基礎情報学 前回は、西垣通著『基礎情報学』の第2章までをレビューした。今回は、第3章と第4章を対象として、引き続きレビューを行ってゆきたいと思う。







第3章 情報の意味伝達


1 メディアのつくる擬制


 本章では、意味が「共有」され、社会的に安定して通用していくメカニズムを論じている。著者の「コミュニケーション」観は、オートポイエーシス理論にもとづくものであり、次のように表明されている。
 シャノン&ウィーバーのモデルを拡張したコミュニケーション・モデルを用いて、二人の人物XとYが対話しているとき、意味内容がXY間で小包のように往来していると考えるのは誤りである。XとYはそれぞれ、やりとりされる符号(パターン)という刺激に対応して構造的な変容をおこなうだけであり、マトゥラーナとヴァレラが主張するように、「情報は伝達されない」のだ。基礎情報学では、いわゆる社会的な「対話コミュニケーションによる合意形成」に対して懐疑的な立場をとるのである。(p.118)

 これも不可解な見解だ。「情報は伝達されない」とはどういうことだろうか?それでは、コミュニケーションはそもそも不可能ということなのだろうか?これに対する著者の回答は次の通りだ。
 しかし、このことは、コミュニケーション・モデルの単なる否定にはつながらない。むしろ、そういう本質的な不可能性にもかかわらず、あたかも情報伝達がおこなわれ合意が形成されていくように見える点に注意を払う必要がある。そこには社会的な「擬制(フィクション)のメカニズム」が存在するのであり、基礎情報学はその探求へと向かうのである。(p.118)

 著者は、コミュニケーションのメカニズムをオートポイエティック・システムの理論をもとに、次のように説明する。
 このことを、単に言葉の意味が文脈や使用者よるといった従来の観点から分析するのではなく、システム論的にとらえなくてはならない。その鍵は、第2章の末尾で述べた階層的自律システム(階層的オートポイエティック・システム)にある。すなわち、オートポイエティック・システム同士の対等な相互関係としてではなく、両者が構造的カップリングしてできる一段高レベルの複合的オートポイエティック・システムのなかで、コミュニケーションが生起しているととらえるのである。(p.119)

 ここで、「構造的カップリング」とは何を意味しているのだろうか。
 構造的カップリングは、オートポイエティック・システム同士の関係としてよく知られているものであり、当初は次のように定義された。

 二つ以上の単位体の行為において、ある単位体の行為が相互に他の単位体の行為の関数であるような領域がある場合、単位体はその領域で連結(カップリング)していると言ってよい。カップリングは、相互作用する単位体が、同一性を失うことなく、相互作用の過程でこうむる相互の変容の結果として生じる。

 自律システムが再帰的に攪乱される環境において絶えず相互作用するとき、自律システムは絶えず構造を選択する。これによって自律システムは、環境のなかで崩壊せずに作動し続けることが可能になる。ヴァレラは、このような構造変化の過程を「構造的カップリング」と呼んでいる。

 そこで、「まさに、対話システムという高次オートポイエティック・システムが安定して作動しているという事実こそ、「XとYのあいだで情報の意味)」ということに他ならない。(p。120)

 著者は、生命圏というものを、階層性をもったものとして捉えている。それはホフマイヤーの主張でもあった。
 生命記号論では、生命圏を、分子レベルから単細胞生物レベル、多細胞生物レベル、さらに生態系レベルにいたる「階層的構造体」としてとらえる。規則性(宿命)と自由(逸脱)とのせめぎ合いのなかで、次々に高次なレベルが創発してきたとホフマイヤーは主張するのだ。(p.122)

 これを基礎情報学の観点から読み替えると、次のようになる。
 基礎情報学ではこれを作動における制約・拘束関係と読み替えることになる、すなわち、高レベルのオートポイエティック・システムは自立性を制約され、アロポイエティック・システムと化す。たとえば多細胞生物の個々の細胞は、筋肉細胞や神経細胞などに分化し、決まった機能を果たすように作動を制約されるのである。そして、個々の細胞が決まった機能を果たすということは、多細胞生物の観察者から見ると、それらのあいだで情報の「意味の伝達」がおこなわれていることに等しい。すなわち、細胞間で情報が伝達されコミュニケーションがおこなわれていることは、個々の細胞から眺めるのではなく、視点のレベルを切り替えて多細胞生物という全体を眺めてこないと見えてこないのである。(p.123)

