アーキテクチャ  私は、大学で2000年以来、「メディア・エコロジー」という授業を受け持っているが、これに関連する書籍になかなか巡り会えず、苦労しているが、最近では、メディアに関連して「エコシステム」(生態系)という表現をあちこちで見かけるようになった。これは喜ばしい限りだ。ここでは、その中の一つ、濱野智史著『アーキテクチャの生態系』という本を取り上げて、紹介してみたい。
 「アーキテクチャ」ということばが少しなじみにくいので、その説明をまず。著者によれば、



アーキテクチャという用語は、米国の憲法学者ローレンス・レッシグが『CODE』(2001年)のなかで論じたものです。レッシグは、このアーキテクチャという概念を、規範(慣習)・法律・市場に並ぶ、ヒトの行動や社会秩序を規制(コントロール)するための方法だといいます。その後、この概念は、日本の哲学者・東浩紀氏によって、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズといったフランス現代思想の論者たちの権力論とひきつけながら、「環境管理型権力」と概念化されています。(p。16)

 具体例として、著者は飲酒運転の問題をあげているが、ここでは、もっとわかりやすい例として、「喫煙防止」の問題をあげておきたい。喫煙は体に悪いし、他人に迷惑をかけるのでやめましょう、というのが「規範」。喫煙を法律的に規制するのが「法律」、たばこ代を大幅に値上げするのが、「市場」、そして、「喫煙できる場所」を強制的に限定してしまうのが「アーキテクチャ」だといえる。アーキテクチャは、どちらかというと、「技術的な方策」といえるかもしれない。

 レッシグは、アーキテクチャのもう一つの特徴をあげている。それは、「規制されている側がその規制(者)の存在自体に気づかず、密かにコントロールされてしまう」(p.18)というものだ。デジタル社会における典型的な例は、「デジタル・コンテンツの不正コピーを制限・管理するDRM(電子著作権管理)技術」だ。レッシグは、こうした著作権管理システムが、自由な著作物の創造、表現を阻害する危険があるとして、「クリエイティブ・コモンズ」を提唱している。

 さて、著者は、アーキテクチャの概念を、より肯定的に捉えている。

 むしろ筆者は、
「アーキテクチャ=環境管理型権力」が持つ「いちいち価値観やルールを内面化する必要がない」「人を無意識のうちに操作できる」といった特徴を、より肯定的に捉えて、むしろ積極的に活用していくこともできるのではないか。それがレッシグのいうように、法律や市場といったものと並ぶ「社会秩序」を生み出す手法の一つであるならば、私はアーキテクチャを用いた社会設計の方法について、いままでにないさまざまな方法を実現する可能性を持っている」
と考える。

 本書で取り上げるメディアは、「ソーシャルウェア」と呼ばれるもので、ある特定のグループが協働で用いるソフトウェアで、その利用者の規模が「社会」にまで拡大したものをいう。具体的には、グーグル、2ちゃんねる、はてなダイアリー、ミクシイ、ユーチューブ、ニコニコ動画、などである。

 こうしたソーシャルウェアが、一種の生態系を構成している、と著者は考える。
 ソーシャルウェアが「台地」のように成長し、その上にまた別の「島」が生まれ、あるいはまたまったく別の場所に「風船」のような閉鎖系が形成される。こうした一連の「進化」の過程を、ISOが策定した「OS階層モデル」と、「生態系」や「系統樹」の比喩をかけあわせることで表現したのが、「アーキテクチャの生態系マップ」になります(p.25)

グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか?


