基礎情報学  今回と次回は、西垣通氏の『基礎情報学』(2004)を読みながら、情報、メディア、心、社会についての理解を深めていきたいと思う。

 本書は、文系情報学の立場から、「意味作用に注目し、生命/心/社会をめぐる情報現象を、統一的なシステム・モデルによって論ずることにある」(II)」。そこで用いられている概念装置ないしキーワードは、「生物による意味作用」「オートポイエーシス理論」「ニクラス・ルーマンの理論社会システム論」「ホフマイヤーの生命記号論」「パースの記号論」「レジス・ドブレのメディオロジー」などである。これを著者独自の情報論をもとに、生命情報、社会情報、機械情報の各レベルにおいて情報システム論を考察したのが本書である。

 正直言って、これらの諸理論に十分通じていない私にとって、本書は難解である上、基本的な概念のとらえ方に関して疑問を感じる場面が少なくなかったので、やや的外れな批判的評価も多くなるかもしれないが、その点はあらかじめお許しいただきたいと思う。また、2つのやや難解な著書を読むのには少々時間がかかるので、このブログも、少しずつ更新しながら書き進めるということになろうかと思う。この点についても、気長におつきあいいただければ幸いである。

第1章 基礎情報学とは何か


 情報学という学問領域がいつ成立したかは知らないが、現在では、日本学術振興会の科研費対象研究領域においても、「情報学・人文社会情報学」として公式に認知されているところである。本書はこの2つの学際的な領域を包括する分野での基礎研究という位置づけを与えることができるだろう。本書は、「『生命と機械』という視点から、情報という概念を根本的にとらえ直し、情報の『意味』がいかに解釈され、いかに伝達されうるかを問うことから情報学にアプローチしようとする(p.6)」ものである。

 ただし、本書の扱うテーマはやや狭く、次の2つに絞られている。
(1)情報の意味作用はいかにして生まれるのか。
(2)情報の意味はいかにして社会的に共有され、社会的リアリティを形成するのか。

 著者によれば、情報はあくまで非物質的存在であり、実体概念ではなく関係概念である、としている(p.11)
果たしてそうだろうか?確かに「非物質的」であることは確かだが、だからといって「関係概念」だと決めつけるのはいかがかと思う。むしろ、梅棹さんがいうように、情報は世界の至る所に存在するものであり、感覚器官や脳神経系などによって知覚されるものと考える方が自然ではないだろうか?私見を述べさせていただければ、情報は宇宙の始め(ビッグバンによる生成)から、「物質」とともにあった「パターン」なのではないだろうか。つまりは、物質の形態を維持する働きをしているのが、情報の始原(これを私は「原情報」と名づけたい)ではなかっただろうか?

 もっとも、著者は「情報」が一種の「パターン=形相」であることは認めている(P.11)。

生命情報/社会情報/機械情報


 著者は情報を「生命情報」「社会情報」「機械情報」の3つに分類している。「生命情報」は、生命のレベルにおける意味作用として情報を扱うものである。社会情報とは、ヒトの社会において多様な伝播メディアを介して流通する情報をさしている。機械情報は、意味を捨象した「情報科学」や「情報工学」で対象とする情報のことをいう。私の考えでは、これに加えて、生命誕生以前から存在した「物質のパターン」もまた、情報といえるのではないか、と思う。これは、情報科学や情報工学で扱う情報と関連するが、「進化論」モデルの視点からは、厳密に区分されるものであり、繰り返しになるが、私たちの住む現在の宇宙の始めにあらわれた「存在」だと考えられる。これを「物質情報」と呼ぶことにしたい。そうすると、歴史的には、物質情報→生命情報→社会情報→機械情報という進化を認めることができるだろう。これはあくまでも評者の視点であり、著者はこうした進化論的な視座はとっていない。このレビューでは、むしろ、本書を土台として、これを進化論的(あるいは生態史観的)な視点から読み解くことにしたいと思っている