 さて、それでは次に、「コミュニケーションとメディア」についての著者の見解をみることにしよう。

コミュニケーションとメディア

著者は、コミュニケーションを情報学の視点から次のように定義している。
 「コミュニケーション」は、社会システムという自律システムの構成素である。それは基本的には一過性の出来事であり、社会システムにより生成され、また消滅する。したがって、社会システムは「オートポイエティック・システム」に他ならない。コミュニケーションの素材は、対話者のあいだで交換される「メッセージ」が代表的なものと言えるが、そればかりではない。より一般的には、対話者の「記述」をベースに織りあげられるのがコミュニケーションである。(p.131)」

 メディアについては、次のように幅広く定義されている。
 ここで「伝播メディア」とは、通常いわれる「メディア」に近いが、音波、文字、画、伝播といった物理的要素のみならず、郵便、テレビ放送、新聞、雑誌、書籍、映画といった社会的要素をもふくんでいる。すなわち、技術のみならず、社会制度によって成立しているものである。

 メディアは、当然のことながら、コミュニケーションと密接な関連をもっている。著者は基礎情報学の立場から次のように述べている。
 基礎情報学において、メディアとは単なる情報伝達用の補助媒体ではなく、「コミュニケーションを秩序づけるメカニズム」であり、それゆえ、社会システムと一体不可分の存在である。メディアが通信技術ばかりでなく社会制度をふくむことは言うまでもないが、それだけにとどまらない。コミュニケーションはメディアなしには存立しえないわけであり、コミュニケーションから社会システムが構成される以上、メディア抜きの社会システムなどまったく考えられないのである。

 このあたりの論述は、私にも十分理解できる。著者はさらに、メディアの分類を試みている。「伝播メディア」と「成果メディア」の区分である。
 メディアはコミュニケーションを二つの位相において秩序づける。第一は物理的・符号表現的位相であり、第二は論理的・意味内容的位相である。前者・後者に対応して、メディアを「伝播メディア」と「成果メディア」に分類することができる。両者は基本的には、ルーマンによって考察されたものであるが、基礎情報学では成果メディアのなかにさらに「連辞的メディア」と「範列的メディア」との区分をもうける。ここで、ルーマン社会学の成果メディアは「連辞メディア」に対応している。(p.138)

 ここで、「伝播メディア」とは、コミュニケーションの伝播する物理的(空間的/時間的)な範囲を拡大する機能をもつメカニズムと定義されている。こえは通常メディアと呼ばれるものである。一方、「成果メディア」とは、コミュニケーション同士の論理的なつながり、さらにはより広く意味内容的なネットワークを保証するメカニズムである。

 「連辞的メディア」と「範列的メディア」の区分については、次のように述べられている。
 成果メディアの中で、「連辞的メディア」とは、コミュニケーションの時間的・継起的な接続に関するものである。(中略) たとえば、土地の売買契約に関するコミュニケーションが生起したとき、本来その後続のコミュニケーションは広大な選択肢をもっている(侮辱だとして怒るとか、愛のしるしとして受けとるなど)。しかし、現実には「貨幣」という存在によって、意味的なつながりは経済的な地平に局限され、脇道に逸脱することなくコミュニケーション連鎖が実現することになる。同様に、学問的なコミュニケーションは、「真理」という存在によって、理論的に正しいか否かの検証をめぐり連鎖的に展開されていく。(p.140)

 基礎情報学では、さらに「範列的メディア」が加わる。それは、次のようなものである。
 「連辞的メディア」は、「二値コード」と「プログラム」を用いて後続コミュニケーションの実際の選択をナビゲートしていくのだが、一方、「範列的メディア」は、「概念の分類関係」を用いて意味内容的な一種のデータベース/知識ベースへのアクセスを実現し、コミュニケーションの並列的・代置的な選択肢そのものを整理し準備するのである。

 このあたりは若干難解なので、著者のあげる例で理解してみたいと思う。
 たとえば、「貨幣」に関連する経済的コミュニケーションの場合には、公共経済、労働経済、マクロ/ミクロ経済などといった分類にしたがって、選択の候補となるコミュニケーションがあらかじめ準備される。したがって、仮に公共経済についてのコミュニケーションがおこなわれているとすれば、公共経済以外の経済的な意味内容の地平は選択以前に排除されることになる。実際のコミュニケーション生成の場では、連辞的メディアと範列的メディアという二種類の成果メディアが協働して機能すると言ってよい。

