メディア・リサーチ

メディアとコンテンツをめぐる雑感と考察

 2008年、オバマの選挙キャンペーンにおいて、ソーシャルメディアが積極的に活用された。オバマの公式ウェブサイト(BarackObama.com)は、ほとんどSNSといってもいいほど、ソーシャルメディアを駆使したウェブサイトだった。それだけではなく、フェイスブック、マイスペース、ユーチューブなどのソーシャルメディアが徹底的に利用された。

 例えば、オバマの行った主要な演説はほとんどすべて、ユーチューブに投稿された。彼が行った"A More Perfect Union"のスピーチは、2010年8月時点で820万ビューを記録した。ユーチューブの専用チャンネルでは、1850ものビデオが投稿され、計2200万人がこれを視聴した。

 フェイスブックとマイスペースは、とくに若い世代をターゲットとして、組織的なキャンペーン手段として活用された。例えば、フェイスブックでは、オバマを支持する大学生は、「オバマ」と検索するだけで、他の支持者とすぐにつながることができた。オバマの公式アプリを使うと、自分のプロフィールページにこのアプリを追加することができ、、それによって他の支持者やイベントとつながることができた。iPhone用のオバマキャンペーンのアプリも提供された。これを使うと、ユーザーのコンタクトデータがサポーターのキャンペーンへの参加を促進することができた。これによって、キャンペーンメッセージをより多くのサポーターに送ることができるようになり、支持者を増やす上でも有効なツールになった。このiPodアプリ自体、一人のサポーターがボランティアで作成したものだった。

 このようにして、各種のソーシャルメディアをフルに活用することを通じて、サポーターとキャンペーンとの間の双方向的なコミュニケーション環境がつくられたのである。これによって、オバマと彼のチームは、史上初の「メディアポリティクス2.0」を生み出すことに成功したのである。2007~2008年に展開されたオバマのキャンペーンは、21世紀のメディアポリティクスにおけるお手本を提供したということができるだろう。

         (Michael Cheney and Crystal Olsen, "Media Politics 2.0 : An Obama Effect" より抜粋)

参考ユーチューブサイト:
 ・A More Perfect Union Speech
 ・YouTube BarackObama.com ユーチューブのオバマ公式チャンネル

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 2008年米大統領選挙に向けて、2008年2月2日にユーチューブにアップされた「YesWe Can」というタイトルのミュージックビデオがある。投稿者は、will i am。複数のミュージシャン達がオバマ候補のスピーチに合わせて、Yes We Canという共感のメッセージを伝えたものだ。いま時点では2300万回も視聴されている。このビデオは、メールやSNSなどを通じて大勢の人々に伝えられ、共感を呼び、オバマ候補の支持拡大に大きな役割を果たしたといわれている。



 『「オバマ」のつくり方』という本がある。その冒頭で著者は、2008年2月、トロントのアパートで、この動画へのリンクがはってあるメールを目にした体験を語っている。ツイッターやフェイスブックでもうわさになっていると聞き、彼女はユーチューブのこの動画を見て感激し、オバマ陣営のキャンペーン活動に参加することになったという。
人気ヒップホップグループ「ブラック・アイド・ピーズ」のウィル・アイ・アムが大勢のセレブと一緒にバラク・オバマ上院議員の演説に合わせて歌っていた。私の関心を引いたのはリッチな有名人たちの顔ではない。その瞬間まで遠くから観察するだけの存在だった1人の男が発する、希望と変革のメッセージだった」(ラハフ・ハーフーシュ著『「オバマ」のつくり方』より)

 2012年の大統領予備選まであと数ヶ月。オバマ大統領はどのようなキャンペーン戦略を繰り出してくるだろうか。ソーシャルメディアは、オバマ再選にどのような役割を果たすだろうか?いまから期待が膨らんでくる。

 オンライン上では、早くも選挙戦が始まっている。

 →My.Barackobama.com公式サイト
 →facebook オバマ公式ページ
 →twitter オバマ公式アカウント

 日本でも、来年あたり衆議院選挙が行われる可能性が高いと思われるが、このような魅力的なユーチューブ動画がアップされると、若者はもっと政治や選挙に関心をもつようになるかもしれない。


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 東日本大震災発生からわずか2時間弱で、安否情報確認ツール「パーソンファインダー」を公開したグーグル。その実態レポートがウェブ上で無償公開されている。書籍版は12月8日発売だという。今から楽しみだ。

 →グーグルの72時間 無料公開サイト(インプレス社)

 
IT時代の震災と核被害

 (インプレス社より発売)
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 gooとインターネットコムが行った電子書籍の利用に関するアンケート結果が公表されている〔10月7日〕。

 それによると、「電子書籍/雑誌を読んだことがありますか」という質問に、「はい」が37.2%、「いいえ」が62.8%であった。ネットユーザーが対象であるとはいえ、これはかなり高い数値といえるだろう。また、読んだ経験のない677人に読みたいかどうか質問したところ、44.8%が「はい」と答えたという。潜在的な読者層が半数近くいるという結果だ。今後、キンドルで日本語の本や雑誌で読むことができるようになれば、こうした潜在的な読者が顕在化することになるかもしれない。

 さらに、使いたい専用リーダー端末を聞いたところ、第1位がソニーのリーダー、第2位がキンドルとなっていた。iPadが入っていないのは、「専用リーダ-」に絞っているためだろう。質問の仕方には若干の疑問が残る。

使いたい専用リーダー
              (インターネットコム 2011年10月7日付記事より)

※なお、第3位に入っている「ガラパゴス」はすでに販売を打ち切っている。栄枯盛衰の激しい業界だけに、今後の展開を逐一ウォッチしていきたいと思う。

 iPad利用者に特化したアンケートとしては、1年前のデータとなるが、電通総研が米国で実施したインターネット・パネル対象の調査が一部公開されている(2011年1月28日公表)。iPadは専用リーダーではなく、インターネットのあらゆるサービスも利用できることから、利用コンテンツもバラエティに富んでいる。その中で、電子書籍の利用割合が注目点となる。これについては、次の図のような結果が得られている(端末の利用目的)。

ipad利用目的

                  (電通総研『米国iPad利用実態調査』より)

 これをみると、「電子書籍」が第4位にランクインしている点が注目される。コンテンツ消費のトップに位置しているということで、iPadが多くのユーザーにとって、電子書籍リーダとして使われているという実態が示されている。今後は、キンドル・ファイアーとの間で激しいシェア争いが展開されることになりそうだ。

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kindle_fire

 タブレット型の電子書籍端末といえば、これまでアップルのiPadが独壇場だった。そこに、アマゾン・コムが「キンドル・ファイア Kindle Fire」という新型端末で殴り込みをかけてきた。発売は11月15日。5日前のことだ。定価が199ドル(約1万5000円)という衝撃的な低価格だ。製造原価とほとんど同じらしい。コンテンツで収益を確保するという作戦のようだ。ちなみに、iPadの値段は499ドルなので、その半値以下になる。フルカラーのコンテンツと低価格はユーザーにとって魅力的だろう。

 → キンドル・ファイアはiPadに勝てるか(Newsweek誌11月7日)

  OSはアンドロイドを使っており、最初からWiFi機能が内蔵されている。この点は、iPadよりもかなり魅力的だ。iPadの場合には、WiFiルータを自分で用意しなければならず、そのコストもバカにならないからだ。

 さっそく試用体験記が「マイナビニュース」に載っているので、そちらも参照したい。

 → Kindle Fireを試す(マイナビニュース11月18日)

 いずれにしても、これは英語版なので、日本語版を早く出してもらいたいものだ。試用記によると、バッテリー駆動時間が6時間弱と、iPadに比べて劣っているのが気になるところだ。これはぜひ早急に改善してもらいたい。アメリカでは、ちょうどクリスマス商戦が始まるところだ。両者の対決が見物だ。続報を待ちたいと思う。

 → Kindle Fire (Amazon.com)
 → CNet Video Review
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 木村忠正著「ウィキペディアと日本社会」(アスリーヌ他『ウィキペディア革命』解説記事)に、「ウィキペディアリスク」という興味深い指摘がある。これはACM(アメリカコンピュータ協会)がまとめた、ウィキペディアの記事を信頼することに伴う6つのリスクである:

(1)正確性(どの項目も誤っている可能性が常にある)
(2)動機(記事執筆・編集の意図は多様である)
(3)不確実な専門性(執筆者がどこまで知っているかわからない)
(4)不安定性・変動性(記事がいつ編集されるかわからない、常に悪意ある編集の可能性に曝されている)
(5)対象範囲の偏り(項目が参加者の関心を反映しやすく、全体の組織的体系化がない)
(6)参照源(参照文献・資料言及の少なさ、偏り)

 いずれも、ウィキペディアのもつ問題点であり、現在でも克服されてはいないようである。とくに、日本語版ウィキペディアでは、(5)、(6)が顕著にみられるようだ。木村氏が2007年に、日本語版ウィキペディアで編集回数の多い上位300項目を内容分析したところ、「アニメ、マンガ、ゲーム関連」が24%ともっとも多く、「テレビ番組関連」と「時事的事件事故関連」がそれぞれ14%、「ワイドショー的話題の人物・芸人」が7%というように、内容的にかなりの偏りがみられたという。全体として、マスコミで話題になった事柄が多いようだ。ウィキペディアを参照する場合には、こうしたリスクや問題点、内容の偏りなどに留意することが必要だろう。



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 ウィキペディアは、トリビアルな情報を探すには最適なサイトだろう。例えば、さきほど「11月19日」というキーワードで検索したところ、ウィキペディアの「11月19日」という項目がヒットした。そこには、11月19日に起こった歴史上の有名な出来事が年代別に列挙されていた。そこで発見したのだが、今から42年前の今日は、あのアポロ12号が世界で初めて月に着陸した日だったのだ。世界中がテレビに釘付けになって、感動をもって見守ったあの出来事が、42年前の今日起こったということが、ウィキペディアを通じて発見されたというわけだ。「だから、なんなの?」といわれるかもしれないが、家族や友人との話題の足しにはなるのではないだろうか。こういったウィキペディアの使い方もあるというお話。ちなみに、項目内のリンクをたどると、月面での活動開始時刻は、「1969年11月19日11時32分35秒 UTC」という情報まで記載されている。この項目を作成した人の思い入れが伝わってくるようだ。

 こういったウィキペディア情報のトリビアル性は、旧来の百科事典と大きく性格を異にする点だ。ポケモン(ポケットモンスター)に関する記述が異常に長いといった批判もある(アスリーヌ『ウィキペディア革命』p。85「ポケモンの記事はイマヌエル・カントの記事と同じ長さでよいのだろうか」→これはフランス語版の話)。全体的統一性に欠けるという主張だ。

 ポケモン項目の日本語版は、なぜか「荒らし」のために半保護状態にある。しかし、フランス語版や英語版での記事の長さは、海外でもポケモンが大人気だというグローバルな大衆文化現象を示す一つの指標としては使えるかもしれない。また、アメリカやフランスでは、ポケモンキャラクターの名前やタイプの名前がどのように翻訳されているかも知ることができる。なぜか、フランス語版や英語版の方が、カラー写真がふんだんに取り入れられている。これは、本家である日本としてはちょっと残念であり、さびしい。

 →フランス語版ウィキペディア「ポケモン pokemon」の項目
 →日本語版「ポケモン」の項目
 →英語版「ポケモン」の項目
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 ウィキペディアには3つの基本原則があるという。それは次の3つだ。
(1)中立的な観点
 信頼できる情報源にもとづいて記述すること。とくに論争的なテーマの場合には、賛否両論を併記する、など。
(2)検証可能性
 ウィキペディアに追加された情報が、信頼できる情報源によってすでに公開されていることを検証できること
(3)独自研究は載せない
 書物や学問として確立している情報の要約のみを掲載すること

 それでも、これに反する記事が含まれる可能性はつねにある。とくに問題になるのは、特定の個人を誹謗中傷するような内容、特定の宗教的信条やイデオロギー、偏見を含んだ記事、客観的事実に反する内容の記述、匿名編集に伴う問題などだろう。いくつかの有名な「事件」を例にとって、考察してみよう。

◇シーゲンソーラー事件

 アメリカの著名なジャーナリストであるジョン・シーゲンソーラーが、ウィキペディアの自分に関する記事に、「ケネディ兄弟の暗殺に荷担していた」という虚偽の記載があったとして、2005年11月29日のUSAトゥデイ紙に論説記事を発表した。その後、ウィキペディアは問題の記事部分を削除した。この事件の経緯は、ウィキペディアの「ジョン・シーゲンソーラー ウィキペディア経歴論争」という項目に詳細にわたって記述されている。問題の部分は、次のような内容だった。
「ジョン・シーゲンソーラー・シニアは1960年代はじめ、ロバート・ケネディ司法長官の補佐官だった。一時期、シーゲンソーラーは、ジョンとボビーのケネディ兄弟暗殺に直接関与していたと考えられていた。これに関しては何も立証されていない。」
 この事件の経緯は、ウィキペディアに次のように記述されている。
 2005年9月、シーゲンソーラーは、ウィキペディア英語版に投稿されていた自分の記事に、誤った経歴が記載されているのを発見した。その記事では、シーゲンソーラーがジョン・F・ケネディおよびロバート・ケネディの暗殺事件にかかわっていた可能性が示唆されており、それに加えて、シーゲンソーラーが一時期ソビエト連邦に住んでいたとの記述および、シーゲンソーラーがある広告企業の創業者である旨が記載されていた(実際に広告企業を創業したのは兄のトーマスであり、自身はこの会社には無関係だった)。これらの情報は誤りであったため、2005年10月、シーゲンソーラーはウィキペディアの創始者であるジミー・ウェールズに、記事の是正を要請。これを受けて、記事のうち、誤った情報が記載されていた版が削除されることになった(この削除された版は、現在では管理者にのみ閲覧可能となっている)。誤った記述は、記事が投稿された2005年5月以降、4ヶ月間にわたって放置されていた。また、これらはウィキペディアの管理下には置かれていないいくつかのミラーサイトでは、記事の削除後数週間にわたって、引き続き誤った記事が閲覧可能の状態にあった。〔2011年11月19日閲覧〕
 この事件をきっかけとして、ウィキペディアでは2つの方針を付け加えた。
(1)匿名のIPユーザーには、記事を新規作成する機能を与えないこと
(2)存命中の人物に関しては、否定的なものでも、好意的なものでも、単に疑わしいものでも、出典がない、または出典があいまいで、議論の余地が残る内容は、議論を待たずただちにウィキペディアの記事から削除すること(リー『ウィキペディア・レボリューション』p.358-359より)