 本章では、ソーシャルウェアの代表として、グーグルとブログについて、生態学的視点から論じている。グーグルの誕生のいきさつ、検索エンジンについては別のブログでも取り上げたので、ここでは省略する。「グーグルは機械か、それとも生命か?-梅田望夫VS西垣通論争」というのがおもしろかったので、それを紹介しておこう。これは、西垣通著『ウェブ社会をどう生きるか』(2007)で取り上げられた論点である。
 その中で西垣氏は、梅田氏が「神の視点」を実現すると述べたグーグルに対し、その検索結果は単なる「機械情報」の寄せ集め(データベース)にすぎないのであって、「生命情報」(あるいは社会情報)を有していないとの批判を行っています。(中略) しかし、筆者の考えによれば、こうした西垣氏の批判は、半分正しく、半分まちがっています。
 たしかにグーグルは、西垣氏もいうように、その裏側の仕組みそのものは「機械情報」で構成されており、その検索結果は、どれだけ正確にみえたとしても、機械的な産出に基づいて配置されているにすぎません。ましてグーグルは西垣氏もいうように、いわゆる「人工知能」ではない。その点では、西垣氏による批判は正しい。
 しかし、その一方で、グーグルは単に「機械情報」しか提供していないのかといえば、これは誤りです。なぜならグーグルというのは、ウェブ上の人々が、はたしてどの情報をリンクしているのかに関する文脈情報を、ページランクによって解析し、検索結果に反映させているからです。つまり、グーグルの検索結果で上位にランクされる情報は、すでに多くの人々によって指さされ、評価されたものです。
 筆者の考えでは、こうしたグーグルが「当たり前」のような存在になったという事実が、グーグルが「生命情報」の提供者であるということを意味しているように思われます。(pp.46-47)

ブログの本質は何か?

 アーキテクチャの視点からいうと、ブログの本質は、「グーグルに検索されやすいウェブサイト」を自動的につくる仕組みだったという点にある、と著者はいう。それは、ブログが「パーマリンク」(ブログの記事単位で発行されているURL)を持っていることを意味している。ちなみに、今私が書いているブログも、公開された途端に、グーグルの検索結果に反映されることがわかる。著者にいわせると、「パーマリンクという仕組みはウェブページの情報を細かい単位に切り分け、情報のありかを「指差す」というリンクの効能(価値)を高めることに寄与するのです」ということになる(p.50)。また、ブログでは、SEO対策が自動的に施されているという点でも優れた特性をもっている。この他にも、ブログの特徴として、「ウェブサイトの見出しや要約などのメタデータを記述する「RSS]を自動的に発行することで、RSSリーダーですばやく、まとめて読むことができるようになったり、他サイトのコンテンツに再利用されやすくなったりするという点」などがある、と指摘している(p.53)。これらの特徴により、ブログは情報の「検索されやすさ」「発見されやすさ」「指示のしやすさ」を高めるのに寄与しているのである。このことは、「ブログが、グーグルに検索されやすいというアーキテクチャ的特性を備えていた」(p.57)ことを示している。つまり、「ブログとグーグルという二つのアーキテクチャの相互作用によって、結果的には優れたものが生き残っていく「淘汰」のメカニズムを作動させている」ともいえるのである。

 こうしたソーシャルウェアの成長を進化論的にいうと、<ウェブ→グーグル→ブログ>という流れになっていることがわかる。
 この矢印の関係は、「新世代=後続世代のソーシャルウェアは、先行世代のアーキテクチャの特性を生かし、それに最適化するような仕組みを採用することで、自らの効用や価値を高めてきた」と記述できます。
 逆に、<ウェブ←グーグル←ブログ>と、←の関係を逆に遡っていくとします。すると、その矢印の関係は、「後続世代のソーシャルウェアは、先行世代の効能をさらに高めるのに寄与してきた」ということができます。つまり、新世代と旧世代のソーシャルウェアが、互いの成長を促進し、支えていくという、いわば「共進化」的な構図を見出すことができるのです。(pp.60-61)