 著者によれば、生命システムと機械システムとの違いは、「歴史性」と「閉鎖性」にあるとしている。歴史性とは40億年にわたる歴史を背負った、あるいは生命体の誕生から現在までの歴史をもった存在ということで、生命は歴史をもつが、機械はそうした歴史性に欠けている。だから、「生命システムの反応(行為)は、常に予測をこえ、創発的に発展する可能性を秘めている。問題は、「閉鎖性」という点である

 著者によれば、「生命システム自体の観点に立てば、システムは閉じており、入力も出力も存在しないと言った方が精確なのである」(p.21)という。「入力と出力を見極めるのは外部にいる観察者であるが、生命システム自体は決してその視点に立つことはできず、ただ環境のなかで訳もわからず行為し続けるのみなのである。さらに、自らの内部と外部(環境)を区別することも生命システム自体にはできない。(p.21

 この部分は、評者にはまったく理解できない。細胞システムのレベルにおいても、器官レベルのシステム、個体レベルのシステムにおいても、さらには社会システムのレベルにおいても、入力と出力は明確に存在し、また「訳もわからず行為し続ける」わけでは決してないことは、むしろ自明の事実ではないだろうか?つまり、生命システムは、環境との間でモノ、エネルギー、情報を絶えず交換しているという意味では、「開放システム」としてとらえるほうが正しいのではないかと、評者は考える

 著者が生命を「閉鎖システム」としてとらえようとするのは、「オートポイエーシス」理論の影響によるのではないかと思われる。著者によれば、

 歴史性や閉鎖性という特徴は、実は「オートポイエーシス性=自己創出性」という特徴の一面にすぎない。これが生命システムと機械システムとを分かつ最大の相違点と言えるであろう。自動車やコンピュータは他の誰かが設計し、製作するものである。これを「アロポイエティック・システム」と呼ぶ。これに対して生命システムとは、外部の誰かによって設計製作されるものではなく、(変容を繰り返しつつ)自己複製する存在である。すなわち、過去の歴史にもとづいて、自己言及的・閉鎖的に自らをつくり続ける存在なのである。

 本書では、生命システムを「オートポイエティック・システム」として定義する。

 しかし、最近発展している「遺伝子工学」や「クローン技術」などに関しては、こうした生命システムの定義ではあてはまらないのではないだろうか。また、生命体が決して「閉鎖システム」ではなく、「開放システム」であることは、先に述べたように明らかな事実ではないだろうか。自己言及的=閉鎖的とはいえないのではないか?

情報とは何か


 著者によれば、「情報とは生命体の外部に実体としてあるものではなく、刺激を受けた生命体の内部に形成されるものである。あるいは、加えられる刺激と生命体とのあいだの「関係概念」である」(p.26)という。この「関係」という考え方にも疑問がある。私は情報を従来から「記号によって表象されるもの」と定義しているが、それは「関係」とは無関係である。上の文章からいうと、「刺激」はそれ自体としては情報ではないということになってしまう。生命体が感知する刺激は、一つのパターンであり、それ自体として情報としての資格要件を満たしていると考えられる。「関係」という用語を持ち出さずとも定義し得ると思うのだが、いかがだろうか

 著者によれば、情報とは「生命体にとって意味作用をもつもの」(p.26)だという。私の定義では、「意味作用によって表象されるもの」が情報ということになり、両者の間には微妙な違いがある。これに対し、著者はあくまでもオートポイエーシスにこだわって、情報を定義しようとする。
 生物はオートポイエティック・システムであり、刺激ないし環境変化に応じ、あくまで自分自身の構成にもとづいて自ら内部変容を続ける、その変容作用ことが意味作用である。したがって情報に関するこういった「自己言及=自己回帰」的な性質を明示しなくてはならない。

 その結果、著者は情報を次のように定義している。
情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターンである」(p.27)

 記号論との関連でいえば、「基礎情報学における具体的な「パターン」とは、いわばソシュール記号学における「記号表現」に対応するようなものと言えるであろう」(p。30)としている。私のとらえ方は逆で、情報とはむしろ「記号内容」に対応する存在ではないかと考えている。情報は、記号表現=記号内容という「意味作用」を通して、解釈主体に対し表象されるものではないだろうか?