 これによって、少なくとも英語版に関する限り、特定個人が名誉毀損を受ける確率は低くなった。日本語版ではどうなのか、不明である。

◇エスジェイEssjayの経歴詐称事件

 これは、ウィキペディアの歴史上もっとも恥ずべきエピソードだといわれている。2005年にEssjayというハンドル名でウィキペディアに登録した人物が、宗教関連の記事を多数編集し、5ヶ月後にはウィキペディアから管理者に指名された。Essjayは、自己紹介のページで、自分はアメリカ東部の私立大学で神学の大学課程および大学院課程を受け持っている。また、神学の博士号、教会法の博士号を持っている」と記述していた。その後、ピューリッツアー賞を受賞したシフという記者が2006年7月号の『ニューヨーカー』誌で、Essjayを取り上げ、「膨大なトピックを監視するウィキペディアの英雄の一人」として称賛する記事を書いた。シフは独自取材にもとづき、Essjayのことを「私立大学の宗教学の終身教授」と伝えた。しかし、こうした経歴はまったくの嘘であることがわかった。Essjayは実はケンタッキールイヴィルに住む24歳の種誌であり、終身教授などではなく、学位ももっていないことを告白したのである(リー『ウィキペディア・レヴォリューション』pp.367-368より)。

 この事件は、2007年2月に、『ニューヨーカー』誌が訂正記事を出したことによって、広く世間に知られるようになった。

 このような経歴詐称は、ウィキペディアの記事内容の信頼性を疑わせる可能性があり、大きな問題となったのである。

→ 詳しい経緯は、ウィキペディアの「Essjay騒動」の項目を参照されたい。また、リー著『ウィキペディア・レヴォリューション』pp.367-368、アスリーヌ著『ウィキペディア革命』pp.54-56にも、この事件に関する記述がある。

◇ネイチャー誌(イギリス)の比較調査

 これは事件という訳ではないが、2005年12月、世界的に有名なイギリスの『ネイチャー』誌が、ウィキペディアの記事がブリタニカ百科事典と遜色のない正確さをもっている、とする調査結果を発表したことから、「ウィキペディアの信頼度の高さ」が評判になったというもの。ネイチャー誌では、ウィキペディア英語版の主として科学分野の42項目について、ブリタニカ百科事典と内容を比較した。審査は項目に関連する専門家が当たったという。調査の結果は、次のようなものだった。

 最終的に、極めて重要な概念に関する一般的な誤解など、深刻な誤りが見つかったものはわずか8件で、それぞれ4件ずつという結果になった。ただし、事実に関する誤記、脱落、あるいは誤解を招く文章はいくつも発見された。Wikipediaにはこのような問題が162件あったのに対し、Britannicaのほうは123件だった。(cnetニュース2005年12月6日より)
 

 このCNETニュースの見出しは、「「Wikipediaの情報はブリタニカと同じくらい正確」--Nature誌が調査結果を公表.」となっており、ウィキペディアの正確さを強調するものになっている。世間一般でも、そうした認識がなされるようになった。  しかし、最後の下線部(引用者による)をみると、誤記のカウント数は、ウィキペディアの方がブリタニカより39箇所多い(24%の差)という結果であり、信頼性はブリタニカ百科事典の方が高いという結果になっている。  また、アスリーヌは『ウィキペディア革命』の中で、今回の調査対象項目は、科学分野というウィキペディアにとって最も得意とするところに限定されていた、という問題点を指摘している。もし、歴史、政治、宗教、哲学などに関する項目を取り上げれば、おそらくブリタニカの方がはるかに高い信頼性をもっていると判定されただろう。見出しだけが一人歩きした事例といえる。

◇ウィキペディア記事引用禁止問題

 これは別の記事でも取り上げたが、アメリカのミドルベリー大学史学科で、学生に対しウィキペディア記事を引用することを禁止するという対応をとった、という出来事があった。当時の朝日新聞では次のように報道されている。
 米バーモント州にある名門ミドルベリー大学の史学部が、オンラインで一定の利用者が書き込んだり修正したりできる百科事典「ウィキペディア」を学生がテストやリポートで引用することを認めない措置を1月に決めた。日本史の講義をもつ同大教授がテストでの共通の間違いをたどったところ、ウィキペディア(英語版)の「島原の乱」(1637~38)をめぐる記述にたどり着いたことが措置導入の一つのきっかけになった。(朝日新聞2007年2月23日
 具体的には、次のような経緯があった。
日本史を教えるニール・ウオーターズ教授(61)は昨年12月の学期末テストで、二十数人のクラスで数人が島原の乱について「イエズス会が反乱勢力を支援した」と記述したことに気づいた。「イエズス会が九州でおおっぴらに活動できる状態になかった」と不思議に思って間違いのもとをたどったところ、ウィキペディアの「島原の乱」の項目に行き着いた。
 同大史学部では1月、「学生は自らの提供する情報の正確さに責任をもつべきで、ウィキペディアや同様の情報源を誤りの言い逃れにできない」として引用禁止を通知した。ドン・ワイアット学部長によると、「同様の情報源」とはウェブ上にあって多数の人間が編集することができ、記述の正確さが担保できない情報源を指すという。(同記事より)

 しかし、こうした引用禁止措置は他の学部では広がらず、他の大学でもこうした引用禁止措置を行う大学があるという報道はその後なされていない。この事例も、ウィキペディアに関する極端な反応の一つであり、一般化することはできない。現時点では、引用する場合には、「閲覧時点」を明記し、引用部分であることがわかるような記述にする、という指導が多くの大学では行われていると思われる。また、出典先(島原の乱の場合には、神田千里著『島原の乱』中央公論新社など)をあたって、正確さ、信頼性を確認することを勧めるという指導法が多くとられているように思われる。

◇記事の当事者による編集

 自分のことについてウィキペディアで書かれたことについて、当事者が都合の悪い部分や誤った記述などを編集して内容を改変する、という行為はこれまでに頻繁に起きている。とくに、企業、行政機関、有名人などの記事で多く発生している。山本まさき著『ウィキペディアで何が起こっているのか』には、そうした事例がいくつか紹介されている。ここでは、内容には立ち入らず、箇条書き式に列挙しておきたい。

・楽天証券の当事者編集事件(2006年)
・「西和彦」ページの大幅削除事件(2006年)
・ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズ氏による自身の記事編集(2005年)
・省庁によるウィキペディア編集事件(2007年)

◇特定個人、企業などに対する中傷誹謗、名誉毀損事件

・ファッションモデルに対する誹謗中傷事件(2008年)
・声優ページに対する荒らし(2008年)
・ソニーとマイクロソフトの間の編集合戦(2006~2007年)

 この数年間だけでも、これだけの事件(問題)が起きている。最近の事例はどうなっているのだろうか?
この点は不明だ。
 

 
 

 
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J.Palfrey and U.Gasser, 2008, Born Digital: Understanding the First Generation of Digital Natives.
born-digital
 きょう入手した本。『生まれながらのデジタル:デジタルネイティブ第一世代を理解する』
 この本では、1980年以降に生まれた世代を「デジタルネイティブ」と呼んでいる。彼らは、デジタル技術を縦横に使いこなす新世代だ。彼らの行動は、それまでの世代とまったく異なっている。彼らは新聞を読まずに、ブログを読む。彼らは現実に知り合う前に、オンラインで知り合いになる。彼らはレコード店でCDを買うのではなく、オンラインで音楽を購入する。待ち合わせをケータイでする。ライフライフがこれまでの世代と異なっているのだ。

 情報という視点からみると、1980年代からのデジタル技術革命は、歴史上最大の革命的な出来事だ。

 1980年以前に生まれた人は、伝統的なアナログメディアとともに育った。彼らは人生の途中からデジタル技術に触れた世代だ。それに対し、デジタルネイティブは、生まれたときからデジタル技術があった。だから、ライフスタイル、人間関係がそれまでの世代とは決定的に違っているのだ。彼らの生活の中で、オンラインとオフラインの境界がなく、相互が融合している。また、オンラインでいる時間が長い。彼らは、24時間、友達とつながっている。

 デジタルネイティブは、きわめて創造的でもある。彼らはマイスペースで自分のプロフィールを自由にい設定したり、ウィキペディアの項目を編集したち、オンラインビデオを制作したりすることができる。彼らは新しいソフトウェアをあっという間に使いこなせるようになる。

 本書の目次は、次のようになっている:

第1章 アイデンティティ
第2章 デジタル書類
第3章 プライバシー
第4章 安全性
第5章 創造者
第6章 海賊
第7章 クオリティ
第8章 情報過剰
第9章 侵略者
第10章 イノベーター
第11章 学習者
第12章 活動家
第13章 総括

 全体的に読みやすい、平易な英文だが、なにしろ350頁以上あるので、少しずつ読み進めていきたいと思う。
ただ、この本には、図表のたぐいがまったくない。文章だけの本。また、文献リストも少ない。したがって、専門書というよりも、デジタルネイティブを子供にもつ親たちに、「デジタルネイティブ」とはこういう世代だということを啓蒙するための読み物という感じがする。

 ドン・タプスコット『デジタルネイティブが世界を変える』とどこが違うのか、いまいちはっきりしない。
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 手元に、ウィキペディアに関する本が3冊ある。

山本まさき・古田雄介『ウィキペディアで何が起こっているのか』オーム社〔2008年〕
ピエール・アスリーヌ他『ウィキペディア革命:そこで何が起きているのか?』〔2008年〕
アンドリュー・リー『ウィキペディア・レボリューション』(2009年)

 いずれも、ほぼ同時期に発売されているので、内容にはかなりのだぶりがみられる。ウィキペディアに対しては、擁護的な見方と批判的な見方が分かれている。3冊目の本は、もっとも好意的に記述されているようだ。これに対し、前2作は問題点も多く指摘されている。最初の本は、ウィキペディア日本語版が主に扱われている。過去の主要な事件などの事例が詳しい。二番目の本は、フランスのジャーナリストが書いたもの。三番目は、中国のインターネット専門家が書いたもの。

 ウィキペディアの入門的内容や構成、運営方法、問題となった事例、ウィキペディアンに対するインタビューなどは、最初の本が詳しい。ウィキペディアに対する批判的見解を知りたければ、二番目の本がよいだろう。ウィキペディア誕生までのいきさつ、ウィキペディア創設者のエピソードを知るには、三番目の本が詳しい。

 この3冊を読んでも、ウィキペディアをどう評価すべきかは分からない点が多い。最近は、英語版など、収録されている項目が膨大になり、これ以上の進化は望めないという悲観論もある。日本語版は、匿名性の問題、組織上の問題などがあるようだ。今後、コンテンツの質的な向上をどうはかるかが、ウィキペディアに課せられた最大の課題といえるだろう。また、財政的な基盤が脆弱という問題も指摘されており、安定した財源の確保も大きな課題だろう。利用する側からみると、ウィキペディア利用リテラシーといった能力を涵養することも重要だ、と改めて感じた。
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 『災害とソーシャルメディア』でも紹介されているが、東日本大震災の直後、『石巻日日新聞』(ひびしんぶん)が、輪転機故障のため、臨時の「手書き新聞」を6日間にわたって発行し、避難所に貼り出した。この快挙は、内外で注目を集め、改めて紙媒体の威力を知らしめるエピソードとなった。

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 手書き版『石巻日日新聞』(号外)

 このエピソードは、米国のWashington Post紙でも大きく報道され、その後、ワシントンにある「ニュース博物館」(Newseum)で実物が展示されるという反響を呼んだ。また、国際新聞編集者協会から特別賞が贈られている。

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              ( Washington Post紙2011年3月22日付記事より引用) 

  ・Washington Post 紙のニュース記事
  ・Newseum での展示に関するビデオ

 その後、この手書き新聞は、横浜にある「新聞博物館」にも寄贈され、展示されているという。一度、博物館を訪問して、実物を見たいものだ。

※この手書き新聞は、さらに国会図書館でも、デジタル化してインターネット上で公開されている。さすが、デジタル版ならではの精密な再現だ。迫力に圧倒される。

 → マイナビ ニュース(10月18日)
 → 国会図書館で公開された『石巻日日新聞』(3月13日付)





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小林啓倫著『災害とソーシャルメディア』
災害とソーシャルメディア

 今日は、この本を買って一読した。この本では、目新しいエピソードはあまり多くないが、冒頭「プロローグ」で紹介されている「副知事を動かしたソーシャルメディア」というエピソードは、私にとっては初見だったので、参考になった。宮城県気仙沼市の児童福祉施設での出来事。園長をつとめる女性は、東日本大震災発生直後、児童を連れて中央公民館に避難した。しかし、ここにも津波が押し寄せ、3階で孤立無援状態に。そこで、ケータイを使って、イギリスにいる息子宛に緊急状態を告げるメールを送った。息子は、ツイッターに、次のようなSOSのメッセージを投稿した。

【拡散願い】障害児童施設の園長である私の母が、その子どもたち10数人と一緒に、避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の3階にまだ取り残されています。下階や外は津波で浸水し外は炎上、地上からは近寄れない模様。空から救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんか。

 このSOSメッセージは何百回とRT(転送)され、東京都在住の男性を経由して、猪瀬副知事に伝わった。猪瀬副知事は3月11日深夜、このツィートに気づき、ただちに東京消防庁の担当部長を呼び、このメッセージを見せた。その結果、東京消防庁のヘリが現地に飛び、12 日午後までに中央公民館に避難していた子供たちや市民が無事救出されたという。  まさに、ソーシャルメディアの威力で、奇跡的な救出劇が起こった、ということだろうか。  ネットを検索してみると、『河北新報』のサイトで、このニュースが報道されていることがわかった。

 ・証言/450人が孤立(河北新報ニュース 2011年6月20日)

気仙沼中央公民館、津波浸水
津波で孤立した気仙沼市中央公民館(河北新報より) 

 『河北新報』記事によると、園長さんは、国内にいる家族にメールを送り、そのメールがロンドンにいる息子さんに転送された、となっている。つまり、SOSメッセージの伝達過程は、次のようだったらしい。

園長(中央公民館)→(メール)国内の家族→(転送)ロンドンの息子→ツイッター(拡散)→(ツイッター)東京都在住の男性→(ツイッター)東京都猪瀬副知事→(口頭)東京消防庁幹部→救助ヘリ派遣

 リアルタイム性の強いツイッター時代ならではの災害救助劇といえるだろう。

※参考:togetterのまとめサイト



 
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武田隆著『ソーシャルメディア進化論』〔2011〕ダイヤモンド社

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 先週、この本を入手したので、さっそく読んでみた。前半はインターネットの歴史とソーシャルメディアの特徴について書かれている。後半は、「企業コミュニティ」サイトに特化し、著者自身の経験をもとに、豊富な事例を交えての、一種のサクセスストーリーが書かれている。