 あまりよい例とはいえない気もするが、なんとか理解できた。次に、「マスメディア」の項に移ることにしよう。

近代社会とマスメディア

 著者はまず、情報の意味内容の伝達の仕方は、社会の様相が変化するにしたがって変わってきたという。ルーマンを中心とする社会学では、「環節的分化社会」(歴史以前の太古時代)、「成層的分化社会」(歴史時代の古代から中世まで)、「機能的分化社会」(近代)に分類しているが、それぞれにおいて特有のコミュニケーションがみられる。環節的分化社会では、口頭コミュニケーションが主役をしめる。成層的分化社会でも、口頭コミュニケーションが首座を占める。機能的分化社会になると、印刷技術の発達に伴い、一般国民がコミュニケーションに参加するようになった。メディアの進化とコミュニケーションの進化は、このように並行的に起こってきたと思われる。
 一般に、口頭コミュニケーションから文字、印刷物、さらに電子メディアへといたる歴史的な伝播メディアの発展過程において、メディアの形式は複雑化したと考えられる。そしてパーソンズやルーマンのいう「成果メディア(象徴的一般化メディア)」の有効性は、印刷物との連関において初めて位置づけることができる

 それでは、成果メディアは、機能分化システムにおいてどのような役割を果たしてきたのだろうか。この点については次のように述べられている。
 「成果メディア」すなわち「象徴的一般化メディア」とは、それぞれの機能分化システムにおいて意味内容的な逸脱が起きないようにコミュニケーションを継続的に生成させ、システムの破綻をふせぐメカニズムである。経済システム、政治システム、学問システム、家族友人システムなどそれぞれの機能的分化システムのコミュニケーションに関連して、それぞれ、貨幣、権力、真理、愛といった成果メディアが存在する。
 このような近代社会のコミュニケーションにおいて重要な役割を果たしているのは、マス・コミュニケーションだろう。これについて、著者は次のように述べている。
 基礎情報学においては、「社会システムと構造的にカップリングして複合体をつくっている、観察者という心的システムによる行為」が観察なのである。すなわち、本書における「観察」とは、基本的にあくまでヒトの心的システムがおこなう行為に他ならない。ヒトという生命単位体をベースに成立する心的システム(観察者)が世界を機能ごとに記述し、これをベースに機能別のコミュニケーションが形成され、さらに、これらコミュニケーション群の生成消滅を観察している別の心的システム(社会的観察者)が記述した結果をもとに「マス・コミュニケーション」が形成され、マス・コミュニケーションを構成素として「マスメディア・システム」という社会システムが成立する。これが、基礎情報学における全体社会の見取り図なのである。(p.151)

 この記述はわかりやすく、よく理解できる。著者はさらに、ルーマンとは違って、基礎情報学では、マスメディアは他の機能的分化システムよりも一段階上位の社会システムとして位置づけられるとしている。
 マスメディア・システムとは、「マス・コミュニケーション」を構成素とするオートポイエティック・システムである。マス・コミュニケーションは、各機能的分化システムと構造的カップリングした「社会観察者」の記述を素材として、新聞/ラジオ/テレビなどの伝播メディア上で織りあげられるものである。

 ここでの「社会観察者」とは、具体的にはジャーナリスト、キャスター、評論家、広告作成者、ライターなどがこれに相当する。また、マス・コミュニケーションが行う観察/記述行為は、機能的分化システムにおける「観察/記述についての観察/」であるから、一種のメタ・コミュニケーションである。それゆえ、マスメディアは一般の社会システムより一段抽象度の高い「メタ社会システム」だ、と著者はいう。

 その結果、社会の構成メンバーである個々の心的システムは、間接的にマスメディアの拘束を受けることになる。具体的には、それはマスメディアの与える「現実・像」としてあらわれる、と著者は考える。n

それでは、「現実」とは一体どのようなものなのだろうか?著者によれば、「それは、社会システム(機能的分化システムおよびマスメディア・システム)が人々の心的システムに与える「拘束・制約」に他ならない」(p.163)という。とくに、国家を根底に置く近代社会においては、マスメディアの提示する「現実-像」が重要な役割を果たしていると考えることができる。
 近代社会では現実が潜在化・断片化するため、人々を支える共同体性は失われてしまう。(中略) 近代社会でも擬似的な共同体性が希求されるのは当然のことであろう。こうして、擬似的共同体を与える「マスメディア」が必要不可欠になる。政治学者ベネディクト・アンダーソンが見抜いたように、近代国家とはマスメディアが支える「想像の共同体」なのだが、これを具体的に支えるのが、マスメディアのつくる「現実-像」に他ならない(p.169)
 さて、ここから先は、「図書館情報学」に関連したテーマについての論述が中心になっているので省略し、最後に「第4章 総括と展望」の部分を、抄録して書評を締めくくりたいと思う。

