、モバイルルーターでも持っていない限り、異なるデバイス間の「読みかけ」機能が付けないだ。まあ、自宅に戻ってから、同期させてもいいのだが、、、

 5000円の価格差をどう考えるか、判断の分かれるところだが、シームレスに異なるデバイス間での、読みかけデータを引き継げるという、kindleの機能を生かしたいと思えば、3G版をお勧めしたい。
 
また、出先で新規に本を購入したいという場合にも、やはり3G版がおすすめだろう。3Gを使っても、通信料はアマゾンが負担してくれるので、コスト的には変わらず、この点もkindleのメリットといえる。
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 kindleで購入した電子書籍は、クラウド上にコピーがおかれているので、デバイスが異なっても、それをダウンロードして、各種の端末で読むことができる。これは実にすばらしい機能だ。私は、kindleリーダーの他に、iPad、iPad mini、iPhoneをもっているので、合計4台を使い分けながら、電子書籍を読むことができるのだ。下の写真は、iPadをのぞく3機種を撮影したもの。

kindle&iPhone&ipadmini

 読みやすさは、やはりサイズの大きなiPad miniだが、ポケットには入らない。しかし、kindleリーダーとiPhoneはポケットにすっぽり入るので、電車の中などでも気軽に読むことができるので便利だ。iPhoneの場合には、画面が小さすぎるので、写真にあるような雑誌サイズの本だと字が細かすぎる。また、バッテリーの持ち時間が短いのもデメリットだ。バッテリーの持ち時間の点では、kindle専用リーダーが、なんと8週間というロングバッテリーで、ダントツに優位だ。A5版の本までならば、kindle専用リーダーが断然おすすめ。目が疲れないのもいい。

 というわけで、kindleの場合、シチュエーションに応じて、端末を使い分けられる点がとても気に入っている。

 さて、きょうは電車でお出かけなので、kindleリーダーをポケットに入れておくことにしよう。

※これはユーザーズガイドには書いていないので、注意していただきたいが、kindleは、ワンクリックで本を買えるように設定されているので、kindleリーダーを購入したらすぐに、本体にパスワードをかけておくことをお勧めする。
これは、iPadやiPhoneでも同じこと。
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 ここ数日間で、相次いで、電子書籍リーダーが入荷したので、さっそく両者をためしてみた。機種は、Kindle paperwhiteとiPad miniだ。kindleリーダーは、意外と小さく、ほぼ新書版のサイズに対し、iPad miniはほぼA5版
とやや大きめ。下の写真は両者を並べたところだ。右側がiPad mini。持ったときの重さの感じは、ほとんど同じなので、サイズ重量的には、iPad miniが勝っている。文字の大きさも、iPadのほうが読みやすい。

 ただし、Kindleはe-inkを使っているので、目の疲れは少ない。

 kindleのUSBケーブルをパソコンにつなぐと、充電ができる他、パソコン内にあるpdfファイルを、コピペで簡単にkindleに取り込むことができる。PCでメール内にあるpdf文書を持ち歩くにはとても便利な機能だ。iPadの場合には、pdfを読むのに、どうすればいいのだろうか。dropboxなどのアプリをインストールしないと、読めなかったと記憶するが、まだ試してはいない。それほど、kindleの簡便さがわかるというものだ。kindleで購入した電子書籍は、クラウドを介してiPad miniでも読むことできる。しかも、読みかけの部分がそのままの位置でiPad miniに引き継がれるので、これもまた超便利な機能といえよう。

 これ以上はまだためしていないので、いずれ使いこなしつつ、ご報告したいと思う。(以上、kindelを使い始めてから1時間での試用記でした)


kindle&iPadmini


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 必要があって、約10年ぶりにローレンス・レッシグ著『CODE』を再読した。オリジナルの原書が出版されたのは、1999年。日本語訳が出たのは、2001年3月27日。私が直接レッシグ教授にお目にかかったのは、2001年3月15日のことだった。それは、ちょうど日本語訳が出版される2週間前のことで、私自身、たまたまプリンストン大学で開かれた講演会に招かれて、同席したのだった。原書も日本語訳も知らないままで、同席したため、また専門領域が異なっていたため、残念ながら、英語でのやりとりをちんぷんかんぷんで拝聴するにとどまった。その当時に書いたウェブ日記には、そのときの状況が次のように記されていた。
 
きょうの講演の内容は、電波の周波数の配分とインターネットの自由の問題であった。私の英語力がいま一つのために、議論の詳細は紹介できないが、とにかくいかにも頭が切れる(超スマート!)という感じのレクチャーとディスカッションが、1時間30分にわたって行われた。私はもちろん専門外だったので、おとなしく聴講しているだけだったが、参加者からの鋭い質問やコメントにも、実にスマートに答えていたのが印象的であった.

Lessig1
2001年3月15日、プリンストン大学での講演会にて
(ローレンス・レッシグ教授)


 レッシグによれば、われわれの社会において、人のふるまいに影響を及ぼすものには、(1)法、(2)規範、(3)市場、(4)アーキテクチャ(またはコード)という4種類あるが、サイバー空間においては、とくに4番目の「アーキテクチャ」が重要な規制手段だという。

architekuchure


 実空間での事例として、「公共空間における携帯電話の利用」を取り上げてみよう。車内
、病院、劇場など公共的な空間において、携帯電話の利用はさまざまな方法で規制されている。
(1)法律による規制
 自動車運転中の携帯電話利用は、「道路交通法」によって禁止されており、違反者にはきびしい罰則が科せられる。これによって、運転中のドライバーのふるまいは規制されている。
(2)規範による規制
 電車やバスなどの車内での携帯利用に関しては、車内のアナウンスや、乗客の冷たい視線などの「規範」によって、とくに音声通話利用というふるまいは規制されている。
(3)市場による規制
 喫茶店、レストランなどでは、携帯電話が利用できるスペースを設け、それ以外の場所では携帯電話はできないようにしているところもある。これは、市場の中で、携帯電話をできる空間を制限しているという意味では、市場による規制といえるだろう。
(4)アーキテクチャによる規制
 劇場、病院などの一部では、建物内に携帯電波をシャットアウトする装置が設置されている場所がある。これは、アーキテクチャによる規制といえる。

 サイバー空間においても、これと同じような4種類の規制が加えられている。
(1)法律による規制
 著作権法、名誉毀損法、わいせつ物規制法などは、サイバー空間にも適用され、違反者には罰則を課することができる。
(2)規範による規制
 アニメに関するコミュニティサイトで、だれかが民主政治のあり方に関する議論を始めたら、たちまちフレーミングの嵐(炎上)にあうだろう。
(3)市場による規制
 インターネットの料金体系はアクセスを制約する。商用サイトにおいて、人の集まらない電子会議室は閉鎖されてしまうだろう。
(4)アーキテクチャによる規制
 サイバー空間の現状を決めるソフトウェアとハードウェアは、利用者のふるまいを規制する。たとえば、一部のサイトでは、アクセスするのに、IDとパスワードを要求される。

 レッシグの独創性は、この4番目のアーキテクチャが、利用者にも知られることなく、利用者のふるまいを規制していること、また、実空間以上に、インターネット上でアーキテクチャによる規制力が無際限に大きくなり得ることを発見した点にある。それが行き過ぎると、インターネットから自由が奪われてしまう恐れがあるのだ。そうした事態を防ぐためには、アーキテクチャの規制を管理できるような対策を講じる必要がある。それは、私見によれば、(1)から(4)までのそれぞれにおける対応が必要ではないかと思われる。

 レッシグ教授の講演会に誘ってくださったのは、プリンストン大学の助手をされていた、Eszter Hargittaiさんだった。下の写真の中で、左側にいるのが、エスターさんだ。

Lessig2



 現在は、Northwestern Universityの准教授をされており、そこでのWeb Use Projectリーダーでもある。とてもチャーミングな方だが、頭脳も明晰で、さすが超秀才の集まるプリンストン大学出身という印象を受けた。彼女がいかに超秀才かということは、彼女のウェブサイトをごらんいただければ分かるかと思う。

http://www.eszter.com/
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 最近、私の受け持つ授業の中で、「ソーシャルメディアの利用状況」について、学生に自由記述式で回答してもらったデータがある。このデータをもとに、KH Coderというテキストマイニングソフトを用いて、利用状況の分析をしてみた。

 まず、語彙の出現頻度を調べてみたところ、100語以上の語の出現頻度は次のようになっていた。

語彙の出現頻度

 ソーシャルメディアの中では、Twitterへの言及頻度がもっとも高く、LINEがこれについで高いという結果が得られた。Facebook、mixiがこれに続いている。最近のソーシャルメディアの人気度がよく反映されていると感じた。大学生の場合、mixiには登録しているが、ほとんど使っていない、といった回答が多かった。一般の語彙の中では、「利用」が第一位を占め、「友人」が第三位を占めている。やはり、ソーシャルメディアは、友人との繋がりという位置づけのようだ。

 TwitterとLINEのKWICコンコーダンスをみると、次のようになっている。これは、語彙の前後の文脈がわかるものだ。

TwitterのKWICコンコーダンス

 Twitterについては、フォローしている友人の日常のつぶやきをみたり、自分がいまどこで何をしているかといった他愛もないつぶやきをするのに利用していることがわかる。

LINEのKWICコンコーダンス

 LINEについては、メールよりも早く友人とメッセージのやりとりができること、ゼミやサークルでの連絡によく使われている。回答者は大学一年生だが、大学に入ってから、友人のすすめで始めたという回答が多かった。いわゆるネットワーク外部性のよい例だと思う。LINEは、世界で6000万人、日本国内だけでも2800万人が利用しているといわれ、爆発的なブームになっているようだ。いまや、ソーシャルメディアの中では、Twitterに次いで第二位の地位を占めようとしている。

 次に、階層的クラスター分析にかけてみた。その結果(デンドログラム)は、次の通り。

クラスター分析1

 画面が縦に長すぎて、上半分しか見えていないが、YouTubeが「動画」「共有」「投稿」と結びついていること、LINEが「グループ」「チャット」「便利」などの語彙と結びついていること、Twitterが「友人」「利用」「自分」「見る」などの語彙と結びついていること、などが分かる。それぞれのメディア特性を反映しているようだ。

 デンドログラムの下半分は、次のようになっている。

クラスター分析2

 Facebookとmixiはきわめて近い関係にある。「写真」「登録」「ソーシャルメディア」などとの結びつきが強い。実際、Facebookでは、写真を載せて友人と共有し合うという使われ方が多いようだ。

 最後に、多次元尺度解析によって、出現語彙の2次元空間上の配置状況をみておこう。

多次元尺度解析


 LINEは、従来のメールを代替する機能を果たし、グループ間でのメッセージのやりとりとして、非常に便利なツールとして認識されている。Twitterは、空間的にはやや近い位置にあり、より「情報」に比重をおいたソーシャルメディアであるようだ。YouTubeやFacebook、mixiは、これとはっや離れたところで、独自の機能を果たしているようだ。Twitterは、ある意味で、従来型のSNSであるFacebookやmixiをある程度、機能的に代替しているとも考えられる。

 ※なお、昨年の12月に同じ趣旨で行った内容分析と比較してみると、mixiの凋落ぶりが明らかに見て取れる。

→ http://blog.livedoor.jp/media_research/archives/1731827.html
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 「モバキャス」と呼ばれるスマホ向けマルチメディア放送サービスが、NTT Docomoの小会社mmbiの運営するテレビ局NOTTVとして、4月から放送が開始された。時事通信のニュースサイト(2012年4月1日付)は、次のように伝えている。
携帯端末向けの有料の新放送サービス「モバキャス」が1日、スタートした。この日はモバキャス専用放送局「NOTTV(ノッティーヴィー)」がスポーツやニュースなどの放送を始めた。 NOTTVは、NTTドコモや民放などが設立したmmbi(東京)が運営。持ち運びが容易なスマートフォン(多機能携帯電話)などで見られるのが特徴。番組は24時間放送のニュース専門チャンネルのほか、スポーツ中継や音楽ライブなど生放送中心。オリジナルドラマなど幅広いジャンルの番組も配信し、利用料は月額420円。視聴地域は当面、14都府県に限られる。 視聴にはモバキャス対応の携帯端末が必要。現在対応機種は2機種に限られているが、ドコモは今後増やしていきたいとしている。(2012/04/01-11:49)

 ツイッター(#nottv)やネット掲示板などをみると、評判はよくないようだ。電波が届かない、バッテリーが持たない、コンテンツに新鮮味がない、端末が高すぎる、など、、。かつて失敗に終わったモバHo!の二の舞になるのでは、という論評がもっぱらのようjだ。しばらく様子を見てみたい。twitterやフェイスブックとの連動も売りの一つにしているよだが、ユーザーがほとんどいない現状では、その利用価値もまだないだろう。

 くわしい情報は、NOTTV公式サイトC-Netニュースサイトモバキャスについて、で、、

 ※参考:NOTTVは成功するのか(C-NET 2012年4月26日) 
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 3月に新発売されるiPadは、既存のiPad2の改良版にとどまり、画期的な新製品ではないという。残念なことだ。スティ-ブ・ジョブズ氏が生きていれば、もっと斬新なモデルを発売させていた可能性もある。ジョブズ氏は、製品の隅々まで、細かいところまで、完成度と美しさを追求していたといわれる。1455年頃、ドイツのマインツで世界初の活版印刷機を発明したヨハン・グーテンベルクも、同じように、細部にまで徹底的なこだわりを持っていた人だったらしい。

 ジョン・マン著『グーテンベルクの時代:印刷術が変えた世界』には、そのような細部へのこだわりに異常な執念を燃やしたグーテンベルク像の一端が描かれている。最初の印刷物『42行聖書』について、次のように記述されている。
 デザインとしては、二段になった文章欄が優雅なバランスを保ち、装飾用に幅広い余白が残っている。それは筆写の伝統に従ったものだ。二つ折り版のページは、横と縦について非常に重要な関係が規定されているいわゆる「黄金分割」にもとづいて、ふたつの長方形で構成される。
 デザインのなかのあるひとつの要素は、グーテンベルクによる発案の可能性がある。それは右端の余白をそろえることだ。これは筆写人にはできない。・・・植字というのはこの筆写人の理想を実現するチャンスだ。セットされた活字にもどって、行の長さを調整するために鉛のスライバー(細片)を単語の間に差し込んで、幾何学的な純粋性という追加的な要素を達成するのである。・・・グーテンベルクの植字は均等で美しく、つまっているようにはみえない。彼は現代人がもう行っていないという圧縮という、あの筆写のあらゆる奇術を用いることによって、これを達成している。
 このようなささいな点こそ、よく見る価値がある。グーテンベルクの質にかんする強迫観念。この場合は狂気の瀬戸際にまでにじりよっているようにみえる執着をあきらかにしているからだ。(p.155)

グーテンベルクの42行聖書
 たしかに、左の写真をみると、その造形的な美しさは際立っていることがわかる。行の右端が見事に合っている。しかも、現代のワープロではありがちな、文字間の不均等なスペースもほとんど感じさせない、すばらしい出来映えだ。単なる複製出版物という以上の、芸術作品を思わせる作品が、「メディアの世界を変えた」と称される所以だろう。

※グーテンベルクの活版印刷術の出版経緯:

  グーテンベルクは、1400年頃、ライン河畔のマインツで都市貴族の長男として生まれた。1436~40年頃、シュトラースブルクに滞在し、宝石加工、手鏡制作技術を習得したが、この頃すでに書物印刷に必要な活字の鋳造、植字、印刷に関する技術を修得していたと推測されている。マインツに帰省後の1448年頃、グーテンベルクは印刷術を完成させるため、ヨハン・フストに資金提供を仰いだ。フストは印刷機械や紙、インクなどの購入用にグーテンベルクに資金を貸し付けたが、その後両者の間にトラブルが起こった。 そして、1455年、グーテンベルクが『42行聖書』の印刷をほぼ完成させた頃、フストから契約不履行で訴えられ、印刷機械一式と印刷工ペーター・シェーファーを取り上げられてしまった。その結果、フストはシェーファーとともに『42行聖書』を独自に完成させたといわれている。この間のくわしい経緯は謎に包まれているが、グーテンベルクが1450年から1455年の間に活版印刷技術を完成させたことは事実のようである。

 1450~55年頃、グーテンベルクは鉛とアンチモンの合金を使った活字を印刷機に組み込み、羊皮紙と紙の両方を使って、『42行聖書』と呼ばれる世界最初の活版印刷物を作った。そして活版印刷術は、それまでの手書き写本に代わって「活字メディア」を新たに誕生させることになったのである。

 さて、iPad3はどのようなものになるのか、それとも他の社から理想的なタッチパッド端末が発行されるのか、いまから楽しみだ。

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 「基礎情報学」の中で、西垣通氏は、情報を「生命情報」「社会情報」「機械情報」の三つに分類している。その包含関係は、次のようになっているという。

生命情報、社会情報、機械情報


 つまり、もっとも根源にあるのが「生命情報」であり、「社会情報」はこれに含まれ、「機械情報」は「社会情報」の下位集合となっている。それぞれの定義は、次の通り。

 「生命情報」は、生命のレベルにおける意味作用として情報を扱うものである。「社会情報」とは、ヒトの社会において多様な伝播メディアを介して流通する情報をさしている。「機械情報」は、意味を捨象した「情報科学」や「情報工学」で対象とする情報のことをいう。

 私の感覚では、意味を捨象した「機械情報」は、人文社会情報学の領域においては、研究の対象にはならないのではないかと思う。人文社会情報学においては、コンピュータやインターネットにおいても、研究の対象になりうるのは、記号の意味作用を媒介とする情報であり、コンピュータやインターネットなどのうち、記号的処理を行うことのできる「メディア」ではないだろうか。つまり、その対象については、次のような包含関係が想定される。

生命情報、社会情報、メディア情報


 現代の社会では、人々が取り扱う多様な社会情報において、「メディア情報」の占める割合がどんどん大きくなっている。それが情報社会の大きな特徴である。現代社会においては、従来のマスメディアに加えて、インターネットという新しいメディアを介した情報流通がますます増大している。われわれの関心対象は、したがって「社会情報」と「メディア情報」のインターフェイスであり、社会情報とメディア情報の相互関連性である。従って、ウェブ上の機械検索された情報が「機械情報」か「社会情報か」といった論争は、あまり意味のないもののように思われる。

 西垣氏によれば、「社会情報」というのは、狭義の情報であり、「普通われわれが日常生活で用いる「情報」は基本的にはすべて社会情報に他ならない」という(『続 基礎情報学』p.16)。そして、「社会情報は通常、「記号」とそれがあらわす「意味内容」とがセットとなって成立している」という。これだと、情報=記号だということになる。

 これに対し、「機械情報」とは、最狭義の情報であり、それは「意味内容が潜在化した社会情報であり、端的にはコード化された「記号」(能記;記号表現)である」という。それでは、機械情報は、ITなどの「機械」で処理される情報かといえば、そうではない。西垣氏によれば、「最初の本格的情報は文字とともに誕生した」と述べている。そうならば、単に「メディア情報」と言い換えてもよさそうである。文字は、粘土やパピルスなどのメディアに筆記されて、はじめて記録として後世にまで受け継がれることができたのである。

 「メディア情報」とは、生命体の外部にある各種のメディアを媒介として表現、伝達、蓄積、処理される情報の総称である。生命体の進化の中で、ヒトのみが外部メディアの情報を自由自在に操ることができる。その意味では、人類は、「ホモメディエンス」と呼ぶのがふさわしい。

 情報の進化は、「生命情報」→「社会情報」→「メディア情報」へと進化を遂げてきた。最後の「メディア情報」は、とりわけ進化のもっとも激しい情報領域であり、古代の「文字メディア」に始まり、15世紀の「活版印刷術の発明」によって、「印刷メディア」が登場し、19世紀~20世紀にかけて、「電子メディア」が登場し、20世紀~21世紀にかけて「インターネット」が登場するというように、生命体の億単位での進化にくらべて、きわめて急激に進化を遂げつつある。社会情報とメディア情報のインターフェイスを研究することが、「社会情報学」にとって中心的な位置を占めていることはいうまでもない。西垣氏も、『続 情報学』では、機械情報(私の用語でいえば「メディア」情報)の21世紀における「情報学的転回」として、その重要性を強調されている。それが「機械情報と生命情報の共生」なのか、それとも既存マスメディアや対人コミュニケーションを含めて、社会情報とメディア情報の共生なのか、議論の分かれるところだろう。

 その場合、ヒトという生命体システムと「情報環境」あるいは「メディア環境」との間の相互作用という、「ユーザー」の視点になった研究が、人文社会情報学では中心的な位置を占めることになる。その場合には、ヒトとメディアあるいは情報との関係は、次のように図式化される。

ヒト、情報環境、メディア環境


 われわれは、現実世界の中で、つねに、様々なメディア環境を通じて、さまざまな情報を得たり、伝達したり、処理したりしている。それを通して、独自の「情報環境」(ユクスキュルの用語では「環世界」)を構成しているのである。そうした行為が、コミュニケーションに他ならない。そうしたコミュニケーションの連鎖を通して、社会システムが自己組織的ないし自己言及的に創発し、存続、発展、あるいは衰退してゆくのである。このようなシステムを三項関係で図式化すると、次のようになる。現代社会においては、メディア環境なしに情報環境を作り上げることはできない。われわれの情報環境は、いまや完全に「メディア環境」の一部を構成するに至っているのである。

メディア、ヒト、情報環境



 
 
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 西垣通氏は、情報を「生命情報」「社会情報」「機械情報」に三分類して、基礎情報学を展開しているが、日常生活における情報を分類する試みというのも、あってしかるべきだろう。

 常識的ではあるが、情報を次のように三分類して、「情報」についての理解を深めてはどうだろうか?