記号と情報


 記号論には、ソシュールの系統とパースの系統があるが、本書の依拠する記号論は、主としてパースである。そこでパースの記号論についての著者の理解をみておきたい。
パースによれば、人間の思考とは一種の記号作用であり、それは記号(sign/representation)とそれが代替する指示対象(object/referent)および両者の関係を把握する解釈項(interpretant)という三項関係であらわされる。たとえば、医者が患者の発疹から病名を麻疹と診断するとき、記号は発疹、指示対象は麻疹であり、解釈項は医者の心のなかでつくられる麻疹のイメージである。すなわち、医者は発疹から麻疹という「意味」を読み取るわけであり、それが「仮説推量(abduction)」と呼ばれる思考の過程に他ならない(p.32)」
 もう一つ、著者が基礎情報学において依拠する記号論は、デンマークの生物哲学者ジェスパー・ホフマイヤーが提唱する「生命記号論」である。これは、著者によると、
その基盤はパース記号論である。端的に言えば、記号論の対象領域を生物にまで拡大し、「意味解釈を行う存在」のなかに微細な細胞から地球規模の生態系までもふくめようというのが、生命記号論である。すなわちパースの三項図式において、解釈項を担うのは通常ヒトの意識なのだが、それが生命体一般に拡張されるのである(p.33-34)」

 この考え方は、進化論的な視点からみると、よく理解できる。しかし、著者は、生命記号論からさらに進む。
生命記号論は、意味的な情報(記号)作用について述べるものの、意味解釈の図式を外側から示すだけで、その内部には目を向けない。情報を扱う内部メカニズムとして、生命体と通常の機械との決定的な相違は何であろうか。この点に関して洞察を与えるのは、前述のオートポイエーシス理論である。この理論によって、生命体がズレをともないつつ自らを創出し続けていく存在であること、歴史的・自己言及的な存在であって。アロポイエティックな機械とは本質的に異なることが初めて明らかになってくる(p.36)」

 以上が、第1章の若干批判的な紹介である。第2章では、オートポイエーシス理論に則って、「情報の意味解釈」を論じている。

第2章 情報の意味解釈


意味と価値


 この章では、まずシャノン&ウィーバーの「情報理論」モデルについて検討し、そこには意味が含まれていない、という自明の事実を指摘している。そのあと、コミュニケーション・モデルについて検討し、「情報の意味内容は基本的に、オートポイエティックな生命体である送信者と受信者の「内部」以外に存在しえないと考える」と結論づけている。

 問題はその次の節である。社会的コミュニケーションのモデルにおいては、「意味内容」「コード」などが検討の対象となってくる。記号学との関係でいえば、情報学では次のように考えることになるという。
 言葉とそのあらわすもの(意味内容)の対応に関しては、記号論/記号学において種々検討されてきた。この分野では一般に、言語に限らず、記号表現と記号内容(意味内容)とを結ぶ対応規則は「コード」と呼ばれているが、基礎情報学においても、「コード」が情報(パターン)と意味内容との対応を与えるものとしよう。言語の場合、コードは語彙や文法に支えられており、それなりの規則性をもっていることは当然だが、そこには恣意性や流動性が常に含まれている。(中略) 現実の言語においては多義語も多く、コードは不完全である。大半の意味内容は、文脈に依存して、すなわち「外情報」(実際の発話において切り捨てられた情報のこと)として受信者に伝えられるのだ。
 ゆえに基礎情報学ではむしろ、既存の決まった「意味内容」を伝達するというより、言語記号とともに「意味内容」が立ち上がってくるダイナミックスに注目しなくてはならない。・・・すなわち、「受信者が情報(パターン)を受けとって、そこでいかに意味を解釈するか」から考えていくわけだ。(p.51)