第4章 総括と展望


1 生命/社会/機械の情報学


 情報学は、世界を「情報」から眺めていく学問である。とくに本書で述べる基礎情報学では、情報の「意味」がヒトによっていかに解釈され、さらに他のヒトにいかに伝達されていくのかに関する基礎的な概念や枠組みがおもな検討の対象となる(p.199)

 ヒトレベルでは、情報=意味だと考える私にとっては、基本的に承服しがたい考え方だが、それはひとまず括弧にくくるとしても、情報学の対象が「情報の意味解釈」「情報の意味伝達」だけであるというのは、不十分ではないだろうか。情報活動には、「記号化(エンコード)」「伝達」「処理(変換)」「蓄積(記憶)」「情報化(デコード)」などがあり、それらを包括的に取り扱うのが、本来の基礎情報学ではないか、と私などは思っている。この点では、著者の「二項」的なアプローチには不満を覚える。
 基礎情報学では、基本的に三種類の情報概念を扱う。まず、情報とは本来すべて「生命情報」であり、これが第一の情報である。基礎情報学における広義の「情報」とは、生命情報に他ならない。(中略) 情報は生命の誕生とともに発生したのであり、それは「意味」の発生と同時の出来事であった。換言すると、情報とは、生物が生きる上での「意義=価値」に関連して出現したのである。(p.202)

 最後の「意義=価値(significance)」というのは、それ以前で定義された「意味=価値」と微妙に違うが、どうしてなのだろうか?「価値」はvalueであり、これを意義(significance)とか意味(meaning)と等値することは、情報の本質を曖昧にする恐れがないだろうか?この2つは、いずれも情報の意味とは異なり、情報の一特性として把握すべきではないのか、といった疑問を抱かせる。
情報を担う物理的存在は、一種の「パターン」である。より精確には、それは「生物がパターンをつくるパターン」と定義される。ここには、生物がおこなう情報の意味解釈の自己言及性=再帰性が反映されている。なお、「パターン」とは、生物すなわち解釈者から独立して存在するわけではなく、時空間にあらわれるフォルムとそれを認知する生物という、二者からなる関係概念である。(p.202)

 ここで、突然出てきた「フォルム」なる概念であるが、これは「パターン」と、どう違うのであろうか?それは、私が、生命誕生以前から存在していた「物質パターン=原情報」のことなのではないか?そう考えると、生命体は、原情報=フォルムを記号の表象作用によって「情報」として認識するようになり、そこから遺伝子による生命体の創造と維持、発展という新たな進化が誕生した、と解釈することが可能になるのではないだろうか?

 そう考えると、情報基礎学はまず、宇宙の創成とともにあらわれた原情報=フォルム、すなわち「物質情報」か説き起こし、遺伝子という記号によるフォルムの「情報」としての認識と生命体の誕生、すなわち「生命情報」の誕生への「進化」を扱うという順序で議論を進めるのが妥当なのではないか、と思うのだが、いかがだろうか?

 また、本書では一貫して、情報を記号と等値しているが、これにも疑問を感じざるを得ない。
 「パターン」としての情報の定義は、精確には「情報の担体」の定義である、記号論における「記号」と同様、基礎情報学における「情報」は、意味作用を担う物理的存在だけでなく、一般に広く意味作用の全体をあらわすことが多い。

 この記述も両義的である。情報=情報の担体=意味作用の全体、と読めるが、ここには、情報と記号という別概念の混同がみられる。先に図式で説明したが、情報の担体は記号であり、記号の担体はメディアだというのが正しいとらえ方ではないか、と私は思う。
原-情報を、観察者が観察し、抽出し、外部の伝播メディア上に記述することにより、初めて「社会情報」が出現するのである。これこそが第二の情報であり、基礎情報学が主として対象とする狭義の「情報」に他ならない。(中略) ヒトによって取り出され、言語をはじめヒト特有のシンボルで記述された生命情報が「社会情報」であり、これが人間社会で通用する狭義の「情報」なのである