ニュース、娯楽、知識


(1)ニュース情報
(2)娯楽情報
(3)知識情報

 すべての社会情報は、これらのうちのいずれかに属している。コミュニケーションにおいて交わされる情報は、これらのうち、いずれかに属する。パース流に、それぞれの情報の記号過程をみていこう。

(例)「今度の花子はいい」という発話をめぐる記号過程

今度の花子はいい


 まずは、「ニュース情報」の生成過程について。だれかが、ツイッターで「今度の花子はいい」とつぶやいたとする。「花子」というグラフィックソフトについて知っている人の多くにとっては、この発話は初耳で、「今度の花子はいい」という言語記述を読み、「それは知らなかった」と反応するかもしれない。そこでは、「花子」に関心のある人は、「今度の花子はいい」という情報は「ニュース」として受け取られることなる。この情報の送り手が、ツイッターでつぶやくことで、ニュースの伝達を意図しているのであれば、受け手による「知らなかった」という解釈は、「ニュース」として受け止められたわけであり、「ニュース情報」として共有されることになる。

 次に、「知識情報」の記号過程について。「今度の花子はいい」という発話に対し、このソフトを実際に使ったことのある人は、「今度の花子はいい」という評価情報が,本当か嘘かを判定し、「今度の花子はいい」は本当だ、と同意するかもしれない。その場合には、この発話は「知識情報」として認定され、「今度の花子は本当にいい」という「知識情報」として保存され、記憶されることになる。花子を使ったことのない人にとっても、もし「今度の花子がいい」という情報を別の情報源から得ている人にとっては、この情報は、もはや「ニュース」ではなく、一つの知識になっている。つまり、ニュースというフロー情報が、知識というストック情報に変換されたことになる。ただし、裏付けがない間は、未確認の知識にとどまるが、、、

今度の花子はいい(2)



 最後に、「娯楽情報」の生成過程について。「今度の花子はいい」というツイートを「おもしろい」「楽しい」と受け止める人は、「今度の花子はいい」はおもしろい、と感じるかも知れない。その場合、この発話から引き出される情報は、娯楽性を帯びたものとして受け止められたわけであり、「娯楽情報」が生成することになる。

今度の花子はいい(3)



 このように、同じ発話(言語表現)に対して、その意味作用(解釈)を通じて、3つの異なる種類の情報が生成することになる。「ニュース情報」「娯楽情報」「知識情報」の三項関係は、次のようにあらわされる。

今度の花子はいい(4)



 「今度の花子はいい」は、送り手にとって新しい発見であり、それは発信すべきニュースだと感じられるかもしれない。しかし、受け手がこの情報を単に「たのしい/おもしろい」と受け止めれば、これは「娯楽情報」になる。実際にこのニュースに接して興味を持ち、実際に使ってみた結果、「いい」と同意すれば、それは「今度の花子は本当にいい」という知識に変換されることになる。使ってみたけれども、それほどいいとは思えなかった場合には、「今度の花子はいい」という情報は、「嘘だ」という別の知識に変換されることになるだろう。ツイッターでの発言は、このように「ニュース」「娯楽」「知識」という三種類の反応を引き起こす。

 これら三種類の情報は、ニュース→娯楽→知識、という三段階の「進化」を示す。ニュースは、発話そのものの「新旧性」にもとづく情報化であり、「娯楽」はこのニュースとしての発話からさらに進んで、「娯楽情報」へと変換されるという意味では、「コノテーション」であり、一段と進化したレベルの情報化を示す。さらに、実際の使用体験や、たとえばネットの口コミサイトなどでの「検証」「評価」を経て、「知識」へと進化し、人々の記憶にとどめられることになるかもしれない。ツイッターでのつぶやきの多くは、ひまつぶしのネタ、つまり「娯楽情報」のレベルにとどまり、長く記憶に定着されることはないだろう。

 「知識」とは、もともとはニュースとしての情報が、体験や検証、評価を経て、「真/偽」を確定されたものであり、ある特定の「知識共有コミュニティ」やその他の社会の中でストック情報として共有されたものである。「~すべきだ」「私は~と思う」といった意見も、新しく発話されたものであれば、「ニュース」とみなされるし、検証を経て真偽を判定されれば、それは「知識」の一部になってゆく。Aさんが日頃から特定の意見を繰り返し発言していれば、人々は、Aさんがこういった意見を持っているのだ、という「知識」になってゆく。世論といった集合現象についても、それが「世論調査」などでデータの形で表明されれば、それはニュース性を帯びるとともに、それが繰り返され検証されることによって「知識」にもなってゆくのである。

道具的情報、自己充足的情報


 情報はまた、しばしば「道具的情報」(instrumental information)と「自己充足的情報」(consummatory information)に二分される。ビジネスの場面で交わされる情報は、たいていの場合、「道具的情報」である。これに対し、ツイッターなどで表明される情報の多くは、「自己充足的情報」である。いま書いているブログ上の情報も、半分以上は「自己充足的情報」であり、なにか特定の目的を達成するための「道具的情報」とはいいがたい。道具的側面があるといえば、このブログで使われている「花子」のグラフィックスがいかに「いい」かを宣伝しているという点に求められるかもしれない。あるいは、パース流の三項関係図式がいかに有効かを顕示するという目的のための道具的な役割を担っているにすぎないのかもしれない。

 この二分類に加えて、「フロー情報」と「ストック情報」の二分類を交差させることによって、情報の四類型をつくることができる。ネット上のサイトをこれに当てはめると、次のようになるだろう。

フロー情報対ストック情報の4類型


ニュース、評価、知識

 
 一般に、ニュースは受け手により評価され、検証された上で「知識」という形に変換(情報化)される。知識を持った個人は、たとえばYahoo!知恵袋などの「知識共有コミュニティ」サイトで、質問者に回答(記号化)することによって、コミュニケーションを継続する。質問者は、新たなる「受け手」となり、記号解釈のプロセスが新しい個人によって再開されることになる。複数の回答が寄せられ、それらを比較検証することによって、知識は次第に正確なものとなってゆく。「ベストアンサー」が選択されると、それは新たな「知識」としての地位を獲得し、多くのユーザーによって共有されることになる。

 このプロセスを図式化すると、次のような循環的プロセスとして表現される。

ニュース、評価、知識



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 ニクラス・ルーマンは、パースの記号論にまったく触れていないが、彼のコミュニケーション・メディア論モデルを、パースの三項関係に当てはめてみると、どのように理解できるだろうか?次のような三項関係になるのではないか、と思われる。

ルーマンのメディア論の三項関係



 ルーマンによれば、社会システムは、コミュニケーションの連鎖からなる閉鎖的、オートポイエティックなシステムである。そのコミュニケーションは、情報→伝達→理解という3つの位相から成っている。この場合、「情報」とは知覚的意味形象(パースいう記号と同義か?)、「伝達」とは他者の意図から特定の意図を選択する位相を示し、「理解」とは、誤解や曲解と区別される選択をあらわす。コミュニケーションは、この三重の選択の総合と考えられる。この過程を通して、社会システムにおける「複雑性」が縮減されることになる。

 大黒岳彦氏の『<メディア>の哲学--ルーマン社会システム論の射程と限界』にあげられている例を引用すると、Bという人物がAという人物に『雨だ』という言葉(言語)を発した場合、「情報」の次元では、「晴れだ」「曇りだ」「雪だ」とは異なる表現を選択していることになる。また、「伝達」の選択とは、『傘を持って行った方がいいよ』『洗濯物をはやく取り込め』『運動会は中止だ』『外出はやめて家にいよう』といった様々な意図からの選択を意味している。さらに「理解」の次元は、こうした発話者の意図が正しく理解されているか、それとも誤解されるかといった選択を意味している。それぞれにおける不確実性を縮減するのが、「言語メディア」「伝播メディア」「成果メディア」だということになる。

 以上をパースの三項関係にあらわしたのが、上の図である。この三項関係において、発話者の意図が正しい「理解」につながれば、コミュニケーションが成立し、社会システムの複雑性が縮減されたということができる。

 しかし、この図式は、パースの本来のモデルとは似て非なるものである。ということは、ルーマンのコミュニケーション図式は、パースのモデルで説明できるものではない、といえるかもしれない。あるいは、ルーマンのモデルを換骨奪胎して、次のようなモデルも考えられるかもしれない。

ルーマンの三項関係の換骨奪胎


 これだと、私の考える三項関係モデルとほぼ一致するので、理解しやすい。ただし、ルーマン研究者からは、誤解も甚だしいと怒られそうだ。もっとも、ルーマン自身は、彼の社会システム論は「発見のツールにすぎない」といっているので、ツールとして使わせてもらうのは、決して的外れともいえないのではないかと思う。

 『雨だ』という例に則してモデル化すると、次のようになる。

伝達・理解・情報の三項関係




 なお、ルーマンは、「伝播メディア」と「成果メディア」を次のように定義づけている。

(1)伝播メディア
 「言語」「文字」「出版」「電子メディア」など。コミュニケーションの範囲を拡張する働きをするもの。
(2)成果メディア
 「貨幣」「権力」「真理」「愛」など。コミュニケーションの内容を一定方向に誘導し、ただしい理解に導く役割を果たすもの。それぞれ、「経済システム」「政治システム」「学問システム」「親密関係システム」に対応する。

 問題は、ある状況において、コミュニケーションが円滑に成立することであり、つまりは意図した「情報」が相手に正しく伝わることなので、上の図は、あながち間違った理解ともいえないと思うのだが、いかがだろうか?それとも、これだと、ルーマン論者からは、例の悪しきコミュニケーションの「乗り物」「小包」モデルだと決めつけられる可能性もある。しかし、私自身は、「小包」モデルのどこが悪いのか、いま一つ理解に苦しむのだが、、、

 なお、付け加えれば、ルーマンがなぜ、「貨幣」「権力」「真理」「愛」の4つを「メディア」と呼んだかも、理解に苦しむ。このような「汎メディア論」の有効性の有無も問われるところだろう。従来の記号論のタームでいえば、「成果メディア」は、「コンテクスト」あるいは「コード」と重複する概念のような気がする。この点も、今後さらに検討すべき課題といえるのではないだろうか?ルーマンの原書(とくに『社会の社会』)を熟読しながら、少しずつ検討を加えてみたいと思っている。

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生命記号論 今回は、デンマークの生化学者、ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』を読むことにしたい。全体として、非常に読みやすい翻訳だ。著者によれば、「記号が人間社会ばかりでなく、生命界にも等しく満ちあふれているとするのがここに新たに生まれつつある生命記号論、バイオセミオティクスの中心テーマである」という。

 序文では、著者の造語になる「記号圏」ということばの意味が説明されている。それをここで引用しておきたい。


 記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上のある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身ぶり、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関わる記号全てのことである。(中略)この地球上の生命は全てこの記号圏に産み落とされる。それにまともに適応することがそこで生き抜くための条件となる。(中略)私たちは、今やこの惑星上の生き物は全て、生態系の巨大な集合、生物圏の一部として生存していることを知っている。(中略)生物が感知することは全て、その生物にとって意味を持つ。その意味とは、食物、逃避、生殖であったり、それへの失望であったりする。
 実際、昨年3.11の東日本大震災では、福島原発事故の影響で、世界的な生態系に深刻な影響が及び、上のような認識を世界中の人々が共有したのではないだろうか。

1 宇宙の誕生・意味の発生: 「なにもない」虚空から、そこに浮かぶものへ


 ビッグバンと宇宙の誕生は同じ意味を持つ。観測衛星COBEは、いまから150億年前のある瞬間に宇宙を完全な虚空から生み出したビッグバンの痕跡を捉えることに成功した。これは、宇宙背景放射であり、その波長と温度から、ビッグバン後約70万年の頃に存在していた、エネルギーに満ちた光の宇宙の痕跡だと考えられている。「COBEの観測が新たにもたらしたのは、この宇宙が始まった初期の状態を示す宇宙背景放射の中に不規則なゆらぎが認められたとする発見である。(中略)この発見こそ宇宙の誕生を証明する証拠だと考えられている。」(p.17) 

 このゆらぎの存在は宇宙の生成を説明する上で重要な発見である。なぜなら、「このゆらぎが、宇宙に恒星や惑星さらには銀河といった物質の集塊が存在する理由を説明するからである(p.18)」。では、なぜ物質は均等に広がらなかっただろうか?なぜ宇宙にエネルギーは均質に分布していないのか?この疑問に向かうことが本書の主題に関わることだ、と著者はいう。この問いは、「もともと何の意味もないところからどのようにして意味のあるものが生じてくるのか、いいかえれば、虚空から一体どのようにして、意味が生じてくるのか」という問いである。

 人は、完全な虚空といえどもそれに対処すべき術を生まれながらに備えている。これは、「~ない」という簡単な否定語の中に秘められている。もし私たちが存在する何か、たとえば路上に落ちている鋲などを心に描けるとするならば、私たちは鋲が落ちてい「ない」道を想像することができる。
 虚空は本書の中心となるテーマ、意味の発生とまさに対をなす概念である。
 ウィルデンはその意思疎通の研究において、「~ない」という単語はもともとは、単にAまたはBを選ぶといいう行為の規則そのものだということを示した。しかし、このAまたはBを選ぶという行為は人間が行ったりもしくは考えたりする全ての事柄に暗黙のうちに含まれているものであり、かなり根源的な規則である。なぜなら、区別することによってのみ私たちは常に周囲の現象を分類している。これはコーヒー、これは木が倒れるところ、これはパトカーが迫っていることを示す甲高いサイレン、というように。このような認識の過程においていつでも、本質的に同一のことが行われている。ある要素(コーヒー、木、サイレン)は他の全てのもの(背景)から区別され、私たちは形態(ゲシュタルト)を作りだす。要するに、私たちは「~ない」を使って区別している。(中略)ウィルデンはこのことを次の図に示した。

境界



 この図はゲシュタルトを示している。青色を背景(B)とした白い穴(A)。つまりこの図から私たちはBであるなにかと、Aであるなにかを区別している。この図上のすべての点はAかBのいずれかに属している。
 ウィルデンが指摘しているのは「~ない」という単語は、その穴の円周、つまり穴と穴以外の境界に対応しているということだ。「~ない」は境界なのだ。この境界すなわち円周は、独特の位置にある。なぜならそれはそれを心に描いたもの、観察者の心の中以外には存在しないからである。言い換えれば、その境界は「誰か」がその穴を認識しないかぎり、この世の中には存在しないのだ。(中略) ウィルデンは、私たちは心の中で考えるときでさえも、AとAでないものの境界を引くことで、現実と非現実をともに含む全世界を二つの部分に分割している。その境界を策定するという行為は、少なくともAにも非Aにも含まれない一つの領域を定義している。
 この系こそが「誰か」である。その枠組みはそれ故、その系の上位に目標志向型の別の系が存在することを主張する。

2 失われるもの、生き残るもの: 生物の歴史と記号

 
すべての生物の肉体は脆弱で、死んでしまえば、原則としてすべてが忘れられてしまう。にも拘わらず、生殖という巧妙な方法のおかげで、遺産が子孫に残される。この遺産の継承、遺伝は高度に洗練された現象であり、その本質を適切に表現することは至難である。生殖の本質は私たちが記号化と呼ぶ原則、より正確にいえば、記号過程の中に存在している。(p.34)
 それでは、生命の本質はどこにあるのか?著者は料理のレシピに喩えて、次のように言う。
 すべての生命体は二つの側面を持って存在している。一つは「血と肉」を持つ生体として、もう一つはその存在を記号化した記述としてである。後者は遺伝物質であるDNA分子に委ねられている。簡単に言えば、遺伝物質には生体の作り方が記号化されて書き込まれており、それは料理の本の中にあるレシピに晩ご飯のおかずの作り方が書いてあるのとほぼ同じである。(中略) 受精卵はその遺伝物質の内部にレシピをしまい込んで持っている。ここには、生体を組み立てるためのやり方が単に記号化されて記述されているだけであって、この地球上では生命を持つものの中で受精卵だけがこの記号を読み取り、その情報を翻訳し生体を作り上げることができる。(p.38)

 さらに「取扱説明書」の比喩を用いて、遺伝子の存続と生体の死について、こう述べている。
 生殖という方法によって次の世代に送られるのは記号化された取扱説明書、遺伝子である。その一方で生体は必ず死ぬ。つまり、実際に生き延びるのは記述された記号、すなわちその生物個体の表象であり、個体そのものではない。生命は記号化された形で生き延びる。(中略) 過去の世代によって蓄積され、遺伝物質の形で記号化された取り扱い説明書のうち、幸運なものが他のものと引き合わされ、新しいパターンへと混ぜ合わされたものとなる。

 次のところで、著者はパースの記号論の意義を説明している。
 パースは、二項関係の論理はあまりにも制限がきつ過ぎる、とのすばらしい発見をした。二項関係に基づく論理は一次元の線形の連鎖にならざるを得ず、分岐することができない。
 彼は、論理的なプロセスはむしろ多次元のネットワークとして考えるべきだと信じた。そのようなネットワークは、三項関係によって作り上げることができる。例えば、原因と結果という二項関係に新たに観測者を加えるという形で示すことができる。(中略)これによって、私たちが真実だと考えられる推論を描くためには、「誰か」(例えば観察者)が必ず存在するという事実を認めざるを得なくする。

 パースの記号論は、次のように紹介されている。
 パースはこの三項関係における基本的な関係要素を極めて簡単に記号と呼んだ。(中略)パース自身は、かなり謎めいた言い方で記号を定義しているが、それを私なりにわかりやすくなるよう、言い換えたものをここに示しておこう。「記号とは・・・ある観点なり立場から誰かに何かを表すものである」(p.42)

 具体的な事例として、子供の発疹と医者による診断の例があげられている。
 例えば、突然赤い点々とした発疹が出た小さい子供の場合を考えてみよう。母親は子供を医者に連れて行き、医者は子供がはしかであると診察する。医者にとって赤い発疹は、はしかを示す記号である。しかし母親にとっては、この記号は単に子供が病気であることを示すにすぎない。つまり、赤い発疹は誰に対しても自動的にはしかの記号となるのではなく、「ある立場にいる誰か」、すなわち医者にとってのみはしかという記号となる。この関係は三つ組で描くことができ、同時にそれはパースの一般的な記号の三項関係の一つの例証となる。
 一般的な例で説明すると、記号は三つの要因の間の関係を表す。
(1)第一の記号-記号そのものを表すもの(例:発疹)
(2)第一の記号(例:はしか)が示す対象(物でも抽象物でもよい)
(3)「解読をするもの」すなわち、第一の記号とその対象の関係を解釈する過程(例:医者の頭の中での診断の過程)
 パースの枠組みで用いる記号という言葉には、すべてこれらの三つの要素が存在していなければならない。

発疹とはしか



 
 それでは、この三項関係は、個体の発生にどのように応用できるか?著者は次のように述べている。
 胚発生あるいは個体発生は、その親からの「記号化された情報」を含む一次元の「DNA配列」から、三次元の「血と肉を持った身体」が作られるという、三つの要素から成る記号過程である。ゲノム(個人の遺伝情報の総和)は、この意味で記号の乗り物、より正確に言えば生体の作り上げ方を示す、記号の乗り物一式である。

  それでは、この場合、記号を解読するものとは一体誰なのか?それは「卵細胞」だ、と著者は考える。
受精卵は少しずつゲノムを解読し、何十億という細胞系列に分裂し、生体になってゆく。これは、次のような三項関係で表すことができる。

個体発生の軌道


 ここで注意しなければならないのは、受精卵は、ただ記号を読み取るのではなく、さまざまな状況や文脈に合わせて記号を読み取っており、それによって、異なる個体発生の軌道を描くこともある、という事実である。例として、無害のバッタから有害のバッタへの「変身」がみられるという事例があげられている。この場合、環境の変化に合わせて、「同じDNAが異なった仕方で解読される」という現象がみられるのだ。(p.45)これは、「状況に従って解釈を変える機構が組み込まれている」ことを示している。

 次に、生態系のレベルにおける記号解釈について述べている。それは、「生活の状況すなわちニッチ(生態学的地位)が、種というよりむしろ系統(進化の単位としての種を意味する)に取り入れられる」ということである。すると、世代毎に種とニッチの照合が行われ、その度ごとにその種と環境の相互作用が異なった結果を生じさせると、それはどのような個体が多くの子孫を残すかという生殖の傾向に反映される。(中略)ある時間と空間において実現された肉体が一次元の遺伝情報に変換され、生殖を通して次の世代が利用できる遺伝子の説明書が変更される。

 この過程は、記号論的な過程とみなされる。「この現象をより生物学的な言い方でまとめると、生殖のたびに能動的な環境の翻訳が行われているということになる。」(p.47) では、この翻訳を行うものは「誰か?」。その答えは、「ニッチの状況を未来の世代に課せられる要求そのものの記号として翻訳するのは系統だ」ということになる。その記号過程は、下の図のように示される。
 

生態学的地位と系統


  つまり、「生殖における傾向を手段として利用し、系統がそのDNAの内容を変化させ、書き換えられたものが次の世代へと手渡される」と考えられるのである。

3 宿命と自由の相克: 習慣化する自然と傾向


 ある観点から見ると、自然は習慣化する傾向を持つというパースの理論は、持続的な発展過程の一つの極の中に現れてくるように見える。もう一つの極は「無政府状態」と呼ばれる状態である。それは、新しい「発明」によってその習慣の支配から独立を繰り返し求める自然の傾向のことである。簡単にするため、自然の歴史の中に現れるこの相反する二つの傾向を、宿命と自由と呼ぶことにしよう」(p.54)。

 あるレベルでの自由の欠如は、より高いレベルでの自由をもたらすことがある、と著者は言う。そして、「特定の法則や習慣が確立されると、実際の予測能力を発展させることが可能になる」という。「この能力こそがすべての生命体をそれ以外のものから区別する特徴」だと著者はいう。ここで著者が主張したいことは、「生物はその存在自身で習慣を獲得する自然の傾向をもっている」ということである。このような、制約と自由の相克の中から、生命が誕生したのではないか、と著者は考える。

 その最初の決定的な出来事は、すべての高等生物にある「真核細胞」の出現である。真核細胞は「核」と呼ばれる遺伝物質の貯蔵所をもっている他、多数の細胞小器官を持っている。ミトコンドリアはその一例である。この真核細胞は、ある種の「共生」によって作られたように思われる。「内部共生説」である。そして、「人体も基本的には、何百兆というバクテリアで構成された内部共生のシステムである」と著者はいう。

