映画史でこの時期というと、1920年代後半に、トーキー映画が最初につくられ、1930年代に入ると、カラー映画の技術が開発されます。テレビなどに比べると、まさにドラスティックな変化がみられるわけですが、その社会的影響については、あまり語られてはいないようです。
【トーキー映画の登場】
トーキーというのは、「フィルム上の録音帯(サウンド・トラック)に音を記録し、映写時に画面と同調させて再生する発声映画」(村山,2003)のことをいいます。それ以前は、蓄音機や楽団を用いたり、活動弁士を通じて、外から音を付加していたことはありましたが、映画それ自体に音声が埋め込まれることはありませんでした。
※ちなみに、『トーキー』ということばは英語でtalkieですが、これは、talking pictureの古語だそうです。電話をtelephoneといったり、テレビをtelevisionというのも、同じ造語法といえます。Carriageということばも同じです。つまり、隠喩法の一種です。
世界初のトーキーは、1926年~28年にかけて、アメリカで登場したそうです。
【モノクロからカラー映画へ】
初のカラー映画には、「テクニカラー」という技術方式が使われていました。村山(2003)によれば、
では、世界初のテクニカラー映画は?というと、
しかし、テクニカラーの威力をまざまざと見せつけたのは、1939年製作の『風と共に去りぬ』ではないでしょうか。私自身、これまで何回となく繰り返し見て、そのたびに大きな感動をうけています。その美しいクリップ映像をYouTubeで見つけました。
カラー技術による超大作映画という意味では、映画史上でも重要な意味をもっているわけですが、そのコンテンツが「名作」かどうかという点については、評価が分かれるようです。主演のスカーレットが嫌い、心優しいメラニーが好き、大作だが名作とはいえない、などの評価も聞かれます。私自身は、一番好きな映画の一つですが、、
映画評論家はこの映画をどう評価しているでしょうか?佐藤忠男さんは、『世界映画史・上』の中で、4ページにわたって紹介、批評しています。少し長くなりますが、次に引用しておきたいと思います。
日本初のカラー映画は、1951年、木下恵介監督作品『カルメン故郷に帰る』とのこと。アメリカから20年近く遅れてのスタートでした(戦争による失われた20年?)。
参考文献:
G.サドゥール 丸尾定訳 『世界映画史』Ⅰ 1980年
佐藤忠男『世界映画史』(上)1995年 第三文明社
村山匡一郎編『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』フィルムアート社 2003年
【トーキー映画の登場】
トーキーというのは、「フィルム上の録音帯(サウンド・トラック)に音を記録し、映写時に画面と同調させて再生する発声映画」(村山,2003)のことをいいます。それ以前は、蓄音機や楽団を用いたり、活動弁士を通じて、外から音を付加していたことはありましたが、映画それ自体に音声が埋め込まれることはありませんでした。
※ちなみに、『トーキー』ということばは英語でtalkieですが、これは、talking pictureの古語だそうです。電話をtelephoneといったり、テレビをtelevisionというのも、同じ造語法といえます。Carriageということばも同じです。つまり、隠喩法の一種です。
世界初のトーキーは、1926年~28年にかけて、アメリカで登場したそうです。
先頭を切ったアメリカでは、まず伴奏音楽と効果音を画面に同期させたサウンド版『ドン・ファン』(1926)が、ついで歌唱場面を同時録音した『ジャズ・シンガー』(1927)が世に送り出された。そして28年、遂に完全な発声劇映画『ニューヨークの灯』が登場し、以降、世界の映画はトーキーが標準形式となってゆく(村山,2003より)。日本では、五所監督の「マダムと女房」(1931年)が最初です。アメリカから遅れること、わずか3年ですね。
【モノクロからカラー映画へ】
初のカラー映画には、「テクニカラー」という技術方式が使われていました。村山(2003)によれば、
現代的なカラー・フィルム・システムは1930年代にはいるまで出現しなかった。32年、ハーバート・カルマスらが創業した「テクニカラー映画会社」が三原色を3本のフィルムに分解感光させる方式、すなわちテクニカラーを開発したことで、本格的な色彩映画の時代が幕を開ける。とのことです。したがって、ネガのフィルムがモノクロの3倍も必要だったということで、ハリウッドに巨大なスタジオが登場し、スターシステムが確立した30年代に花開いたことは偶然ではないでしょう。