「生態系(エコシステム)」を示す三つの現象


 次に著者は、ウェブ上のソーシャルウェアの進化・成長メカニズムを「生態系(エコシステム)」の比喩で説明している。
①人や情報の流れについて
 ウェブ上の情報流通のただ中に一度身を置いてしまうと、あたかもミームの自然淘汰が起こっているかのように実感されます。こうした感覚は、これも英語圏でよく用いられる「ブロゴスフィア(ブログ圏)」というブログ全体を指した英語にも表れているということができます。
 また、ブロガーと呼ばれる集団のなかには、よく名前の知られていて読者も多い「アルファブロガー」と呼ばれるユーザーも存在すれば、あまり有名でないユーザーも存在しており、そこにはある種の「弱肉強食」的な階層構造があることが知られています。・・・アルファブロガーの存在は、基本的にブログ全体から見ればごく少数に限られており、その希少なポジションを維持するために、さらに下位のレイヤーから情報=餌を捕食しようとしているわけです。このように、ブロガーたちが「新鮮なネタ」を追い求めてウェブ上を徘徊することで、弱肉強食的なハイエラーキーをつくりだしている状態は、しばしば「食物連鎖」にたとえられます。
②Web2.0的と呼ばれるサービス間の関係について
 Web2.0系と呼ばれるサービスは、それぞれ別個のURLとサーバの上で動いていたとしても、互いに緩やかな協調関係をつくっていることがしばしば強調されます。ブログであればトラックバックやRSSリーダーやpingがこれに相当します。また、「グーグルマップ」や「ユーチューブ」は、必ずしもそのサービス上にアクセスしなくとも、外部のサイトからその機能を呼び出し、埋め込むことができます(マッシュアップ)。
 こうしたサービス間の緩やかな関係は、ある生態系のなかで、さまざまな生命体や種族がそれぞれ完全に孤立することなく、相互に影響しあい、その循環的な関係のネットワークを通じて、共棲的な「生態環境」を生み出している様子にたとえられているのです。
③お金の流れについて
 ウェブ上のお金の流れについても、生態系の比喩を当てはめることができます。
 たとえば、「グーグル・アドセンス」という広告システムがあります。これはグーグル外部のウェブページに、そのページと連動した広告を自動的に掲載するという仕組みです。たとえばあなたのブログに、アドセンスを表示するためのコードを埋め込んでおくと、そのページの内容が瞬時に解析され、その内容と関連性が高いと判断された広告が自動的に表示されます。その広告へのリンクがクリックされると、事前にオークションへ入札された広告価格の一部が、ページの運営者に支払われます。
 ここでグーグルは、外部パートナーの代わりに広告主を捜し、どの媒体にその広告を表示すればいいのかを選別する「交渉」を肩代わりしているといえます。・・・さらに、ハードウェアコストの低下もあいまって、自社が運営するサービスのアクセス向上に専念すれば、ソーシャルウェアを事業とするベンチャー企業の持続可能性は担保されやすくなったといわれています。
 このようにアドセンスの成功は、グーグルと外部パートナーの間に、「Win-Win」の関係が築かれたことを意味しています。
 (つまり)グーグルをいわば苗床(プラットフォーム)にして、新たなソーシャルウェアが次々と(しかも安定的に)生まれる「生態系(エコシステム)」が形成されたといえるでしょう。(pp.61-67)

 引用が長くなってしまったが、要は、ウェブ上のプラットフォームであるグーグルと、ブログなどウェブ上の各種サービス運営者との間には、生態学的な「自然淘汰」「共生」「共進化」「棲み分け」などが生まれ、そこに新しい生態系(エコシステム)が形成されつつあるということだろう。

 本書における生態系のとらえ方については、次のように書いています。
生態系の比喩のポイントは、「ある環境において、膨大な数のエージェントやプレイヤーが行動し、相互に影響をしあることで、全体的な秩序がダイナミックに生み出されており、しかもそこから新たに多様な存在が次々と出現する」ということにあります。
 その光景は、「生態系」という言葉以外にも、「進化」「ミーム」「自然淘汰」「ニューラルネットワーク」「創発」など、さまざまな言葉で比喩形容されてきました。
 使われる言葉はさまざまですが、それらは基本的に、「部分が相互作用することで全体が構成されている」というシステム論的構図を持つという点で共通しています。(p.67)