 真核細胞が形成されると、、個々の原核細胞は真核細胞によって設定された状況を受け容れるため、ある程度その自由が奪われてしまう。ここに新しい習慣が出現する。(中略)
 細胞が無秩序な自治を放棄して、そして私たちが生命体と呼ぶより大きな全体に服従することで、さらに素晴らしい創造の段階への準備がなされることになった。今や、洗練された感覚器官の発達でそのペースは速まり、それに対応して神経系が発達する、これにより、動物は周囲の環境に対してより正確に調整された環境世界の印象を自分のうちに形成することができるようになった。外部世界の主観による経験、「環世界」は、詳細なものになり、水平な記号過程は次第に大きく成長していく。それは遊びや性的関心を引くための嘘や策略の過程であり、地上の生物を互いに結びつける唯一の方法である、そして再び、自由がここに登場してくる。」(p.62)

 しかし、生態系が形成されるにつれて、新たな宿命が現れる。「食物連鎖が網として密接に統合され、一連の回路によって次第に閉じたものになって行く時、それに伴って個々の種に特定の役割を果たすよう強制する、より高次の論理が出現してくる。(中略) どのような独創性であっても、ある意味では錯覚であって、この惑星の生態系がたまたまそこに提供したニッチに合うものだけが存続することになる。」(p.64)

 それでは、すべての生物は、こうした生態学的宿命を受け容れなければならないのか?その答えはノーである。人間が、言語という記号論的自由の武器を手にしたからである。
「自然法則がずっと長い間堅固な足場を築いてきた原子の世界とは異なり、言語の世界は自由である。その世界では何でも起こり得る。他の生き物では見ることのできないこの言語による絆を介して、人間は自らを宿命から解き放つことになった。」(p.65)

 ただし、言語においても宿命となる習慣化がみられる。それは、標準化への傾向である。また、文明化は、新しい基本計画が受け容れられることへの表明であり、この基本計画とは人間の考えや行為の予測不可能性を高めたり、低めたりするものである。ここで見られる進化の力は、「創発」という言葉で表現することができる。

4 自我の発明: 生物と自己言及、主体性の問題


 著者によれば、地球上の生き物はすべて、DNAを介してある種の自己記述を行っているという。
 DNA分子上の暗号として書かれた生き物の譜面にとって重要な特徴は、そのデジタル性である。(中略)DNA上のデジタル記号で書かれた生き物の譜面を参照する上で、自己言及あるいは自己記述という用語を使うことに関して、とてつもない疑問が私に生じて来る。「自己」という言葉は一体何を表すのか、そしてこの何かが「自己」となるのはいつのことなのか。
(中略)
 今世紀の生物学をめぐる論争の核にある問いは、生命がどのようにして現れたか、である。ある人達は核酸(DNAあるいはRNA)が最初の生命を形作ったと考えており、また別のグループの人達は最初に生じたのはタンパク質を溜め込んだ原子細胞であり、DNAとRNAは後に「発明」されたものだと主張する。現在、有力視されている理論では、RNAが初期の生命の駆動源であったと言う。
 細胞とRNAの内、どちらが最初であったにせよ、私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。
 。(p.79)

 著者は次に、地球上の生き物が発するメッセージについて述べている。そして、「すべての生き物は予測できない未来に生まれてくる生き物に向けて進化のメッセージを渡すべく、その一生を送るのだ」という。「生き物は生き残りのための情報を載せた乗り物であるというよりも、生き物それ自体がメッセージである」ともいう。
 ここにおいて、生き物はすべて死すべき運命であることが重要な役割を果たす。死すべき運命の個体を介して初めて可能となる存続の形式がある。生き物は次世代に自己記述としてのDNAメッセージを残す限りにおいて、記号論的に生き続けるということができる、このようにして、生物学においても、自己言及は避けがたいものになる。
(中略)
 人間以外の生き物に対しても「自己」あるいは「自我」という言葉を使うことは許される、と私は敢えて言いたい。生物は自己言及的な存在であり、歴史を持ち、周囲のできごとに選択的に反応し、現在を未来に取り込むことにおいて進化的になる。(p.89)

5 生命記号圏の幕開き: 感受する生物の世界


 動物の「感覚世界」への先駆的研究者の一人に、エストニア生まれのドイツ人生物学者、ユクスキュルがいる。ユクスキュルのライフワークの核心は、「環世界」でもって言いあらわされる。

 

 ユクスキュルの観察では、動物はその一生をいわば自分自身の主観世界、それぞれの環世界の中に閉じこもって過ごすことになる。現在の生物学ではそれに対して生態学的地位(ニッチ)という客観的な用語が当てられている。それは特定の種が生存するための生活場所、食物、温度などその他一連の条件で特定された状況を指す。環世界とは、動物自身が認知する生態学的地位ということもできる。

 

 ユクスキュルの考え方は、その本質において記号論的あるいは生命記号論的なのだが彼自身はこれらの用語を決して使わなかった。おそらく、彼がパースの仕事に精通していなかったためだと思われる。彼の学説の要点は、個々の細胞も生物個体もともに外部の力によって動かされるだけの受動的な存在ではない、という指摘にある。生物は自分自身の環世界を創り、それによって自然そのものを作り上げていく主体の一部となる。 (p.97)

 

 環世界理論は、生き残るのは遺伝子、固体、種だけではなく、むしろ、翻訳のパターンであることを私たちに教えてくれる。ある生物にとっての環世界は、その生物が感覚を介して周りで起きるできごとや重要な局面を自分にとって不可分にしたものであって、その意味で生物による周囲の現象の征服であると見なすことができる。環世界とは生物が自分の視点から眺めた世界の表現、となる。(p.100)

 

 環世界は、生物が周囲の世界に対して窓を開く方法であるということもできる、その中で生物は自分にとって重要な意味を持つ局面を選び出し、それを記号として認識する。

・・・生物は自分の環世界を通して周りの生態系と記号論的な関わりを持ち、その一部になって行く。これは水平方向の記号過程であって、生態系の隅々まで及んでいく。

 

 進化が進むにつれ、生物の環世界は相互に次第に複雑なものへと発展して行き、それを通して水平方向の記号過程は垂直方向の記号過程から独立して行く・・・周囲の環境からの記号を翻訳する個々の生物個体の能力が高まるにつれ、交配をめぐる競争は、限られた範囲においては、厳格に遺伝子の指示に従うものの、ますます複雑になる記号論的な様式に織り込まれて行くことになる。

 

 生物進化における最も顕著な特徴は個体構造の驚くべき多様性やその構造にあるのではない。本質は「記号論的な自由」の一般的な拡大傾向に認められる。それらは、フェロモンから鳥のさえずりへ、また免疫抗体から日本式の歓迎作法へ、と至る過程で認められる。この過程を通して、伝達される意味の豊かさあるいは「深さ」が増大して行く。(p.105)

 

 記号論的な自由とは、個体や種が周囲と相互に伝達することができる「意味の深さ」と定義することができる。


(以下、略)

 本書は、生命現象や意識、心といった現象を、パースの記号論に依拠しながら、記号論的に解釈したものであり、非常に興味の深い内容の本である。著者の専門領域である生化学的な知識を、専門外の素人にもわかりやすく解説されており、専門家以外の読者にとっては、謎解きエッセイのように楽しみながら読むこともできる。本書の魅力を知るには、実際に手にとってお読み頂きたいと思う。本書についての感想、評価はまた別の機会にしたいと思っている。

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 パースの記号学は、原書を読んでも、難解である。また、記述も首尾一貫しているとはいいがたい。『パース著作集2 記号学』を読むと、記号・対象・解釈項の三分類図式が記述されている。それを図式化すると、次のようになる。

記号・対象・解釈項の三角形



 解釈項とは、パースによれば、「解釈者という擬似的な心の中で、記号がその心をある情態とか活動とか記号へと規定することによって作り出すものであり、この規定作用」のことを指している(p.135)。別のところでは、こうも言っている。「記号の本来の意味作用の結果に対して、私は記号の解釈項という用語を提案している」(p.139)。記号と対象の関係は、パースによれば、次のようなものとして想定されている。「何かが記号であるためには、それは何か他のものつまり記号の対象と言われるものを「表意」しなければならない。」(p.4)

 私流に、この三角形を、従来の記号論の成果を盛り込んで、次のように読み替えることを提案したいと思う。

記号・意味作用・情報


 ある主体(生命レベルでいえば、細胞や器官など、ヒトレベルでいえば個人、社会レベルでいえば集団)は、何らかの記号(表意体)を知覚したときに、何らかのコンテクスト(青い円の部分:ルーマン流にいえば「成果メディア」)において、一定のコード(プログラム)を用いて「意味作用」することによって、何らかの「情報」を獲得する(あるいは発生させる)。そのプロセスは上の図のように示される。ここで、コンテクストやコードが送り手と受け手との間で共有されているならば、コミュニケーションによって、特定の情報が首尾よく伝達されたと考えることができる。

 このように考えると、「情報」とは、何らかの記号から意味作用によって「表象」されるものだ、ということになる。記号とは物質・エネルギーのパターンを指している。「鶏」と「卵」のたとえで言えば、記号が鶏で卵が情報だということになるかもしれない。本当はどちらが先に生まれたかはわからない。たぶん、同時に生まれたのだろう。

たとえば、医者が患者の「発疹」から「はしか」という病気の有無を診断する場合、「発疹」という症状(=記号パターン)から、医学上のコード(医学の知識体系など)やコンテクスト(発疹したときの状況、患者の年齢や病歴など)を用いて、意味作用をし、その結果「はしか」という診断情報を獲得するということになる。この場合、「はしか」は、「発疹」の意味(内容)である。それが信頼できる情報であるかどうかの判断は、「医者-患者」の関係性や医療機関の権威性などいった「成果メディア」の如何によってある程度規定される。もし患者が「はしか」という病名(情報)に満足できず、セカンドオピニオンを求めて他の病院へ行き、別の医者の診察を受ければ、その患者は他の「情報圏」(あるいは「記号圏」)へと移動したとみなすことができるだろう。たとえば、東洋医学とか自然医学は、西洋医学とは別の(医療)情報圏をつくっており、そこには別のコードが存在し、別の医師(解釈主体)が、別の診断を行うだろう。

 次回は、ホフマイヤーの『生命記号論』を読みながら、記号や情報の意味についてさらに考察を進めたいと思う。

 その前に、「生命記号論」へつなげるために、もう一つの三項モデルを提示しておきたい。それは、次のようなものだ。

記号解釈主体と客体


 「意味作用」を行うためには、もちろんその「行為主体」が存在しなければならない。この場合には、記号の「解釈主体」ということになる。これは「意味作用」の項に含まれている。それに対し、「記号」は、解釈される存在なので、「解釈客体」と言い換えることもできる。すると、「情報」は意味作用の結果、解釈された内容、つまり「解釈内容」と同義である。

 さらに、三番目のモデルを提示しておこう。それは、次のように示される。

送り手・受け手モデル


 これは、伝統的な「コミュニケーション」モデルと一致する。記号が「送り手」というのはちょっと変だが、梅棹忠夫氏もいうように、月や太陽などの「天体」さえも、「情報を発信している」と考えれば、それほどおかしくもないだろう。

 さて、最後のモデルは、記号→媒体→情報という三項関係を示したものだ。

記号・メディア・情報の三項関係


 「記号」を「情報」と結びつける役割を果たす存在、それは「メディア」ではないのか?細胞も、器官も、生物も、人間も、新聞も、テレビも、インターネットも、すべては「記号」を「情報」に結びつける役割を果たしているのではないだろうか?その意味では、等しく「メディア(媒体)」と呼ぶことができる。つまり、ホモ・メディエンスである。これで、「汎記号論」「汎メディア論」「汎情報論」がめでたく握手することになったとはいえないだろうか?ちなみに、「メディア」ということばの起源は、ラテン語のmediusないしmediumだったが、16世紀頃に英語のmediumとして使われた当時は、「中間的ないし媒介的な位置に横たわっているもの」という意味をもっていたということだ。
 
 いま一つ、最大限に拡張された三項関係を示しておきたい。それは、物質→エネルギー→情報という関係だ。

物質・エネルギー・情報


 以前のブログでも紹介したように、『情報学事典』によれば、「学問的には、情報は物質やエネルギーと並んで、宇宙における根源的な概念ととらえることができる。」これは、ノバート・ウィーナーや吉田民人氏の情報概念がもとになっていると思われる。上の図式では、3つの概念が単に並列しているのではなく、「エネルギー」が物質と情報を媒介する役割を果たしているという関係を示している。たとえば、地球という物質が現在ある形態(つまり情報)を維持しているのは、エネルギーの力によるものだろう。生物もまたしかり。記号=物質、媒体=エネルギー、情報=エントロピー(正確にはネゲントロピー)という関連性が認められる。

 パースの三項関係で、もっと身近な例はないだろうか?たとえば、ジャーナリズムの活動は、様々な情報源に対する取材活動を行い、それをもとに記事を書くという行為である。それは、次のような三項関係であらわすrことができる。

ニュース取材の三項関係


 この場合、情報源はヒトであったり、団体であったり、資料であったりするが、いずれも「記号」と考えても差し支えないだろう。「取材」は、情報源とニュースを媒介する「メディア」としての役割を示している。ニュース(記事)によって、人々は最新の情報を手にすることができるというわけだ。

 世論の形成過程といったものも、この三項関係で図式化することが可能かも知れない。民主主義社会における世論のもとには、間接的しにろ、討論がある。最終的な政策には、世論を媒介とした討論の結果が反映されているのである。政策=情報というのは、ちょっと不自然のような気がする。しかし、たとえば林雄二郎先生は、情報を「可能性の選択指定作用をともなうことがらの知らせである」(『情報化社会』より)と定義しており、それほど的外れともいえないのではないだろうか。

世論過程の三項関係


 このような例は、あげていくときりがないので、この辺でやめておく。いずれにしても、世の中のさまざまな現象は、三項関係でみていくと、案外わかりやすく理解されることがわかった。チャールズ・パ-スも吉田民人氏も、すべてを三分類して捉えることで知られているが、弁証法ではないが、やはり3という数字にはなにか本質的な鍵が隠されているのかもしれない。ちなみに、パースの有名な記号の三分類、イコン→インデックス→シンボルも、三項関係で表現すると、よりわかりやすくなるような気がする。イコンは、物質そのものの類似性が意味を表象している。インデックスは、モノを指差ししたり物質の一部分を強調したりすることで意味を表出する。シンボルは恣意的、契約的な記号である。この図で示されているように、インデックスは、イコンとシンボルを媒介する位置にある。「これ」とか「あれ」ということばは、それ自体はシンボルだが、特定の物質を指差すという行為を伴っているので、インデックスであり、イコンとシンボルを媒介する役割を果たしていると考えられる。

イコン・インデックス・シンボル










 
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 以前のブログでも紹介したように、梅棹忠夫氏は、汎情報論とも呼べるほど、情報を広く定義した。

  情報はそれ自体で存在する。存在それ自体が情報である。それを情報としてうけとめるかどうかは、うけ手の問題である。うけ手の情報受信能力の問題である。(中略) もっともひろい意味に解すれば、人間の感覚諸器官がとらえたものは、すべて情報である。

最近読んだ、脳科学者・茂木健一郎氏のエッセイ「デジタルの海の中で私秘性を取り戻すこと」 『環』vol.2005, pp.128-133. でも、これによく似た「汎情報」論が展開されている。
 概念としての情報は、現代人の世界観の中枢を占めるに至った。世界とは情報のことであると断言することに、違和感を抱く人がどれくらいあるか。単に、言語化された領域だけが情報であるわけではない。世界の事物の全てを情報の運動としてシミュレーションする「セル・オートマトン」として見れば、世界とはすなわち情報のことであって、その外側にはない。私たち自身もまた、情報の塊として世界の中で生まれ、情報として死んでいく。

 記号論においても、ロラン・バルトなどは、「汎記号論」とも呼べるとらえ方をしている。
  衣服、自動車、出来合いの料理、身振り、映画、音楽、広告の映像、家具、新聞の見出し、これらは見たところきわめて雑多な対象である。
 そこに何か共通するものがあるだろうか?だが少なくとも、つぎの点は共通である。すなわち、いずれも記号であるということ。これらの対象に出会うと、私はそのどれに対しても、なんなら自分でも気がつかないうちに、ある一つの同じ活動をおこなう。それは、ある種の読みという活動である。現代の人間、都市の人間は、読むことで時間を過ごしているのだ。彼はまず、とりわけ映像を、身ぶりを、行動を読む。この車は、その所有者の社会的地位を私に告げ、この服は、それを着ている人がどの程度常識的か型破りかを正確に私に告げる。それが書かれたテクストであっても、われわれは、第一のメッセージの行間から、たえず第二のメッセージを読み取ることになる。
 世界は記号に満ちているが、それらの記号が、すべてアルファベット文字や道路標識や軍隊の制服のように、すばらしく単純明快であるわけではない。われわれは、たいていの場合、それらの記号を<自然な>情報として受け取る。(ロラン・バルト『記号学の冒険』pp.48-50)

 ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』も、「汎記号論」の一つである。
 記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上にある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身振り、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関わる記号全てのことである。この地球上の生命は全てこの記号圏に産み落とされる。それにまともに適応することがそこで生き抜くための必要条件となる。生物が感知することは全て、その生物にとって意味を持つ。その意味とは、食物、逃避、生殖であったり、それへの失望であったりする。

 「汎メディア論」の雄といえば、言わずと知れたマクルーハンである。かれによれば、人間の拡張物はすべてメディアとして捉えられる。
  われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し、区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージである」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい(感覚)尺度に起因する、ということだ。

 「汎メディア論」かどうか、評価は分かれるかもしれないが、ニクラス・ルーマンの「メディア論」も、一種の「汎メディア論」として位置づけることができるかもしれない。ルーマンによれば、社会システムは、コミュニケーションの連鎖によって成り立っており、コミュニケーションにおける複雑性を縮減するメカニズムとしてメディアを定義づけている。この場合、メディアは「伝播メディア」と「成果メディア」に二分される。「伝播メディア」は、「言語」「文字」「出版」「電子メディア」という、いわゆる伝統的なメディアからなっている。これに対し、「成果メディア」には「貨幣」「権力」「真理」「愛」などが属しており、それぞれが「経済システム」「法・政治システム」「学問システム」「親密関係のシステム」など、「機能分化システム」の固有メディアを構成している。このように、ルーマンのメディア概念は、社会システムにおいてコミュニケーションを創出する重要な媒体として位置づけられているようだ。「成果メディア」は、伝播メディアによってコミュニケーションが伝達される際に、受け手に対してその意味が誤解されることなく明確に伝わる、すなわち複雑性が縮減するような働きをするという「コンテクスト」的な役割をになっていると解釈できるのではないか、と思われる。

 このようにみると、汎情報論も汎記号論も汎メディア論も、概念的には相互に重複する面があり、これらを総合することによって、「情報・記号・メディア」の一般理論を構築することも可能ではないかと思われる。それについての考察は、関連文献を少しずつ読み進めながら検討していきたいと思う。

参考文献:

大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学-ルーマン社会システム論の射程と限界』NTT出版
西垣通(2004)『基礎情報学』NTT出版


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 昨今の出版界は、きびしい不況の状態に置かれている。
 出版物の流通経路は、下の図のようになっている。かなり複雑な流通経路を持っていることがわかる。全経路に占める取次経路のシェアは、書籍が約7割、雑誌が約8割となっており、取次経由の流通が圧倒的に多い。また、出版社の97%がトーハンと日販と取引しており、取引ウェイトは6割以上となっている。ちなみに、欧米の書籍流通は、出版社-書店の直接取引が7~8割あり、取次経由のシェアは2~3割にとどまっており、日本とは大きく異なっている。今後、電子書籍が増大するにつれて、こうした流通経路がどのように変わってゆくのか、注目される。

出版物の流通経路
      出版界の流通経路(白書出版産業2010より作成)

 出版物の市場規模はどの程度のものなのだろうか?『白書出版業界2010』によると、販売金額ベースでみると、下の図のようになっている。

書籍・雑誌の販売金額推移
 書籍・雑誌の販売金額(単位:億円) (白書出版業界2010より)

1996年にピーク(2兆6563万円)を迎えた以降は、一貫して減少していることがわかる。一方、電子書籍は、このグラフには出ていないが順調に売り上げを伸ばしているようだ。電子書籍の流通は、まだ限定的であり、コンテンツも、文庫本やエロ的な内容の書籍が圧倒的に多いが、今春以降、米国のアマゾンが日本でもkindle端末を販売するといわれており、急速に増大する可能性が高い。今後の動向に引き続き注目していきたい。
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アーキテクチャ  私は、大学で2000年以来、「メディア・エコロジー」という授業を受け持っているが、これに関連する書籍になかなか巡り会えず、苦労しているが、最近では、メディアに関連して「エコシステム」(生態系)という表現をあちこちで見かけるようになった。これは喜ばしい限りだ。ここでは、その中の一つ、濱野智史著『アーキテクチャの生態系』という本を取り上げて、紹介してみたい。
 「アーキテクチャ」ということばが少しなじみにくいので、その説明をまず。著者によれば、



アーキテクチャという用語は、米国の憲法学者ローレンス・レッシグが『CODE』(2001年)のなかで論じたものです。レッシグは、このアーキテクチャという概念を、規範(慣習)・法律・市場に並ぶ、ヒトの行動や社会秩序を規制(コントロール)するための方法だといいます。その後、この概念は、日本の哲学者・東浩紀氏によって、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズといったフランス現代思想の論者たちの権力論とひきつけながら、「環境管理型権力」と概念化されています。(p。16)

 具体例として、著者は飲酒運転の問題をあげているが、ここでは、もっとわかりやすい例として、「喫煙防止」の問題をあげておきたい。喫煙は体に悪いし、他人に迷惑をかけるのでやめましょう、というのが「規範」。喫煙を法律的に規制するのが「法律」、たばこ代を大幅に値上げするのが、「市場」、そして、「喫煙できる場所」を強制的に限定してしまうのが「アーキテクチャ」だといえる。アーキテクチャは、どちらかというと、「技術的な方策」といえるかもしれない。

 レッシグは、アーキテクチャのもう一つの特徴をあげている。それは、「規制されている側がその規制(者)の存在自体に気づかず、密かにコントロールされてしまう」(p.18)というものだ。デジタル社会における典型的な例は、「デジタル・コンテンツの不正コピーを制限・管理するDRM(電子著作権管理)技術」だ。レッシグは、こうした著作権管理システムが、自由な著作物の創造、表現を阻害する危険があるとして、「クリエイティブ・コモンズ」を提唱している。

 さて、著者は、アーキテクチャの概念を、より肯定的に捉えている。

 むしろ筆者は、
「アーキテクチャ=環境管理型権力」が持つ「いちいち価値観やルールを内面化する必要がない」「人を無意識のうちに操作できる」といった特徴を、より肯定的に捉えて、むしろ積極的に活用していくこともできるのではないか。それがレッシグのいうように、法律や市場といったものと並ぶ「社会秩序」を生み出す手法の一つであるならば、私はアーキテクチャを用いた社会設計の方法について、いままでにないさまざまな方法を実現する可能性を持っている」
と考える。

 本書で取り上げるメディアは、「ソーシャルウェア」と呼ばれるもので、ある特定のグループが協働で用いるソフトウェアで、その利用者の規模が「社会」にまで拡大したものをいう。具体的には、グーグル、2ちゃんねる、はてなダイアリー、ミクシイ、ユーチューブ、ニコニコ動画、などである。

 こうしたソーシャルウェアが、一種の生態系を構成している、と著者は考える。
 ソーシャルウェアが「台地」のように成長し、その上にまた別の「島」が生まれ、あるいはまたまったく別の場所に「風船」のような閉鎖系が形成される。こうした一連の「進化」の過程を、ISOが策定した「OS階層モデル」と、「生態系」や「系統樹」の比喩をかけあわせることで表現したのが、「アーキテクチャの生態系マップ」になります(p.25)

グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか?


