以前のブログでも紹介したように、梅棹忠夫氏は、汎情報論とも呼べるほど、情報を広く定義した。

  情報はそれ自体で存在する。存在それ自体が情報である。それを情報としてうけとめるかどうかは、うけ手の問題である。うけ手の情報受信能力の問題である。(中略) もっともひろい意味に解すれば、人間の感覚諸器官がとらえたものは、すべて情報である。

最近読んだ、脳科学者・茂木健一郎氏のエッセイ「デジタルの海の中で私秘性を取り戻すこと」 『環』vol.2005, pp.128-133. でも、これによく似た「汎情報」論が展開されている。
 概念としての情報は、現代人の世界観の中枢を占めるに至った。世界とは情報のことであると断言することに、違和感を抱く人がどれくらいあるか。単に、言語化された領域だけが情報であるわけではない。世界の事物の全てを情報の運動としてシミュレーションする「セル・オートマトン」として見れば、世界とはすなわち情報のことであって、その外側にはない。私たち自身もまた、情報の塊として世界の中で生まれ、情報として死んでいく。

 記号論においても、ロラン・バルトなどは、「汎記号論」とも呼べるとらえ方をしている。
  衣服、自動車、出来合いの料理、身振り、映画、音楽、広告の映像、家具、新聞の見出し、これらは見たところきわめて雑多な対象である。
 そこに何か共通するものがあるだろうか?だが少なくとも、つぎの点は共通である。すなわち、いずれも記号であるということ。これらの対象に出会うと、私はそのどれに対しても、なんなら自分でも気がつかないうちに、ある一つの同じ活動をおこなう。それは、ある種の読みという活動である。現代の人間、都市の人間は、読むことで時間を過ごしているのだ。彼はまず、とりわけ映像を、身ぶりを、行動を読む。この車は、その所有者の社会的地位を私に告げ、この服は、それを着ている人がどの程度常識的か型破りかを正確に私に告げる。それが書かれたテクストであっても、われわれは、第一のメッセージの行間から、たえず第二のメッセージを読み取ることになる。
 世界は記号に満ちているが、それらの記号が、すべてアルファベット文字や道路標識や軍隊の制服のように、すばらしく単純明快であるわけではない。われわれは、たいていの場合、それらの記号を<自然な>情報として受け取る。(ロラン・バルト『記号学の冒険』pp.48-50)

 ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』も、「汎記号論」の一つである。
 記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上にある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身振り、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関わる記号全てのことである。この地球上の生命は全てこの記号圏に産み落とされる。それにまともに適応することがそこで生き抜くための必要条件となる。生物が感知することは全て、その生物にとって意味を持つ。その意味とは、食物、逃避、生殖であったり、それへの失望であったりする。

 「汎メディア論」の雄といえば、言わずと知れたマクルーハンである。かれによれば、人間の拡張物はすべてメディアとして捉えられる。
  われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し、区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージである」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい(感覚)尺度に起因する、ということだ。

 「汎メディア論」かどうか、評価は分かれるかもしれないが、ニクラス・ルーマンの「メディア論」も、一種の「汎メディア論」として位置づけることができるかもしれない。ルーマンによれば、社会システムは、コミュニケーションの連鎖によって成り立っており、コミュニケーションにおける複雑性を縮減するメカニズムとしてメディアを定義づけている。この場合、メディアは「伝播メディア」と「成果メディア」に二分される。「伝播メディア」は、「言語」「文字」「出版」「電子メディア」という、いわゆる伝統的なメディアからなっている。これに対し、「成果メディア」には「貨幣」「権力」「真理」「愛」などが属しており、それぞれが「経済システム」「法・政治システム」「学問システム」「親密関係のシステム」など、「機能分化システム」の固有メディアを構成している。このように、ルーマンのメディア概念は、社会システムにおいてコミュニケーションを創出する重要な媒体として位置づけられているようだ。「成果メディア」は、伝播メディアによってコミュニケーションが伝達される際に、受け手に対してその意味が誤解されることなく明確に伝わる、すなわち複雑性が縮減するような働きをするという「コンテクスト」的な役割をになっていると解釈できるのではないか、と思われる。

 このようにみると、汎情報論も汎記号論も汎メディア論も、概念的には相互に重複する面があり、これらを総合することによって、「情報・記号・メディア」の一般理論を構築することも可能ではないかと思われる。それについての考察は、関連文献を少しずつ読み進めながら検討していきたいと思う。

参考文献:

大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学-ルーマン社会システム論の射程と限界』NTT出版
西垣通(2004)『基礎情報学』NTT出版