 このような考え方に対して、さまざまな批判があることを指摘した上で、著者は、生態系の「相対主義」という観点に立つことによって、問題を解決することができるとしています。
 私たちがいま目の前に見ているウェブの生態系は、どれだけ目的合理的に進歩しているように見えたとしても、それはあくまで偶然の積み重ねによって生まれたものであり、しかもその進化の方向性は多様なものであるうるはずです。
 (中略) いま目の前にある単一のアーキテクチャの存続だけを願うことや、ある一つの進化の道筋だけを原理主義的に正しいものとして信仰することは退けなければなりません。ウェブの生態系は、グーグルの周辺だけに発生するわけではない。だとするならば、私たちは、ウェブ上のさまざまなアーキテクチャの生態系が生み出す多様性を捉えるために、「相対主義」的認識を取るべきなのです。(pp.72-73)

 以下の章では、2ちゃんねる、ミクシー、ツイッターなど個別のウェブサービスについて、アーキテクチャ生態系の視点から論じている。

第3章 どのように<グーグルなきウェブ(2ちゃんねる)は進化するか?


 2ちゃんねるに関しては、「便所の落書き」といった批判がある一方で、ときには目を見張るような高レベルの議論や情報収集・交換が行われるという肯定的な評価もある。これらは、2ちゃんねるのコンテンツを問題にしたものだが、著者は「内容」に注目するのではなく、「どのようにして2ちゃんねるという巨大で広大なウェブ空間上において、「検索」という認知限界をサポートする仕組みを有しないままに、膨大なユーザーの間でのコミュニケーションや情報交換がうまくワークしているのか、そのメカニズムを生態系の視点から捉えようとする。

2ちゃんねるは、「dat落ち」といって、一つのスレッドに1000以上の書き込み(レス)が入ると、自動的にそれ以上書き込めなくなり、過去ログを参照することができなくなります。・・・こうしたアーキテクチャ上の特徴から、2ちゃんねるはグーグルなどの検索エンジンには捕捉されにくいという性質を持っていたわけです。
 2ちゃんねるのアーキテクチャ上の特性としてよく指摘されるのが、「スレッドフロー式」と呼ばれる仕組みです。2ちゃんねるでは、たとえば「哲学」「ノートPC」「ニュー速」といった具合に、特定の話題ごとに「板」と呼ばれる単にで分割されており、その中に数十から数百の「スレッド」がぶら下がるという構成になっています。
 スレッドフロー式では、基本的に「直近でなんらかの書き込みがあったスレッド」から順にソート(整列)されていきます。(そのため)「スレッドがフローする」ということになる。
 2ちゃんねるのコミュニケーション・メカニズムの特性は、まさに「フロー」(流動する)という点にあるように思われます。ですから、ある特定のトピックに関するスレッドが寿命を迎えた場合、そのトピックについての議論を続けたいと願うのであれば、新たにだれかが同一トピックのスレッドを立ち上げる必要があります。逆にいえば、たいして盛り上がりもしないトピックは自動的に2ちゃんねるの生態系から淘汰されていくわけです。
 また、「最大1000スレまで」という2ちゃんねるの寿命に関する情報は、逆にそのスレッドの熱狂度や勢いを計測するためのバロメーターとしても使われます。たとえば「祭り」と呼ばれるようなイベントについて、スレッド上の書き込み数が急速に伸びていく際には、たいてい「10分で1スレ消費:と書き込まれ、いまこのスレッドが盛り上がっていることが、そのスレッドの読者たちの間で共有されるのです。
 さらに、2ちゃんねる上の情報流通メカニズムで重要な役割をはたすのは、「コピペ」です。・・・2ちゃんねる上の書き込みというのは、そのユーザーが別の2ちゃんねる上の場所で見かけた、ネタ的におもしろいと思った文章を、そのままコピペしたか、あるいは文章の一部分だけを改変したものであることが多いのです。(pp.85-87)