では、世界初のテクニカラー映画は?というと、
最初にこのシステムを採用したのはウォルト・ディズニーで、アニメーション映画『花と木』(1932)がテクニカラー映画の口火を切り、劇映画ではルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』(1935)が第一作となったというわけで、1932年、アニメ映画だったのです。そういえば、小さい頃、「ファンタジア」(1940年製作)というカラーアニメ映画を見たときの印象はいまでも強烈に残っています(日本公開は1955年)。
しかし、テクニカラーの威力をまざまざと見せつけたのは、1939年製作の『風と共に去りぬ』ではないでしょうか。私自身、これまで何回となく繰り返し見て、そのたびに大きな感動をうけています。その美しいクリップ映像をYouTubeで見つけました。
カラー技術による超大作映画という意味では、映画史上でも重要な意味をもっているわけですが、そのコンテンツが「名作」かどうかという点については、評価が分かれるようです。主演のスカーレットが嫌い、心優しいメラニーが好き、大作だが名作とはいえない、などの評価も聞かれます。私自身は、一番好きな映画の一つですが、、
映画評論家はこの映画をどう評価しているでしょうか?佐藤忠男さんは、『世界映画史・上』の中で、4ページにわたって紹介、批評しています。少し長くなりますが、次に引用しておきたいと思います。
この映画は1939年、大製作者セルズニックの総指揮下、当時としては空前の超大作として製作され、空前の興行成績をあげ、10部門のアカデミー賞を受けるなど、よき古き時代のハリウッドの記念碑のような豪快な大スペクタクル・メロドラマとなった。このように、肯定的な評価です。わたしもほぼ同意見です。サドゥールは、『世界映画史Ⅰ』のなかで、次のように述べています。
金持ちでありつづけること。落魄の哀傷などという気分は決して認めないこと。絶対に誰からも支配されたくないということ。これらの感情はアメリカ的精神の主要な柱であり、それを女性の立場から強烈に謳いあげたところにこの作品の格別の魅力がある。
ヴィヴィアン・リーが、これを熱っぽくしかも気位を失わないで演じていた。クラーク・ゲイブルの磊落豪放なスケールの大きさ、レスリー・ハワードの繊細なやさしい紳士ぶりも好対照であり、なによりもメロドラマに歴史劇のような風格を与えた作品の構えの大きさがあっぱれである。プロデューサーのデビッド・O・セルズニックは、脚本家や監督を片っ端から取り替え、そのいいところだけをつないでこの作品を完成させた。プロデューサー芸術とでもいうべき作品であった(佐藤,1995より)。
1939年は有名なベストセラー小説を映画化した『風と共に去りぬ』の驚嘆に値する大ヒットで特徴づけられた。南北戦争を南部人の立場から物語っているこの豪華なテクニカラー作品は、ヴェテラン監督ヴィクター・フレミングが演出したというよりも、製作者であるデヴィッド・O・セルズニックの手腕とクラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リー、オリヴィア・デ・ハヴィランドといった主演者たちのスター・ヴァリューに負う所大である。その最も優れたシーンは戦争の恐怖と荒廃を示した場面である。テクニカラー映画は、その後、イーストマン方式のカラー映画に凌駕されてしまいますが、最近では、デジタルリマスターでより再現力が高まるということで再評価されているようです。
日本初のカラー映画は、1951年、木下恵介監督作品『カルメン故郷に帰る』とのこと。アメリカから20年近く遅れてのスタートでした(戦争による失われた20年?)。
参考文献:
G.サドゥール 丸尾定訳 『世界映画史』Ⅰ 1980年
佐藤忠男『世界映画史』(上)1995年 第三文明社
村山匡一郎編『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』フィルムアート社 2003年
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