 本章では、ソーシャルウェアの代表として、グーグルとブログについて、生態学的視点から論じている。グーグルの誕生のいきさつ、検索エンジンについては別のブログでも取り上げたので、ここでは省略する。「グーグルは機械か、それとも生命か?-梅田望夫VS西垣通論争」というのがおもしろかったので、それを紹介しておこう。これは、西垣通著『ウェブ社会をどう生きるか』(2007)で取り上げられた論点である。
 その中で西垣氏は、梅田氏が「神の視点」を実現すると述べたグーグルに対し、その検索結果は単なる「機械情報」の寄せ集め(データベース)にすぎないのであって、「生命情報」(あるいは社会情報)を有していないとの批判を行っています。(中略) しかし、筆者の考えによれば、こうした西垣氏の批判は、半分正しく、半分まちがっています。
 たしかにグーグルは、西垣氏もいうように、その裏側の仕組みそのものは「機械情報」で構成されており、その検索結果は、どれだけ正確にみえたとしても、機械的な産出に基づいて配置されているにすぎません。ましてグーグルは西垣氏もいうように、いわゆる「人工知能」ではない。その点では、西垣氏による批判は正しい。
 しかし、その一方で、グーグルは単に「機械情報」しか提供していないのかといえば、これは誤りです。なぜならグーグルというのは、ウェブ上の人々が、はたしてどの情報をリンクしているのかに関する文脈情報を、ページランクによって解析し、検索結果に反映させているからです。つまり、グーグルの検索結果で上位にランクされる情報は、すでに多くの人々によって指さされ、評価されたものです。
 筆者の考えでは、こうしたグーグルが「当たり前」のような存在になったという事実が、グーグルが「生命情報」の提供者であるということを意味しているように思われます。(pp.46-47)

ブログの本質は何か?

 アーキテクチャの視点からいうと、ブログの本質は、「グーグルに検索されやすいウェブサイト」を自動的につくる仕組みだったという点にある、と著者はいう。それは、ブログが「パーマリンク」(ブログの記事単位で発行されているURL)を持っていることを意味している。ちなみに、今私が書いているブログも、公開された途端に、グーグルの検索結果に反映されることがわかる。著者にいわせると、「パーマリンクという仕組みはウェブページの情報を細かい単位に切り分け、情報のありかを「指差す」というリンクの効能(価値)を高めることに寄与するのです」ということになる(p.50)。また、ブログでは、SEO対策が自動的に施されているという点でも優れた特性をもっている。この他にも、ブログの特徴として、「ウェブサイトの見出しや要約などのメタデータを記述する「RSS]を自動的に発行することで、RSSリーダーですばやく、まとめて読むことができるようになったり、他サイトのコンテンツに再利用されやすくなったりするという点」などがある、と指摘している(p.53)。これらの特徴により、ブログは情報の「検索されやすさ」「発見されやすさ」「指示のしやすさ」を高めるのに寄与しているのである。このことは、「ブログが、グーグルに検索されやすいというアーキテクチャ的特性を備えていた」(p.57)ことを示している。つまり、「ブログとグーグルという二つのアーキテクチャの相互作用によって、結果的には優れたものが生き残っていく「淘汰」のメカニズムを作動させている」ともいえるのである。

 こうしたソーシャルウェアの成長を進化論的にいうと、<ウェブ→グーグル→ブログ>という流れになっていることがわかる。
 この矢印の関係は、「新世代=後続世代のソーシャルウェアは、先行世代のアーキテクチャの特性を生かし、それに最適化するような仕組みを採用することで、自らの効用や価値を高めてきた」と記述できます。
 逆に、<ウェブ←グーグル←ブログ>と、←の関係を逆に遡っていくとします。すると、その矢印の関係は、「後続世代のソーシャルウェアは、先行世代の効能をさらに高めるのに寄与してきた」ということができます。つまり、新世代と旧世代のソーシャルウェアが、互いの成長を促進し、支えていくという、いわば「共進化」的な構図を見出すことができるのです。(pp.60-61)

「生態系(エコシステム)」を示す三つの現象


 次に著者は、ウェブ上のソーシャルウェアの進化・成長メカニズムを「生態系(エコシステム)」の比喩で説明している。
①人や情報の流れについて
 ウェブ上の情報流通のただ中に一度身を置いてしまうと、あたかもミームの自然淘汰が起こっているかのように実感されます。こうした感覚は、これも英語圏でよく用いられる「ブロゴスフィア(ブログ圏)」というブログ全体を指した英語にも表れているということができます。
 また、ブロガーと呼ばれる集団のなかには、よく名前の知られていて読者も多い「アルファブロガー」と呼ばれるユーザーも存在すれば、あまり有名でないユーザーも存在しており、そこにはある種の「弱肉強食」的な階層構造があることが知られています。・・・アルファブロガーの存在は、基本的にブログ全体から見ればごく少数に限られており、その希少なポジションを維持するために、さらに下位のレイヤーから情報=餌を捕食しようとしているわけです。このように、ブロガーたちが「新鮮なネタ」を追い求めてウェブ上を徘徊することで、弱肉強食的なハイエラーキーをつくりだしている状態は、しばしば「食物連鎖」にたとえられます。
②Web2.0的と呼ばれるサービス間の関係について
 Web2.0系と呼ばれるサービスは、それぞれ別個のURLとサーバの上で動いていたとしても、互いに緩やかな協調関係をつくっていることがしばしば強調されます。ブログであればトラックバックやRSSリーダーやpingがこれに相当します。また、「グーグルマップ」や「ユーチューブ」は、必ずしもそのサービス上にアクセスしなくとも、外部のサイトからその機能を呼び出し、埋め込むことができます(マッシュアップ)。
 こうしたサービス間の緩やかな関係は、ある生態系のなかで、さまざまな生命体や種族がそれぞれ完全に孤立することなく、相互に影響しあい、その循環的な関係のネットワークを通じて、共棲的な「生態環境」を生み出している様子にたとえられているのです。
③お金の流れについて
 ウェブ上のお金の流れについても、生態系の比喩を当てはめることができます。
 たとえば、「グーグル・アドセンス」という広告システムがあります。これはグーグル外部のウェブページに、そのページと連動した広告を自動的に掲載するという仕組みです。たとえばあなたのブログに、アドセンスを表示するためのコードを埋め込んでおくと、そのページの内容が瞬時に解析され、その内容と関連性が高いと判断された広告が自動的に表示されます。その広告へのリンクがクリックされると、事前にオークションへ入札された広告価格の一部が、ページの運営者に支払われます。
 ここでグーグルは、外部パートナーの代わりに広告主を捜し、どの媒体にその広告を表示すればいいのかを選別する「交渉」を肩代わりしているといえます。・・・さらに、ハードウェアコストの低下もあいまって、自社が運営するサービスのアクセス向上に専念すれば、ソーシャルウェアを事業とするベンチャー企業の持続可能性は担保されやすくなったといわれています。
 このようにアドセンスの成功は、グーグルと外部パートナーの間に、「Win-Win」の関係が築かれたことを意味しています。
 (つまり)グーグルをいわば苗床(プラットフォーム)にして、新たなソーシャルウェアが次々と(しかも安定的に)生まれる「生態系(エコシステム)」が形成されたといえるでしょう。(pp.61-67)

 引用が長くなってしまったが、要は、ウェブ上のプラットフォームであるグーグルと、ブログなどウェブ上の各種サービス運営者との間には、生態学的な「自然淘汰」「共生」「共進化」「棲み分け」などが生まれ、そこに新しい生態系(エコシステム)が形成されつつあるということだろう。

 本書における生態系のとらえ方については、次のように書いています。
生態系の比喩のポイントは、「ある環境において、膨大な数のエージェントやプレイヤーが行動し、相互に影響をしあることで、全体的な秩序がダイナミックに生み出されており、しかもそこから新たに多様な存在が次々と出現する」ということにあります。
 その光景は、「生態系」という言葉以外にも、「進化」「ミーム」「自然淘汰」「ニューラルネットワーク」「創発」など、さまざまな言葉で比喩形容されてきました。
 使われる言葉はさまざまですが、それらは基本的に、「部分が相互作用することで全体が構成されている」というシステム論的構図を持つという点で共通しています。(p.67)

 このような考え方に対して、さまざまな批判があることを指摘した上で、著者は、生態系の「相対主義」という観点に立つことによって、問題を解決することができるとしています。
 私たちがいま目の前に見ているウェブの生態系は、どれだけ目的合理的に進歩しているように見えたとしても、それはあくまで偶然の積み重ねによって生まれたものであり、しかもその進化の方向性は多様なものであるうるはずです。
 (中略) いま目の前にある単一のアーキテクチャの存続だけを願うことや、ある一つの進化の道筋だけを原理主義的に正しいものとして信仰することは退けなければなりません。ウェブの生態系は、グーグルの周辺だけに発生するわけではない。だとするならば、私たちは、ウェブ上のさまざまなアーキテクチャの生態系が生み出す多様性を捉えるために、「相対主義」的認識を取るべきなのです。(pp.72-73)

 以下の章では、2ちゃんねる、ミクシー、ツイッターなど個別のウェブサービスについて、アーキテクチャ生態系の視点から論じている。

第3章 どのように<グーグルなきウェブ(2ちゃんねる)は進化するか?


 2ちゃんねるに関しては、「便所の落書き」といった批判がある一方で、ときには目を見張るような高レベルの議論や情報収集・交換が行われるという肯定的な評価もある。これらは、2ちゃんねるのコンテンツを問題にしたものだが、著者は「内容」に注目するのではなく、「どのようにして2ちゃんねるという巨大で広大なウェブ空間上において、「検索」という認知限界をサポートする仕組みを有しないままに、膨大なユーザーの間でのコミュニケーションや情報交換がうまくワークしているのか、そのメカニズムを生態系の視点から捉えようとする。

2ちゃんねるは、「dat落ち」といって、一つのスレッドに1000以上の書き込み(レス)が入ると、自動的にそれ以上書き込めなくなり、過去ログを参照することができなくなります。・・・こうしたアーキテクチャ上の特徴から、2ちゃんねるはグーグルなどの検索エンジンには捕捉されにくいという性質を持っていたわけです。
 2ちゃんねるのアーキテクチャ上の特性としてよく指摘されるのが、「スレッドフロー式」と呼ばれる仕組みです。2ちゃんねるでは、たとえば「哲学」「ノートPC」「ニュー速」といった具合に、特定の話題ごとに「板」と呼ばれる単にで分割されており、その中に数十から数百の「スレッド」がぶら下がるという構成になっています。
 スレッドフロー式では、基本的に「直近でなんらかの書き込みがあったスレッド」から順にソート(整列)されていきます。(そのため)「スレッドがフローする」ということになる。
 2ちゃんねるのコミュニケーション・メカニズムの特性は、まさに「フロー」(流動する)という点にあるように思われます。ですから、ある特定のトピックに関するスレッドが寿命を迎えた場合、そのトピックについての議論を続けたいと願うのであれば、新たにだれかが同一トピックのスレッドを立ち上げる必要があります。逆にいえば、たいして盛り上がりもしないトピックは自動的に2ちゃんねるの生態系から淘汰されていくわけです。
 また、「最大1000スレまで」という2ちゃんねるの寿命に関する情報は、逆にそのスレッドの熱狂度や勢いを計測するためのバロメーターとしても使われます。たとえば「祭り」と呼ばれるようなイベントについて、スレッド上の書き込み数が急速に伸びていく際には、たいてい「10分で1スレ消費:と書き込まれ、いまこのスレッドが盛り上がっていることが、そのスレッドの読者たちの間で共有されるのです。
 さらに、2ちゃんねる上の情報流通メカニズムで重要な役割をはたすのは、「コピペ」です。・・・2ちゃんねる上の書き込みというのは、そのユーザーが別の2ちゃんねる上の場所で見かけた、ネタ的におもしろいと思った文章を、そのままコピペしたか、あるいは文章の一部分だけを改変したものであることが多いのです。(pp.85-87)

 このようなコピペによる情報伝播は、ドーキンスの「ミーム」伝播にもたとえられる、と著者は指摘している。ブログが「リンク」と検索エンジンの力によって広く伝搬していくが、これに対し、2ちゃんねるでは「コピペ」がミームとしての機能を果たしているのである。
 このように、2ちゃんねるでは、アーキテクチャ自体が「生態系」を運営するというよりも、ユーザーたちが進んでソフトウェアのように作動することで、そこでの情報流通メカニズムが全体的に機能しています。(p.89)
 2ちゃんねるには、「dat落ち」などを通じて、「常連を排除する」という仕組みが設けられている。また、「匿名制」が導入されているこれは、ウェブ上のアソシエーションが次第に「コミュニティ」に変質するのを防ぐという効果を生んでいる。ただ、それは運営者自身が特定のアーキテクチャを設計したということを意味するものではない。
2ちゃんねるの「dat落ち」という特性は、事後的に見れば、「常連を排除する」というコミュニティ活性化(流動化)機能をはたしているように見えるけれども(機能論=存続の論理)、その機能自体は、決してあらかじめそうした目的のために設計されたのではなく、また別の制約条件を受けて生み出されたものだった(発生論=生成の論理)。2ちゃんねるのアーキテクチャが生まれてきた背景にも、こうした進化論的な図式を当てはめてみることができるのです。(pp.93-94)

 それでは、2ちゃんねるという広大な情報フローの空間において、なぜ人々(2ちゃんねらー)はコピペをしたちまとめサイトをつくったりという「協力」をしているのだろうか?この問いに対し、著者は次のように答えている。
 そこで北田氏の考察が参考になるのは、「2ちゃんねらーたちは互いを『内輪』として認識している」という点です。しかも2ちゃんねるの内輪は、いわゆる「内輪」プロパーが持つイメージをはるかに超えて巨大なのです。その集合意識ないしは帰属意識が、互いに顔も見えないウェブ上での協働を支える信頼財(社会関係資本)として機能しているのではないかと考えることができます。

 2ちゃんねるのような匿名の巨大掲示板がこれほどの人気を博している理由は、おおきな謎であるが、これについて、著者は、「2ちゃんねるの匿名掲示板というアーキテクチャが、日本の集団主義/安心社会的な作法・慣習・風土にマッチしていたからではないでしょうか」と述べている(p.114)。これは、かなり説得力の高い説明といえるだろう。

第4章 なぜ日本と米国のSNSは違うのか?


 上で述べられていたこと、つまり、日本独特の文化にマッチしたアーキテクチャが受け入れられやすいことは、この章でミクシィについても当てはまると、著者は考える。

 ミクシィは2004年にオープンして以来、急成長を続け、いまや1500万以上の登録数を誇っている。その理由として、「招待制」という閉鎖的なアーキテクチャを備えていたことが大きな要因ではないか、と著者は考える。
 ミクシィは現在に至るまで招待制を堅持し続けており、それでもユーザー数を獲得しにくいはずの「招待制」を採用しているからこそ、ミクシィは日本最大のユーザー数を獲得しているという逆説的な事態を見出すことができます。(p.126)
※2010年3月、ミクシィは招待制を止めて登録制に移行した(評者の注)
 なぜ閉鎖的なミクシィは日本でとりわけ受容されたのか。その問いは一般的には次のように考えられています。それはミクシィの「外側」のウェブ空間に比べて、安心で安全なコミュニティだからである、と。
 逆にいえば、ミクシィの外側に広がっているウェブ上の空間は、不健全で、不安感なしでは使えず、居心地がよくないものであるというニュアンスが込められています。

 たしかに、2000年代半ばまで、ネット空間は2ちゃんねる上での「誹謗中傷」「爆弾の作り方」、ネット炎上など、ネガティブな印象をもたれてきた。そこに「ミクシィというSNSが、雑多で猥雑なウェブ空間から「隔絶」したアーキテクチャとして、人々の目の前に登場した」(p.129)のである。

 ミクシィに独自の機能として、「足跡」機能があった。これはマイミクのだれかが日記を読んだことを示す機能だ。これについても、筆者は「互いに繋がっていることだけを確認する、自己目的型のコミュニケーションであり、日本に特有の「繋がりの社会」を反映したものだ、と述べている。
 米国の状況とは大きく異なり、日本のミクシィは、予期せぬ他者との接触や討議の機会に開かれたウェブという「公共圏」から退却するための「コクーン」(繭)として人々に受容されるに至りました。しかも、その安全な空間の内側において、人々がまだしも公共的で有益な議論を展開するのならばまだしも、ミクシィ上のコミュニケーションは、そのほとんどが、友人同士のたあいもない日記とそこにつくコメントと「足あと」を日々確認しあるというものでした。(中略) ミクシィの「足あと」機能は、「私はあなたの日記を読んだ」という<事実>を、もはやコメント欄で言葉を使うことなく通知できるという意味で、まさに「繋がりの社会性」をアーキテクチャ的に実現したコミュニケーション機能といえるでしょう。(pp.135-136)
※ミクシィの「足あと」機能は、2011年6月をもって廃止された(評者注)

 それでは、人々はミクシィに何を求めているのか?なぜ特定のミクシィ利用者は、ミクシィに「はまって」しまうのか?「ミクシィ中毒」と呼ばれる現象もあるが、それはなぜ起こるのだろうか?この点について著者は、「ミクシィが、さまざまな行動履歴を自動的に記録し、観察可能なものにすることで、人間関係の「距離感」という曖昧なものを認識し、評価し、解釈し、推察するためのリソースを提供してくれるアーキテクチャ」だからだと説明する。

 ミクシィは、招待制(だった)ということもあり、実名で登録するユーザーが少なくない。これも、「繋がりの社会性」を考えると、説明がつく。
 ミクシィに実名を登録するという行為は、実はミクシィ内における「SEO対策」のようなものとして-実名を登録しておけば、プロフィール検索で検索される可能性が高まるという意味で-機能しているといえます。「実名」という情報資源は、これまでネットをめぐる議論においては、議論や情報の信頼性を高めるものとして扱われてきましたが、ミクシィにおいては、「繋がりの社会性」を効率的に高めるものとして利用されているのです。(p.144)

 著者は、以上の理由から、米国初のSNS「フェイスブック」が日本で成功を収める可能性は99%ない、と論じている。
その理由はきわめてシンプルです。なぜなら、すでに日本では、ミクシィが確固たるポジションを築いているからです。ほとんどのミクシィユーザーにとって、同サービスを利用する価値は、「周囲の知人・友人がすでにミクシィを利用している」という点、つまり「ネットワーク外部性」にあります。ミクシィは、フェイスブックなどの米国型SNSとは異なる形で、「ソーシャルグラフ」(人間関係)を扱うアプリケーションとして日本の若者たちのコミュニケーション文化に深く根づいており、今後も日本では、フェイスブックのような新興SNSへのスイッチングが直ちに起こるとは考えにくいといえます。(p.149)

 この著者の見解は、最近のフェイスブックの急速な普及ぶりを見ると、必ずしも当たっているとはいいがたい。大学生に聞くと、「就活の道具」としてフェイスブックに登録する若者が急増しているようだ。これは、就活マーケットという情報圏において、フェイスブックのもつアーキテクチャがきわめて適合的だから、と説明することができるだろう。今後、フェイスブックが、どのような形で日本社会に浸透してゆくのか、見極めていきたいところだ。

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか? 