 本書で一番参考になったのは、「ソーシャルメディアの4象限」の図だろうか。
ソーシャルメディアの4象限
(武田隆『ソーシャルメディア進化論』p.90より)

  縦軸には、「現実生活」を拠りどころにするソーシャルメディア対「価値観」を拠りどころにするソーシャルメディアが対極的に描かれている。「現実生活」型ソーシャルメディアでは、実名性が高くなり、現実生活の範囲の人間関係でのつながりが強くなっている。これに対し、「価値観」を拠りどころにするソーシャルメディアでは、匿名性が高くなり、趣味や想い、価値観を通してつながる傾向がみられる。

 横軸には、「情報交換」を求めるソーシャルメディア対「関係構築」を求めるソーシャルメディアという両極が描かれる。「情報交換」型のソーシャルメディアは、規模が大きく、重複を排除する特徴があり、集合知を生成する。これに対し、「関係構築」型ソーシャルメディアでは、規模は20人前後、中心となるリーダーの数だけ重複を許す特徴があり、親密な思いやり空間を生成するという。

 各種のソーシャルメディア具体例は、上の図のように配置されている。それぞれのソーシャルメディアには、以上4つの特徴が多少なりとも含まれているので、かならずしも各象限にフィットするとは限らないと思うが、傾向としては概ね当たっているように思われる。ブログやツイッターの位置づけは、これでいいのか、若干疑問も感じるが、大勢はこんなものだろうか、、、。勉強になりました。

 詳しい内容紹介は、こちらのサイトで → ソーシャルメディア進化論
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ドン・タプスコット著『デジタルネイティブが世界を変える』〔2009〕
デジタルネイティブが世界を変える

 これは2年以上も前に出版された本だが、最近購入したばかりので、さっそく読み始めたところだ。まだ100頁くらい読み進めたところ。全部で450頁くらいの本なので、読みながら、注目したい点をメモしておきたい。この本で、いちばんのオリジナルなポイントというと、「デジタルネイティブ」(ネット世代)の8つの行動基準という点だろうか。次の8つだ:

(1)自由(ネット世代は何をする場合でも自由を好む)
(2)カスタム化(ネット世代はカスタマイズ、パーソナライズを好む)
(3)調査能力(ネット世代は情報の調査に長けている)
(4)誠実性(ネット世代は商品を購入したり、就職先を決めたりする際に、企業の誠実性とオープン性を求める)
(5)コラボレーション(ネット世代はコラボレーションとリレーションの世代である)
(6)エンターテインメント(ネット世代は、職場、学校、そして、社会生活において、娯楽を求めている)
(7)スピード(ネット世代はスピードを求めている)
(8)イノベーション(ネット世代はイノベーターである)

 それぞれもっともだと思うが、考えてみると、これらの基準は、いわゆるWEB2.0の特徴とほぼ重なっているように思われる。言い換えれば、デジタルネイティブ(ネット世代)は、Web2.0をフルに活用する(できる)世代だということもできるだろう。

※追加:
 300頁ほど読んでみると、上記の8つの基準をもとに、それぞれを「教育」「人材管理(企業)」「消費者」「家族」「政治(民主主義)」に応用したものであることがわかった。それぞれについて、ネット世代になって、「~2.0」へという動向がみられるというもの。2.0の波に乗り遅れては、ダメになるという論調のようだ。その意味では、本書の第3章「ネット世代の8つの行動基準」が、やはり本書の主眼点ということになろう。それ以上でもそれ以下でもない。結局、本書の「ネット世代」とは、「ウェブ2.0世代」と同義ということになる。同語反復ではないが、ウェブ2.0を若者ユーザーに置き換えたネット社会論といえるだろうか。







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 インターネットがこれほど発展し、私たちの日常生活に根付くようになったのは、パソコンが開発され、高性能化し、低価格化したからだろう。パソコンの発展は、マックとウィンドウズの発展に負うところが大きいのはいうまでもない。そのルーツを改めて振り返ってみたい。

1976年4月1日 Apple Computer社を設立。自宅のガレージを工場として、Apple Ⅰを製作。200台ほどを販売した。
apple1

1977年 Apple Ⅱを製作、販売。使いいやすい個人向けパソコンとしては、世界初。このパソコンの成功で、アップル社は飛躍的に発展。1993年までに500万台を売り上げたという。

apple2

1984年1月 初代Macintoshを発売。大ヒットとなる。
macintosh1984

1984年といえば、ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』と符合する。これにちなんで製作したテレビCM(スーパーボウルの開催時にリリース)が話題になった。テレスクリーン上の独裁者ビッグブラザーに対抗して、ひとりの女性がハンマーでスクリーンを破壊するシーンが印象に残る。ビッグブラザーはIBM、女性はマックを暗示していた。

 

マック誕生秘話は、こちらのサイトで、、
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 スティーブ・ジョブズ氏が10月5日に亡くなってから一ヶ月以上になるが、改めて追悼のことばを述べたい。2005年にスタンフォード大学の卒業式で記念講演を行った際には、いくつもの有名なフレーズをちりばめた。伝説のスピーチと言われる所以である。ユーチューブでは1200万回以上のビジター数を誇っている。その日本語字幕版を次に引用しておきたい。

スピーチ前半:最後に、「Keep looking, and don't settle」(あきらめず、探し続けなさい)という名台詞がある。


スピーチ後半:最後に、「Stay hungry, stay foolish」(ハングリーであれ、愚かであれ)という名台詞がある。
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iPhone4s

 iPhone4sは、「価格コム」のランキングによれば、人気第一位を維持しているようだ。しかし、近所のSoft Bankショップで聴いてみたところ、完全予約制で、入荷まで1ヶ月くらいかかるとのこと。当分はあきらめなければならないようだ。しばらくは、iPadで我慢することにしよう。

 iPadのオンライン雑誌店(マガストア)で、とりあえず、iPhone4s活用法というムックが250円で販売されていたので、これをダウンロード。いまから十分に下調べをしておきたい。
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A. Hansen, Environment, Media and commnucation より:
第3章 環境問題に関するクレイムとニュース

 環境問題が社会問題として構築されかどうかは、公共的なクレイム申し立てが首尾良くいくことにかかっている。したがって、マスメディアが重要な公共的アリーナを構成することになり、そこにおいてクレイム申し立て者(とくに政府代表、権威のある人々、公式の政治団体、専門家集団、圧力団体など)の声、定義づけ、クライムが公共の場に提出され、互いに正当性を目指して競争し合うことになる。しかし、メディアは単なる便利な公共的アリーナであるだけではない。彼らは、ニュース製作という組織的、専門的な配置を通じて、争点やクレイム申し立て者を構築し、フレーミングを行うという積極的な役割を果たしているのである。クレイム申し立て者にとっては、メディアの報道を受けることはもっとも重要なタスクになることが多い。

 メディア報道において、「だれが言及されるか」ということと、争点が「どのように」フレーミングされ定義されるかということとの間にはかなりの「一致」がある。
例:気候変動に関するアメリカのニュース報道に関する研究(Trumbo)によると、メディアによって報道されるクレイム申し立て者(科学者、政治家、利害団体)のタイプと、異なるフレームのタイプや突出性との間には強い関連がみられた。

 しかし、メディアの報道は、クレイム申し立て者にとってプラスになることも、マイナスになることもある。報道はポジティブでクレイム申し立て者の正当性を高める場合もあれば、逆にクレイムやクレイム申し立て者の正当性を低下させる場合もある。最悪の場合、クレイム申し立て者に「過激な逸脱者」のレッテルを貼るようなケースもある。

 ソールズベリによれば、何らかの問題についてクレイムを申し立てる者のなすべきタスクは、次の3つだという:(1)注意を喚起すること、(2)正当性を主張すること、(3)アクションを喚起すること。ソールズベリのこの3つのタイプ分けはクレイム申し立て過程におけるメディアの役割を評価する上で重要なツールになる。

(事例研究)グリーンピースのフレーミング:アングロダッチシェル石油会社に対するアクション

 1995年、シェル社が北海に設置されていた余剰の石油採掘プラットフォーム(Brent Spar)の海洋投棄計画に対して、グリーンピースが激しい反対運動を展開したが、この事件は、複雑に絡み合ったアクター/当局者、クレイム、クレイム申し立て過程、争点キャリア、ニュース報道などが合わさって、社会的・政治的な影響と変化を生み出した典型的なケースといえる。この事例で明らかになったのは、クレイム申し立て者がかれらのクレイムや行動のメディアフレーミングを管理すること、あるいは影響を与えることの困難さであった。

brent spar greenpeace


<グリーンピースのフレーミング>

 グリーンピースやその活動家たちは、一般に「グリーンピース」「プロテスター」「活動家」「キャンペーン者」などと言及された。しかし、『テレグラフ』紙は、もともと反グリーンピース的な論調をもっていたが、この事件については、さらにネガティブな報道を行った。テレグラフ紙はグリーンピースの反シェル運動について「迷惑者」「単一争点+政治のキャンペーン家」「反抗者」「陰険な輩」「過激なエコ戦士」「エコセンチメンタリスト」「感情的」「軍団」「非民主的」「無責任」「宣伝家」と形容して報道した。

 『メイル』紙や『ミラー』紙がグリーンピースとシェルの間の戦いをヒロイックなプロテスターたちと「巨大な」「多国籍」企業との間の戦いとして報道したのに対し、テレグラフ紙はBrent Sparをめぐる戦いをダヴィデ(グリーンピース)とゴリアテ(シェル)の間の戦いとして描き、グリーンピースそれ自体を多国籍組織として、その大きなサイズ、価値、パワーに焦点を当てる報道を行った。

 パワフルな(企業や民主主義や国民にとって)脅威的な組織というグリーンピースに対するフレーミングは、その政治活動を「環境のジハード」「ハラスメント」「ブラックアート」といったレッテルを貼ることでいっそう強調された。テレグラフ紙の報道では、グリーンピースは高いモラルをもった理想的な草の根の「ダヴィデ」ではなく、ひとつのパワフルな多国籍の、裕福な組織として描かれた。

 テレグラフ紙のグリーンピースに対するネガティブなフレーミングに対し、メイル紙は全体としてはグリーンピースを勇気ある行動をとったプロテスターとしてフレーミングする傾向がみられた。また、ミラー紙もグリーンピースの戦士たちを「ヒーロー」「ファイター」「グリーンの戦士」といったポジティブな言葉で好意的に報道した。ミラー紙はシェル社の態度変化(海中投棄の中止)が「人々のパワー」の結果だと報じることによって、読者たちに参加意識をレトリカルに構築するという役割を果たしたのである。

→ (参考)ブレントスパーに関するグリーンピースのウェブサイト

 
<政府、企業などのPR活動の展開>

 環境問題に関するメディア報道に影響力を行使しようとするクレイム申し立て者としては環境圧力団体に注目が集まっているが、政府、産業界、ビジネス、研究機関、専門家集団なども、ニュースの提供、パッケージング、マネジメントの活動にますます携わるようになっている。とくに資料が多いのは、政府のニュースマネジメントであり、また伝統的にパワフルなエリートだけではなく、「アウトサイダー」や資源の乏しいキャンペーン団体によっても幅広く使われるようになったPR活動である。それが「新しいPR民主主義」とも呼ばれるようになっている。

<クレイム申し立てとメディアの可視性>

 メディア報道やパブリシティを通じて公共的な可視性を獲得することは一般にクレイム申し立て者や圧力団体のもっとも重要な目的だと仮定したいという誘惑にかられやすい。結局、「もしあなたがメディアの中に存在しなければ、あなたは存在しないのだ」という考え方に、これまで多くのメディア研究や世論研究が同調してきた。たとえば、培養理論を提唱したガーブナーはメディア報道の不在を「シンボリックな絶滅」と表現した。培養理論の前提とする考え方によれば、メディアは現代の重要な「ストーリーテラー」であり、誰が存在し、誰が重要であり、誰が誰に対して権力を行使しており、何が正しく何が間違っているか、何が受け入れ可能か、といったことについての道徳的物語を絶えず供給し続けている。

 このような議論は確かに説得的であり、クレイム申し立ての重要性を説く構築主義的な見方と「適合」するものである。しかしながら、周到なパブリシティの管理(特定の議論やクレイムや争点の徹底的な抑圧を含めて)は、メディアの注目を集めたりより広いパブリシティを受けるための努力よりも戦略的には効果的かもしれない。

 広範囲にわたるパブリシティはある集団のクレイム申し立て目的のためには、ネガティブな影響を及ぼす可能性もある。イバラとキツセが述べているように、どのクレイムもカウンターレトリックあるいはカウンタークレイムを引き起こす。これに関連した、圧力団体のクレイム申し立ての「副作用」は、それが反対勢力のパブリシティ活動を先鋭化させるという点である。例えば、環境活動家はしばしば企業組織によるPR活動を刺激し、圧力団体の議論やクレイムに対抗するような企業PR活動を先取りさせるような効果もある。具体的事例としては、Brent Spar事件のとき、グリーンピースによる反シェルのキャンペーンは、シェル社のPR戦略を転換するきっかけとなった、という出来事があげられる。

 圧力団体を「インサイダー」と「アウトサイダー」に分けるという方法は有効である。インサイダ-集団は政府から正当性を与えられ、定期的に相談を受けている。アウトサイダー集団は、当局者とコンサルタント的な関係に巻き込まれることを嫌う。この分類法は、圧力団体が環境など同一の領域で政府や公式の政治やメディアに対してなぜ異なるアプローチをとるかを理解するのに役立つ。実際にはこの二つは断絶したものではなく、連続線上にあり、異なる圧力団体はインサイダーとアウトサイダーの両極の間のどこかも位置づけられるものである。あるグループは、政府から正当なものとして認知され、閉じられたドアの内部でロビー活動などを展開し、メディアはそのたの公共的アリーナから隠れて活動する。他のグループとして、例えば「地球の友」などは、政府とのコンサルテーションにフォーマルに参加し、ある問題についてはその活動が公共的に「見える」形で関わるが、他の問題では政府とのコンサルテーションとはまったく切り離された形のパブリシティ戦略をとる。さらにその他の圧力団体(例えばグリーンピースのような)は、明確にアウトサイダーのポジションを守り、基本的に批判的、独立的なスタンスを維持する。


 メディアとパブリシティ戦略という視点からみると、インサイダー集団はパブリシティ・シャイであり、メディアの報道やパブリシティを避けようとする。これに対し、アウトサイダー集団は全面的にマスメディアに依存し、メディアやその他の公共的アリーナにおいて注目を集めようとする。アウトサイダー集団がメディアやパブリシティに依存するのは、次の理由による:(1)メンバーをリクルートし、集団のキャンペーン活動に対する財政的な支援を受けるための、公共的な可視性、(2)集団がキャンペーンしている争点に関して、公共的、政治的な注目とアクションを達成するための主要なチャンネルとなること。