 ここで問題なのは、著者が「情報=記号表現」としている点だ。繰り返しになるが、私は「情報=記号内容」と考えているので、上の文章がどうにも理解できない。なぜ情報=記号内容かといえば、それは、情報の進化という視点に立って、生命体の出現によって、もっぱら「情報を表象する」という働きをもつパターン、すなわち「記号」というものが自立的に出現した、と私が考えるからだ。パースのいう「イコン」「インデックス」「シンボル」は、いずれも情報を表象することを主たる機能とするパターンの例である。そう考えると、記号表現=記号、記号内容=情報という関係性が素直に理解されるだろう。「言語記号とともに意味内容が立ち上がってくるダイナミックス」などという意味不明な表現を用いずに済むのである。次の文章も、なにかしら本質から外れた指摘のように思われるのだ。
 この場合には、「送信者→チャネル→受信者」というシャノン&ウィーバーの構図ではなく、送信者とチャネルをいったん括弧に入れた「情報→受信者」という構図にもとづくことになる。すなわち「受信者が情報(パターン)を受けとって、そこでいかに意味を解釈するか」から考えていくわけだ。(p.51)

 私の場合には、「受信者が記号を受けとって、そこでいかに意味を解釈して特定の情報を受けとるか」という構図になる。そこで、送り手と受け手が情報を共有すれば、コミュニケーションが成立したことになるだろう。これは、日常的な情報概念になじむことはいうまでもない。 情報は、コミュニケーション過程において、何らかの記号とコード(コンテクストを含む)を媒介として伝達され、共有されるものである。

パースの三項図式


 著者と私の認識のずれは、パースの三項図式の解釈においても見られる。著者はパースの三項図式を次のように記述している。
 これは、「第一項=記号表現、第二項=対象、第三項=解釈項」の三項関係としてあらわされる。「記号表現」とは、記号の物理的な乗り物(媒体上の表現)である。「解釈項」とは、解釈者の内部に形成される、「対象」の摸造である。たとえば、「火事だ」という叫び(記号表現)によって、それを聴いた解釈者の心のなかに、めらめら燃える家のイメージという「解釈項」が生成されるわけだ。いまの場合、「対象」とは、火事で燃えている具体的な家そのものである。
 端的に言うと、パースの記号(過程)とは、何か(記号表現)が自分とは違う何か(対象)を代置し、指し示しているというメカニズムをあらわすものである。ここで「情報(パターン)」は、言うまでもなく「記号表現」に対応するが、それがあらわす「意味内容」は「対象」と「解釈項」のいずれであろうか。
 ここでの「情報」が記号表現だというのは、決して自明のことではないと思うのだが、どうだろうか。むしろ、情報=解釈項、記号=記号表現、対象=情報が指し示すものや事象や概念など、と考えたほうが自然なのではないだろうか。上の例でいうと、「火事だ!」という叫びが「記号表現」であり、「めらめら燃えている家のイメージ」が情報だということになる。そうした頭の中のイメージが共有されたときに、はじめて情報は正しく伝達されたということができるだろう。さらに付け加えると、上の引用文中で、「記号表現」 とは記号の物理的な乗り物だというが、これも正しくない。記号の物理的な乗り物は「メディア」だからである。以前のブログでも示した次の図式を考えれば、情報-記号-メディアの間の関係は、次のようになっていると考えられる。

情報・記号・メディアの関係図
 だから、「情報の意味解釈」という言い方は正しくはなく、正しくは、「記号の意味解釈」を通じて、情報世界が立ち上がる、ということになるだろう。それが、われわれにとっての「情報環境」(あるいはリップマンの言葉で言えば「擬似環境」)なのである。

意味=価値の発生


 ここで著者は、情報の「意味」=「価値」としている。
 基礎情報学では、「意味」は生命体の生存と関連しており、進化によって発生したものであると考える。「何かが意味がある」というとき、われわれはそれを「何かが価値がある」と同義で用いることが多い。生命体の生存にとって有用であるもの、重要であるものが「意味」なのである、したがって、それは環世界のなかに存在する、生命体にとっての「価値」のことなのである。