 このようなコピペによる情報伝播は、ドーキンスの「ミーム」伝播にもたとえられる、と著者は指摘している。ブログが「リンク」と検索エンジンの力によって広く伝搬していくが、これに対し、2ちゃんねるでは「コピペ」がミームとしての機能を果たしているのである。
 このように、2ちゃんねるでは、アーキテクチャ自体が「生態系」を運営するというよりも、ユーザーたちが進んでソフトウェアのように作動することで、そこでの情報流通メカニズムが全体的に機能しています。(p.89)
 2ちゃんねるには、「dat落ち」などを通じて、「常連を排除する」という仕組みが設けられている。また、「匿名制」が導入されているこれは、ウェブ上のアソシエーションが次第に「コミュニティ」に変質するのを防ぐという効果を生んでいる。ただ、それは運営者自身が特定のアーキテクチャを設計したということを意味するものではない。
2ちゃんねるの「dat落ち」という特性は、事後的に見れば、「常連を排除する」というコミュニティ活性化(流動化)機能をはたしているように見えるけれども(機能論=存続の論理)、その機能自体は、決してあらかじめそうした目的のために設計されたのではなく、また別の制約条件を受けて生み出されたものだった(発生論=生成の論理)。2ちゃんねるのアーキテクチャが生まれてきた背景にも、こうした進化論的な図式を当てはめてみることができるのです。(pp.93-94)

 それでは、2ちゃんねるという広大な情報フローの空間において、なぜ人々(2ちゃんねらー)はコピペをしたちまとめサイトをつくったりという「協力」をしているのだろうか?この問いに対し、著者は次のように答えている。
 そこで北田氏の考察が参考になるのは、「2ちゃんねらーたちは互いを『内輪』として認識している」という点です。しかも2ちゃんねるの内輪は、いわゆる「内輪」プロパーが持つイメージをはるかに超えて巨大なのです。その集合意識ないしは帰属意識が、互いに顔も見えないウェブ上での協働を支える信頼財(社会関係資本)として機能しているのではないかと考えることができます。

 2ちゃんねるのような匿名の巨大掲示板がこれほどの人気を博している理由は、おおきな謎であるが、これについて、著者は、「2ちゃんねるの匿名掲示板というアーキテクチャが、日本の集団主義/安心社会的な作法・慣習・風土にマッチしていたからではないでしょうか」と述べている(p.114)。これは、かなり説得力の高い説明といえるだろう。

第4章 なぜ日本と米国のSNSは違うのか?


 上で述べられていたこと、つまり、日本独特の文化にマッチしたアーキテクチャが受け入れられやすいことは、この章でミクシィについても当てはまると、著者は考える。

 ミクシィは2004年にオープンして以来、急成長を続け、いまや1500万以上の登録数を誇っている。その理由として、「招待制」という閉鎖的なアーキテクチャを備えていたことが大きな要因ではないか、と著者は考える。
 ミクシィは現在に至るまで招待制を堅持し続けており、それでもユーザー数を獲得しにくいはずの「招待制」を採用しているからこそ、ミクシィは日本最大のユーザー数を獲得しているという逆説的な事態を見出すことができます。(p.126)
※2010年3月、ミクシィは招待制を止めて登録制に移行した(評者の注)
 なぜ閉鎖的なミクシィは日本でとりわけ受容されたのか。その問いは一般的には次のように考えられています。それはミクシィの「外側」のウェブ空間に比べて、安心で安全なコミュニティだからである、と。
 逆にいえば、ミクシィの外側に広がっているウェブ上の空間は、不健全で、不安感なしでは使えず、居心地がよくないものであるというニュアンスが込められています。

 たしかに、2000年代半ばまで、ネット空間は2ちゃんねる上での「誹謗中傷」「爆弾の作り方」、ネット炎上など、ネガティブな印象をもたれてきた。そこに「ミクシィというSNSが、雑多で猥雑なウェブ空間から「隔絶」したアーキテクチャとして、人々の目の前に登場した」(p.129)のである。

 ミクシィに独自の機能として、「足跡」機能があった。これはマイミクのだれかが日記を読んだことを示す機能だ。これについても、筆者は「互いに繋がっていることだけを確認する、自己目的型のコミュニケーションであり、日本に特有の「繋がりの社会」を反映したものだ、と述べている。
 米国の状況とは大きく異なり、日本のミクシィは、予期せぬ他者との接触や討議の機会に開かれたウェブという「公共圏」から退却するための「コクーン」(繭)として人々に受容されるに至りました。しかも、その安全な空間の内側において、人々がまだしも公共的で有益な議論を展開するのならばまだしも、ミクシィ上のコミュニケーションは、そのほとんどが、友人同士のたあいもない日記とそこにつくコメントと「足あと」を日々確認しあるというものでした。(中略) ミクシィの「足あと」機能は、「私はあなたの日記を読んだ」という<事実>を、もはやコメント欄で言葉を使うことなく通知できるという意味で、まさに「繋がりの社会性」をアーキテクチャ的に実現したコミュニケーション機能といえるでしょう。(pp.135-136)
※ミクシィの「足あと」機能は、2011年6月をもって廃止された(評者注)