<アウトサイダーの環境圧力団体とメディア>

 グリーンピースなどのアウトサイダー的環境グループは、扇情的なパフォーマンスを通じて、メディアの関心を引き、その結果、大きな報道を受けることに成功している。しかし、扇情的な行動や大胆な抗議活動だけでは、長期間報道され続けることができない。クレイム申し立て者として成功する鍵は、プレスリリースのタイミングをうまく設定すること、報告書の公表を政治的イベント(例:議会での審議、政府の報告書発表、国際会議の開催など)に合わせる点にもある。(訳注:最近でのイベントでいえば、「TPP」参加問題をめぐる国会審議や国際会議の開催などがあげられるだろう)

 この点からいうと、クレイム申し立て者としての効果は、すでに政治の舞台で正当なフォーラムが形成され、争点ないし社会問題として報道され、認知されていることから生じる。したがって、成功を収めている圧力団体は、ジャーナリストと友好関係を結んでいる場合が少なくない。彼らはジャー-ナリストに情報を提供することによって、報道をよりスムーズにするという役割も果たしているのだ。それによって、環境問題における焦点を圧力団体にとって都合のよい方向へと導くこともできるのである。

<グローバリゼーション、アクティビズム、新旧メディア>

 環境活動家やクレイム申し立て者は、長い歴史の中で、公共的アリーナやそれに付随するメディア技術を創造的に活用してきた。この点で、必要は発明の母というが、必要性(限られた資源、主流メディアへの限られたアクセス、政策決定者への限られたアクセス)が発明の根底にあった。グリーンピースや地球の友などの圧力団体は最初期の段階から、ビジュアルなものやスペクタクルが主流のメディアに対して効果的だということを理解していた。

 新しいメディア技術が幅広い国民に利用可能になるにつれて、環境圧力団体も、こうした新しいメディア技術(インターネットなど)をキャンペーン活動やコミュニケーション戦略に利用されるようになった。とくに、インターネットが環境団体にとって最大の魅力なのは、それが伝統的なニュース組織をバイパスすることができる点にある。ビジュアルな情報機器(ビデオなど)とWWW(ウェブ)が結合して、抗議活動やパフォーマンスを統制し、有効なフレーミングを行ない、ニュースやキャンペーンを直接的に大衆に届けることができるようになった。

 ただし、インターネットなどの新しいコミュニケーション技術は、デジタルデバイドなどもあり、必ずしも既存の主流メディアを代替するものではなく、むしろ補完的に利用されるようになったことも確かである。インターネットは、独自の戦略やテクニックをもつ自律的なメディアではなく、既存のオフラインメディアを拡張するという、補完的な利用がなされているのである。

(以下、省略)

 








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 何か言葉の意味などを調べたいと思って、ググると、ほとんどの場合、ウィキペディアのサイトへのリンクが表示される。それほど、ウィキペディアは大勢の人によって利用されているのだろうか?グーグルの場合、サイトへのリンク数を基本にランキングが設定されているらしい。その理由の一つは、ウィキペディアへの内部リンク、外部リンクが多いということがあげられる。

 そうなると、言葉の意味を探索する人にとって、ウィキペディアをまず参照するのが第一ステップになる。しかる後に、もっと信頼できそうな情報源や文献を探すというのが、ふつうのユーザーのやり方だ。英語版では、記事の最後に情報ソースのリンクが多数張られている場合が多い。それをたどって、より正確で深い内容の情報に行き着くことが多い。英語版ならば、それが一番賢いやり方だ。しかし、日本語版の場合、英語版に比べると、引用先のリンクの数が少ないという問題がある。また、本文の記事が、引用した文献の内容と食い違っている場合も少なくないようなので、注意が必要だ。

例:「デジタルネイティブ」という言葉の意味を調べようと、ウィキペディアに当たってみると、やはり、真っ先に日本語版ウィキペディアが登場する。そこで、クリックしてみると、わずか10行程度の説明があるだけで、お粗末なコンテンツとなっている。しかも、この記事は「書きかけ項目」になっている。「名称の由来」「特徴」が数行あるだけで、情報源としてはほとんど役に立たない。「名称の由来」は、次にように記されている:

ガートナーのPeter Sondergaardが名付けた名称であり、生まれながらにITに親しんでいる世代をデジタルネイティブ、IT普及以前に生まれてITを身につけようとしている世代をデジタルイミグラントと呼んだ
 これは明らかに間違いだ。「ガートナーのPeter Sondergaardが名付けた」というのは誤りで、正しくは、「2001年、アメリカの作家、マーク・プレンスキーが名付けた」とするのが正しい。事実、このウィキペディア記述の最後に列挙されている関連文献の一つ、NHK「デジタルネイティブ」の中で、正しい記述がある。どうやら、このウィキペディア項目の執筆者は、この本を実際には読んでいないらしい。  これに対し、英語版のWikipediaのDigital Nativeに関する記述は、はるかに詳しく正確な記述となっている。名称の由来については、次のように記述されている:
Marc Prensky coined the term digital native in his work Digital Natives, Digital Immigrants published in 2001. In his seminal article, he assigns it to a new group of students enrolling in educational establishments.[1] The term draws an analogy to a country's natives, for whom the local religion, language, and folkways are natural and indigenous, compared with immigrants to a country who often are expected to adapt and begin to adopt the region's customs.
(訳)マーク・プレンスキーは、2001年に出版された「デジタルネイティブ、デジタルイミグラント」の中でデジタルネイティブという言葉をつくった。(以下、省略)

 こうしてみると、ウィキペディアで「書きかけ項目」となっていたら、注意することが必要だろう。
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 知るのが少し遅れたが、NHKラジオがネットでも聴けるようになった(9月1日より)。私のように、ラジオをもっていない者にとっては、これはとてもすばらしいサービスだと思う。パソコンで作業をしているときに、BGMとして流しておくと、とても快適だ。とくに、FMはステレオなので、外部スピーカーをつなぐと、いっそう美しいサウンドを楽しむことができる。

 → NHKネットラジオ「らじる★らじる」

 民放ラジオは、すでにradikoがあり、これはトーク番組やプロ野球中継を聴くときに重宝している。

 いまやラジオはネットで聴く時代になったわけで、感慨もひとしおだ。NHK第一、第二、FMの3波が聴けるので、語学の勉強にも役だってくれそう。

※iPhone用アプリも10月27日リリースされたので、いまや、iPhoneやiPadでもNHKラジオが聴けるようになったということですね。ますます、iphoneがほしくなりました。
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 毎日新聞が実施した最新の世論調査によると、TPPについて、参加すべきかどうか、「わからない」という回答が39%にのぼった。実際、これほど賛否のわからない問題も珍しいのではないだろうか?私もさっぱりわからない、、、。首相がどのような「政治決断」を下すのか、注目したいところだ。

毎日新聞は5、6両日、全国世論調査を実施した。環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の交渉について「参加すべきだ」が34%で、「参加すべきではない」(25%)を上回った。ただ、「わからない」も39%に上った。(毎日新聞2011年11月7日
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 電通がソーシャルメディアのアクティブユーザ(15歳~37歳〕を対象に実施した調査の結果が公表されている。対象者のうち、ソーシャルメディア上の友人を100人以上もっていると回答したのは、14%〔800名〕だった。この「SNS100友」ユーザについては、平均友達数が256人にも上っていた。半端な数字ではない。彼らは平均して12のコミュニティを持っており、「自分の発信した情報は、つながっている友達がさらに情報を引用・拡散することで、最大2825人に及ぶ」と推計されている。SNS上の口コミネットワークの巨大さが伺える。

 また、ソーシャルメディア上でつきあいのあるコミュニティの第1位は「趣味つながり」65%でもっとも多く、これについで「学校」54%、「地元や家族」40%などとなっている。つながりの内訳をみると、「音楽」が59%ともっとも多く、「マンガ・アニメ」34%、「スポーツ」28%などがこれに続く。やはり、エンタメ関連のつながりが多いようだ。

  (ツイッターなど)ミニブログの利用動向をみると、「94%が他人の発言を引用(RTなど)。しかも、自分のコメントをつけずにそのまま引用する割合が6割」という調査結果。「情報を回し合って共有することが友達との絆になっている」と分析している。東日本大震災でも、こうした共有行動が活発にみられたことは記憶に新しいところだ。

 興味深い最新調査データだと思う。

→ 電通News Release〔2011年11月2日〕

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 先日のブログで紹介した、Warscauer氏の『技術と社会的包摂』という本の中で、インドのスラム街に設置された「壁の穴」のパソコンによる教育の試みが、社会的包摂を伴わないという点で、「失敗例」として取り上げられていた。しかし、関連ウェブサイトを調べてみると、必ずしも「失敗」に終わったわけではないようだ。

 hole-in-the-wall.comというウェブサイトをみると、この社会実験について、詳しい情報が提供されている。この実験は、1999年にインドのニューデリーで開始された。発展途上国の都市部のスラム街に、壁に埋め込まれたパソコンを設置し、子どもたちが自由にパソコンを使って自己学習できるシステムだ。「最小介入教育」という理念で、教師やインストラクターが介入せず、子どもたちが自由に使い、互いに使い方を教え合うという形で教育的効果を上げることをめざした、一種の社会実験だ。ふだんパソコンに触れる機会のないスラム街の子どもたちにとっては、貴重な機会を提供するもので、一定の成果をあげているようだ

 この「壁の穴」プロジェクトは、ニューデリーで始まったが、その後、他の都市や他の途上国でも相次いで設置され、スラム街の子どもたちのコンピュータ教育に貢献しているようだ。その効果を測定するための調査も(2000年から2004年にかけて)行われている。その結果をみると、教育効果があるとする回答が8割以上と高く評価されていることがわかる。「壁の穴」パソコンを利用した子どもたちは、他のグループと比べて、学業成績も向上しているという結果も得られている。こうしたデータを見る限り、Warscauer氏が2000年の時点でフィールド調査した結果とはかなり違っているようだ。コンテンツも、英語だけではなく、ヒンズー語も取り入れられ、教育用ゲームなども採用されているようだ。それが教育効果の向上につながっているのかもしれない。

 ただし、逆にいえば、発展途上国では、いまだに学校や家庭でパソコン教育を十分に受けられない子どもたちが多数いるという、「グローバルデバイド」が解消されていない現実があることを改めて思い知らされる。

※オスカー賞を取った Slumdog Millionaireという映画は、このhole-in-the-wall のプロジェクトから着想を得て作られたものだといわれている。 

 → 「壁の穴」プロジェクトの紹介動画

 


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梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』(ちくま新書)を再読してみた。出版当時は、ベストセラーになり、巷で話題に上ったという記憶がある。これに対して、単にトレンディなキーワードを並べただけで、中身が薄いといった批判も、当初からあった(池田信夫ブログなど)。あれから5年たった現時点で、本書のキーワードをもとに、どれだけの変化があったかを検証してみたい。

「チープ革命」
 これについて、著者はムーアの法則にもとづいて、「映像コンテンツの製作・配信能力は、皆が持っているパソコン、周辺機器、インターネットの基本機能の中に組み入れられ、テレビ局の特権ではなく誰にも開かれた可能性となった」と述べている。たしかに、ユーチューブ、u-streamなどを通じて、無限に近い映像が一般人によって配信されていることは事実だ。けれども、5年経ってもなお、コンテンツの質が大幅に向上しているようには見えない。テレビ局(プロダクション)が莫大なコストをかけて製作する番組コンテンツがやはり圧倒的に多いことも事実だ。ユーチューブでもっとも人気のあるコンテンツも、既存のテレビ番組というのが現状ではないだろうか。「総表現社会」というの言葉も、いまなお行き過ぎのきらいがある。新しいメディアを使って「表現」したいという欲求をもつ人々の割合は、30年前と同じく、せいぜい1割くらいというのが実情ではないだろうか。それはそれでいいような気がする。可能性と現実のギャップは依然として大きいのだ。

「グーグルが主役」
 ネット検索の世界では、いまなおグーグルが主役であることは確かだ。しかし、グーグルが玉石混淆問題を解決してくれるという点も、やはり楽観的すぎる意見のような気がする。専門用語などをグーグルで検索すると、必ずといっていいほどウィキペディアが出てくる、などを考えると、「石」のようなウェブサイトが上位にランクされる可能性は否定できない。ネット上での「人気」や「評判」と実力は必ずしも比例するわけではないのだ。

「オープンソース」
 この言葉は、1990年代のリナックス開発に端を発したもので、知的財産の無償公開という流れのことをいう。ウィキペディアなども、マス・コラボレーションによるオープンソースの一つだ。これがうまく集積されれば、知の自動秩序形成システムが生まれるだろう、と著者は言う。これも今では常識になっている現象で、新鮮みは感じられない。

ネットの「あちら側」と「こちら側」
 この言葉は、梅田さんの造語のようだ。いまの言葉でいうと、「あちら側」は「クラウド」、こちらがわは市販のソフトウェアということになろうか。個人のパソコンにインストールされているソフトウェアは、こちら側に属し、グーグルのGメールや、グループウェアなどは「あちら側」のサービスといえるだろう。この二分法も、いまや常識になっている。

ロングテールとWeb2.0
 ロングテールという言葉は、クリス・アンダーソン氏(米)がつくった造語で、いわゆるパレートの法則に反し、売り上げ曲線の「恐竜の首」部分が圧倒的に大きな売り上げを生むのではなく、「しっぽ」(テール)部分がかなり大きな売り上げを生み出す、という新しいビジネスモデルのことをいう。アマゾンコムなどがその典型的な例としてげられている。いまでは、普通名詞として「ロングテール」とか「ニッチ」などが使われているようだ。

 ウェブ2.0は、2005年半ばから広く使われるようになった新語で、「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく同能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」をさしているという。SNS、ブログ、ツイッター、はてな、などはその一例だ。

 どの言葉も、現在では「ソーシャルメディア」と呼ばれるようなネットサービスの特徴をもっており、いまでは常識化している。言葉そのものは、梅田さんも書いているように、ネット世界では、次々と新語が生まれては、すぐに消えてゆく運命にあるようだ。もっと本質をつくような概念なり理論モデルが生まれないものだろうか?単なる造語では、いまのテクノロジーの進化に追いつくことはできないように思われる。

 ともあれ、梅田さんの著書『ウェブ進化論』は、5年前の世界では、一般の読者に対しては、かなりの衝撃をもって受け止められたが、5年たった今では、一般人にとっても「常識の世界」になっており、改めてこの5年間の変化を感じる。