 このように意味=価値とすることにも疑問が投げかけられる。世の中には、「意味」がなくても「価値」のある情報はたくさんあるだろう。たとえば、ツイッターでのつぶやきは、ほとんど意味のない情報かもしれないが、それに「価値」(あるいは「効用」)を見出す人は少なくないだろう。でなければ、ツイッターのはやる理由がわからない。逆に、「価値」はなくても「意味」のある情報というのも数多く存在する。売れない作家の小説などは、そうした例の一つかもしれない。つまり、情報の「意味」と「価値」は別物だということだ。経済的価値は、情報のもつ重要な特性の一つだ。それによって、情報が「財」となり得るからである。

生命システム


 生命体はシステムとして把握することができる。著者は、まず河本秀夫氏の生命体システム論をレビューする。
 河本秀夫によれば、生命システムは三つの世代に分けることができる。第一世代は、開放性の「動的平衡システム」であり、外界とのあいだで物質やエネルギーを交換しながら自己を維持し続けるシステムである。「ホメオスタシス」という生理的な性質が開放性の動的平衡システムによって実現されるのである。
 しかしながら、生命システムの性質はホメオスタシスにとどまるものではない。その最大の特徴は、自らを形づくる機能である。・・・単純な要素から複雑な秩序が生み出されるメカニズム、いわゆる「創発」のメカニズムが解明されなくてはならない。(中略) 
 部分的にせよ、生命体の生成や創発という問題に一定の回答を与えたのが、第二世代の「自己組織システム」であった。これは開放性の動的非平衡システムであり、1960年代から多くの研究者の注目を集めてきた。(中略)
 しかし、第二世代システムは、まだ真の生命体のモデルとしては十分ではない。(中略) 自ら境界をつくりだしながら、継続的に、、あえて言えば半永久的に、多様な創発現象を続けていくシステムこそ、生命体の名に値するのである。これが第三世代システムである「オートポイエティック・システム」なのだ。基礎情報学では、オートポイエティック・システムをもって、生命体のシステムと定義する。(Pp.65-67

 オートポイエティック・システムは神経生理学者のマトゥラーナによって提示された概念であり、「構成素が構成素を産出するという、産出プロセスのネットワークとして定義される。オートポイエティック・システムは環境との相互作用によって変容していくのだが、この変容過程を通じて、構成素は、自己を産出するプロセス(過程)のネットワークを絶えず再生産し、実現し続けるのである。(中略) そこにはもちろん物質やエネルギーの流入・流出はあるから、その意味では開放系と言えるであろう。しかし、産出(生成)プロセスのネットワーク自体としては閉じているから、オートポイエティック・システムである細胞は入力も出力もない自立的な閉鎖系とも言えるのである」(p.68)

 この記述も、私にはあまりよく理解できない。ネットワークは、脳神経系であり、その他の器官はネットワークとはいえないのではないだろうか?また、「システムが閉じている」というのも理解しづらいところだ。これについて、著者は、「観察者」と「行為者」という視点の区別に注目しなくてはならない、という(p.70)。
 生命体は、それ自身の視点から見ると、本来、外部と内部を区別できず、幻覚と現実の区別がない。(中略) 生命体自身は内部も外部もなく、ただひたすら行為をおこなっているにすぎないのだ。

 この部分がまた、よくわからない。生命体それ自身は、動物であるにせよ、人であるにせよ、「内部も外部もなく、ただひたすら行為を行っている」と言われても納得しかねる。ただし、「基礎情報学では、河本とは異なり、純粋なオートポイエーシス理論の発展に沿った議論の方向はとらない。 なぜなら、基礎情報学の分析対象は、オートポイエティック・システム自体というよりむしろ、情報の生成や伝達だからである(p.72)」。そして、とりあえずヴァレラやルーマンの議論を参照しながら、部分的には従来科学の「観察者/記述者の視点」をも併用することにする」としている。