 本書ではつねに、社会情報を一次元上の「観察者」「記述者」によって記述される情報をもって「社会情報」と定義づけているが、私はむしろ、上の引用部分中の「言語などのシンボル」で記述する能力が、人間特有の意味作用様式である点に注目すべきなのではないか、と考えている。パースの記号分類でいえば、生命体が扱う記号は、「イコン」→「インデックス」→「シンボル」へと進化してきたが、「インデックス」→「シンボル」への進化こそ、ヒトの「社会情報」生成の証といえるのではないだろうか?イヌが尻尾をふったり、鳴き声をあげて、特定の情報を伝えようとするのは、「インデックス」である。しかし、イヌは決して「シンボル」を操ることはできない。そこに、ヒト特有の情報伝達能力が認められるのである。そして、ヒトにおいても、低次元のシンボル(イコン的な性格をもつシンボル)から、最終的には「平和」など、恣意的な契約にもとづく「言語」というシンボルへという進化が認められるのである。
  (機械情報 (mechanical information) とは)社会情報の意味内容が潜在化し、表現形式である「パターン」という面だけをもつ情報であり、基礎情報学では最狭義の情報として位置づけられる。機械情報は効率的処理のために社会情報が変換されたもので、当初は日常的情報の効率的伝達のために用いられた。効率的伝達が可能になるには、信号の意味解釈が送信者と受信者のあいだであらかじめ共有されていなくてはならない。のろしのようなシステムでも電子的ネットワークでも、この点は同様である。(p.204)

 こうした「機械情報」の定義にも、疑問が投げかけられる。私の解釈では、情報の歴史的進化プロセスは、「物質情報」→「生命情報」→「社会情報」→「機械情報」という四段階を経て起こってきたと考えたい。したがって、「機械情報」が「表現形式であるパターンだけをもつ情報であり、最狭義の情報」だといわれても、ぴんとこないのである。むしろ、機械情報を「社会情報」が進化した、より高次の情報として位置づける方が、現実に沿っているのではないか、と考える。すなわち、情報(メディア)の進化過程をみると、グーテンベルクの「活版印刷機」が、最初の機械情報メディアであり、次いで、「写真機(カメラ)」の発明によって、写真という情報が現れ、映写機による映画、電話、ラジオ、メディアというように、電子メディアが発展し、コンピュータの発明により、デジタル化した情報が登場する。こうしたメディアで伝達される情報は、記号表現とともに、意味内容を伝えるものである。このように、情報やメディアというものを、進化論的な視点から捉えることが重要ではないだろうか?
 以下は中略して、結論部の「新たな社会システム」の部分を若干紹介しておきたい。

2 新たな社会システム


知識社会はくるのか

 近年のITの急速な発展によって、従来の産業社会は21世紀には「ポスト産業社会」あるいは「知識社会」へと変容するという声が聞かれる。規格品を大量生産する産業社会からサービス中心の知識社会に移行するとき、戦略資源も変化する。たとえば、ダニエル・ベルによれば、前者の戦略資源は土地と労働力だったが、後者の戦略資源は情報と知識であるという。(中略) (しかし、)20世紀産業社会のパラダイムのもとで「知識社会」論を単線的に理解するならば、かえって大きな誤りをおかす恐れも大きいのである。

(中略) マスメディア・システムは各機能的分化システムの上位に位置する「メタ社会システム」であり、各機能分化システム、さらに一歩進んで社会の構成メンバー全員の心的システムに一種の拘束・制約を与える。そして、この拘束はまさに、常識ベースと私的コミュニケーションとに反映される「現実-像」を介してはたらくのである。(p.227)

 しかし、インターネットが地球上に普及する近未来に、このような斉一的な現実-像が引き続き有効でありつづけることができるかどうかは疑わしい。インターネットが発達し、国境をこえて、あるいは国内の多元的なグループのなかで頻繁に情報が交換されるネット社会では、状況はおそらく一変してしまうであろう。
 インターネット・コミュニケーションは、従来のマス・コミュニケーションとは異なる「意味ベース」を形成し、それにもとづいて多種多様な「現実-像」を描き出す可能性が高い。思考や感性が多様化し、消費の欲望も多元化する。

  そして、最後に次のように締めくくっている。
 マスメディア・システムが唯一のメタ社会システムである近代産業社会に比べ、21世紀ネット社会ではインターネット・システムもメタ社会システムに加わるとすれば、両者の相互観察/相互批判の効果が期待できるであろう。すなわち、マスメディア・システムのなかにインターネットについてのコミュニケーション。インターネット・システムの中にマスメディアについてのコミュニケーションが生成展開されることで、それらにより構築される「現実-像」は変容していくはずだ。多面的、複眼的な広がりを獲得し、両者の補完的役割も期待できるかもしれない。

 以上が本書の概要である。問題点はいくつか散見されるものの、本書で展開された「基礎情報学」は、壮大なスケールをもつものであり、今後これをさらに発展させ、「応用情報学」へとつなげてゆくことが最大の課題といえるのではないだろうか。

(おわり)