 梅田さんご自身は、東日本大震災以降、ご自身のブログを更新されていない(オープンな情報発信をされていない)ように拝見するが、そちらの方が少し気になるところだ。
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 先に概要を紹介した、ハンセン著『環境、メディア、コミュニケーション』のうち、方法論としての社会構築主義とコミュニケーションとの関連を論じた第2章「コミュニケーションと環境問題の構築」の部分を読みながら、その概要をメモ風に記述しておきたい。

 <構築主義的なパースペクティブとは何か?>

 構築主義が登場したのは、1960年代から70年代にかけてのこと。基本的な視点は、、、「社会問題というのは、客観的な条件というものではない。社会問題や争点などが認識可能になるのは、会話、コミュニケーション、ディスコースによる問題の定義づけによるものである」。

 社会構築主義が広く知られるようになったのは、スペクター&キツセ『社会問題の構築』〔1977〕からである。このアプローチの主眼は、次の点にある。①ある問題や争点が「社会問題・争点」になるのは、だれかがそれについてコミュニケーションし、声をあげ、クレイムを申し立てる場合であり、②それを研究し理解するためにもっとも重要な次元は、クレイムが出現し、公共化され、主張される「プロセス」である。 この考え方が正しいとすると、研究で問われるべきは、あるクレイムが正しいか、それとも間違っているのかということではなく、なぜどのようにして、あるクレイムが広く受け入れられ、他のクレイムが受け入れられずに終わるかという点である。

 これはメディア・コミュニケーションの研究にも当てはまる。なぜなら、ニュースメディアが単なる「世界の窓」「現実の鏡のような反映」だとする伝統的な現実主義的見方を根本的に否定するものだからだ。構築主義的な視座は、ニュース研究において正確さや客観性といった役に立たない測定を迂回することを可能にする。なぜ役に立たないかというと、ある人にとって正確なものが、他の人にとっては歪んだものだからだ。 もし環境問題が「客観的」にそれ自体でアナウンスするものではなく、公共的なクレイム申し立てのプロセスを通じて初めて認識されるようになる、という構築主義者の議論を受け入れるとすれば、メディア、コミュニケーション、ディスコースが中心的な役割を果たし、研究の焦点となるべきだという点も明らかだろう。

構築主義者の議論はメディアの役割を理解する上で、クレイムがどのようにしてメディアの公共的アリーナにおいて促進・生産されるのか、メディアはどのようにして中心的なフォーラムとなり、それを通じてわれわれ受け手や公衆が環境、社会、政治を意味づけるようになるのかという点で含意を持っている。実際、多くの社会組織によるリアリティのシンボリックな構築の大部分は、いまや主としてメディアにおける表象としてつくられているのである。

 社会構築主義者によれば、ある社会問題は一定の「キャリア」パスをたどるという。スペクターとキツセは社会問題が4段階の自然史的過程をたどるというモデルを示唆している。ダウンズも「争点関心サイクル」というモデルを提示している。それによると、さまざまな社会問題は突然公共的なステージに出現し、しばらくの間そこにとどまり、それから次第に公衆の関心から遠ざかってゆくという。環境問題はその典型的な例である。ただし、このような自然史的なモデルに対しては、批判が多いことも確かだが、、。

<メディア報道のサイクル状の展開>

 その後、多くの研究において、環境問題のメディア報道が、ダウンズが示すようなサイクルのようなパターンを示すことが明らかになっている。環境問題のメディア報道に関する長期的研究が示すところによると、環境問題に対するメディアの注目は1960年代半ばに始まり、1970年代初期に最初のピークを迎えた。その後、1970年代から1980年代始めにかけて下がり続け、1980年代後半に急激に上昇し、1990年頃にピークを迎えた。それから1990年代を通じて再び下がり始めた。そして、2000年代にかなりの再上昇を迎えている。

 このようなサイクル状のメディア報道のトレンドは、次のような環境報道のキーポイントを裏付けるものである。

(1)社会問題としての「環境問題」あるいは「環境」といいう概念が公衆議題として初めて登場したのは、1960年代であった。もちろんそれ以前にも、公害報道などはあったが、エコロジーとか、より広い環境といった枠組みが公衆のアリーナに登場したのは、1960年代が初めてである(レイチェル・カーソンの『沈黙の春』がその一つのきっかけとなった)。その後、環境報道は増大していったのである。
(2)社会は「環境」のような問題に対する受容性を変化させる傾向がある。
(3)われわれが1960年代に環境/エコロジーのパラダイムを導入して以降、環境問題はメディアや公衆の議題上にとどまり続けた。気候変動に対する世界的関心の増大は環境パラダイムを確固たるものにした。

<クレイム申し立てとフレーミング>

 ここでは、クレイム申し立ての過程におけるレトリカルな側面について、イバラとキツセのいう「ヴァナキュラーな資源」およびフレーミングという概念をもとに検討を加えたい。イバラとキツセによると、社会問題の構築過程の中心にあるのは、言語あるいはディスコースだという。したがって、研究の中心はクレイム申し立て過程に関わる人々の「ヴァナキュラーなディスプレイ」にある。ここで、「ヴァナキュラーな資源」とは、クレイム申し立てで用いられ得るレトリカルなイディオム、解釈行為、場面の特徴などである。イバラとキツセは、次の5つの研究上の焦点をあげている。①レトリカルなイディオム、②カウンターレトリック、③モチーフ、④クレイム申し立てスタイル、⑤場面。

 イバラとキツセの考え方は、メディア・コミュニケーション研究で広く用いられている「フレーミング」と共鳴する部分が少なくない。例えば、リースはフレームを「社会的に共有され持続する組織化の原理であり、シンボルを用いて社会的世界を有意味的に構造化するもの」と定義している。ギャムソンによれば、「ニュースフレームは何が選択されるか、何が排除されるか、何が強調されるかを規定するものだ」としている。要するに、ニュースはパッケージにされた世界を提供しているのだ。エントマンはフレーミングを次のように定義している。「フレーミングとは、知覚された現実のある側面を選択し、コミュニケーションのテキストの中でより強調することによって、特定の問題を定義し、原因を解釈し、道徳的な評価を与え、問題解決を提示するものである」。クレイム申し立て者は、ニュース制作者と同様に、こうしたフレーミングを行っていると考えることができる。

フレーミングの概念はクレイム申し立てや社会問題の構築に関する分析を次の3つの中心的設問へと導く。 (1)何が争点か?(定義) (2)誰に責任があるか?(アクター、ステークホルダーの認定) (3)何が解決策か?(推奨される行為、処方箋)これらの問題に答えるためには、ギャムソンとモディリアニの分析枠組みが参考になる。彼らによると、フレーミングには、環境を意味づけるためのストーリー/イデオロギー/パッケージという面と、特定のフレームに貢献する構成要素のパーツの作用のふたつがあるという。したがって、彼らによると、「メディア・ディスコースはある争点に意味を与える一組の解釈パッケージ」である。構成要素とは、5つのフレーミング手段(どのように争点を考えるか)(メタファー、エグゼンプラー、キャッチフレーズ、描写、ビジュアルメッセージ)、および3つの理由づけ手段(それについて何をなすべきかを正当化するもの)(ルーツ、結果、原理へのアピール)からなっている。

 以上のように、構築主義者のパースペクティブは、なぜ特定の環境問題が公衆や政治的な関心を呼ぶ争点として認識されるようになるか、それに対し他の環境問題が(重要であるにもかかわらず)公衆の目に触れずに終わるかを分析し、理解する上で有益な枠組みを提供してくれる。構築主義的視座は、クレイム申し立て者の役割と社会問題を基本的にレトリカル/ディスカーシブな行為としての社会問題の定義づけに注目する。さらに、構築主義的視座は、社会問題というものが社会という曖昧模糊としたロケーションで現れるのではなく、認定可能な公衆のアリーナ、とくにメディアを通してアクティブに構築され、定義され、闘われるものであることを示している。メディアは、公共的なアリーナの一つとして、それ自身の組織的、専門的な制約と実践によって支配されているのである。

以上、第2章を要約してみた。構築主義的アプローチでメディア・コミュニケーションを論じた研究は、これまでほとんど見当たらなかったように思う。また、構築主義とフレーミング理論をうまく結びつけ、環境問題のコミュニケーション過程を論じた研究も、著者が初めてだろうと思われる。第3章以降の展開が楽しみだ。
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Environment, Media and Communication (Routledge Introductions to Environment)
Environment, Media and Communication (Routledge Introductions to Environment)
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 今日は、次の本をとりあげ、内容を紹介することにしたい。1年ほど前に入手したのだが、まだ全部読み切っていないので、読み進めながら、その要点をこのブログで公開しようと考えたのである。

Anders Hansen, 2010, Environment, Media and Communication. Routledge.
(レビュー)



まずは、目次から

第1章 序説 
第2章 コミュニケーションと環境問題の構築
第3章 環境問題に関するクレイム申し立て
第4章 ニュースとしての環境問題:新しい価値、ニューメディア、ジャーナリストの活動
第5章 ポピュラー文化
第6章 「自然」の売り込み:広告、自然、国家のアイデンティティ、ノスタルジア、環境のイメージ
第7章 メディア、公衆、政治と環境問題

次に、第1章でまとめられている各章の概要を訳出しておきたい。

第2章 コミュニケーションと環境問題の構築

 ここでは、環境問題に関してメディアやコミュニケーションが果たしている役割を理解し、分析するための概括的な枠組みを概説している。環境は「それ自体が語る」というものではなく、環境問題というのはクレイム申し立てやコミュニケーションを通じて初めて、公衆の関心や政策決定の対象たる問題や争点になる、という考え方を導入する。本章では、社会構築主義的なアプローチを環境問題やニュースやその他のメディアの社会学に適用する。そこでは、メディアの役割を理解する上で、メディア報道のバイアスや客観性に対する伝統的な関心よりも、競合的な定義に焦点を当てた構築主義的なアプローチの方が生産的であることを論じている。そして、このアプローチでキーとなるいくつかの分析ツールを指摘する。具体的には、クレイム申し立て者に焦点を当てること、ディスコースへの注目、争点キャリア、争点の共鳴、争点の所有と競争、などが含まれている。社会問題としての環境の構築は本質的にレトリカルな行為であるので、本章ではコミュニケーション分析においてレトリカルなイディオム、モチーフ、クレイム申し立てのスタイル、フレーム、環境をめぐる公共的なディスコースにおける公衆のアリーナの中心的な重要性が指摘されている。

第3章 環境に関するクレイム申し立てとニュースの管理

 この章では、構築主義的な視点をニュースに適用し、環境ニュースには「自然」なものはほとんどないことを示す。「自然災害のニュース」でさえ、積極的に構築されたものという視点でもっともよく理解できることを示す。本章では、環境問題の議論や論争において、主要なステークホルダーたちや利害をもつ政党の用いるコミュニケーション戦略に焦点を当てている。環境圧力団体、政府当局、学会、個々の科学者/専門家、ビジネスや業界などがマスメディアを通じて論争的な環境問題をめぐってコミュニケーションを管理し影響力を行使しているのか?彼らはどのようにメディア報道に依存しており、環境ストーリーを彼らの有利なように「紡ぎ出して」いるのか?彼らは綿密に計画されたコミュニケーションやPRの実践を通じて、どのように世論や政策決定に影響力を行使しているのか?環境問題に関して成功するクレーム提示の主な構成要素はどのようなものか?

 成功の基準が検討され、成功した、あるいは失敗したコミュニケーション戦略やメディアキャンペーンの事例が示されている。本章でとくに焦点を当てているのは、いかにして主要なクレイム申し立て者(企業と環境圧力団体を含む)が情報提供とキャンペーンの目的でインターネットやその他の新しいコミュニケーション形態を活用しているかということである。コミュニケーション関連の文献では環境圧力団体のコミュニケーションやキャンペーン戦略に焦点が当てられることが多いが、本章では次第に大きな影響力をもつようになた企業コミュニケーションやイメージ管理戦略で締めくくっている。

第4章 ニュースとしての環境:ニュース価値、ニューメディア、ジャーナリスティックな実践

 前章ではメディア外部にある情報源やクレイム申し立て者に重点が置かれていたが、本章ではマスメディアについて扱う。ここでの焦点は、メディアやメディア専門家の役割、組織構成、コミュニケーション実践にある。そして、なぜ特定の環境問題がニュースになり、他の環境問題がニュースにならないのか、また、なぜある環境問題が争点になり、他の問題は争点にならずに終わるのか、という点を関連した調査研究を通じて解明する。

 また、環境問題の専門記者の発展が検討され、環境ジャーナリストが他のタイプの記者とどう違っているのかについても論じている。環境問題を報じるジャーナリストは、環境をめぐる論争に特徴的な科学的不確実性をどう取り扱っているのか、彼らはどのように客観性やバランスなどの伝統的なジャーナリスティックな基準をどう展開しているのか?新しい情報通信技術がジャーナリストの実践に及ぼす影響についても検討する。新しい技術やニュース組織に対する経済的プレッシャーは、ジャーナリストと情報源との間での力関係を情報源の方に死すとさせているのか、という点について検討する。本章の最後では、ニュースの社会学という枠組みがもつ限界について論じている。

第5章 ポピュラー文化、自然と環境問題

 本章では、伝統的なニュースの社会学が強調する、経済的プレッシャー、組織の構造、プロフェッショナルな価値/実践に加えて、より広い文化的共鳴やナラティブをも考慮する必要性について検討する。まず、スクリプト、文化的パッケージ、解釈パッケージ、文化的共鳴という概念に焦点を当て、それをもとに自然や環境についてのポピュラーメディアの表象のもつ特性と潜在的な「パワー」を理解する。

 本章では、環境問題のニュース報道を超えて、自然や環境がどのように他のメディアジャンル(テレビの娯楽番組、とくに野生生物に関する映画、テレビの自然番組)がイデオロギー的に構築されているのかを考察している。また、主要な文化的ナラティブやストーリーやイデオロギー的なクラスター、パッケージ、スクリプトなどの存続について探求している。

 本章では、メディアによる環境問題の構築における語彙選択の重要性を探究している。また、野生生物の映画や自然番組を通じて伝えられるより深いところにあるイデオロギー的価値を発見するためにナラティブ分析が重要な貢献をしていることにも触れる。選定された映画ジャンル(例:SF、自然映画など)に関する歴史的研究を取り上げながら、本章ではいかにして文化的ナラティブが自然や環境についての特殊なイデオロギー的解釈を反映し、形成しているかを論じている。これには、環境についての有力な解釈がコントロールや搾取の対象から保護されるべきものへと変化していることなどが含まれる。