 次のところで、著者独自の概念として、「原-情報」という用語が出てくる。これはもちろん、私の定義する「原情報」(=生命出現以前の物質パターン)とは異なる。著者によれば、生命情報はそのままでは生命体のなかに閉じ込められ、ヒト社会で通用する情報としてわれわれの前に姿をあらわすことはできない。(中略) それはあくまで潜在的・原基的な情報にすぎないモノであり、本書ではこれを「原-情報」と呼ぶ(p.73)」とtしている。

 そして、著者は、こうした「原-情報」が記述された結果を狭義の「情報」と定義している。
 「それによって生物がパターンをつくるパターン」という定義はもともと「生命情報」とくに「原-情報」に対応するが、それはヒトによる観察/記述をへて、狭義の「情報」である「社会情報」の定義ともなる。

 この部分も、正直言ってあまりよく理解できない。生命体のなかに閉じ込められている情報をあえて「原-情報」と定義し、狭義の情報と区別する必要がどれほどあるのだろうか?先に出てきた「外情報」と、「原-情報」は同じものなのか否か、その点も不明である。著者はさらに、「原-情報」「観察者」「両者の相互作用」が、パースの三項図式における、対象、解釈項、記号にそれぞれ対応することになる(p.75)、としているが、本当にそうなのだろうか?原-情報=対象、観察者=解釈項、両者の相互作用=記号ということになるが、このような関連づけがどの程度妥当性をもつかは疑問である。別のところで(p。87)、著者は次のように述べている。
ここで、パースの三項図式を想起しよう。第一項は記号表現、第二項は対象、第三項は解釈項であった。この図式をあてはめると、第一項が相互作用、第二項がシステムの「構造変化=原-情報」、第三項が観察項すなわち対象システムから抽出される「情報」となる。

 ここでの対応づけは、明らかに先の対応関係とは矛盾している。上の引用文が正しければ、記号表現=相互作用、対象=構造変化=原-情報、解釈項=観察項=情報となっている。しかし、解釈項=情報という定義は、著者の定義とは明らかに矛盾する。むしろ、ここでは私自身の定義(解釈項=情報)と一致するという、奇妙なことになるのだ。「構造変化=原-情報」というのも、理解しづらいところだ。

 それはさておき、ヒトの心(心的システム)に関する考察に進むことにしよう。

心的システム


 「心」は、しばしば「心的システム」と等値されるが、精確に言うと心的システムの一種であり、ヒト特有のものである。心的システムは、「意識」を核にして成立し、ヒトに限らず脳神経系をそなえた動物なら広くもっていると推測される。
 心的システムの構成素は、知覚にもとづく神経生理学的な現象、とくに脳神経系の発火がもたらす「イメージ」や「シンボル」にもとづいてつくられる。とくに心つまりヒトの心的システムの構成素を「思考」と呼ぶことにする。(p.89)

 心的システム=思考という定義づけにも、若干理解に苦しむところがある。「思考」だけではなく、「感情」もまた心的システムの重要な構成素なのではないだろうか?これについては、次のように述べられている。
(ヒトの心は)生命単位体とは異次元にあり、とりわけヒト特有の社会的存在である。その構成素である「思考」には、社会的存在である言語などのシンボル体系が投影されている。心は、「観察者」となれる唯一のオートポイエティック・システムであり、ヒト特有のシンボル体系を用いて対象を観察し、記述することができる。すなわち、観察者となりうるのは、ヒトの心だけであり、たとえば動物が観察者となることはできない。(p.90)

 これについても同意しがたいところがある。動物にも「観察力」はあるのではないだろうか。ただし、観察するのに用いる「記号」がヒトとは異なるだけなのではないだろうか。対象について「記述」する能力は、確かにヒト特有のものかもしれないが、「観察」し、それにもとづいて行動するという点では、動物は場合によってはヒト以上の能力をもっているかもしれない。

 制限字数に達してしまったので、今回のブログはこのあたりで終わりにしたい。

(次回へ続く)