 本書を通じて明らかにしてきたのは、技術(アーキテクチャ)と社会(集合行動)が、密接に連動するかたちで変容していくプロセスでもありました。(中略)社会が技術を形作り、技術がまた社会をつくる、アーキテクチャと社会の間には、こうしたフィードバック・ループが複雑に絡み合って存在しています。本書が明らかにしてきたのは、規範・法・市場、そして文化といった他の要素との相互影響のなかで、アーキテクチャの進化プロセスが進んでいく過程です。私たちの社会は、これからも、上に見たようなアーキテクチャと社会の諸システムとの「共進化」的現象を目の当たりにすることになるでしょう。

 最後に、筆者は「生態系」の認識モデルの適用先を「ウェブ」から「社会」へと引き上げることを提案している。その理由は、「「社会」というものは、本来であればウェブよりもさらに複雑で、多様なプレイヤーたちが織り成すエコシステムのようなものとしてあるはず」(p.335)だからである。
 だとすれば、それもまた、偶然的で多様な進化のパスに開かれている。そしてその進化のパスに、私たちはアーキテクチャという新しい道具立てを通じて、関わりうる
と結んでいる。「メディア・エコロジー」の視点からも、たいへん参考になる本だと思う。

(おわり)
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 昨日発売されたばかりのグラフィックソフト「花子2012」をさっそく購入。いろいろな機能を試してみた。以前のバージョンから大幅にアップグレードされており、きわめて使い勝手のよいソフトに変身していたので、びっくり。花子で作成したグラフィックスは、パワーポイントやワードなどに簡単にコピーできるので、たいへん重宝する。

 今回は、「情報の進化」をテーマとするプレゼン資料を1枚、「花子」でつくってみた。それが下の図だ。ここでは、情報の進化プロセスを4つの段階に分けて説明している。これは、西垣先生の説をヒントにして、私が独自に考案した新説だ。これで、メディアの位置づけが明らかになるのではないか、と今の段階では考えている。

情報の進化

弧状の矢印は、「2012」バージョンでの新機能だ。これまでは、Illustratorでも作成が難しかった円弧状の矢印が、いとも簡単にできてしまう。しかも、それぞれの図形にWeb2.0風のグラデーションをつけたり、ドロップ・シャドウをつけるのも簡単だ。花子2012のコンセプトは、これまでの「描く」から、「貼る」への転換にあり、これで私のようなグラフィックの苦手なユーザーでも、見栄えのするグラフィックスを簡単に作成することができるようになった。パワポのプレゼン資料が、これまでよりも一段と説得力と魅力を兼ね備えたものになることを期待したい。

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基礎情報学 前回は、西垣通著『基礎情報学』の第2章までをレビューした。今回は、第3章と第4章を対象として、引き続きレビューを行ってゆきたいと思う。







第3章 情報の意味伝達


1 メディアのつくる擬制


 本章では、意味が「共有」され、社会的に安定して通用していくメカニズムを論じている。著者の「コミュニケーション」観は、オートポイエーシス理論にもとづくものであり、次のように表明されている。
 シャノン&ウィーバーのモデルを拡張したコミュニケーション・モデルを用いて、二人の人物XとYが対話しているとき、意味内容がXY間で小包のように往来していると考えるのは誤りである。XとYはそれぞれ、やりとりされる符号(パターン)という刺激に対応して構造的な変容をおこなうだけであり、マトゥラーナとヴァレラが主張するように、「情報は伝達されない」のだ。基礎情報学では、いわゆる社会的な「対話コミュニケーションによる合意形成」に対して懐疑的な立場をとるのである。(p.118)

 これも不可解な見解だ。「情報は伝達されない」とはどういうことだろうか?それでは、コミュニケーションはそもそも不可能ということなのだろうか?これに対する著者の回答は次の通りだ。
 しかし、このことは、コミュニケーション・モデルの単なる否定にはつながらない。むしろ、そういう本質的な不可能性にもかかわらず、あたかも情報伝達がおこなわれ合意が形成されていくように見える点に注意を払う必要がある。そこには社会的な「擬制(フィクション)のメカニズム」が存在するのであり、基礎情報学はその探求へと向かうのである。(p.118)

 著者は、コミュニケーションのメカニズムをオートポイエティック・システムの理論をもとに、次のように説明する。
 このことを、単に言葉の意味が文脈や使用者よるといった従来の観点から分析するのではなく、システム論的にとらえなくてはならない。その鍵は、第2章の末尾で述べた階層的自律システム(階層的オートポイエティック・システム)にある。すなわち、オートポイエティック・システム同士の対等な相互関係としてではなく、両者が構造的カップリングしてできる一段高レベルの複合的オートポイエティック・システムのなかで、コミュニケーションが生起しているととらえるのである。(p.119)

 ここで、「構造的カップリング」とは何を意味しているのだろうか。
 構造的カップリングは、オートポイエティック・システム同士の関係としてよく知られているものであり、当初は次のように定義された。

 二つ以上の単位体の行為において、ある単位体の行為が相互に他の単位体の行為の関数であるような領域がある場合、単位体はその領域で連結(カップリング)していると言ってよい。カップリングは、相互作用する単位体が、同一性を失うことなく、相互作用の過程でこうむる相互の変容の結果として生じる。

 自律システムが再帰的に攪乱される環境において絶えず相互作用するとき、自律システムは絶えず構造を選択する。これによって自律システムは、環境のなかで崩壊せずに作動し続けることが可能になる。ヴァレラは、このような構造変化の過程を「構造的カップリング」と呼んでいる。

 そこで、「まさに、対話システムという高次オートポイエティック・システムが安定して作動しているという事実こそ、「XとYのあいだで情報の意味)」ということに他ならない。(p。120)

 著者は、生命圏というものを、階層性をもったものとして捉えている。それはホフマイヤーの主張でもあった。
 生命記号論では、生命圏を、分子レベルから単細胞生物レベル、多細胞生物レベル、さらに生態系レベルにいたる「階層的構造体」としてとらえる。規則性(宿命)と自由(逸脱)とのせめぎ合いのなかで、次々に高次なレベルが創発してきたとホフマイヤーは主張するのだ。(p.122)

 これを基礎情報学の観点から読み替えると、次のようになる。
 基礎情報学ではこれを作動における制約・拘束関係と読み替えることになる、すなわち、高レベルのオートポイエティック・システムは自立性を制約され、アロポイエティック・システムと化す。たとえば多細胞生物の個々の細胞は、筋肉細胞や神経細胞などに分化し、決まった機能を果たすように作動を制約されるのである。そして、個々の細胞が決まった機能を果たすということは、多細胞生物の観察者から見ると、それらのあいだで情報の「意味の伝達」がおこなわれていることに等しい。すなわち、細胞間で情報が伝達されコミュニケーションがおこなわれていることは、個々の細胞から眺めるのではなく、視点のレベルを切り替えて多細胞生物という全体を眺めてこないと見えてこないのである。(p.123)

 さて、それでは次に、「コミュニケーションとメディア」についての著者の見解をみることにしよう。

コミュニケーションとメディア

著者は、コミュニケーションを情報学の視点から次のように定義している。
 「コミュニケーション」は、社会システムという自律システムの構成素である。それは基本的には一過性の出来事であり、社会システムにより生成され、また消滅する。したがって、社会システムは「オートポイエティック・システム」に他ならない。コミュニケーションの素材は、対話者のあいだで交換される「メッセージ」が代表的なものと言えるが、そればかりではない。より一般的には、対話者の「記述」をベースに織りあげられるのがコミュニケーションである。(p.131)」

 メディアについては、次のように幅広く定義されている。
 ここで「伝播メディア」とは、通常いわれる「メディア」に近いが、音波、文字、画、伝播といった物理的要素のみならず、郵便、テレビ放送、新聞、雑誌、書籍、映画といった社会的要素をもふくんでいる。すなわち、技術のみならず、社会制度によって成立しているものである。

 メディアは、当然のことながら、コミュニケーションと密接な関連をもっている。著者は基礎情報学の立場から次のように述べている。
 基礎情報学において、メディアとは単なる情報伝達用の補助媒体ではなく、「コミュニケーションを秩序づけるメカニズム」であり、それゆえ、社会システムと一体不可分の存在である。メディアが通信技術ばかりでなく社会制度をふくむことは言うまでもないが、それだけにとどまらない。コミュニケーションはメディアなしには存立しえないわけであり、コミュニケーションから社会システムが構成される以上、メディア抜きの社会システムなどまったく考えられないのである。

 このあたりの論述は、私にも十分理解できる。著者はさらに、メディアの分類を試みている。「伝播メディア」と「成果メディア」の区分である。
 メディアはコミュニケーションを二つの位相において秩序づける。第一は物理的・符号表現的位相であり、第二は論理的・意味内容的位相である。前者・後者に対応して、メディアを「伝播メディア」と「成果メディア」に分類することができる。両者は基本的には、ルーマンによって考察されたものであるが、基礎情報学では成果メディアのなかにさらに「連辞的メディア」と「範列的メディア」との区分をもうける。ここで、ルーマン社会学の成果メディアは「連辞メディア」に対応している。(p.138)

 ここで、「伝播メディア」とは、コミュニケーションの伝播する物理的(空間的/時間的)な範囲を拡大する機能をもつメカニズムと定義されている。こえは通常メディアと呼ばれるものである。一方、「成果メディア」とは、コミュニケーション同士の論理的なつながり、さらにはより広く意味内容的なネットワークを保証するメカニズムである。

 「連辞的メディア」と「範列的メディア」の区分については、次のように述べられている。
 成果メディアの中で、「連辞的メディア」とは、コミュニケーションの時間的・継起的な接続に関するものである。(中略) たとえば、土地の売買契約に関するコミュニケーションが生起したとき、本来その後続のコミュニケーションは広大な選択肢をもっている(侮辱だとして怒るとか、愛のしるしとして受けとるなど)。しかし、現実には「貨幣」という存在によって、意味的なつながりは経済的な地平に局限され、脇道に逸脱することなくコミュニケーション連鎖が実現することになる。同様に、学問的なコミュニケーションは、「真理」という存在によって、理論的に正しいか否かの検証をめぐり連鎖的に展開されていく。(p.140)

 基礎情報学では、さらに「範列的メディア」が加わる。それは、次のようなものである。
 「連辞的メディア」は、「二値コード」と「プログラム」を用いて後続コミュニケーションの実際の選択をナビゲートしていくのだが、一方、「範列的メディア」は、「概念の分類関係」を用いて意味内容的な一種のデータベース/知識ベースへのアクセスを実現し、コミュニケーションの並列的・代置的な選択肢そのものを整理し準備するのである。

 このあたりは若干難解なので、著者のあげる例で理解してみたいと思う。
 たとえば、「貨幣」に関連する経済的コミュニケーションの場合には、公共経済、労働経済、マクロ/ミクロ経済などといった分類にしたがって、選択の候補となるコミュニケーションがあらかじめ準備される。したがって、仮に公共経済についてのコミュニケーションがおこなわれているとすれば、公共経済以外の経済的な意味内容の地平は選択以前に排除されることになる。実際のコミュニケーション生成の場では、連辞的メディアと範列的メディアという二種類の成果メディアが協働して機能すると言ってよい。

 あまりよい例とはいえない気もするが、なんとか理解できた。次に、「マスメディア」の項に移ることにしよう。

近代社会とマスメディア

 著者はまず、情報の意味内容の伝達の仕方は、社会の様相が変化するにしたがって変わってきたという。ルーマンを中心とする社会学では、「環節的分化社会」(歴史以前の太古時代)、「成層的分化社会」(歴史時代の古代から中世まで)、「機能的分化社会」(近代)に分類しているが、それぞれにおいて特有のコミュニケーションがみられる。環節的分化社会では、口頭コミュニケーションが主役をしめる。成層的分化社会でも、口頭コミュニケーションが首座を占める。機能的分化社会になると、印刷技術の発達に伴い、一般国民がコミュニケーションに参加するようになった。メディアの進化とコミュニケーションの進化は、このように並行的に起こってきたと思われる。
 一般に、口頭コミュニケーションから文字、印刷物、さらに電子メディアへといたる歴史的な伝播メディアの発展過程において、メディアの形式は複雑化したと考えられる。そしてパーソンズやルーマンのいう「成果メディア(象徴的一般化メディア)」の有効性は、印刷物との連関において初めて位置づけることができる

 それでは、成果メディアは、機能分化システムにおいてどのような役割を果たしてきたのだろうか。この点については次のように述べられている。
 「成果メディア」すなわち「象徴的一般化メディア」とは、それぞれの機能分化システムにおいて意味内容的な逸脱が起きないようにコミュニケーションを継続的に生成させ、システムの破綻をふせぐメカニズムである。経済システム、政治システム、学問システム、家族友人システムなどそれぞれの機能的分化システムのコミュニケーションに関連して、それぞれ、貨幣、権力、真理、愛といった成果メディアが存在する。
 このような近代社会のコミュニケーションにおいて重要な役割を果たしているのは、マス・コミュニケーションだろう。これについて、著者は次のように述べている。
 基礎情報学においては、「社会システムと構造的にカップリングして複合体をつくっている、観察者という心的システムによる行為」が観察なのである。すなわち、本書における「観察」とは、基本的にあくまでヒトの心的システムがおこなう行為に他ならない。ヒトという生命単位体をベースに成立する心的システム(観察者)が世界を機能ごとに記述し、これをベースに機能別のコミュニケーションが形成され、さらに、これらコミュニケーション群の生成消滅を観察している別の心的システム(社会的観察者)が記述した結果をもとに「マス・コミュニケーション」が形成され、マス・コミュニケーションを構成素として「マスメディア・システム」という社会システムが成立する。これが、基礎情報学における全体社会の見取り図なのである。(p.151)

 この記述はわかりやすく、よく理解できる。著者はさらに、ルーマンとは違って、基礎情報学では、マスメディアは他の機能的分化システムよりも一段階上位の社会システムとして位置づけられるとしている。
 マスメディア・システムとは、「マス・コミュニケーション」を構成素とするオートポイエティック・システムである。マス・コミュニケーションは、各機能的分化システムと構造的カップリングした「社会観察者」の記述を素材として、新聞/ラジオ/テレビなどの伝播メディア上で織りあげられるものである。

 ここでの「社会観察者」とは、具体的にはジャーナリスト、キャスター、評論家、広告作成者、ライターなどがこれに相当する。また、マス・コミュニケーションが行う観察/記述行為は、機能的分化システムにおける「観察/記述についての観察/」であるから、一種のメタ・コミュニケーションである。それゆえ、マスメディアは一般の社会システムより一段抽象度の高い「メタ社会システム」だ、と著者はいう。

 その結果、社会の構成メンバーである個々の心的システムは、間接的にマスメディアの拘束を受けることになる。具体的には、それはマスメディアの与える「現実・像」としてあらわれる、と著者は考える。n

それでは、「現実」とは一体どのようなものなのだろうか?著者によれば、「それは、社会システム(機能的分化システムおよびマスメディア・システム)が人々の心的システムに与える「拘束・制約」に他ならない」(p.163)という。とくに、国家を根底に置く近代社会においては、マスメディアの提示する「現実-像」が重要な役割を果たしていると考えることができる。
 近代社会では現実が潜在化・断片化するため、人々を支える共同体性は失われてしまう。(中略) 近代社会でも擬似的な共同体性が希求されるのは当然のことであろう。こうして、擬似的共同体を与える「マスメディア」が必要不可欠になる。政治学者ベネディクト・アンダーソンが見抜いたように、近代国家とはマスメディアが支える「想像の共同体」なのだが、これを具体的に支えるのが、マスメディアのつくる「現実-像」に他ならない(p.169)
 さて、ここから先は、「図書館情報学」に関連したテーマについての論述が中心になっているので省略し、最後に「第4章 総括と展望」の部分を、抄録して書評を締めくくりたいと思う。

第4章 総括と展望


1 生命/社会/機械の情報学


 情報学は、世界を「情報」から眺めていく学問である。とくに本書で述べる基礎情報学では、情報の「意味」がヒトによっていかに解釈され、さらに他のヒトにいかに伝達されていくのかに関する基礎的な概念や枠組みがおもな検討の対象となる(p.199)

 ヒトレベルでは、情報=意味だと考える私にとっては、基本的に承服しがたい考え方だが、それはひとまず括弧にくくるとしても、情報学の対象が「情報の意味解釈」「情報の意味伝達」だけであるというのは、不十分ではないだろうか。情報活動には、「記号化(エンコード)」「伝達」「処理(変換)」「蓄積(記憶)」「情報化(デコード)」などがあり、それらを包括的に取り扱うのが、本来の基礎情報学ではないか、と私などは思っている。この点では、著者の「二項」的なアプローチには不満を覚える。
 基礎情報学では、基本的に三種類の情報概念を扱う。まず、情報とは本来すべて「生命情報」であり、これが第一の情報である。基礎情報学における広義の「情報」とは、生命情報に他ならない。(中略) 情報は生命の誕生とともに発生したのであり、それは「意味」の発生と同時の出来事であった。換言すると、情報とは、生物が生きる上での「意義=価値」に関連して出現したのである。(p.202)

 最後の「意義=価値(significance)」というのは、それ以前で定義された「意味=価値」と微妙に違うが、どうしてなのだろうか?「価値」はvalueであり、これを意義(significance)とか意味(meaning)と等値することは、情報の本質を曖昧にする恐れがないだろうか?この2つは、いずれも情報の意味とは異なり、情報の一特性として把握すべきではないのか、といった疑問を抱かせる。
情報を担う物理的存在は、一種の「パターン」である。より精確には、それは「生物がパターンをつくるパターン」と定義される。ここには、生物がおこなう情報の意味解釈の自己言及性=再帰性が反映されている。なお、「パターン」とは、生物すなわち解釈者から独立して存在するわけではなく、時空間にあらわれるフォルムとそれを認知する生物という、二者からなる関係概念である。(p.202)

 ここで、突然出てきた「フォルム」なる概念であるが、これは「パターン」と、どう違うのであろうか?それは、私が、生命誕生以前から存在していた「物質パターン=原情報」のことなのではないか?そう考えると、生命体は、原情報=フォルムを記号の表象作用によって「情報」として認識するようになり、そこから遺伝子による生命体の創造と維持、発展という新たな進化が誕生した、と解釈することが可能になるのではないだろうか?

 そう考えると、情報基礎学はまず、宇宙の創成とともにあらわれた原情報=フォルム、すなわち「物質情報」か説き起こし、遺伝子という記号によるフォルムの「情報」としての認識と生命体の誕生、すなわち「生命情報」の誕生への「進化」を扱うという順序で議論を進めるのが妥当なのではないか、と思うのだが、いかがだろうか?

 また、本書では一貫して、情報を記号と等値しているが、これにも疑問を感じざるを得ない。
 「パターン」としての情報の定義は、精確には「情報の担体」の定義である、記号論における「記号」と同様、基礎情報学における「情報」は、意味作用を担う物理的存在だけでなく、一般に広く意味作用の全体をあらわすことが多い。

 この記述も両義的である。情報=情報の担体=意味作用の全体、と読めるが、ここには、情報と記号という別概念の混同がみられる。先に図式で説明したが、情報の担体は記号であり、記号の担体はメディアだというのが正しいとらえ方ではないか、と私は思う。
原-情報を、観察者が観察し、抽出し、外部の伝播メディア上に記述することにより、初めて「社会情報」が出現するのである。これこそが第二の情報であり、基礎情報学が主として対象とする狭義の「情報」に他ならない。(中略) ヒトによって取り出され、言語をはじめヒト特有のシンボルで記述された生命情報が「社会情報」であり、これが人間社会で通用する狭義の「情報」なのである

 本書ではつねに、社会情報を一次元上の「観察者」「記述者」によって記述される情報をもって「社会情報」と定義づけているが、私はむしろ、上の引用部分中の「言語などのシンボル」で記述する能力が、人間特有の意味作用様式である点に注目すべきなのではないか、と考えている。パースの記号分類でいえば、生命体が扱う記号は、「イコン」→「インデックス」→「シンボル」へと進化してきたが、「インデックス」→「シンボル」への進化こそ、ヒトの「社会情報」生成の証といえるのではないだろうか?イヌが尻尾をふったり、鳴き声をあげて、特定の情報を伝えようとするのは、「インデックス」である。しかし、イヌは決して「シンボル」を操ることはできない。そこに、ヒト特有の情報伝達能力が認められるのである。そして、ヒトにおいても、低次元のシンボル(イコン的な性格をもつシンボル)から、最終的には「平和」など、恣意的な契約にもとづく「言語」というシンボルへという進化が認められるのである。
  (機械情報 (mechanical information) とは)社会情報の意味内容が潜在化し、表現形式である「パターン」という面だけをもつ情報であり、基礎情報学では最狭義の情報として位置づけられる。機械情報は効率的処理のために社会情報が変換されたもので、当初は日常的情報の効率的伝達のために用いられた。効率的伝達が可能になるには、信号の意味解釈が送信者と受信者のあいだであらかじめ共有されていなくてはならない。のろしのようなシステムでも電子的ネットワークでも、この点は同様である。(p.204)

 こうした「機械情報」の定義にも、疑問が投げかけられる。私の解釈では、情報の歴史的進化プロセスは、「物質情報」→「生命情報」→「社会情報」→「機械情報」という四段階を経て起こってきたと考えたい。したがって、「機械情報」が「表現形式であるパターンだけをもつ情報であり、最狭義の情報」だといわれても、ぴんとこないのである。むしろ、機械情報を「社会情報」が進化した、より高次の情報として位置づける方が、現実に沿っているのではないか、と考える。すなわち、情報(メディア)の進化過程をみると、グーテンベルクの「活版印刷機」が、最初の機械情報メディアであり、次いで、「写真機(カメラ)」の発明によって、写真という情報が現れ、映写機による映画、電話、ラジオ、メディアというように、電子メディアが発展し、コンピュータの発明により、デジタル化した情報が登場する。こうしたメディアで伝達される情報は、記号表現とともに、意味内容を伝えるものである。このように、情報やメディアというものを、進化論的な視点から捉えることが重要ではないだろうか?
 以下は中略して、結論部の「新たな社会システム」の部分を若干紹介しておきたい。

2 新たな社会システム


知識社会はくるのか

 近年のITの急速な発展によって、従来の産業社会は21世紀には「ポスト産業社会」あるいは「知識社会」へと変容するという声が聞かれる。規格品を大量生産する産業社会からサービス中心の知識社会に移行するとき、戦略資源も変化する。たとえば、ダニエル・ベルによれば、前者の戦略資源は土地と労働力だったが、後者の戦略資源は情報と知識であるという。(中略) (しかし、)20世紀産業社会のパラダイムのもとで「知識社会」論を単線的に理解するならば、かえって大きな誤りをおかす恐れも大きいのである。