第6章 「自然/ナチュラル」を売る:広告、自然、国家的アイデンティティ、ノスタルジア、環境イメージ

 本章では、広告における自然や環境のプロモーション的利用について検討を加えている。また、前章に続いて、自然や環境の構築が時間とともにどう変化してきたかを検討している。ここでは、広告が環境メッセージや認識を促進するために、「グリーン」や「環境にやさしい」製品を売り込むために、大企業や業界のイメージ改善のためにどのように利用されてきたかを示す。本章では、いかに自然/ナチュラルや環境が製品を販売するために構築され活用されてきたのかについて探求し、自然の利用が適切な定義や自然環境の利用の定義づけに貢献しているかを探求している。広告に含まれる自然や環境のイメージの活用がノスタルジアや国家的・文化的アイデンティティの概念との関連で分析されている。また、本章では、異なる文化間でのイメージのバリエーションについて研究し、こうしたイメージが文化的に固有のものか、それとも次第にグローバルでユニバーサルなものになっているのかという点についても検討を加えている。

第7章 メディア、公衆、政治と環境問題

 本章では、環境についてのメディアの表象や報道が公衆や政治的認識、行為にどう影響するかという永続的な問題に、コミュニケーション研究者たちがどのように取り組んできたのかを考察している。結局のところ、環境問題についてのメディア表象に関する多くの研究の背後にある前提は、これらのメディア表象が社会における人々の理解・意見や政策決定に一定の役割を果たしているということである。本章では、いくつかの主要な枠組みやアプローチ(例えば議題設定研究、世論研究、政策決定研究など)について論じている。ここでは、環境についてのメディア表象がどにょうに政治過程や人々の解釈に影響を及ぼしているか、関連する研究成果を検討している。

 最後に、著者は人々の環境問題理解におけるメディアの役割について、リニアな視点ではなく、「クレイムの循環」的な視点に立つことがより重要だとし、メディア報道が社会における他の「意味創造のフォーラム」と相互作用する複雑で多元的な方法の重要性を指摘している。

 本書は社会構築主義の立場から、環境問題に関するメディア報道の特質および人々の環境理解に及ぼす影響について、実証的なデータを駆使しながら論じた力作である。本書の想定する読者層は、メディア・コミュニケーションを専攻する大学生、環境問題についての専門家、環境運動の活動家などである。類書はほとんどないという現状からみて、貴重な入門的専門書といえる。詳しくは原書を参照されたい。

→ Environment, Media and Communication(2010)

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宮田加久子著『きずなをつなぐメディア-ネット時代の社会関係資本』NTT出版〔2005〕
(レビュー)

 本書は、ソーシャルネットワーク論ないし社会心理学の視点から社会関係資本を分析したものである。この立場からみると、社会関係資本は「個人間や組織間のネットワークに埋め込まれた資源」とみなされる。同じ立場から社会関係資本を分析した研究者として、ナン・リン(Nan Lin)があげられている。彼によると、社会関係資本には、①社会構造に埋め込まれた資源(構造的側面)、②個人による資源へのアクセス可能な社会的ネットワークを持つこと(機会的側面)、③目的を持った行動における個人による資源の利活用(行動志向的側面)という3つの要素が含まれている。②は①によって規定され、③は②によって規定されるという関係がある。


 本書では、社会関係資本を「信頼や互酬性の規範が成り立っている網の目状の社会ネットワークとそこに埋め込まれた社会的資源」と定義している。この定義には、3つのキー概念が含まれている。第一に「社会ネットワーク」(人、集団などの相互間で形成される網の目状の関係性の広がりの総体)、第二に「信頼」(特定他者に対する個別的信頼と一般他者に対する一般的信頼からなる)、第三に「互酬性の規範」(一般化された互酬性と、何かをしてくれた人にお礼をする特定的互酬性からなる)である。


 本書では、①インターネット(とくにオンラインコミュニティ)への参加が社会関係資本の形成にどのような影響を及ぼしているのか(第2章)、②オンラインコミュニティにおいてどのような資源が提供されているのか、とくに橋渡し型の社会関係資本の特徴である一般化された互酬性の規範と信頼がどのように形成されているのか(第3章)、③インターネットで補完される社会関係資本の効果(個人レベルでは精神的健康と消費者行動、社会レベルでは市民参加とエンパワーメント)はどのようなものか、意図せざる負の効果としてのデジタルデバイド(社会関係資本の格差拡大)の可能性はどうか(第4章)、が先行研究のレビューと独自調査研究を通して詳しく検討されている。それぞれについて、簡単に紹介しておきたい。


<インターネットでつながるきずな>


 インターネットの利用と対人関係の関連についての従来の研究をレビューしてみると、「インターネットの利用が対人的接触を減じ、社会ネットワークを縮小・弱体化する」という結果と、「対人的接触を増大させ社会ネットワークを維持・補完する」という相反する知見がみられる。このうち、前者の研究では、その理由として、①インターネット利用が他の活動時間と競合するため、インターネット利用が他のソーシャルな活動を代替している、②インターネットではソーシャルなサポートが得られにくいため、電話など他メディアでの相互作用を阻害する場合には既存の社会ネットワークの紐帯が希薄化し、また強い紐帯を築きにくい。逆にフレーミングなど社会ネットワークを阻害する恐れもある、③インターネット利用がストレスとなって、それが人々を抑圧して相互作用から遠ざけ、対面的接触の減少によって抑鬱と孤独感が高まる、などが指摘されている。しかし、これらの先行研究にはいくつかの問題点があると著者は考える。そこで、本書では、社会ネットワークの形成と関わりの深いインターネットサービスとして、「交流型」(電子メール)と「コミュニティ型」(オンラインコミュニティ)に注目し、社会ネットワーク形成との関わりについて実証的に検討を加えている。


 まず、電子メールについてみると、電子メールは遠く離れたネットワークを維持する反面、身近なネットワークを縮小させるかもしれない、という知見が得られている。PCメールと携帯メールの利用度と社会ネットワークとの関連をみると、「電子メールであっても、PCメール送信数は社会ネットワークの規模や多様性と、携帯メール送信数は強い紐帯の数と関連があることがわかった」という。結論として、「少なくともPCメールの利用が弱い紐帯も含めたネットワークの規模や多様性を維持するのに役立っていることが明らかである。それに対して、携帯メールは近くにいてサポートを提供してくれるような強い紐帯をつなげる役割を果たしていることが推測される」としている。これは納得のいく知見である。


 次に、オンラインコミュニティについてみよう。ここでオンラインコミュニティとは、「旅行、スポーツ、地球環境、ゲーム、仕事、健康管理などのように、利用者が共通の関心テーマのもとに集い、コミュニケーションする社会空間(場)であり、その場では利用者が自主的に参加し相互作用し、意見交換や議論を行っている」と定義されている。具体的なサービスとしては、電子掲示板、メーリングリスト、チャット、ブログ、オンラインゲーム、SNSなどがある。著者は、オンラインコミュニティの中の社会ネットワークについて、①「開放性」という構造的次元、②「紐帯の強さ」という関係性の次元、の両面から検討を加えている。


 オンラインコミュニティにおける社会ネットワークの開放性とは、新規参加者によってネットワークが新しく追加され拡大していくことを意味している。各種調査の知見によれば、「インターネット利用者のなかでも、オンラインコミュニティで社会ネットワークを形成している人の割合は低いものの、その新しい友人・知人への評価から考えて、価値観等を共有できる人々の間で弱い紐帯を作るのにオンラインコミュニティが役立っていることがわかる」という。また、オンラインコミュニティ形成のプロセスをみると、「オンラインコミュニティは、全体として文字表現の工夫をしながら、自己開示をすることで参加者のアイデンティティを形成し、さらにはコミュニティ固有のアイデンティティの形成を通じて幅広い社会ネットワークを作り上げ、その間で望ましい社会的雰囲気を維持するための規範を創造していく」という。社会ネットワーク形成を左右する個人的要因についても検討がなされている。それによると、若年層ではインターネットで新しいネットワークを形成する可能性が高いこと、外向的な性格の人ほど、対人関係形成に積極的でかつそのスキルも高いので、オンラインコミュニティを通じて社会ネットワークを形成しやすい、などの知見が紹介されている。その結果、「社会性の高い人々については、オンラインコミュニティで書き込みを行うほど新規のネットワークが形成され、それが日常生活空間での豊かな社会ネットワークに追加されるので、オンラインコミュニティに積極的に参加するほど全体のネットワークが拡大するという現象がみられる。それに対して、社会性の低い人々は、オンラインコミュニティでの書き込みが多いほど、日常生活空間では形成されにくかったネットワークを形成できるので、オンラインコミュニティへの参加が社会ネットワークを補完するという現象がみられる」と述べている。


 紐帯の強さという点をみると、オンライン上でのネットワークは基本的には弱い紐帯だが、これを強い紐帯に変えていく場合もある。第一に、接触時間が長いほど親しい関係になるという傾向がある。第二に、自己開示が増加すると紐帯が強化され、道具的課題志向的な関係から友人関係へと変化する傾向がみられる。第三に、オフ会などの対面的コミュニケーションを利用するなど、メディアの複合的利用が強まるほど、紐帯は強いものになる。オンラインコミュニティでは、参加者が相互作用を繰り返すうちに、互いに強い紐帯を形成し、参加者の同質性が高まるという傾向がみられる。この同質化傾向は、コミュニケーションを促進するというプラスの効果と同時に、排他的になるというマイナスの効果も内包している。


<オンラインでの互酬性の規範と信頼の形成>


 この章では、オンラインコミュニティの中で共通の目標をめざす自発的協力がどのように行われているか、互酬性の規範は協力の促進にどのような影響を持っているかを検討している。また、その過程でオンラインコミュニティの参加者やそこに埋め込まれている資源が信頼できるかを参加者がどのように判断し、信頼がどのように醸成されているかを分析している。また、このようなオンライン上の互酬性の規範や信頼が日常生活空間に拡大する可能性と限界についても論じている。


 オンラインコミュニティでは、社会的ジレンマ(全員協力が最善策とわかりながら、結果として全員非協力になるという事態)が、「ただ乗り」という形で生じやすい。こうした社会的ジレンマを防ぐ要因として、著者は①一般化された互酬性への期待、②オンラインコミュニティへの愛着や関与、③他者への共感的関心、④アイデンティティの表出、⑤自己効力感、⑥コンサマトリー性の動機づけをあげている。このうち、社会関係資本と関連が深いのは、①の「一般化された互酬性への期待」(パットナムのいう橋渡し型の社会関係資本)である。具体的な事例として、著者は「消費者間のオンラインコミュニティ」と「オンライン・セルフヘルプグループ」について、検討している。消費者間オンラインコミュニティでは、「書き込みを通じて他の人と情報を共有したことで自分も得をするから」という回答が約半数あり、全体として一般化された互酬性の規範意識が浸透していることがわかった。オンライン・セルフヘルプグループ(ここでは育児サポートのSHG)参加者への調査が行われている。ここでも、「依然このフォーラムのメンバーが私にサポートを与えてくれたので今度は私が役立ちたいと思うから」と答えた人が約半数と多く、オンラインコミュニティ内部での一般化された互酬性の規範意識が高いことが示された。


 次に、オンラインコミュニティにおける信頼の特質と形成についての検討に入る。ここで著者は、信頼に関する先行研究の成果を整理した上で、オンラインコミュニティでの信頼について、オンラインコミュニティに参加する特定個人が信頼できるかどうか、という「特定的信頼」、ある特定のオンラインコミュニティに参加している人々が信頼できるかどうかという「カテゴリー的信頼」、人間一般を信頼するという「一般的信頼」に分けた上で、それぞれの信頼がオンライン空間でどのように判断、形成されるかを検討している。そこには、①特定の参加者間でのコミュニケーションを繰り返すことを通じて相互信頼の期待を形成する、というコミットメント形成による方法と、②特定他者や特定のオンラインコミュニティについての情報を集めて、それに基づいて信頼するかどうかを判断する、という情報を利用する方法のふたつがある、と著者は指摘している。オンラインコミュニティにおいて「信頼」が重要なのは、「インターネット上では、一般的な信頼を形成することによって、個人にとっては従来にない利益が得られる機会を増やし、集団では協力行動を促進し、社会においては効率化を進めることができる」からである。その意味で、オンラインコミュニティにおける「評判」システムは、信頼を判断し、形成する上で重要な役割を果たしている。評判という情報に基づいて他者の信頼性を判断しているコミュニティでは、橋渡し型の社会関係資本が形成されやすい。そこでは、「ネットワーク内部にある特定個人の実績についての評判情報が豊富に循環していて、それに容易に接することができると、その特定個人に対する期待を発展させ、それが信頼を形成するというメカニズムが働く」という。それが橋渡し型の社会関係資本を形成するのである。

 こうしたオンラインコミュニティ上での社会関係資本形成は、日常生活での一般的信頼度や社会関係資本にも貢献するだろうか?著者が山梨県で実施した調査によると、オンラインコミュニティに書き込みをする人ほど一般的信頼が高いという傾向が見出された。また、子育て支援オンラインコミュニティへの参加者への調査によると、オンラインコミュニティでサポートを受けた経験が、日常生活空間での他者に対するサポートの提供を促すという結果が得られたという。

<社会関係資本が変える暮らし、地域、社会>


 著者は最後に、オンラインコミュニティにおける社会関係資本の形成が、人々の暮らしや社会に及ぼす効果、影響について検討を加えている。ここでは焦点を絞って、肯定的な効果として、参加者個人の精神的健康(ミクロレベル)とエンパワーメントへの効果(マクロレベル)、および否定的な効果として、社会関係資本の悪用とデジタルデバイドの拡大について検討されている。

 オンラインSHGコミュニティに関する調査では、次の3つの点が明らかになったという。すなわち、①オンラインとオフラインのサポートが相互作用的に精神的健康を促進するという効果がみられた。②オンラインSHGからのサポートの受領は自尊心や家族関係満足度には効果があるが、直接抑鬱を抑制する、低減するという効果は低く、その効果は限定的であった。③オンラインSHGへの関与によってオンライン・サポートの受領の効果は異なっていた。オンラインSHGで社会関係資本を活用してサポートを受けることが精神的健康を増進することが確かめられたが、その理由として著者は、①オンラインコミュニティへの参加を通じてコミュニティ意識が醸成され、孤独感が低減されること、②とくに他の人に打ち明けにくいスティグマを抱えている人は、オンラインコミュニティ上での自己開示によってストレスが低減されること、③グループ内で手本になる人を見つけ出し、その人の考え方や行動を模倣することにより、参加への動機づけを高めたり、問題への対処法を学ぶこと、をあげている。ただし、オンラインSHGに限らず、一般のオンラインコミュニティを含めて、知らない人から受けるサポートの有効性には限界と問題点があることも指摘されている。

