先に概要を紹介した、ハンセン著『環境、メディア、コミュニケーション』のうち、方法論としての社会構築主義とコミュニケーションとの関連を論じた第2章「コミュニケーションと環境問題の構築」の部分を読みながら、その概要をメモ風に記述しておきたい。

 <構築主義的なパースペクティブとは何か?>

 構築主義が登場したのは、1960年代から70年代にかけてのこと。基本的な視点は、、、「社会問題というのは、客観的な条件というものではない。社会問題や争点などが認識可能になるのは、会話、コミュニケーション、ディスコースによる問題の定義づけによるものである」。

 社会構築主義が広く知られるようになったのは、スペクター&キツセ『社会問題の構築』〔1977〕からである。このアプローチの主眼は、次の点にある。①ある問題や争点が「社会問題・争点」になるのは、だれかがそれについてコミュニケーションし、声をあげ、クレイムを申し立てる場合であり、②それを研究し理解するためにもっとも重要な次元は、クレイムが出現し、公共化され、主張される「プロセス」である。 この考え方が正しいとすると、研究で問われるべきは、あるクレイムが正しいか、それとも間違っているのかということではなく、なぜどのようにして、あるクレイムが広く受け入れられ、他のクレイムが受け入れられずに終わるかという点である。

 これはメディア・コミュニケーションの研究にも当てはまる。なぜなら、ニュースメディアが単なる「世界の窓」「現実の鏡のような反映」だとする伝統的な現実主義的見方を根本的に否定するものだからだ。構築主義的な視座は、ニュース研究において正確さや客観性といった役に立たない測定を迂回することを可能にする。なぜ役に立たないかというと、ある人にとって正確なものが、他の人にとっては歪んだものだからだ。 もし環境問題が「客観的」にそれ自体でアナウンスするものではなく、公共的なクレイム申し立てのプロセスを通じて初めて認識されるようになる、という構築主義者の議論を受け入れるとすれば、メディア、コミュニケーション、ディスコースが中心的な役割を果たし、研究の焦点となるべきだという点も明らかだろう。

構築主義者の議論はメディアの役割を理解する上で、クレイムがどのようにしてメディアの公共的アリーナにおいて促進・生産されるのか、メディアはどのようにして中心的なフォーラムとなり、それを通じてわれわれ受け手や公衆が環境、社会、政治を意味づけるようになるのかという点で含意を持っている。実際、多くの社会組織によるリアリティのシンボリックな構築の大部分は、いまや主としてメディアにおける表象としてつくられているのである。

 社会構築主義者によれば、ある社会問題は一定の「キャリア」パスをたどるという。スペクターとキツセは社会問題が4段階の自然史的過程をたどるというモデルを示唆している。ダウンズも「争点関心サイクル」というモデルを提示している。それによると、さまざまな社会問題は突然公共的なステージに出現し、しばらくの間そこにとどまり、それから次第に公衆の関心から遠ざかってゆくという。環境問題はその典型的な例である。ただし、このような自然史的なモデルに対しては、批判が多いことも確かだが、、。

<メディア報道のサイクル状の展開>

 その後、多くの研究において、環境問題のメディア報道が、ダウンズが示すようなサイクルのようなパターンを示すことが明らかになっている。環境問題のメディア報道に関する長期的研究が示すところによると、環境問題に対するメディアの注目は1960年代半ばに始まり、1970年代初期に最初のピークを迎えた。その後、1970年代から1980年代始めにかけて下がり続け、1980年代後半に急激に上昇し、1990年頃にピークを迎えた。それから1990年代を通じて再び下がり始めた。そして、2000年代にかなりの再上昇を迎えている。

 このようなサイクル状のメディア報道のトレンドは、次のような環境報道のキーポイントを裏付けるものである。

(1)社会問題としての「環境問題」あるいは「環境」といいう概念が公衆議題として初めて登場したのは、1960年代であった。もちろんそれ以前にも、公害報道などはあったが、エコロジーとか、より広い環境といった枠組みが公衆のアリーナに登場したのは、1960年代が初めてである(レイチェル・カーソンの『沈黙の春』がその一つのきっかけとなった)。その後、環境報道は増大していったのである。
(2)社会は「環境」のような問題に対する受容性を変化させる傾向がある。
(3)われわれが1960年代に環境/エコロジーのパラダイムを導入して以降、環境問題はメディアや公衆の議題上にとどまり続けた。気候変動に対する世界的関心の増大は環境パラダイムを確固たるものにした。