(中略) マスメディア・システムは各機能的分化システムの上位に位置する「メタ社会システム」であり、各機能分化システム、さらに一歩進んで社会の構成メンバー全員の心的システムに一種の拘束・制約を与える。そして、この拘束はまさに、常識ベースと私的コミュニケーションとに反映される「現実-像」を介してはたらくのである。(p.227)

 しかし、インターネットが地球上に普及する近未来に、このような斉一的な現実-像が引き続き有効でありつづけることができるかどうかは疑わしい。インターネットが発達し、国境をこえて、あるいは国内の多元的なグループのなかで頻繁に情報が交換されるネット社会では、状況はおそらく一変してしまうであろう。
 インターネット・コミュニケーションは、従来のマス・コミュニケーションとは異なる「意味ベース」を形成し、それにもとづいて多種多様な「現実-像」を描き出す可能性が高い。思考や感性が多様化し、消費の欲望も多元化する。

  そして、最後に次のように締めくくっている。
 マスメディア・システムが唯一のメタ社会システムである近代産業社会に比べ、21世紀ネット社会ではインターネット・システムもメタ社会システムに加わるとすれば、両者の相互観察/相互批判の効果が期待できるであろう。すなわち、マスメディア・システムのなかにインターネットについてのコミュニケーション。インターネット・システムの中にマスメディアについてのコミュニケーションが生成展開されることで、それらにより構築される「現実-像」は変容していくはずだ。多面的、複眼的な広がりを獲得し、両者の補完的役割も期待できるかもしれない。

 以上が本書の概要である。問題点はいくつか散見されるものの、本書で展開された「基礎情報学」は、壮大なスケールをもつものであり、今後これをさらに発展させ、「応用情報学」へとつなげてゆくことが最大の課題といえるのではないだろうか。

(おわり)
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基礎情報学  今回と次回は、西垣通氏の『基礎情報学』(2004)を読みながら、情報、メディア、心、社会についての理解を深めていきたいと思う。

 本書は、文系情報学の立場から、「意味作用に注目し、生命/心/社会をめぐる情報現象を、統一的なシステム・モデルによって論ずることにある」(II)」。そこで用いられている概念装置ないしキーワードは、「生物による意味作用」「オートポイエーシス理論」「ニクラス・ルーマンの理論社会システム論」「ホフマイヤーの生命記号論」「パースの記号論」「レジス・ドブレのメディオロジー」などである。これを著者独自の情報論をもとに、生命情報、社会情報、機械情報の各レベルにおいて情報システム論を考察したのが本書である。

 正直言って、これらの諸理論に十分通じていない私にとって、本書は難解である上、基本的な概念のとらえ方に関して疑問を感じる場面が少なくなかったので、やや的外れな批判的評価も多くなるかもしれないが、その点はあらかじめお許しいただきたいと思う。また、2つのやや難解な著書を読むのには少々時間がかかるので、このブログも、少しずつ更新しながら書き進めるということになろうかと思う。この点についても、気長におつきあいいただければ幸いである。

第1章 基礎情報学とは何か


 情報学という学問領域がいつ成立したかは知らないが、現在では、日本学術振興会の科研費対象研究領域においても、「情報学・人文社会情報学」として公式に認知されているところである。本書はこの2つの学際的な領域を包括する分野での基礎研究という位置づけを与えることができるだろう。本書は、「『生命と機械』という視点から、情報という概念を根本的にとらえ直し、情報の『意味』がいかに解釈され、いかに伝達されうるかを問うことから情報学にアプローチしようとする(p.6)」ものである。

 ただし、本書の扱うテーマはやや狭く、次の2つに絞られている。
(1)情報の意味作用はいかにして生まれるのか。
(2)情報の意味はいかにして社会的に共有され、社会的リアリティを形成するのか。

 著者によれば、情報はあくまで非物質的存在であり、実体概念ではなく関係概念である、としている(p.11)
果たしてそうだろうか?確かに「非物質的」であることは確かだが、だからといって「関係概念」だと決めつけるのはいかがかと思う。むしろ、梅棹さんがいうように、情報は世界の至る所に存在するものであり、感覚器官や脳神経系などによって知覚されるものと考える方が自然ではないだろうか?私見を述べさせていただければ、情報は宇宙の始め(ビッグバンによる生成)から、「物質」とともにあった「パターン」なのではないだろうか。つまりは、物質の形態を維持する働きをしているのが、情報の始原(これを私は「原情報」と名づけたい)ではなかっただろうか?

 もっとも、著者は「情報」が一種の「パターン=形相」であることは認めている(P.11)。

生命情報/社会情報/機械情報


 著者は情報を「生命情報」「社会情報」「機械情報」の3つに分類している。「生命情報」は、生命のレベルにおける意味作用として情報を扱うものである。社会情報とは、ヒトの社会において多様な伝播メディアを介して流通する情報をさしている。機械情報は、意味を捨象した「情報科学」や「情報工学」で対象とする情報のことをいう。私の考えでは、これに加えて、生命誕生以前から存在した「物質のパターン」もまた、情報といえるのではないか、と思う。これは、情報科学や情報工学で扱う情報と関連するが、「進化論」モデルの視点からは、厳密に区分されるものであり、繰り返しになるが、私たちの住む現在の宇宙の始めにあらわれた「存在」だと考えられる。これを「物質情報」と呼ぶことにしたい。そうすると、歴史的には、物質情報→生命情報→社会情報→機械情報という進化を認めることができるだろう。これはあくまでも評者の視点であり、著者はこうした進化論的な視座はとっていない。このレビューでは、むしろ、本書を土台として、これを進化論的(あるいは生態史観的)な視点から読み解くことにしたいと思っている

 著者によれば、生命システムと機械システムとの違いは、「歴史性」と「閉鎖性」にあるとしている。歴史性とは40億年にわたる歴史を背負った、あるいは生命体の誕生から現在までの歴史をもった存在ということで、生命は歴史をもつが、機械はそうした歴史性に欠けている。だから、「生命システムの反応(行為)は、常に予測をこえ、創発的に発展する可能性を秘めている。問題は、「閉鎖性」という点である

 著者によれば、「生命システム自体の観点に立てば、システムは閉じており、入力も出力も存在しないと言った方が精確なのである」(p.21)という。「入力と出力を見極めるのは外部にいる観察者であるが、生命システム自体は決してその視点に立つことはできず、ただ環境のなかで訳もわからず行為し続けるのみなのである。さらに、自らの内部と外部(環境)を区別することも生命システム自体にはできない。(p.21

 この部分は、評者にはまったく理解できない。細胞システムのレベルにおいても、器官レベルのシステム、個体レベルのシステムにおいても、さらには社会システムのレベルにおいても、入力と出力は明確に存在し、また「訳もわからず行為し続ける」わけでは決してないことは、むしろ自明の事実ではないだろうか?つまり、生命システムは、環境との間でモノ、エネルギー、情報を絶えず交換しているという意味では、「開放システム」としてとらえるほうが正しいのではないかと、評者は考える

 著者が生命を「閉鎖システム」としてとらえようとするのは、「オートポイエーシス」理論の影響によるのではないかと思われる。著者によれば、

 歴史性や閉鎖性という特徴は、実は「オートポイエーシス性=自己創出性」という特徴の一面にすぎない。これが生命システムと機械システムとを分かつ最大の相違点と言えるであろう。自動車やコンピュータは他の誰かが設計し、製作するものである。これを「アロポイエティック・システム」と呼ぶ。これに対して生命システムとは、外部の誰かによって設計製作されるものではなく、(変容を繰り返しつつ)自己複製する存在である。すなわち、過去の歴史にもとづいて、自己言及的・閉鎖的に自らをつくり続ける存在なのである。

 本書では、生命システムを「オートポイエティック・システム」として定義する。

 しかし、最近発展している「遺伝子工学」や「クローン技術」などに関しては、こうした生命システムの定義ではあてはまらないのではないだろうか。また、生命体が決して「閉鎖システム」ではなく、「開放システム」であることは、先に述べたように明らかな事実ではないだろうか。自己言及的=閉鎖的とはいえないのではないか?

情報とは何か


 著者によれば、「情報とは生命体の外部に実体としてあるものではなく、刺激を受けた生命体の内部に形成されるものである。あるいは、加えられる刺激と生命体とのあいだの「関係概念」である」(p.26)という。この「関係」という考え方にも疑問がある。私は情報を従来から「記号によって表象されるもの」と定義しているが、それは「関係」とは無関係である。上の文章からいうと、「刺激」はそれ自体としては情報ではないということになってしまう。生命体が感知する刺激は、一つのパターンであり、それ自体として情報としての資格要件を満たしていると考えられる。「関係」という用語を持ち出さずとも定義し得ると思うのだが、いかがだろうか

 著者によれば、情報とは「生命体にとって意味作用をもつもの」(p.26)だという。私の定義では、「意味作用によって表象されるもの」が情報ということになり、両者の間には微妙な違いがある。これに対し、著者はあくまでもオートポイエーシスにこだわって、情報を定義しようとする。
 生物はオートポイエティック・システムであり、刺激ないし環境変化に応じ、あくまで自分自身の構成にもとづいて自ら内部変容を続ける、その変容作用ことが意味作用である。したがって情報に関するこういった「自己言及=自己回帰」的な性質を明示しなくてはならない。

 その結果、著者は情報を次のように定義している。
情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターンである」(p.27)

 記号論との関連でいえば、「基礎情報学における具体的な「パターン」とは、いわばソシュール記号学における「記号表現」に対応するようなものと言えるであろう」(p。30)としている。私のとらえ方は逆で、情報とはむしろ「記号内容」に対応する存在ではないかと考えている。情報は、記号表現=記号内容という「意味作用」を通して、解釈主体に対し表象されるものではないだろうか?

記号と情報


 記号論には、ソシュールの系統とパースの系統があるが、本書の依拠する記号論は、主としてパースである。そこでパースの記号論についての著者の理解をみておきたい。
パースによれば、人間の思考とは一種の記号作用であり、それは記号(sign/representation)とそれが代替する指示対象(object/referent)および両者の関係を把握する解釈項(interpretant)という三項関係であらわされる。たとえば、医者が患者の発疹から病名を麻疹と診断するとき、記号は発疹、指示対象は麻疹であり、解釈項は医者の心のなかでつくられる麻疹のイメージである。すなわち、医者は発疹から麻疹という「意味」を読み取るわけであり、それが「仮説推量(abduction)」と呼ばれる思考の過程に他ならない(p.32)」
 もう一つ、著者が基礎情報学において依拠する記号論は、デンマークの生物哲学者ジェスパー・ホフマイヤーが提唱する「生命記号論」である。これは、著者によると、
その基盤はパース記号論である。端的に言えば、記号論の対象領域を生物にまで拡大し、「意味解釈を行う存在」のなかに微細な細胞から地球規模の生態系までもふくめようというのが、生命記号論である。すなわちパースの三項図式において、解釈項を担うのは通常ヒトの意識なのだが、それが生命体一般に拡張されるのである(p.33-34)」

 この考え方は、進化論的な視点からみると、よく理解できる。しかし、著者は、生命記号論からさらに進む。
生命記号論は、意味的な情報(記号)作用について述べるものの、意味解釈の図式を外側から示すだけで、その内部には目を向けない。情報を扱う内部メカニズムとして、生命体と通常の機械との決定的な相違は何であろうか。この点に関して洞察を与えるのは、前述のオートポイエーシス理論である。この理論によって、生命体がズレをともないつつ自らを創出し続けていく存在であること、歴史的・自己言及的な存在であって。アロポイエティックな機械とは本質的に異なることが初めて明らかになってくる(p.36)」

 以上が、第1章の若干批判的な紹介である。第2章では、オートポイエーシス理論に則って、「情報の意味解釈」を論じている。

第2章 情報の意味解釈


意味と価値


 この章では、まずシャノン&ウィーバーの「情報理論」モデルについて検討し、そこには意味が含まれていない、という自明の事実を指摘している。そのあと、コミュニケーション・モデルについて検討し、「情報の意味内容は基本的に、オートポイエティックな生命体である送信者と受信者の「内部」以外に存在しえないと考える」と結論づけている。

 問題はその次の節である。社会的コミュニケーションのモデルにおいては、「意味内容」「コード」などが検討の対象となってくる。記号学との関係でいえば、情報学では次のように考えることになるという。
 言葉とそのあらわすもの(意味内容)の対応に関しては、記号論/記号学において種々検討されてきた。この分野では一般に、言語に限らず、記号表現と記号内容(意味内容)とを結ぶ対応規則は「コード」と呼ばれているが、基礎情報学においても、「コード」が情報(パターン)と意味内容との対応を与えるものとしよう。言語の場合、コードは語彙や文法に支えられており、それなりの規則性をもっていることは当然だが、そこには恣意性や流動性が常に含まれている。(中略) 現実の言語においては多義語も多く、コードは不完全である。大半の意味内容は、文脈に依存して、すなわち「外情報」(実際の発話において切り捨てられた情報のこと)として受信者に伝えられるのだ。
 ゆえに基礎情報学ではむしろ、既存の決まった「意味内容」を伝達するというより、言語記号とともに「意味内容」が立ち上がってくるダイナミックスに注目しなくてはならない。・・・すなわち、「受信者が情報(パターン)を受けとって、そこでいかに意味を解釈するか」から考えていくわけだ。(p.51)

 ここで問題なのは、著者が「情報=記号表現」としている点だ。繰り返しになるが、私は「情報=記号内容」と考えているので、上の文章がどうにも理解できない。なぜ情報=記号内容かといえば、それは、情報の進化という視点に立って、生命体の出現によって、もっぱら「情報を表象する」という働きをもつパターン、すなわち「記号」というものが自立的に出現した、と私が考えるからだ。パースのいう「イコン」「インデックス」「シンボル」は、いずれも情報を表象することを主たる機能とするパターンの例である。そう考えると、記号表現=記号、記号内容=情報という関係性が素直に理解されるだろう。「言語記号とともに意味内容が立ち上がってくるダイナミックス」などという意味不明な表現を用いずに済むのである。次の文章も、なにかしら本質から外れた指摘のように思われるのだ。
 この場合には、「送信者→チャネル→受信者」というシャノン&ウィーバーの構図ではなく、送信者とチャネルをいったん括弧に入れた「情報→受信者」という構図にもとづくことになる。すなわち「受信者が情報(パターン)を受けとって、そこでいかに意味を解釈するか」から考えていくわけだ。(p.51)

 私の場合には、「受信者が記号を受けとって、そこでいかに意味を解釈して特定の情報を受けとるか」という構図になる。そこで、送り手と受け手が情報を共有すれば、コミュニケーションが成立したことになるだろう。これは、日常的な情報概念になじむことはいうまでもない。 情報は、コミュニケーション過程において、何らかの記号とコード(コンテクストを含む)を媒介として伝達され、共有されるものである。

パースの三項図式


 著者と私の認識のずれは、パースの三項図式の解釈においても見られる。著者はパースの三項図式を次のように記述している。
 これは、「第一項=記号表現、第二項=対象、第三項=解釈項」の三項関係としてあらわされる。「記号表現」とは、記号の物理的な乗り物(媒体上の表現)である。「解釈項」とは、解釈者の内部に形成される、「対象」の摸造である。たとえば、「火事だ」という叫び(記号表現)によって、それを聴いた解釈者の心のなかに、めらめら燃える家のイメージという「解釈項」が生成されるわけだ。いまの場合、「対象」とは、火事で燃えている具体的な家そのものである。
 端的に言うと、パースの記号(過程)とは、何か(記号表現)が自分とは違う何か(対象)を代置し、指し示しているというメカニズムをあらわすものである。ここで「情報(パターン)」は、言うまでもなく「記号表現」に対応するが、それがあらわす「意味内容」は「対象」と「解釈項」のいずれであろうか。
 ここでの「情報」が記号表現だというのは、決して自明のことではないと思うのだが、どうだろうか。むしろ、情報=解釈項、記号=記号表現、対象=情報が指し示すものや事象や概念など、と考えたほうが自然なのではないだろうか。上の例でいうと、「火事だ!」という叫びが「記号表現」であり、「めらめら燃えている家のイメージ」が情報だということになる。そうした頭の中のイメージが共有されたときに、はじめて情報は正しく伝達されたということができるだろう。さらに付け加えると、上の引用文中で、「記号表現」 とは記号の物理的な乗り物だというが、これも正しくない。記号の物理的な乗り物は「メディア」だからである。以前のブログでも示した次の図式を考えれば、情報-記号-メディアの間の関係は、次のようになっていると考えられる。

情報・記号・メディアの関係図
 だから、「情報の意味解釈」という言い方は正しくはなく、正しくは、「記号の意味解釈」を通じて、情報世界が立ち上がる、ということになるだろう。それが、われわれにとっての「情報環境」(あるいはリップマンの言葉で言えば「擬似環境」)なのである。

意味=価値の発生


 ここで著者は、情報の「意味」=「価値」としている。
 基礎情報学では、「意味」は生命体の生存と関連しており、進化によって発生したものであると考える。「何かが意味がある」というとき、われわれはそれを「何かが価値がある」と同義で用いることが多い。生命体の生存にとって有用であるもの、重要であるものが「意味」なのである、したがって、それは環世界のなかに存在する、生命体にとっての「価値」のことなのである。

 このように意味=価値とすることにも疑問が投げかけられる。世の中には、「意味」がなくても「価値」のある情報はたくさんあるだろう。たとえば、ツイッターでのつぶやきは、ほとんど意味のない情報かもしれないが、それに「価値」(あるいは「効用」)を見出す人は少なくないだろう。でなければ、ツイッターのはやる理由がわからない。逆に、「価値」はなくても「意味」のある情報というのも数多く存在する。売れない作家の小説などは、そうした例の一つかもしれない。つまり、情報の「意味」と「価値」は別物だということだ。経済的価値は、情報のもつ重要な特性の一つだ。それによって、情報が「財」となり得るからである。

生命システム


 生命体はシステムとして把握することができる。著者は、まず河本秀夫氏の生命体システム論をレビューする。
 河本秀夫によれば、生命システムは三つの世代に分けることができる。第一世代は、開放性の「動的平衡システム」であり、外界とのあいだで物質やエネルギーを交換しながら自己を維持し続けるシステムである。「ホメオスタシス」という生理的な性質が開放性の動的平衡システムによって実現されるのである。
 しかしながら、生命システムの性質はホメオスタシスにとどまるものではない。その最大の特徴は、自らを形づくる機能である。・・・単純な要素から複雑な秩序が生み出されるメカニズム、いわゆる「創発」のメカニズムが解明されなくてはならない。(中略) 
 部分的にせよ、生命体の生成や創発という問題に一定の回答を与えたのが、第二世代の「自己組織システム」であった。これは開放性の動的非平衡システムであり、1960年代から多くの研究者の注目を集めてきた。(中略)
 しかし、第二世代システムは、まだ真の生命体のモデルとしては十分ではない。(中略) 自ら境界をつくりだしながら、継続的に、、あえて言えば半永久的に、多様な創発現象を続けていくシステムこそ、生命体の名に値するのである。これが第三世代システムである「オートポイエティック・システム」なのだ。基礎情報学では、オートポイエティック・システムをもって、生命体のシステムと定義する。(Pp.65-67

 オートポイエティック・システムは神経生理学者のマトゥラーナによって提示された概念であり、「構成素が構成素を産出するという、産出プロセスのネットワークとして定義される。オートポイエティック・システムは環境との相互作用によって変容していくのだが、この変容過程を通じて、構成素は、自己を産出するプロセス(過程)のネットワークを絶えず再生産し、実現し続けるのである。(中略) そこにはもちろん物質やエネルギーの流入・流出はあるから、その意味では開放系と言えるであろう。しかし、産出(生成)プロセスのネットワーク自体としては閉じているから、オートポイエティック・システムである細胞は入力も出力もない自立的な閉鎖系とも言えるのである」(p.68)

 この記述も、私にはあまりよく理解できない。ネットワークは、脳神経系であり、その他の器官はネットワークとはいえないのではないだろうか?また、「システムが閉じている」というのも理解しづらいところだ。これについて、著者は、「観察者」と「行為者」という視点の区別に注目しなくてはならない、という(p.70)。
 生命体は、それ自身の視点から見ると、本来、外部と内部を区別できず、幻覚と現実の区別がない。(中略) 生命体自身は内部も外部もなく、ただひたすら行為をおこなっているにすぎないのだ。

 この部分がまた、よくわからない。生命体それ自身は、動物であるにせよ、人であるにせよ、「内部も外部もなく、ただひたすら行為を行っている」と言われても納得しかねる。ただし、「基礎情報学では、河本とは異なり、純粋なオートポイエーシス理論の発展に沿った議論の方向はとらない。 なぜなら、基礎情報学の分析対象は、オートポイエティック・システム自体というよりむしろ、情報の生成や伝達だからである(p.72)」。そして、とりあえずヴァレラやルーマンの議論を参照しながら、部分的には従来科学の「観察者/記述者の視点」をも併用することにする」としている。

 次のところで、著者独自の概念として、「原-情報」という用語が出てくる。これはもちろん、私の定義する「原情報」(=生命出現以前の物質パターン)とは異なる。著者によれば、生命情報はそのままでは生命体のなかに閉じ込められ、ヒト社会で通用する情報としてわれわれの前に姿をあらわすことはできない。(中略) それはあくまで潜在的・原基的な情報にすぎないモノであり、本書ではこれを「原-情報」と呼ぶ(p.73)」とtしている。

 そして、著者は、こうした「原-情報」が記述された結果を狭義の「情報」と定義している。
 「それによって生物がパターンをつくるパターン」という定義はもともと「生命情報」とくに「原-情報」に対応するが、それはヒトによる観察/記述をへて、狭義の「情報」である「社会情報」の定義ともなる。