 次に、社会関係資本のマクロレベルの効果として、エンパワーメントが取り上げられている。エンパワーメントとは、著者によれば、「パワーを持たない人々が力をつけて連帯して行動することによって自分たちで自分たちの状態・地位を変えていこうとする、きわめて自立的な行動」のことである。具体的な実証例として、ここでは消費者間オンラインコミュニティおよびオンラインSHGでのエンパワーメントが取り上げられている。消費者間オンラインCMの事例としては、「東芝事件」が取り上げられている。オンラインSHGでは乳がん患者のオンラインSHGが分析されている。

 最後に、社会関係資本の意図せざる負の効果についても検討されている。具体的には、①結束型社会関係資本の悪用(自殺掲示板の利用など、反社会的な目的で利用されるケース)、②結束型社会関係資本の持つ負の効果(部外者の排除、ただ乗り、個人の自由の束縛など)、③新たなデジタルデバイドの発生(インターネットを利用して社会関係資本を活用できる人々はますます豊かな社会関係資本を築き、利用できない人々との間の格差が拡大するという悪循環)などがある。


<社会関係資本の豊かなインターネット社会を目指して>


 最後の章で、著者は、社会関係資本を豊かにするための提案を行っている。それは、「メディア・リテラシー育成の必要性」(メディア評価能力、メディア表現能力、メディア利用スキルの涵養)、「水平なネットワーク構造を持つ集団の必要性」(人々の自発的な参加によって成り立っている水平な社会ネットワーク構造を持つ集団の形成と維持)、「制度や技術の必要性」(政府や自治体でインターネットの社会関係資本涵養機能と効果を理解した上で、それを促進するための支援制度づくり、P2Pなどの新しい技術の開発)、の3つである。そして最後に、「今後、ますますインターネットは広い範囲に普及し、さらにその技術も進歩すると思われるが、公共性を高めるための社会関係資本をどのようにインターネットが支援していくことができるのかという視点を持ち続けることの重要性」を指摘している。


 以上が本書の概要である。社会関係資本という概念を手がかりとして、インターネットとりわけオンラインコミュニティ(現在でいうソーシャルメディア)が人々をつなぐメディアとして、どのようにして豊かな社会を築いてゆくかを、膨大な文献と調査分析を通して論じた、読み応えのある力作である。社会関係資本とインターネットの関係に興味を持たれる方は、パットナムの『孤独なボウリング』、ナン・リンの『ソーシャル・キャピタル』とともに、ぜひ本書を手にとって、詳しい内容をご覧いただきたいと思う。


 → 『きずなをつなぐメディア-ネット時代の社会関係資本』

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 社会関係資本とは、パットナムによると、「信頼感や規範意識、ネットワークなど社会組織のうち集合行為を可能にし、社会全体の効率を高めるもの」であり、「互酬性の規範」と「市民的な参加のネットワーク」からなるものである。一般に、「物的資本(土地、財産など)は物理的対象を、人的資本(スキル、知識、経験など)は個人の特性をさすものだが、社会関係資本が指し示しているのは個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範である」とパットナムは述べている(『孤独なボウリング』)。

 ここで、「互酬性」とは、聖書にある「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という一般的互酬性と、「あなたがそれをしてくれたら、私もこれをしてあげる」という特定的な互酬性のことである。パットナムによれば、「信頼は社会生活の潤滑油となるものであり、人々の間で頻繁な相互作用が行われると、一般的互酬性の規範が形成される傾向がある」という。社会的ネットワークと互酬性の規範は、相互利益のための協力を促進させうる。「社会の成員間でこうした互酬性が一種の社会的規範にまで高められると、その規範に基づく社会ネットワークが形成される。このネットワークが社会に埋め込まれることによって、今度はネットワークが社会の成員を常に相互に協力するように差し向けるという(循環的な)プロセスが想定される。つまり、社会関係資本を活用することで社会関係のなかで人々の相互的な利得を獲得させるための協調と調整が促進される」(宮田加久子『きずなをつなぐメディア』)。その結果、社会関係資本は集合行為のディレンマを解決し、民主主義を機能させるための鍵となる、とパットナムは考えた。

 こうした利益は、「結束型」(排他型)の社会資本と「橋渡し型」(包摂型)の社会資本によって、成員の間で共有されることになる。「結束型」の社会資本とは、緊密な、内向きの社会ネットワークの中で共有される強い紐帯である。家族や親密な友人グループなどの関係はその一例である。これに対し、「橋渡し型」の社会資本とは、外向きで、地位や属性をこえて多様な人々との関係をつないでいくことに役立つ、弱い紐帯をさしている。

 それでは、インターネット(ICT)と社会関係資本との間の関係はどのようなものか。また、社会的包摂との関連はどのようなものか。この点について、
 ・Warschauer, 2003, Technology and Social Inclusion
 ・宮田加久子,2005,『きずなをつなぐメディア』
 ・パットナム, 2000=2006, 『孤独なボウリング』
をもとに考察することにしたい。

 社会関係資本を増やすことは、明らかに重要であることは、上記の記述からも自明だろう。ICTやインターネットの活用は、社会関係資本を増大させるのに役に立つことも、過去の実証的研究から明らかにされている。Wauschauerは、トロント市〔カナダ〕のNetvilleと呼ばれる町で行われた研究を紹介している。この町では、すべての新規購入した家にブロードバンドの無料接続が提供された。実際には、6割の家庭でインターネットが提供され、残り4割にはインターネットが提供されなかった。これは、一種の野外実験の場を提供することになった。調査の結果、インターネットを提供された家庭ではNetvilleの内部でも外部との間でも、広汎な社会ネットワークが形成され、相互接触とサポートの提供がみられた。ネットにつながった市民は、50km圏内でも、50~500km圏内でも、500km圏外でも、外部の人々との接触とサポートが増大したのに対し、ネットにつながっていない市民の場合には、いずれの地域圏においても、接触とサポートが減少するという対照的な現象がみられた。とくに、50~500km圏の人々から受けるサポートについて、両者の間に最大の相違がみられた。これはインターネットが、「ちょうど到達できる圏外」にいる人々との間の社会関係資本を構築するのに有効であることを示すものといえる。コミュニティの内部においても、メイリングリストの活用などを通じて、ネットに接続した人々は、相互の紐帯を深めるという傾向がみられた。また、ネットに接続した住民たちは、メーリングリストからの情報をネットに接続されていない家庭にも届けるという効果さえみられたという。

 これに対し、インターネットは社会関係資本の増大をもたらさない、という見解もある。まず、対面的なコミュニケーションは、オンラインのコミュニケーションに比べ、よりリッチなコミュニケーションとサポートをもたらす。もしオンライン・コミュニケーションが対面的な相互作用を「補完」するのではなく、「代替」してしまうと、結果として社会関係資本は弱くなるだろう。また、ネット上では、いわゆる「フレーミング」(炎上)と呼ばれる敵対的なコミュニケーションが生じるが、これも社会関係資本の低下につながるだろう。さらに、インターネット上でチャットなどを通じて匿名的なコミュニケーションにはまるならば、それが対面的なコミュニケーションを低減させるという危険性もある。最後に、人々はインターネットを社会的コミュニケーションに用いるとは限らず、プライベートな、あるいは反社会的なコンテンツを消費することもあり、それが社会関係資本を低減させる可能性もある。

 ウォーシャウアー氏によれば、ICTを社会関係資本の促進のために活用するには、「ミクロ」「マクロ」「メゾ」という3つのレベルで社会関係資本を捉えることが有効だという。

【ミクロレベルの社会関係資本】:バーチャル・コミュニティ対情報化コミュニティ

(1)バーチャル・コミュニティ
 もともとハワード・ラインゴールド氏がオンラインコミュニティであるWELLでの体験をもとにつくった言葉だが、異なるバックグラウンドや地域にいる見ず知らずの人々が、オンライン上で情報を共有し、議論し、必要なときにはサポートを与え合うという体験を語ったものである。しかし、彼自身、見解を和らげ、バーチャルコミュニティと伝統的なコミュニティやネットワークとの接続性を強調するようになった。第一に、どのような技術も、既存の社会関係や社会的文脈の中から生まれるものだということ。第二に、バーチャルコミュニティと伝統的コミュニティとの間の差異は擬似的なものだということ。現実には、人々の社会的ネットワークは他の地域に住む親戚、友人、同僚などを含んでおり、彼らとの間のコミュニケーションは、対面接触の他に、電話、メール、その他のメディアを媒介として行われているのである。ICTの利用は、他のネットワーキングを代替するのではなく、補完する役割を果たしている。

(2)情報化コミュニティ
 社会的包摂に関するテクノロジーの問題を考える上で、情報化コミュニティ(community informatics)の概念はバーチャルコミュニティよりも有用かもしれない。情報化コミュニティとは、コミュニティの社会的、経済的、政治的、文化的な目標達成を助けるためにICTを適用しようとする試みを指している。

 社会関係資本を促進することは情報化コミュニケーションの基本戦略だが、これはオンライン・コミュニケーション単独では達成できない。むしろ、社会関係資本はコミュニティの目標をサポートするために最強の協同とネットワークを構築することによって創造できるものであり、そのためにICT技術の活用が中心的な課題になる。オンライン・コミュニケーションはその一部分となるが、同時に伝統的なコミュニケーション、組織、動員、協同の構築もまた非常に重要である。

【マクロレベルの社会関係資本】:政府と民主主義

 ミクロレベルの社会関係資本がボトムアップだとすると、マクロレベルの社会関係資本はトップダウンで形成されるといえる。ここでは、大規模な制度、とくに政府がどのように資源やサポートを個人や社会に提供するか、という問題を考える。

 マクロレベルの社会関係資本のもっとも重要な構成要素は「シナジー」(国家と社会の間の協同的でポジティブな関係)である。シナジーを発展させることは重要だが、とくに不平等の高い国々では難しい課題である。貧困層の周縁化が進んでいる国では、貧しい人々が政府の資源へのアクセスから切り離され、悪循環を生むケースが少なくない。

 うまくデザインされたICT活用プログラムを実施することにより、政府の情報や資源へのアクセスを増大させ、周縁化を低減させるという好循環を生むことができる。そのためには、電子政府計画は貧困層や周縁にいる人々のニーズにマッチしたものとして周到に企画される必要がある。そうでなければ、すでにネットワークにうまく接続している人々をますます有利にするだけの結果に終わるだろう。電子政府(E-governance)計画は、貧困層に対して少なくとも二つの点で役に立つ。一つは政府の透明性を増大させること、もう一つは市民のフィードバックを増大させることである。

【メゾレベルの社会関係資本】:市民社会の力

 市民社会とは、個人と国家の間にあるネットワーク、グループ、組織などを指している。それは「公共圏において、自分たちの関心、熱情、アイデアを表明したり、情報を交換したり、互いの目標を達成したり、国家に要求を突きつけたり、国家公務員に説明責任を果たさせたりするために、集合的に活動する市民たち」のことを指している。市民社会は民主主義の実現のためにさまざまな機能を果たしている。インターネットなどのICTは、こうした市民社会の発展と民主主義の実現のために重要な役割を果たしている。その一つの事例として、「反グロバリぜーション」グループの運動があげられる。

<反グローバリゼーション運動とインターネット>

 今日では、第三セクター(非政府、非ビジネス)の社会組織(NGOなど)の発展が著しい。ICTはこうした第三セクターの発展において重要な役割を果たしている。国際的なNGOはドキュメントを共有したり、戦略やキャンペーンを展開するためにインターネットを活用してきた。草の根グループは、メンバーを動員し、プロテストを組織するためにインターネットを活用している。インターネットを活用したもっとも大規模な国際的社会運動といえば、反グローバリゼーション運動(antiglobalization movement)だろう。

 反グローバリゼーション運動によるインターネットの利用は1980年代にまでさかのぼる。グリーンピースのような国際的NGOはスタッフのためにグローバルなコミュニケーションのネットワークを開発した。インターネットをベースとする反グローバリゼーション運動は1994年に初めて登場した。この年、メキシコ南部のサパティスタ(Zapatista)民族解放組織は武装闘争を開始した。当初から、サパティスタのリーダーたちはインターネットの活用において高い能力を示した。闘争が始まった直後から、非公式のサパティスタ・ウェブ頁が立ち上がり、サパティスタのメーリングリストやウェブサイトが多数開設された。1995年には約8万1000人がメキシコ国外からサパティスタの主催する会議に出席した。インターネットは多様な反グローバリゼーションのNGOグループにとって重要な役割を果たしてきた。サパティスタを支援するNGOネットワークには、先住民の権利をサポートする争点志向的なNGO、人権擁護団体、持続可能な社会を推進するNGOなどが含まれる。

 反グローバリゼーション運動による次なるネットバトルは、1997~1998年、WTOによる「投資に関する多国間協定」(MAI)の提案直後に起きた。1998年、MAIの提案ドラフトがインターネットを通じてリークされると、あっという間に世界に広がり、これに反対するウェブが多く立ち上がった。多くの国でMAIに反対する運動が組織され、最終的にMAIは採択されずに終わった。

 その後も、1999年シアトルで開催されたWTO会議、メルボルンで開催された世界経済フォーラムなどでも、反グローバリゼーション運動のNGOグループがインターネットを使って反対運動を展開した、インターネットの力を示した。ついには、反グローバリゼーション運動のためのパーマネントなウェブサイトも次々と立ち上がった。The Independent Media Centerはその代表例である。このサイトには、、背景情報、ディスカッションフォーラム、オンライン新聞、検索可能なアーカイブ、関連する写真や動画などが提供されており、反グローバリゼーション運動にとってワンストップの情報センターの役割を果たしている。反グローバリゼーション運動にとって、インターネットは他のコミュニケーションを代替するわけではなく、それを補完したり拡張したりするという役割を果たしているといえる。インターネットは、反グローバリゼーションにおいて重要な社会関係資本であり、政治的エンパワーメントに大きく貢献しているのである。

 

  





 
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 ピッパ・ノリス氏のdigital divideは2001年に出版されたが、その2年後〔2003年〕に出版された次の本も、デジタルデバイドをより深く理解する上で有用かと思われるので、少しばかりご紹介しておきたい。すでに刊行から8年経っているので、この本も今の状況からすると古くなっている点もあるが、「社会的包摂」(Social Inclusion)や「社会的排除」(Social Exclusion)をICTの文脈で議論した数少ない専門書として、参考になる部分は少なくないと思われる。日本では、「社会的包摂」は社会福祉の分野で盛んに用いられているように思われる。メディア論の領域では、これとやや近い概念として、「社会関係資本」(Social Capital)があり、こちらの方がインターネットとの関連でよく検討されているようだ。ICTと社会的包摂の関連では、欧州委員会(European Commission)がe-Inclusionという政策を推進しており、本書との関連が深いと思われる。

→ e-Inclusion (European Commission)

