今週の講義では、インターネットの歴史を概説することになっている。その際に悩むのは、はたしてインターネットは米ソの冷戦をきっかけとして開発されたのかどうか、という点だ。

 Neil Randall著『インターネットヒストリー』の第1章は、次のような文章から始まっている。

 1960年代、米国は ソビエトからの核攻撃を恐れ、対策を練っていた。そして、少なくともやっておく価値があると判断したのが、軍内部のコミュニケーションシステムを壊滅から守ることだった。
 解決策として、コミュニケーションを中央コンピュータシステムで集中管理することをやめた。集中管理を行うマシンさえ存在しなければ、このマシンが爆撃で吹き飛ばされることを心配しなくていい。
(中略)
 そこで登場してきたのが、パケット交換方式と呼ばれる技術である。この名付け親はドナルド・ディビスだが、基本原理は1960年代にポール・バランが発表した論文から誕生した。 
  これだと、「インターネット誕生の背景には、米ソの冷戦があった」という説がもっともらしく聞こえる。確かに、インターネットの誕生を支えた基本的技術の一つに、ポール・バランの提案した「パケット交換技術」「分散処理技術」があったわけだから、この説は必ずしも間違っているとは言えない。

 しかし、インターネットの原型ともいわれるARPANETそのものは、軍事目的のために開発されたわけではなかった。この点に関して、喜多千草氏(科学技術史)は、『インターネットの思想史』の中で、次のように説明している。

 「インターネットは国防総省の分散型コンピュータネットワークARPAネットから育ってきたものであり、もともと核攻撃による中央情報施設壊滅を避けるために構想された」という俗説がまことしやかに流布している。実はこの説は、ARPAネットと空軍に提出されて棚上げされた別のネットワーク構想との半ば意図的な混同から生まれた。インターネットの普及が加速し始めた1994年、7月25日号の雑誌タイムが早くもこの説を紹介した。
  喜多氏によれば、こうした俗説が誕生したのには、二つの経路があったという。「ひとつには、バランのネットワーク計画がそのままARPAネット計画の端緒になったと、開発の経緯を事実誤認した場合。もうひとつは、通信方式の技術的特徴の同一性をもって、同じ方式を採用したARPAネットも核攻撃を避けるという目的があったために分散型のネットワークになったに違いないと拡大解釈した場合である」。

 それでは、ARPAネットにはどのような開発思想があったのか?喜多氏は、国防総省の高等研究プロジェクト局(ARPA)の三人の情報処理技術部(IPTO)長(リックライダー、サザランド、テイラー)に焦点を当て、それぞれのネットワーク開発構想を詳しく検討している。その結果、リックライダーからテイラーへと引き継がれたネットワーク構想は、「コミュニケーションのメディアとしてのコンピュータネットワーク」という開発思想を基盤としたものであったことが明らかにされている。つまり、ARPAネットの開発思想は、決して軍事的なリスク回避といったものではなかったというのである。

 ただし、ARPAという組織そのものは、1957年の「スプートニクショック」とソ連の軍事的優勢に対抗して誕生したものであることは事実である。また、ポール・バランらの提案したパケット交換方式が、のちにARPAネットに採用されたことも事実である。ARPAネットと、その後のインターネット技術確立への道程には、実に多くの研究者や研究推進者たちの努力があったことは銘記すべきだろう。


参考文献:
喜多千草著(2003)『インターネットの思想史』(青土社)
ニール・ランダル著『インターネットヒストリー』(オライリー)