 それでは、人々はミクシィに何を求めているのか?なぜ特定のミクシィ利用者は、ミクシィに「はまって」しまうのか?「ミクシィ中毒」と呼ばれる現象もあるが、それはなぜ起こるのだろうか?この点について著者は、「ミクシィが、さまざまな行動履歴を自動的に記録し、観察可能なものにすることで、人間関係の「距離感」という曖昧なものを認識し、評価し、解釈し、推察するためのリソースを提供してくれるアーキテクチャ」だからだと説明する。

 ミクシィは、招待制(だった)ということもあり、実名で登録するユーザーが少なくない。これも、「繋がりの社会性」を考えると、説明がつく。
 ミクシィに実名を登録するという行為は、実はミクシィ内における「SEO対策」のようなものとして-実名を登録しておけば、プロフィール検索で検索される可能性が高まるという意味で-機能しているといえます。「実名」という情報資源は、これまでネットをめぐる議論においては、議論や情報の信頼性を高めるものとして扱われてきましたが、ミクシィにおいては、「繋がりの社会性」を効率的に高めるものとして利用されているのです。(p.144)

 著者は、以上の理由から、米国初のSNS「フェイスブック」が日本で成功を収める可能性は99%ない、と論じている。
その理由はきわめてシンプルです。なぜなら、すでに日本では、ミクシィが確固たるポジションを築いているからです。ほとんどのミクシィユーザーにとって、同サービスを利用する価値は、「周囲の知人・友人がすでにミクシィを利用している」という点、つまり「ネットワーク外部性」にあります。ミクシィは、フェイスブックなどの米国型SNSとは異なる形で、「ソーシャルグラフ」(人間関係)を扱うアプリケーションとして日本の若者たちのコミュニケーション文化に深く根づいており、今後も日本では、フェイスブックのような新興SNSへのスイッチングが直ちに起こるとは考えにくいといえます。(p.149)

 この著者の見解は、最近のフェイスブックの急速な普及ぶりを見ると、必ずしも当たっているとはいいがたい。大学生に聞くと、「就活の道具」としてフェイスブックに登録する若者が急増しているようだ。これは、就活マーケットという情報圏において、フェイスブックのもつアーキテクチャがきわめて適合的だから、と説明することができるだろう。今後、フェイスブックが、どのような形で日本社会に浸透してゆくのか、見極めていきたいところだ。

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか? 


 本書を通じて明らかにしてきたのは、技術(アーキテクチャ)と社会(集合行動)が、密接に連動するかたちで変容していくプロセスでもありました。(中略)社会が技術を形作り、技術がまた社会をつくる、アーキテクチャと社会の間には、こうしたフィードバック・ループが複雑に絡み合って存在しています。本書が明らかにしてきたのは、規範・法・市場、そして文化といった他の要素との相互影響のなかで、アーキテクチャの進化プロセスが進んでいく過程です。私たちの社会は、これからも、上に見たようなアーキテクチャと社会の諸システムとの「共進化」的現象を目の当たりにすることになるでしょう。

 最後に、筆者は「生態系」の認識モデルの適用先を「ウェブ」から「社会」へと引き上げることを提案している。その理由は、「「社会」というものは、本来であればウェブよりもさらに複雑で、多様なプレイヤーたちが織り成すエコシステムのようなものとしてあるはず」(p.335)だからである。
 だとすれば、それもまた、偶然的で多様な進化のパスに開かれている。そしてその進化のパスに、私たちはアーキテクチャという新しい道具立てを通じて、関わりうる
と結んでいる。「メディア・エコロジー」の視点からも、たいへん参考になる本だと思う。

(おわり)