 この部分も、正直言ってあまりよく理解できない。生命体のなかに閉じ込められている情報をあえて「原-情報」と定義し、狭義の情報と区別する必要がどれほどあるのだろうか?先に出てきた「外情報」と、「原-情報」は同じものなのか否か、その点も不明である。著者はさらに、「原-情報」「観察者」「両者の相互作用」が、パースの三項図式における、対象、解釈項、記号にそれぞれ対応することになる(p.75)、としているが、本当にそうなのだろうか?原-情報=対象、観察者=解釈項、両者の相互作用=記号ということになるが、このような関連づけがどの程度妥当性をもつかは疑問である。別のところで(p。87)、著者は次のように述べている。
ここで、パースの三項図式を想起しよう。第一項は記号表現、第二項は対象、第三項は解釈項であった。この図式をあてはめると、第一項が相互作用、第二項がシステムの「構造変化=原-情報」、第三項が観察項すなわち対象システムから抽出される「情報」となる。

 ここでの対応づけは、明らかに先の対応関係とは矛盾している。上の引用文が正しければ、記号表現=相互作用、対象=構造変化=原-情報、解釈項=観察項=情報となっている。しかし、解釈項=情報という定義は、著者の定義とは明らかに矛盾する。むしろ、ここでは私自身の定義(解釈項=情報)と一致するという、奇妙なことになるのだ。「構造変化=原-情報」というのも、理解しづらいところだ。

 それはさておき、ヒトの心(心的システム)に関する考察に進むことにしよう。

心的システム


 「心」は、しばしば「心的システム」と等値されるが、精確に言うと心的システムの一種であり、ヒト特有のものである。心的システムは、「意識」を核にして成立し、ヒトに限らず脳神経系をそなえた動物なら広くもっていると推測される。
 心的システムの構成素は、知覚にもとづく神経生理学的な現象、とくに脳神経系の発火がもたらす「イメージ」や「シンボル」にもとづいてつくられる。とくに心つまりヒトの心的システムの構成素を「思考」と呼ぶことにする。(p.89)

 心的システム=思考という定義づけにも、若干理解に苦しむところがある。「思考」だけではなく、「感情」もまた心的システムの重要な構成素なのではないだろうか?これについては、次のように述べられている。
(ヒトの心は)生命単位体とは異次元にあり、とりわけヒト特有の社会的存在である。その構成素である「思考」には、社会的存在である言語などのシンボル体系が投影されている。心は、「観察者」となれる唯一のオートポイエティック・システムであり、ヒト特有のシンボル体系を用いて対象を観察し、記述することができる。すなわち、観察者となりうるのは、ヒトの心だけであり、たとえば動物が観察者となることはできない。(p.90)

 これについても同意しがたいところがある。動物にも「観察力」はあるのではないだろうか。ただし、観察するのに用いる「記号」がヒトとは異なるだけなのではないだろうか。対象について「記述」する能力は、確かにヒト特有のものかもしれないが、「観察」し、それにもとづいて行動するという点では、動物は場合によってはヒト以上の能力をもっているかもしれない。

 制限字数に達してしまったので、今回のブログはこのあたりで終わりにしたい。

(次回へ続く) 
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ミーム・マシン 今回取り上げるのは、スーザン・ブラックモアさんの『ミーム・マシンとしての私』(上・下)(1999=2000)である。

 「ミーム」については、「利己的な遺伝子」というブログで、すでに紹介したが、このアイディアを文化的な現象や情報革命などに適用し、ミーム学の視点から論じたのが本書である。

 オクスフォード大英語辞典によると、ミームとは、「非遺伝子的な手段、とくに模倣によって伝えわたされると考えられる文化」である。「私たち(人類)を特別にしているのは模倣の能力であるというのが本書の主題である」(P.36)と著者はいう。人間は、幼児の段階からすでに、模倣する。模倣によって人から人へと伝えられていくものはすべて「ミーム」と呼ぶことができる。「誰かからの模倣によって学習したことはすべてミームである」(p.43)。ドーキンスのいわせれば、「楽曲、思想、キャッチフレーズ、衣服のファッション、壺の作り方、あるいはアーチの建造法」はすべてミームの例である。利己的遺伝子の用法に従えば、「私たち人類は、その模倣能力ゆえに、ミームたちが拡がるためにまさに必要とする身体的な「宿主」となったのだ。これが「ミームの視点」から見た世界の姿である(p.45)」。

 ミーム理論は、ダーウィンの生物進化論と同様のメカニズムを通じて、私たち人類の精神が進化するという、新たな段階の進化を唱えたものである。そこから見えてくるものは、「巨大な人間の脳の進化、言語の起源、あまりにも多くしゃべり、考えるという私たちの性向、人間の利他主義、そしてインターネットの進化といった多岐にわたる現象」がミーム理論によって説明可能になるということである。

ミームとダーウィン主義


 ミームは、人間のレベルにおける「自己複製子」である。それは、「変異、淘汰、および保持にもとづく進化的アルゴリズムを維持しなければならない。ミームはまちがいなく変異をともなっており、物語が二度とまったく正確に同じに語られることはまずないし、二つの建物が絶対的に同じということもないし。あらゆる会話は独特である(p.56)」。都市伝説の伝播などはそのいい例である。
「このほかの例として、料理のレシピ、衣服のファッション、インテリアデザイン、建築のトレンド、政治的正義のルール、あるいはガラス瓶のリサイクルの習慣などがある。これらすべては人から人へコピーされ、模倣によって拡がる。コピーの過程でわずかな変異が生じ、あるものはほかのものより頻繁にコピーされる(p.59)」。

 ミームは、「空疎なアナロジーにすぎない」という批判があるが、決してそうではない。「ミームは人間の脳に、あるいは書物、絵画、橋、あるいは汽車といった人工物に埋め込まれた指示である(p.62)」。私なりに、あるいはマクルーハン流に言い換えると、ミームは人間レベルあるいは社会レベルの「情報」の基本単位であり、脳や外部の「メディア」を通じて、社会の中に伝達され、蓄積されるのである。ミームの生息域は、私たちの「心」である。
デネットによれば、私たちの心や自己はミームの相互作用によって作り出される。ミームは遺伝子に似た自己複製子であるばかりでなく、人間の意識それ自体がミームの産物である。(中略) 彼が指摘しているように、あらゆるミームが頼りにできる到達すべき安息の地は人間の心である。しかし、人間の心そのものは、ミームたちが自分により都合の良い生息環境にするために脳を再構築するときにつくりだされる人工物なのである。そこで作り出されるものこそは、「文化」と呼ばれるものである。

文化の進化


 文化は、ミームの模倣と淘汰を通じて進化する。言語はその一例である。世界中にはさまざまな言語があり、その多くは、淘汰の過程で絶滅し、あるものは英語のように繁栄を続ける。これは、ミームの文化的進化の一例といえる。農耕技術などの「発明」の伝播も、ミームの文化的進化の例である。ミームは、人間だけが持っている自己複製子なのである。
 私にとってミーム的な進化は、ドーキンスやデネットと同じように、人間がほかの生物と異なっているということを意味する。人間の模倣の能力が自分の利益のために働く第二の自己複製子をつくりだし、それがミーム学的には適応的だが生物学的には不適応な行動を産みだすことができるのだ。これは、強力な遺伝子によって究極的に制御されることになる単なる一時的な逸脱などではなく、恒久的なものである。なぜなら、ミームは遺伝子とまったく同じやり方において強力だからである。つまり、自己複製子としての力をもっているからなのだ(p.92)」。

ミーム 遺伝子の共進化


 人間はなぜ言語能力を発達させたのか、人間の脳はなぜかくも巨大なのか?こうした疑問に、ミーム学は次のように答える。
人間の言語能力はもっぱら遺伝子にではなくミームに淘汰上の有利さを与えた。やがてミームは遺伝子が淘汰を受ける環境を変え、遺伝子がますますよくミームを広める器官をつくるようにし向けた。言い換えれば、言語の機能はミームを広めることなのだ。
 遺伝子は今やミームによっって駆動されている。これが脳の大きさの劇的増大の由来である。

 ドーキンスによれば、成功する自己複製子には3つの規準がある。それは、忠実度、多産性、長寿である。言語は、そのいずれも備えているので、自己複製子としてふさわしい情報単位だといえる。これをミーム的な視点で言い換えると、
 人間の文法は、狩猟や食物最終や社会契約の象徴的な表現といった何らかの特別な話題についての情報を伝えるためというよりもむしろ、高度の忠実度、多産性、長寿をもつミームを伝達するためにデザインされたものである(p.212)」。

 これが上巻の抄録である。以下は大幅に省略し、「メディア論」に該当する章だけを簡単に紹介しておきたい。ミーム理論によれば、メディアはどのように捉えられるのだろうか?

インターネットのなかへ


 私たちは、電話、ファックス、テレビ、ラジオ、コンピュータ、CD、DVD、インターネットなど、実にさまざまなメディアに囲まれて暮らしている。それはなぜなのだろうか。著者によれば、「ミーム淘汰がそれらをつくりだしたのではないか」という。
ミームが出現するやいなや、それはより大きな忠実性、多産性、長寿に向かっての進化を開始した。その過程で、彼らはますますよくミームをコピーしてくれるような機構をつくりだしたのだ。したがって、本、電話、ファックス機は、ミームによってその自己複製のためにつくられたのだ。

 情報のデジタル化も、ミーム理論によれば、「貯蔵および伝達における誤りを減少させるがゆえに忠実度を高めるすぐれた方法」であるがゆえに進化したのである。多産性、長寿という点でも、デジタル・メディアは他のメディアよりもすぐれていることは自明ともいえる事実である。インターネット(ウェブ)は、その意味で、究極のミーム伝播メディアといえるだろう。訳者あとがきにも、次のように述べられている。
 ブラックモアは、遺伝子がセントラル・ドグマという形の確固たる複製機構をつくりあげたように、ミームもまた自らの繁殖のためによりすぐれた情報システムを進化させてきたのであり、印刷に始まり、電話、ラジオ、テレビ、ファックス、インターネットに至る情報革命は究極の複製機構を産みだそうとするミーム進化の産物にすぎないという。(p.231)」。


 次回は、「ミーム的世界論」を読んだ頭でもって、西垣通著『基礎情報学』『続 基礎情報学』を読み進めながら、情報、心、生命、メディア、社会の本質に迫ってみたいと思う。
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出版大崩壊 前回は、佐々木俊尚さんによる『電子書籍の衝撃』を手掛かりに電子書籍の位置づけについて若干の考察をしてみたが、今回は、出版業界のまっただ中にいた方による「電子書籍悲観論」を取り上げてみたいと思う。タイトルは、『出版大崩壊 電子書籍の罠』(文春新書 2011年3月刊行)だ。

 著者の山田順さんは、34年間光文社で編集のビジネスに携わったあと、2010年に退社し、電子出版のビジネスを立ち上げようとしたが、多くのインタビューと取材を通じて「電子出版」の現状を調べるうちに、その未来はきわめて暗いものであることに気づき、本書を上梓するに至った、という。全編、電子書籍に対する悲観論で満ちている。業界インサイダーによる悲観論には、一定の説得力がある。電子出版が活発になれば、大きな利益をあげるのは、プラットフォームを提供するアマゾン、グーグル、アップルだけであり、紙メディアである出版社はますます売り上げを落とし、危機的な状況に陥るだけだ、と著者はいう。

 2010年は、「電子書籍元年」ともいわれ、日本でも主要出版社が「日本電子書籍出版協会」(電書協)を立ち上げ、電子書籍に本腰を入れるようになった(2011年2月現在、43社が加盟)。その背景には、次のような危機意識があったという。
1.これまで再販制(再販売価格維持制度:定価販売を義務づける法律)などで守られてきた日本の書籍の流通制度の崩壊が進む(印刷、製本、取次、書店などの「中抜き」)
2.出版社は書籍の価格決定力を失う(出版社の利益の喪失)
3.著者が著作権法に基づいて独自に電子出版するようになる(出版社を通さない「セルフパブリッシング」)(p.37)

 こうした危機感と、アマゾン、グーグルなどの「黒船襲来」が目前に迫っているという状況で、電書協を中心とする日本の出版業界は、電子出版という「開国」政策をとらざるを得なくなった。その旗振り役となったのは、講談社など大手の出版社であった。講談社の対応については、次のように述べられている。
 講談社は2010年になると、社内に各部署横断的な「デジタル事業委員会」を立ち上げ、月に1回ほどのペースで専門家を招いては社員向けのセミナーを開催するようになった。その一方で、書籍のデジタル化を積極的に進めるために、アマゾン・ジャパンなどとの協議もスタートさせた。
 こうして、「既刊書2万点のデジタル化」が決定され、現在も講談社はその方向に進んでいる(p.38-9)

 その後、他の出版社もこれに追随し、次々と電子書籍を出版することになった。その一方で、村上龍さんのような著名な作家が、自身で出版ビジネスを立ち上げ、電子書籍を販売するといった「中抜き」現象も現れるようになった。また、新しい電子書籍リーダーがソニーやシャープなどから発売され、2004年以来という「電子書籍ブーム」が再来したのである。こうした電子出版への流れは、今後とも変わらないと予想されるが、著者は、電子書籍が発展しても、紙の出版マーケットは縮小を続け、また電子書籍は出版業界に利益をもたらすことはなく、かえって自分の首を絞めるような事態になるだけだ、と警鐘を鳴らしている。出版業界の見通しについて、著者は、次のように悲観的な見方をする。
 このまま紙市場がどんどん縮小してしまうという恐怖は、出版社を経営する人間なら、毎日のように味わってきたはずだ。しかも、出版不況は、2008年のリーマンショック以降は加速化している。市場の縮小とともにビジネスを縮小均衡させるのならいいが、このまま座して死を待つわけには行かないと考えれば、電子書籍が出版不況脱出の手段と考えるのは、自然の成り行きかもしれない。
 ところがよく見れば、日本ではアメリカのように、電子書籍リーダーも売れていなければ、「iPad」さえ話題のわりには売れていない。ハードとサー支部が整わないうちに、ソフトをどんどんつくっても市場は形成されない。したがって、いまのところ、日本の電子出版は、出版社にとって不況脱出の手段とはなっていないばかりか、将来もそうなるかどうかは非常に疑わしい。(p.76-7)
 著者は、そう考える根拠として、「自炊」など電子自主出版による「中抜き」現象の拡大、「価格決定権の喪失」による利益の低減、電子書籍で売れる本は、「エロ系」(ボーイズラブやティーンズラブなど)だけというデータなどを指摘している。また、電子出版が進むと、中国などで起こっているように、「海賊版」が横行し、紙の出版に悪影響を与えることも懸念される。

 複雑な著作権問題も、電子出版の前途に暗雲を投げかけている。著者によれば、現行の著作権法は電子出版を想定しておらず、
現行の著作権法を見る限りでは、出版社は電子書籍をつくれないことになっている。ということは、アマゾンやグーグルのような企業が、直接、著者の許諾を得て電子書籍化の権利を得てしまえば、出版社は「中抜き」されてしまう。(p。147)

 一方、コンテンツのデジタル化によって、違法なコピー(複製)が簡単にできるようになっており、ソフトにお金を払う人間は少なくなった。「一般大衆は著作権には無頓着」(p.155)だからだ。その結果、「メディアは経営が成り立たなくなり、著作者は生活すらできなくなってしまう」。
しかし、一般大衆はそんなことにはおかまいなしで、キチンと買えば高価なコンテンツを、いかにタダで手に入れるかに熱中し、それがなにを招くかには関心がない既存メディアが衰退し、著作者の生活が成り立たなくなれば、その結果、良質の書籍も音楽も映像もなくなり、「学術の進歩」「文化の発展」も途切れてしまうかもしれない。
 著者はさらに、ネットワーク社会となった今日、プロの時代は終わり、契約も変わるだろうと予想する。
 20世紀の大衆文化は、ブロードキャスティング・モデルによって大発展し、それを支える多くのプロフェッショナルな職業を生み出した。しかし、ネットワーク時代になったいま、そういう人々の多くは必要なくなるのではないか。電子書籍化がそれを加速させる。
 いまやデジカメ写真と「Photoshop」がプロカメラマンにとって代わった。(中略) もういい加減、既存メディアのなかで、「プロごっこ」は止めるときにきているのではないか。既存メディアは、デジタル技術で置き換えられるプロたちに高いおカネを払う必要はない。この先、既存メディア内において、旧来の職業編集者や職業ライターが生き残るのは難しいだろう。


 著者は、自らの電子出版ビジネスで味わった挫折の経験をもとに、電子出版で儲かるのは結局IT側(アマゾン、グーグルなど)だと結論づけている。
 このことを振り返っていま思うのは、現状の電子出版でビジネスになるのは、IT側だけだということだ。コンテンツ提供側は多大な出費を覚悟して、彼らが用意したスキームに乗って走り出す。しかし、走って気がつくのは、話が違うということである。

 そして、スモールビジネスにとって電子出版がいかに採算の合わないビジネスかを検証している。これには、ユーザー側の要因も大きく作用している。つまり、「ネットはタダ」という文化だ。そのために、電子ジャーナリズムの世界において、課金制を採用して生き残れるのは、ごく少数の企業だけということになる。

 また、電子出版の時代において、「自炊」などのセルフ・パブリッシングが活気づいているが、これについても、「フラット化した世界で成功するのは、すでに作家として名前のある一部の人間だけ」「誰でも作家時代になると、コンテンツが際限なく増える。これは、ゴミが溢れるのと同じ」という否定的見解に賛意を表している。
じつは、セルフパブリッシングでの成功は万に一つのような確率でしか起こらない。メディアは成功例となると大げさに取り上げるが、その向こう側にある膨大な数の失敗例については報じない。

 確かに、著者もいう通り、マスメディアの報道には、そうしたバイアスがあることは事実である。それに乗っかって、甘い夢を見るのは禁物ということだろう。最近はやりのソーシャルメディアを使った宣伝、マイクロインフルエンサーを媒介とした宣伝についても、著者は否定的だ。

結局のところ、「ウェブは、高度情報化社会のシンボルだが、その実態はまったく逆で、じつは低度情報化社会である」としている。

 著者の電子出版悲観論は、長年にわたる紙の出版業界での経験と電子出版の試み、数多くのインタビューから引き出された結論なので、それなりに説得力jのある議論といえる。それを踏まえた上で、電子出版の今後に思いをはせることが必要だろう。 
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電子書籍の衝撃 大学で「メディア・エコロジー」という科目を担当している関係で、メディアを「エコシステム」(生態系)の視点から捉える見方をする本とか論文があると、思わず注目してしまう。といっても、なかなか「メディア・エコロジー」の全体像がつかめず、四苦八苦しているのが実情なのだが、、、。

 電子書籍についても、エコシステムの観点から捉えた本はないものかと思っていたら、佐々木俊尚さんの『電子書籍の衝撃』(2010)という本が、それにぴったりの内容だったので、共感を覚えたのであった。


 キンドルやiPadのような電子ブックは、単なる単体のデバイスではありません。デバイスとキンドルストアという販売サービス、それに購入した電子ブックを管理するシステムが一体になったネットワークです。
 こうしたネットワークが進化していくと、そのプラットフォームを中心にさまざまなビジネスが立ち上がり、他社が開発したアプリケーションも次々に登場し、そしてネットワーク全体がますます繁栄していくことになります。
 このようにあるビジネスの基盤を中心にして、そこにさまざまな企業が参加し、さらには利用者を含めて全体が栄えていくような状態を、生物学でいう「生態系」になぞらえて、エコシステムと呼びます。電子ブックは単体のデバイスではなく、このような大きなエコシステムを作り出していく可能性を秘めているのです。(p.71)

 どうやら、「エコシステム」という言葉は、IT業界では、一種のジャーゴンになりつつあるのかもしれない。そういえば、ソーシャルメディアに関する本でも、「エコシステム」という言葉を最近ではよく見かけるようになった。私の場合は、それを学問的な用語として位置づけたいと思っているが、上の引用文は、その意味でも参考になる。ここでは、
(1)デバイス(キンドル、iPad、リーダーなど)
(2)プラットフォーム(販売サービス=アマゾン、iTunes,グーグルなど)
(3)電子ブック管理システム(デジタル著作権などの管理)
(4)アプリケーション(関連するソフトウェア)
(5)電子書籍の作者(著者、編集者、出版社)
が一体となったものがエコシステムであり、ユーザーがこの中で「読書生活」することが、システムの発展と存続にとって重要な要素となる。最終的には、ユーザー(読者)がこのエコシステムを快適だと感じ、そこで生活してくれる(情報生活する)ことが、電子書籍というエコシステムの持続可能性(サステナビリティ)の鍵を握っていることは確かだろう。音楽のジャンルにおけるiTunes-iPodを中心とするエコシステムは、まさしく、ユーザーからの絶大な支持を得て、繁栄し続けているエコシステムの一つといえるだろう。

 グーグルも、「グーグルエディション」というプラットフォームで、電子書籍の販売を開始するというニュースが2010年に流れた。それによると、「PCやスマートフォンなどWebブラウザを搭載したさまざまな端末で購入・閲覧でき、特定の端末に依存しないのが特徴。Google以外のサイトから購入できる仕組みも提供予定で、「オープンなプラットフォーム」を売りにしている」ということだが、日本では、いまだ実現はしていないようである。米国では、すでにGoogle e-bookstore(2010年12月6日~)というプラットフォームで電子書籍の販売を開始している(New york Timesの記事参照)。グーグルはこの新しい電子書籍販売サービスを「オープン・エコシステム」と称しているのが興味深い。アマゾンとともに、日本上陸がいつになるのか、楽しみなところである。アマゾンについては、噂の段階にすぎないようだが、今年の4月から日本での販売を開始するとのニュースも伝わっている。

米アマゾン、今年4月に電子書籍で日本参入 Kindleシリーズを同時投入か(ガジェット速報)
電子書籍、やはり真打ちは Amazon Kindle か

 日本では、「再販制度」と「取次店」という日本に独自の制度があるために、電子書籍の普及が遅れているという感が否めない。アマゾンやグーグルの日本進出は、そうした隘路を突破して、日本における電子書籍のエコシステムを大きく変えるきっかけとなるかもしれない。これから数ヶ月、電子書籍マーケットの行方から目を離せない状態が続く。

