ニクラス・ルーマンは、パースの記号論にまったく触れていないが、彼のコミュニケーション・メディア論モデルを、パースの三項関係に当てはめてみると、どのように理解できるだろうか?次のような三項関係になるのではないか、と思われる。

ルーマンのメディア論の三項関係



 ルーマンによれば、社会システムは、コミュニケーションの連鎖からなる閉鎖的、オートポイエティックなシステムである。そのコミュニケーションは、情報→伝達→理解という3つの位相から成っている。この場合、「情報」とは知覚的意味形象(パースいう記号と同義か?)、「伝達」とは他者の意図から特定の意図を選択する位相を示し、「理解」とは、誤解や曲解と区別される選択をあらわす。コミュニケーションは、この三重の選択の総合と考えられる。この過程を通して、社会システムにおける「複雑性」が縮減されることになる。

 大黒岳彦氏の『<メディア>の哲学--ルーマン社会システム論の射程と限界』にあげられている例を引用すると、Bという人物がAという人物に『雨だ』という言葉(言語)を発した場合、「情報」の次元では、「晴れだ」「曇りだ」「雪だ」とは異なる表現を選択していることになる。また、「伝達」の選択とは、『傘を持って行った方がいいよ』『洗濯物をはやく取り込め』『運動会は中止だ』『外出はやめて家にいよう』といった様々な意図からの選択を意味している。さらに「理解」の次元は、こうした発話者の意図が正しく理解されているか、それとも誤解されるかといった選択を意味している。それぞれにおける不確実性を縮減するのが、「言語メディア」「伝播メディア」「成果メディア」だということになる。

 以上をパースの三項関係にあらわしたのが、上の図である。この三項関係において、発話者の意図が正しい「理解」につながれば、コミュニケーションが成立し、社会システムの複雑性が縮減されたということができる。

 しかし、この図式は、パースの本来のモデルとは似て非なるものである。ということは、ルーマンのコミュニケーション図式は、パースのモデルで説明できるものではない、といえるかもしれない。あるいは、ルーマンのモデルを換骨奪胎して、次のようなモデルも考えられるかもしれない。

ルーマンの三項関係の換骨奪胎


 これだと、私の考える三項関係モデルとほぼ一致するので、理解しやすい。ただし、ルーマン研究者からは、誤解も甚だしいと怒られそうだ。もっとも、ルーマン自身は、彼の社会システム論は「発見のツールにすぎない」といっているので、ツールとして使わせてもらうのは、決して的外れともいえないのではないかと思う。

 『雨だ』という例に則してモデル化すると、次のようになる。

伝達・理解・情報の三項関係




 なお、ルーマンは、「伝播メディア」と「成果メディア」を次のように定義づけている。

(1)伝播メディア
 「言語」「文字」「出版」「電子メディア」など。コミュニケーションの範囲を拡張する働きをするもの。
(2)成果メディア
 「貨幣」「権力」「真理」「愛」など。コミュニケーションの内容を一定方向に誘導し、ただしい理解に導く役割を果たすもの。それぞれ、「経済システム」「政治システム」「学問システム」「親密関係システム」に対応する。

 問題は、ある状況において、コミュニケーションが円滑に成立することであり、つまりは意図した「情報」が相手に正しく伝わることなので、上の図は、あながち間違った理解ともいえないと思うのだが、いかがだろうか?それとも、これだと、ルーマン論者からは、例の悪しきコミュニケーションの「乗り物」「小包」モデルだと決めつけられる可能性もある。しかし、私自身は、「小包」モデルのどこが悪いのか、いま一つ理解に苦しむのだが、、、

 なお、付け加えれば、ルーマンがなぜ、「貨幣」「権力」「真理」「愛」の4つを「メディア」と呼んだかも、理解に苦しむ。このような「汎メディア論」の有効性の有無も問われるところだろう。従来の記号論のタームでいえば、「成果メディア」は、「コンテクスト」あるいは「コード」と重複する概念のような気がする。この点も、今後さらに検討すべき課題といえるのではないだろうか?ルーマンの原書(とくに『社会の社会』)を熟読しながら、少しずつ検討を加えてみたいと思っている。