・Mark Warschauer, 2003, Technology and Social Inclusion: Rethinking the Digital Divide. MIT Press
『テクノロジーと社会的包摂:デジタルデバイドを再考する』

 著者は、もともとデジタルデバイドという概念を手がかりとして研究を始めたが、世界各地でフィールドワークを重ねるうちに、デジタルデバイドという概念のもつ問題点を感じるようになり、最終的に「ICTと社会的包摂」という研究テーマにたどりついた、と序章に書いている。

 デジタルデバイドに関する従来の議論(1990年代)では、デジタルデバイドを「ICTへのアクセス手段を持つ者と持たざる者との間の格差」として捉えており、持たざる者に対して、ICTへのアクセスを与えることが政策目標になっていたが、著者はフィールドワークを通じて、こうした視点に疑問を抱くようになったという。これを象徴するために、3つのエピソードが紹介されている。ここでは、そのうちの一つだけを翻訳しておきたい。

<スラム街の「壁の穴」>

 2000年、ニューデリー政府はIT企業と共同で、「壁の穴」実験(Hole-in-the-Wall experiment)と呼ばれるプロジェクトをスタートした。これは、スラム街に住む子どもたちにコンピュータへのアクセスを提供する試みだった。ニューデリーでもっとも貧しいスラム街に5台のコンピュータ・キオスクを設置した。コンピュータの本体はブースの内部にあったが、モニターは壁の穴から突き出しており、コンピュータのマウスの代わりに、特注のジョイスティックとボタン類が設置されていた。(2000年の時点では)キーボードは提供されていなかった。コンピュータはダイヤルアップ回線でインターネットに接続されていた。

 最小介入教育という理念に沿って、教師もインストラクターも提供されていなかった。その狙いは、子どもたちが大人の教師の指示を受けることなく、自分自身のペースでいつでも自由に学習ができるようにという点にあった。

 報告書によると、このサイトに群がった子どもたちは、自分たちだけでコンピュータの基本操作を教え合ったという。彼らは、クリックやドラッグの仕方、異なるメニューの選び方、コピペの仕方、ワードやペイントソフトの使い方、インターネットへのつなぎ方、背景の壁紙の変え方、などをすることができるようになった。このプロジェクトは、研究者や政府当局者から、インドや世界中の貧困な人々をコンピュータ時代に招き入れるものとして称賛された。

→(参考) CNNリポート: CNN on slumdog Millionaire's Real inspiration



 しかしながら、コンピュータ・キオスクを実際に訪問してみると、少し違う現実が見えてきた。インターネットはほとんど機能していなかったので、ほとんど使われていなかった。教育番組は利用できなかった。また、子どもたちが唯一理解できるヒンズー語のコンテンツも提供されていなかった。子どもたちはジョイスティックなどの操作を覚えたが、実際に費やす時間のほとんどはペイントソフトやコンピュータゲームだった。子どもたちを指導する教師やインストラクターもいなかった。近隣地区の両親たちは、このキオスクに複雑な感情を抱いていた。歓迎する住民もいたが、大部分の親たちは、キオスクが子どもたちにとって有害だと感じていた。ある母親は、「私の息子は学校での成績もよかったし、宿題も熱心にやっていたのに、今ではコンピュータゲームに夢中になり、学校の勉強がおろそかになっている」と(筆者に)語った。つまり、コンピュータを使った最小介入教育方式は、ほとんど教育効果がないことがわかったのである。

 ※訳者注:著者の現地調査は、2000年時点のものであり、その後「壁の穴」がどう改善されたかは、本書ではわからないが、上記のCNN特番の映像を見ると、コンピュータの仕組みやコンテンツ、ネット接続環境などもかなり改善されているようにも思われる。この社会実験に関する詳しい情報は、次のウェブサイトを参照されたい。

Hole-in-the-wall.com

 このようなICT導入プロジェクトは、ICTを通じて人々の生活を改善しようという真摯な動機で実施されたものだが、思いもかけない失敗に終わるケースが少なくない(日本でも、1980年代、政府のかけ声のもとで各地にニューメディアが導入されたが、ほとんどは失敗に終わったという先例がある)。その大部分は、ハードウェアとソフトウェアを導入することだけに関心が向き、ヒューマンな側面、ソーシャルな側面がおろそかにされた結果だといえる。

 ICTへのアクセスというのは、物理的な、デジタルな、人的な、社会的な資源からなる諸要因の複雑な配置の中に埋め込まれたものである。もし新しい情報技術への有意義なアクセスが提供されるとするならば、コンテンツと言語リテラシーと教育コミュニティと制度などが十分に考慮されなければならないだろう。

 そのためには、従来の「デジタルデバイド」という概念装置に代わって、「社会的包摂」という概念枠組みを採用することが必要だ、と著者は考える。

<社会的包摂>

 社会的包摂、社会的排除の概念は、もともとヨーロッパで開発されたものである。個人や家族や地域社会が社会的に全面的に参画し、自分たちの進路をコントロールできるようにすることを目指すもので、そのために、経済資源、雇用、教育、健康、住宅、余暇活動、文化、市民活動などの関連要因を考慮に入れる点に特徴がある。

 本書では、新しい情報通信技術を用いて新しい知識にアクセスし、採用し、創造する能力が現代における社会的包摂にとってきわめて重要だとの認識に立っている。具体的な研究設問としては、次のようなものがある。
・ICTへのアクセスはなぜ、どのように社会的包摂にとって重要なのか?
・ICTへのアクセスを持つとはどういう意味か?
・社会的包摂へのアクセスは多様な環境の中でどうすれば最大化できるか?
 
 研究の焦点をデジタルデバイドから社会的包摂にシフトさせるというのは、次の3つの前提条件にもとづいている:
(1)新しい情報経済とネットワーク社会が出現していること、
(2)ICTがこうした新しい経済と社会のすべての側面で決定的に重要な役割を果たしていること、
(3)ICTへのアクセスがこうした新しい社会経済において、社会的包摂性を規定する要因になっていること

 なお、本書で用いられるデータは、インド、ブラジル、エジプト、中国、アメリカでのフィールド調査にもとづいている。

 著者によれば、社会的包摂を促進するICTへのアクセスは、単に機器やネットワークを提供するだけでは達成できない。目標となるクライアントやコミュニティのもつ社会的、経済的、政治的なパワーを増大するには、さまざまな資源を動員することが必要である。その資源とは、「物理的資源」「デジタル資源」「人的資源」「社会的資源」の4つである。物理的資源とは、コンピュータやテレコミュニケーションへのアクセス(従来のデジタルデバイド論の対象)を意味する。デジタル資源とは、オンライン上で利用可能なデジタル素材(コンテンツや言語)のことをいう。人的資源とは、リテラシーや教育の提供を意味している。社会的資源とは、ICTへのアクセスをサポートするコミュニティ、制度、社会構造(いわゆる「社会関係資本」のこと)をさしている。これら4つの資源とICT利用との間には、反復的な関係がある。つまり、それぞれの資源はICTの有効活用に貢献すると同時に、それぞれの資源はICTの有効活用の成果ともなっているということである。したがって、これらの資源をうまく活用すれば、社会的発展と社会的包摂を促進するという好循環を生むことが期待される。

→以下、詳しくは原書をご参照ください。
 Technology and Social Inclusion: Rethinking the Digital divide.

 
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 Pippa Norris, 2001, Digital Divide: Civic engagement, Information Poverty, and the Internet Worldwide.

 
この本が出版されたのは、10年前のことだ。当時は、世界規模のデジタルデバイド研究書として大きな反響を呼んだ。その後、デジタルデバイドが解消に向かいつつあるために、あまり注目されなくなったが、この分野の最重要文献であることは確かだ。ノリス女史はハーバード大学教授で、専門は(国際)政治学だ。多くの重要文献を発表しており、数々の賞を受けている。→www.pippanorris.comを参照。

 分厚い本なので、読まないままでいたが、時間的余裕ができたので、じっくりと全編を読むことにしたい。この本は、インターネットが世界レベルで政治に及ぼす影響に関する、初の実証的研究である。

 本書では、デジタルデバイドを3つの次元からなるものとして捉えている:

(1)グローバル・デバイド:先進国と途上国との間にみられるデジタルデバイド
(2)ソーシャル・デバイド:国家の中での情報リッチと情報プアーとの間のデバイド
(3)デモクラティック・デバイド:公共的な世界でデジタル情報資源を活用し、政治参加に役立てている人と、そうでない人の間のデバイド

(1)グローバル・デバイド

〔原文〕 The UN Development Report argues that productivity gains from information technologies may widen the chasm betweeen the most affluent nations and those that lack the skills, resources, and infrastructure to invest in the information society.

・chasm  (地面、岩などの)幅の広く深い割れ目;深い淵。(意見・感情の)隔たり、食い違い

〔訳〕国連の開発レポートによると、情報技術から得られる生産性の向上は、もっとも豊かな国々と情報社会に投資するだけのスキル、資源、インフラを欠いた国々との間の隔たりを広げるかもしれないという。

〔原文〕 Yet at the same time digital networks have the potential to broaden and enhaunce access to information and communications for remote rural areas and poorer neighborhoods, to strengthen the process  of democratization under transitional regimes, and to ameliorate the endemic problems of poverty in the developing world.

・endemic 一地方独特の、風土性の

〔訳〕しかし同時に、デジタルネットワークは遠く離れた辺境地域や貧しい近隣地域では情報とコミュニケーションへのアクセスを広げ、促進することによって、発展途上の国家における民主化のプロセスを強化し、発展途上国における地域独特の貧困問題を改善するという潜在的可能性を秘めている。

(2)ソーシャル・デバイド

〔原文〕 Equally important , many official agencies have expressed concern about the development of a widening digital divide within societies.  Technological opportunities are often unevenly distributed, even in nations like Australia, the United States, and Sweden at the forefront of the imformation society.

・forefront  先頭、最前部;中心

〔訳〕同様に重要なこととして、多くの当局者たちは社会の「内部」でのデジタルデバイド拡大に対する懸念を表明している。オーストラリア、アメリカ、スウェーデンのような情報社会の先頭を走っている国においてさえ、技術的な機会はしばしば不均等に配分されている。

〔原文〕 The debate divides cyber-pessimists who emphasize deep-seated patterns of social stratification and the growth of an unskilled underclass in technological access, cyber-skeptics who believe that technologies  adapt to society, not vice versa, and cyber-optimists who hope that in affluent postindustrial societies, at least, the digital divide will eventually succumb to the combined forces of technological innovations, markets , and the state.

・succumb  屈服する、負ける

〔訳〕この議論において、サイバー悲観主義者、サイバー懐疑論者、サイバー楽観主義者の間で対立がみられる。サイバー悲観主義者はな深いところにある社会的階層化のパターンを強調し、技術的なアクセスにおける未熟練の下層階級の成長を強調する。サイバー懐疑論者は技術は社会に適応し、その逆ではないと主張する。そして、サイバー楽観主義者は、少なくとも豊かな脱産業社会においては、デジタルデバイドは最終的に技術革新とマーケットと国家に屈服するだろうという期待をもっている。

〔原文〕 Given substantial inequalities in the old masss media, it would be naive to expect that the Internet will magically transcend information poverty overnight. The more intriguing series of questions addressed by this book concern whether there are special barriers to digital technologies, such as their greater complexity or costs, and whether relative inequalities in Internet use will be similar to disparities in the penetration rates of older communication technologies.

・transcend (経験、理解の範囲を)超える;しのぐ
・intriguing 興味をそそる、おもしろい

〔訳〕旧来のマスメディアにおいても実質的な不平等が存続しているという現状を考えると、インターネットが情報の貧困を一夜にして魔術的に乗り越えるだろうと期待するのはナイーブすぎるだろう。本書で提示する、より興味をそそる一連の設問は、デジタル技術に対する特別の障害があるかどうか(例えば複雑さたコストの増大など)、そして、インターネットの利用における「相対的な」不平等が旧来のコミュニケーション技術の普及率格差と同様のものになるかどうか、に関するものである。

(3)デモクラティック・デバイド

〔原文〕 The last challenge, and perhaps the most intractable, concerns the potential impact of the digital world on the distribution of power and influence in political systems. There is growing awareness that a substantial democratic divide may still exist between those who do and do not use the multiple political resources available on the Internet for civic engagement.  

・intractable 御しにくい、手に負えない;処理し(扱い)にくい

〔訳〕最後のチャレンジ(そして、おそらくもっとも手に負えないこと)は、デジタル世界が政治システムにおける権力の分布や影響力に対してもつ潜在的インパクトに関する事柄である。実質的なデモクラティック・デバイドが依然として、市民の政治参加にとってインターネット上で利用可能な複数の政治的資源を利用する者と利用しない者の間で存続するかもしれない、という懸念が増大している。

<本書の概念的枠組み>

本書はインターネットと政治参加に関する包括的な概念枠組みに基づいて執筆されている。その枠組みは、ノリスによれば、次の図のようになっている。きわめて包括的なモデルであることがわかる。

           国家の文脈             政治制度             個人のレベル

Norris2001



〔原文〕 The national context, including the macrolevel technological, socioeconomic, and political environment, determines the diffusion of the Internet within each country. The instututional context of the virtual political system provides the structure of opportunities mediating between citizens and the state, including the use of digital information and communication technologies by governments and civic society. Finally, the individual or microlevel of resources and motivation determines who participates within the virtual political system. 

〔訳〕「国家」の文脈は、マクロレベルの技術的、社会経済的、政治的環境を含んでいるが、各国におけるインターネットの普及を規定している。バーチャルな政治システムという「制度的」文脈は、市民と国家の間を媒介すjる機会の構造を提供している。これには、政府や市民社会による情報通信技術の利用を含んでいる。最後に、資源や動機づけという「個人」あるいはミクロレベルは、誰がバーチャルな政治システムの中で参加するかを規定している。

※「個人」レベルの「資源」には、時間、お金、スキルなどが含まれる。また、「動機づけ」には政治への関心、自信、有効性感覚などが含まれる。

 以上、第1章の抄訳でした。これ以降、関心のある方は原書をお読みください。
 → Digital Divide 

※※ 本書が出版されたのは、2001年である。それから10年。インターネット世界の進歩は目を見張るばかりだ。とくにアメリカでは、大統領選挙でもオバマ氏がインターネット、とくにソーシャルメディアをフルに活用し、市民参加型の選挙を推進したことは、記憶に新しい。したがって、ノリス氏の本書に収録されているデータは、いまとなっては古くなっているものが多いことは否めない。ただし、本書で指摘されているようなグローバル・デバイドは、依然として大きなものがあり、参考にすべき点は少なくないと思われる。10年後のデジタルデバイドの現在はどのようなものか、それは読者であるわれわれ自身が検証すべきところだろう。
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