※「エコシステム」という用語は、野村総研編『2015年の電子書籍』(2011年)の中でも使われている。その部分を引用しておきたい。
一度どちらかのOSを選んだアプリケーション開発者、コンテンツホルダーは、得られる収益がそのOSの趨勢(そのOSを搭載した端末のユーザー数やユーザーの質)の影響を受けざるを得ないため、ある程度アップル、グーグルと一蓮托生の関係となる。この構図は自然界におけるエコシステム(生態系)にたとえられる。アップルとグーグルはそれぞれ単体ではなく、一蓮托生関係にあるアプリケーション開発者、コンテンツホルダーを含めたiOSエコシステムとAndroidエコシステムのエコシステム同士で競争を行っているとも言える。(p.54)。

 なお、日本の電子書籍マーケットで大手出版社を中心につくっている業界団体は、「日本電子書籍出版社協会」(電書協)(2010年発足)である。この団体が運営する電子書籍サイト(アプリ)は、「電子文庫パブリ」である。現在電書協には43社が加盟している(2011年2月現在)。パブリはiPhone、iPad、アンドロイド端末に対応している。私のiPhone、iPadにも「パブリ」をインストールしてあり、すでに、文庫など5点を購入している。使い勝手は悪くない。あとは、収録書籍数を大幅に増やしてもらいたい。また、価格もいまよりもっと下げてほしいと思っている。アマゾンやグーグルが日本に上陸する場合、電書協とどのような契約を結ぶのか、興味深いところだ。

 電子書籍の最新動向については、次のニュースサイトを参照されたい:

ebook user (IT Media)
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書物と映像の未来  前回のブログで紹介した『グーグル ネット覇者の真実』では、グーグルブックスについても取り上げていたが、ブログでは、取り上げることはできなかった。

 そこで、この問題を日本の知識人がどう見ているのかを知るために、2010年に出版された『書物と映像の未来』(長尾 真、遠藤 薫、吉見俊哉編)を読んでみることにしたい。本書は、日本学術会議のシンポジウム「世界のグーグル化とメディア文化財の公共的保全・活用」が元になっている。

進行する世界の知のデジタル化


 本書の趣旨は、次の文章で表明されている。
 グーグル的世界戦略の是非については、本書でも様々な論議がなされている。それらへの導入として強調しておきたいのは、現代の世界の知財のデジタル化は、もちろん書籍に限定されるものではなく、映像や音声など全形式に及ぶことである。やがて私たちのメディア環境は映像とテキストが自在に結びつく。そうしたなかで、過去一世紀を通じ、目まぐるしく形式が変化する諸媒体・諸形式で蓄積されてきた人類の文化的記憶は、すべての形式がデジタルに統一されることで、新たなコンテンツ開発や商業的利用のためのリサイクル可能な資源となるだろう。
 こうして現在、グローバルな情報産業が主導する全知のデジタル化を前に、私たちは近代日本とアジア諸国が長い年月をかけて各地で育んできたメディア文化財を公共的に保存・活用する方策を、いかにして生みだしてゆくことができるだろうか。映像とテキストが自在に結びつき、すべてがデジタル形式に統一されていく時代の知とはどのようなものでありうるのだろうか。新しい公共的利用に向けたデジタル社会の知の基盤をつくっていく場合、著作権や財産権に関わる法制度、予算や人材の確保、マネジメント、公的機関と民間の連携など、山積みする課題をどう解決していくのか。これらの問いへの答えが、「それは巨大メディア企業のグローバル戦略に任せておけがいい」というものでないのは明白である。先端技術を活用しつつ、市場原理とは異なる視点に立って、新しい公共的な営みに向けたデジタル社会の知識基盤をいかに築いていくべきなのか。(p. vii)

 こうした課題にこたえていく際のキーワードとして、「文化のサステナビリティ(持続可能性)」「リサイクル」といった生態学的なことばが使われているのは、注目に値する。その理由とは、
私たちの社会全体が、成長型から成熟型へと質的に変化しており、そうしたなかでは、たんに物質やエネルギーの循環だけでなく、文化的創造と享受、循環についての長期的に持続可能なしくみが構想されなければならないという認識からである。(p.xii)

具体的な方策としては、3つの提案がなされている。
(1)この列島に散在する様々な形態のメディア文化資産の財産目録を作成し、できるだけそれらの原資料を安定的な保存環境が保障される国家的な収蔵機関(例:国会図書館など)に集めていくこと。
(2)アーカイビングされたさまざまなメディア文化資料について、XMLなどを用いた共通性のあるフォーマットによりデジタル化を進め、デジタル形式での公開化と横断的な統合化を進めること。
(3)デジタルアーカイブ化されたメディア文化資料は、たんに受け身で公開されるだけでなく、さまざまな人材育成、教育カリキュラムのなかに組み込まれていくしくみの構想。(p.xv)

グーグル問題とは何か


この章(柴野京子著)では、グーグル・ブックス問題の概要と、海外の反応などが論じられている。そのきっかけは、2009年春の『Newsweek日本版』誌の記事だったという。公告は、次のような内容だったという。
グーグル・ブックスが、図書館にある著作物を無断でスキャン、公開することに対して、米国内の出版社・著者の団体が起こしていた訴訟で、グーグル側と和解合意したことを告げていた。(p.19)
 問題は、この和解内容が米国以外の国に対しても適用されることにあった。

その後、さまざまな経緯の結果、この和解合意事項は大幅に修正されることになった(2009年11月)。
この和解案は、その後の各国からの申したて、米国司法省の介入などを受けて、大幅に修正が加えられた。修正案の最大のポイントは、対象となる書籍の範囲がアメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアの英語圏四カ国に限定されたことであり、これによって日本はひとまず対象外となった。

グーグル・ブックスの概要


グーグル・ブックスは、2005年に正式にスタートした文献検索、閲覧、購入システムであり、その内容は、次の3つに分けることができる。
(1)キーワードによる出版物の全文検索
(2)内容の入手(ネット上での閲覧、プリントアウト、ダウンロード)
(3)冊子体の本を閲覧・入手するための、図書館や書店へのリンク
 グーグル・ブックスのリソースは、図書館、著者・出版社である。このうち、図書館については、米国の主要な大学図書館(スタンフォード大学、ミシガン大学、ハーバード大学など)が提携しており、海外でもイギリスのオクスフォード大学、ドイツのバイエルン州立図書館など、日本では慶應義塾大学がグーグルと提携している。スキャナなどの設備や人材などはグーグルが負担しており、これらの図書館では、書籍のデジタル化で大幅なコスト削減というメリットを享受している。

グーグル和解問題


 グーグル・ブックスのプロジェクトに対しては、当初、米国の作家、大手出版社などが著作権を侵害するものとして提訴した(2005年)。その結果、2008年10月、この訴訟は、次の事項で和解することになった。
・著作権者に対して、収益の63%を支払う
・すでにデータ化したものについては、程度に応じて一定の解決金を支払う
・権利処理のための機構(版権レジストリ)を新たに設け、設立と維持の費用をグーグルが負担する
この訴訟は、「集団訴訟」(クラス・アクション)と認定されたことから、この和解事項は米国内だけでなく、、世界中のすべての著作権者にも適用されることになり、世界的に大きな問題に発展した。ここでの主要な争点は、次のようにまとめられている。
①法的争点
・著作権に関して:侵害かフェアユースか
・競争的観点:一企業が世界中の書籍を独占的に管理すること
・裁判の手続き:オプトアウト方式(当事者は申請しなければ承諾とみなされ、決定の枠内に組み込まれること
②出版物の内容・定義
③文化的争点
・公共財としての知や文化を一企業が独占し、収益のために使用すること
・書物の背景にある文脈が破壊され、フラットな断片になることへと懸念
・歴史的な資料としてみた場合のスキャンの精度についての疑義
・グーグルによる「検閲」の問題
・閲覧履歴を掌握し、マーケティングに転用する可能性

 こうした争点を多く含む問題だけに、世界各国からはネガティブな反応、異議申し立ての動きが相次いだ。2012年の現在に至るまで、この問題は継続中である。継続中とはいえ、2010年以降、日本では、この問題に対する関心は薄れてしまったようにも思われる。しかし、グーグルブックス問題は、新たな「黒船」再来とともに、ふたたび大きな争点になることもあり得る。

 グーグル問題とは次元が少し異なるが、アマゾンが4月から「キンドル」日本版を売り出し、本格的に日本の電子書籍市場に参入するといううわさも耳にする。これが実現すれば、デジタル書籍の愛読者として、まことに歓迎すべき動きだと思うが、出版社や著者などはどのように受け止めるだろうか。4月以降の動きも注視していきたい。次回は、「電子書籍」の現状と将来展望について考えてみたいと思う。
 
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グーグル 昨年末に出版された、グーグル本の最新刊『グーグル ネット覇者の真実』(スティーブン・レヴィ著)を購入し、さっそく読んでみたので、その感想を少し。

 本書は、これまでのグーグル本とは違って、初めて、インサイダーの視点からグーグルの歴史と現状について、多数のインタビューとドキュメントをもとに綴ったものである。630ページにも及ぶ大著で、読み進むのに苦労した。半ば斜め読みした感はいなめない。全体を通す筋は、2人の創業者、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンを中心に、グーグルの発展と挫折の歴史ドキュメントを生き生きと描くことにある。いわゆる「ハウツー本」ではなく、あくまでも、一ジャーナリストによるノンフィクションだという点に注意しておきたい。昨年ベストセラーになった『スティーブ・ジョブズ』にも似て、巨大IT企業の真実に迫る、迫真のドキュメントになっている。

"Google"の誕生


 1997年9月、スタンフォード大学の学生であったペイジとブリンは、彼らの開発した検索エンジンに、Googleという名前をつけることにした。その経緯は、次のようなものだった。

 最初に候補に挙がったのは、「何?」を意味する「ザ・ホワットボックス」。(中略) 次に候補に挙がったのは、ペイジのルームメイトが提案した「グーゴル(Googol)」という言葉だった。それは10の100乗を表す数字の単位で、天文学的数字を表す「グーゴルプレックス」という言葉にも使われていた。「僕らがやろうとしている仕事の規模にふさわしい名前だと思った」と、ブリンは数年後に説明している。
 実際はその単語のスペルをペイジが間違えて登録したのだが、それが怪我の功名になった。「グーゴル」というドメイン名はすでに使用済みだったからだ。だが「Google」はまだ使用可能で、しかも「入力するのが簡単で覚えやすいのも利点だった」とペイジは語っている。(P.53)

 興味深いエピソードだ。実際、現在のグーグルは、まさに天文学的単位の情報を検索し、編集しているからだ。

グーグル創業


1998年9月4日、ペイジとブリンは、スタンフォード大学在学(博士課程)のままで、正式に会社設立の手続きを行い、拠点をキャンパスの外に移した。グーグルというIT企業の誕生である。そして、「世界を変える」という野望達成のために、次々に、優秀な頭脳をリクルートした。採用にあたっての基本方針は、「嫌なやつら」は会社に入れるな、だったという。あるべき企業文化についても、こう考えていたのだった。
 
新入社員には、きわめつけの優れた技術力、ユーザー視点を最優先する姿勢、現実離れしているほどの理想主義を求めた。(p.61)

地球規模の脳の形成

 グーグルの知識は、地球規模の脳神経系にも喩えられる。

 グーグルは、ユーザーの検索内容から自殺を考えている可能性があるケースを探知し、各種の情報を提供することで救いの手を差し伸べられるプログラムを開発したという。つまり、人間の行動から次の行動を予測する手掛かりを集めたことになる。私たちの脳内でニューロンが新たな神経回路を形成するように、グーグルのバーチャル脳もまた学習を繰り返しているのだ。(p.102)

ブリンも次のように語っている。
「グーグルは究極的には、世界中の知識で脳の機能を補佐し増強するものになる。今の段階では、まだコンピュータで文章を入力する必要があるが、将来的には操作はもと簡単になるはずだ。話しかけるだけで検索する端末とか、周囲の状況を察知して、自動的に有益な情報を教えるコンピュータなどが登場するかもしれない。(p.103)

 こうした「人工知能」は、グーグルによって近い将来実現される可能性が高いのではないかと思われる。

 続く章では、グーグルの開発した、まったく新しい広告ビジネスモデル(グーグル経済学 莫大な収益を生み出す「方程式」とは)を扱っており、本書の中心ともいえる部分だが、私の関心とは少しずれるので、ここでは省略したい。

グーグルの基本哲学 「邪悪」になるな


 アップルのスティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学のスピーチで、「馬鹿になれ」という有名な台詞を残したが、グーグルの基本哲学は、「邪悪になるな」というものだった。この言葉が誕生した経緯は次のようなものだったという。
「この会議の何もかもが私の神経を逆なでしていた」とブックハイトは当時を回想している、、「「そこで、みんなを居心地悪くさせるかもしれないが、もっと興味深い提案を行うことにした。突然、『邪悪になるな(Don't Be Evil)』というスローガンが頭にひらめいたんだ。

 これに対する社内の反応は好意的なものだった。
「誰もがそのスローガンに満足してたけれど、とくにエンジニアたちにはその気持ちが強かった。まるで彼らにこう語りかけているかのようだったから。『いいかい、外の世界ではあらゆるタイプの企業が邪悪なことをしているけれども、僕らには常に正しいことだけをする機会が与えられているんだよ』」 (中略) 「邪悪になるな」は、グーグルが他社より「良い」会社であることを社員全員に手っ取り早く自覚させる手段になった。

 このスローガンは、グーグルの「企業文化」を体現するものでもあった。
「邪悪になるな」に象徴される価値観はグーグルの企業文化にあまりにも深く刻み込まれているため、もはや暗黙的なルールとして内面化されていると、ドーアは考えている。(p.222)

 昨年の東日本大震災の直後、いち早く被災者支援のための安否情報サイト「パーソンファインダー」を立ち上げたグーグルは、まさに「邪悪になるな」「良い会社」の価値観が反映されたものと受け止めることができよう。

グーグルのクラウドビジネス

 グーグルのクラウドビジネスは、Gメールのプロジェクトから始まった。その生みの親は、ポール・ブックハイト(「邪悪になるな」のスローガンを提唱した人)だった。他のメールシステムと差別化するために、彼は1ギガバイトという巨大なストレージを用意した。それは、競争相手の100倍以上であり、しかも無料だった。しかも、メールに最適化された広告を挿入するという新たなビジネスモデルも併せて開発したのである。

Gメールは、クラウドコンピューティングという新しいウェブサービスであった。
グーグルの潤沢なサーバースペースをメールのストレージとして有効活用するというのが、「私がGメールの開発を正当化させるために使った理由の一つだ」とポール・ブックハイトは語っている。「開発をやめるべきだという意見が出たとき、これはその後に続く新たな製品の基礎部分にすぎないと説明した。今の状況がこのまま続けば、やがてあらゆる情報がオンラインで保存されるようになるのは火を見るより明らかだったから」
 それこそ、「クラウドコンピューティング」の核をなす中心的価値観であることを人々はすぐに理解した。それは、従来はパソコンのハードディスクに保存されていたデータがインターネットを経由してどんな場所からでもアクセスできるようになるというものだ。ユーザーにとっては、情報は膨大なデータの「雲(クラウド)」の中に存在するようなもので、実際に物理的にどこに保存されていようと、好きなときに取り出し、また元に戻すことができた。(P.281)

 グーグルのクラウドは、1カ所につき10億ドル以上かけて世界各地に設置された巨大なデータセンターの中に格納されており、それぞれのデータセンターにはグーグルの自社製サーバーが大量に詰め込まれている。

 グーグルは、その意味では世界最大のコンピュータ企業なのであり、世界最大の「頭脳」でもあるのだ。その後、グーグルは、「ユーチューブ」「ピカサ」「グーグルドキュメント」などのクラウドコンピューティングサービスを次々と提供し続けていることは周知の通りである。さらに、携帯電話のマーケットにも参入し、アンドロイドという新しいモバイルOSを提供し、世界中でユーザーを増やし続けている。そのために、iPhoneを開発したアップル社との友好関係にもヒビが入ってしまったのは残念なことである。

 しかし、グーグルの「世界制覇」構想は、中国での思わぬ検閲によってつまづく。そして、2010年1月12日、グーグルは、中国本土からの撤退を表明したのであった。これは、「邪悪になるな」という基本思想に照らしてやむを得ない措置であった。

 もう一つの挫折は、フェイスブックの進出と、ソーシャルメディアでの立ち後れであった。

追われる立場から追う立場へ


 フェイスブックは、「ソーシャルネットワーク革命の最前線に立ち、人々が生涯にわたって築き上げた個人的なネットワークを通じて彼らを組織化することを目標にしていた」(p.583)。それは、グーグルのジーンとはまったく異なる遺伝子をもって誕生し、発展したウェブサービスである。グーグルは、基本的に、自ら世界中のネットワーク上に蓄積された情報を検索し、あるいは自ら築いた巨大な情報ストレージを提供するビジネスである。そこには、「ソーシャル」な側面が抜け落ちていたのではないだろうか。これに対し、フェイスブックは、ネットワークに埋め込まれた「社会関係資本」という巨大な「金脈」を掘り当て、そこから膨大な個人情報のデータベースを「採掘」し、ユーザーに提供することによって、巨額の収益を得るという、まったく新しいビジネスモデルだった、ということができる。グーグルは、この金脈を当てることができなかったため、フェイスブックの後塵を拝することになったのだ。
グーグルにとって最大の皮肉は、SNSが爆発的成長を遂げる瞬間に居合わせながらみすみすチャンスを逃したことだった。日々の喧噪の中で何度も繰り返された機会損失の典型例だった(p.587)。
 いまや、グーグルは追われる立場から、追う立場に変わっているのかもしれない。次の10年間に、グーグルからどのようなサービスが生まれ、それが情報の生態系をどのように作り変えてゆくのか、それは誰にも予想のできないことだろう。フェイスブックが、従来のグーグルとは異なる生態系(エコシステム)を作り出したことだけは確かである。両者の生態系がウェブの世界でどのように棲み分けてゆくのか、注意深く見守ってゆきたいと思う。

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ
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 メディア研究の重要な方法論の一つとして、「内容分析」というものがある。メディアのテキスト(あるいは画像)を数量的に処理することによって、メディアの内容(メッセージ)を分析するのがその目的である。最近では、新聞報道の分析をするときに、「記事データベース」を用いる機会が多くなった。

 それにも拘わらず、記事データベースから内容分析に至るまでのプロセスを解説してくれる本がない、というのが現状である。そこで、私なりに、その手順を考えてみたので、忘れないうちに、ここでメモしておくことにしたい。

 具体的な事例として、朝日、読売両新聞における「原発」報道をあげることにしたい。これは、私自身、来年度にもこれを対象として内容分析を行い、その結果を大学の紀要で発表したいからである。

手順1:
 記事データベースにアクセスし、「キーワード」で分析対象記事を抽出する。キーワードとしては、「原発」を用いることにする。ここでは、読売新聞の記事データベースを用いて説明したい。分析の単位は、1日ごとの記事報道とする。対象期間は、2011年3月12日以降とする。とりあえずは、3月13日の読売新聞(全国版)の記事を対象として、記事を検索したところ、合計39本の記事が得られた。それぞれの記事をコピーして、yomi0313-1.txtといった名称のテキストファイルとして、\c:genpatsu\yomi\yomi0313というフォルダに保存する。このフォルダには、合計39個のテキストが保存されることになる。

手順2:
 次に、この39個のファイルを結合して、yomi0313.txtという一つのファイルをつくりたいと思う。これには、Dosコマンドをつかえば、あっという間に作業が終了する。次のようなコマンドだ。

type *.txt  >  yomi0313.txst

これは実に簡単かつ便利なコマンドだ。39個の長大なテキストが、あっという間に一つのファイルに統合されるのだから、まったく驚くべきことだ。大いに時間の節約になるので、いろいろな機会に、ぜひ試してみたいと思う。このやり方は、ネットで検索しているうちに発見した方法だ。コマンドは、上記のフォルダ内で実行することが必要である。

手順3:
 こうしてできたyomi0313.txtにテキスト処理を施す。余計な部分を削除したり、整形するのが目的だ。見出しの部分は、本文と重複するので、その部分だけを削除したいと思う。読売新聞の場合、見出しには■または◆が先頭についているので、「■または◆を含む行」をすべて削除することにしたい。

 実は、このような処理は、「秀丸」など、通常のテキストエディタではできないので、Perlというテキスト処理用のプログラムを使わざるを得ない。私のようなプログラミングの苦手な人間にとっては、かなり高いハードルの作業だったが、「入門書」を購入して初歩の勉強をしたのに加えて、ネット上でPerlの見本サンプルを入手することができたので、そのプログラムを紹介することにしたい。

 入力ファイルは、yomi0313.txt、出力ファイルはyomi0313b.txtとして、次のようなPerl スクリプトを書いて、perlで実行させればよい。yomi0313.txtから入力して、yomi0313b.txtというファイルに出力させるのである。これらのファイルは、いずれも同じフォルダにあることに注意されたい。このプログラムでは、「■または◆を含む行を削除する」という作業を行っている。私などの超初心者には、このプログラムの意味の半分もわからないのだが、これで実行した結果、首尾良くできたので、正解なのだろうと思う(結果良ければ、すべて良しw)。高性能のパソコンを使っているせいか、計算はあっという間にできた。

$file="yomi0313.txt";
$outfile="yomi0313b.txt";

open (IN, $file) or die "$!"; # ファイルを開く
open (OUT, ">$outfile") or die "$!"; # ファイルを開く

flock(IN, 2); # ファイルをロックする
while(){
push(@lines,$_);
}
foreach $line (@lines) {
if($line !~/■|◆/) {
push(@new,$line); # 配列@newの最後にlineを追加する

}
}
truncate(IN,0); # ファイルINのサイズを0に変更する
seek(IN,0,0); # 書き込み位置を先頭に戻す
print OUT @new;
close(IN);
close(OUT) ;

 これで、テキスト処理の前準備の段階は完了である。あとは、KH Coderというテキスト・マイニングソフトを活用して、内容分析を行えばよい。KHCoderを使った分析については、稿を改めて紹介することにしたい。

 
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