<クレイム申し立てとフレーミング>

 ここでは、クレイム申し立ての過程におけるレトリカルな側面について、イバラとキツセのいう「ヴァナキュラーな資源」およびフレーミングという概念をもとに検討を加えたい。イバラとキツセによると、社会問題の構築過程の中心にあるのは、言語あるいはディスコースだという。したがって、研究の中心はクレイム申し立て過程に関わる人々の「ヴァナキュラーなディスプレイ」にある。ここで、「ヴァナキュラーな資源」とは、クレイム申し立てで用いられ得るレトリカルなイディオム、解釈行為、場面の特徴などである。イバラとキツセは、次の5つの研究上の焦点をあげている。①レトリカルなイディオム、②カウンターレトリック、③モチーフ、④クレイム申し立てスタイル、⑤場面。

 イバラとキツセの考え方は、メディア・コミュニケーション研究で広く用いられている「フレーミング」と共鳴する部分が少なくない。例えば、リースはフレームを「社会的に共有され持続する組織化の原理であり、シンボルを用いて社会的世界を有意味的に構造化するもの」と定義している。ギャムソンによれば、「ニュースフレームは何が選択されるか、何が排除されるか、何が強調されるかを規定するものだ」としている。要するに、ニュースはパッケージにされた世界を提供しているのだ。エントマンはフレーミングを次のように定義している。「フレーミングとは、知覚された現実のある側面を選択し、コミュニケーションのテキストの中でより強調することによって、特定の問題を定義し、原因を解釈し、道徳的な評価を与え、問題解決を提示するものである」。クレイム申し立て者は、ニュース制作者と同様に、こうしたフレーミングを行っていると考えることができる。

フレーミングの概念はクレイム申し立てや社会問題の構築に関する分析を次の3つの中心的設問へと導く。 (1)何が争点か?(定義) (2)誰に責任があるか?(アクター、ステークホルダーの認定) (3)何が解決策か?(推奨される行為、処方箋)これらの問題に答えるためには、ギャムソンとモディリアニの分析枠組みが参考になる。彼らによると、フレーミングには、環境を意味づけるためのストーリー/イデオロギー/パッケージという面と、特定のフレームに貢献する構成要素のパーツの作用のふたつがあるという。したがって、彼らによると、「メディア・ディスコースはある争点に意味を与える一組の解釈パッケージ」である。構成要素とは、5つのフレーミング手段(どのように争点を考えるか)(メタファー、エグゼンプラー、キャッチフレーズ、描写、ビジュアルメッセージ)、および3つの理由づけ手段(それについて何をなすべきかを正当化するもの)(ルーツ、結果、原理へのアピール)からなっている。

 以上のように、構築主義者のパースペクティブは、なぜ特定の環境問題が公衆や政治的な関心を呼ぶ争点として認識されるようになるか、それに対し他の環境問題が(重要であるにもかかわらず)公衆の目に触れずに終わるかを分析し、理解する上で有益な枠組みを提供してくれる。構築主義的視座は、クレイム申し立て者の役割と社会問題を基本的にレトリカル/ディスカーシブな行為としての社会問題の定義づけに注目する。さらに、構築主義的視座は、社会問題というものが社会という曖昧模糊としたロケーションで現れるのではなく、認定可能な公衆のアリーナ、とくにメディアを通してアクティブに構築され、定義され、闘われるものであることを示している。メディアは、公共的なアリーナの一つとして、それ自身の組織的、専門的な制約と実践によって支配されているのである。

以上、第2章を要約してみた。構築主義的アプローチでメディア・コミュニケーションを論じた研究は、これまでほとんど見当たらなかったように思う。また、構築主義とフレーミング理論をうまく結びつけ、環境問題のコミュニケーション過程を論じた研究も、著者が初めてだろうと思われる。第3章以降の展開が楽しみだ。