メディア・リサーチ

メディアとコンテンツをめぐる雑感と考察

2012年01月

グーグル 昨年末に出版された、グーグル本の最新刊『グーグル ネット覇者の真実』(スティーブン・レヴィ著)を購入し、さっそく読んでみたので、その感想を少し。

 本書は、これまでのグーグル本とは違って、初めて、インサイダーの視点からグーグルの歴史と現状について、多数のインタビューとドキュメントをもとに綴ったものである。630ページにも及ぶ大著で、読み進むのに苦労した。半ば斜め読みした感はいなめない。全体を通す筋は、2人の創業者、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンを中心に、グーグルの発展と挫折の歴史ドキュメントを生き生きと描くことにある。いわゆる「ハウツー本」ではなく、あくまでも、一ジャーナリストによるノンフィクションだという点に注意しておきたい。昨年ベストセラーになった『スティーブ・ジョブズ』にも似て、巨大IT企業の真実に迫る、迫真のドキュメントになっている。

"Google"の誕生


 1997年9月、スタンフォード大学の学生であったペイジとブリンは、彼らの開発した検索エンジンに、Googleという名前をつけることにした。その経緯は、次のようなものだった。

 最初に候補に挙がったのは、「何?」を意味する「ザ・ホワットボックス」。(中略) 次に候補に挙がったのは、ペイジのルームメイトが提案した「グーゴル(Googol)」という言葉だった。それは10の100乗を表す数字の単位で、天文学的数字を表す「グーゴルプレックス」という言葉にも使われていた。「僕らがやろうとしている仕事の規模にふさわしい名前だと思った」と、ブリンは数年後に説明している。
 実際はその単語のスペルをペイジが間違えて登録したのだが、それが怪我の功名になった。「グーゴル」というドメイン名はすでに使用済みだったからだ。だが「Google」はまだ使用可能で、しかも「入力するのが簡単で覚えやすいのも利点だった」とペイジは語っている。(P.53)

 興味深いエピソードだ。実際、現在のグーグルは、まさに天文学的単位の情報を検索し、編集しているからだ。

グーグル創業


1998年9月4日、ペイジとブリンは、スタンフォード大学在学(博士課程)のままで、正式に会社設立の手続きを行い、拠点をキャンパスの外に移した。グーグルというIT企業の誕生である。そして、「世界を変える」という野望達成のために、次々に、優秀な頭脳をリクルートした。採用にあたっての基本方針は、「嫌なやつら」は会社に入れるな、だったという。あるべき企業文化についても、こう考えていたのだった。
 
新入社員には、きわめつけの優れた技術力、ユーザー視点を最優先する姿勢、現実離れしているほどの理想主義を求めた。(p.61)

地球規模の脳の形成

 グーグルの知識は、地球規模の脳神経系にも喩えられる。

 グーグルは、ユーザーの検索内容から自殺を考えている可能性があるケースを探知し、各種の情報を提供することで救いの手を差し伸べられるプログラムを開発したという。つまり、人間の行動から次の行動を予測する手掛かりを集めたことになる。私たちの脳内でニューロンが新たな神経回路を形成するように、グーグルのバーチャル脳もまた学習を繰り返しているのだ。(p.102)

ブリンも次のように語っている。
「グーグルは究極的には、世界中の知識で脳の機能を補佐し増強するものになる。今の段階では、まだコンピュータで文章を入力する必要があるが、将来的には操作はもと簡単になるはずだ。話しかけるだけで検索する端末とか、周囲の状況を察知して、自動的に有益な情報を教えるコンピュータなどが登場するかもしれない。(p.103)

 こうした「人工知能」は、グーグルによって近い将来実現される可能性が高いのではないかと思われる。

 続く章では、グーグルの開発した、まったく新しい広告ビジネスモデル(グーグル経済学 莫大な収益を生み出す「方程式」とは)を扱っており、本書の中心ともいえる部分だが、私の関心とは少しずれるので、ここでは省略したい。

グーグルの基本哲学 「邪悪」になるな


 アップルのスティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学のスピーチで、「馬鹿になれ」という有名な台詞を残したが、グーグルの基本哲学は、「邪悪になるな」というものだった。この言葉が誕生した経緯は次のようなものだったという。
「この会議の何もかもが私の神経を逆なでしていた」とブックハイトは当時を回想している、、「「そこで、みんなを居心地悪くさせるかもしれないが、もっと興味深い提案を行うことにした。突然、『邪悪になるな(Don't Be Evil)』というスローガンが頭にひらめいたんだ。

 これに対する社内の反応は好意的なものだった。
「誰もがそのスローガンに満足してたけれど、とくにエンジニアたちにはその気持ちが強かった。まるで彼らにこう語りかけているかのようだったから。『いいかい、外の世界ではあらゆるタイプの企業が邪悪なことをしているけれども、僕らには常に正しいことだけをする機会が与えられているんだよ』」 (中略) 「邪悪になるな」は、グーグルが他社より「良い」会社であることを社員全員に手っ取り早く自覚させる手段になった。

 このスローガンは、グーグルの「企業文化」を体現するものでもあった。
「邪悪になるな」に象徴される価値観はグーグルの企業文化にあまりにも深く刻み込まれているため、もはや暗黙的なルールとして内面化されていると、ドーアは考えている。(p.222)

 昨年の東日本大震災の直後、いち早く被災者支援のための安否情報サイト「パーソンファインダー」を立ち上げたグーグルは、まさに「邪悪になるな」「良い会社」の価値観が反映されたものと受け止めることができよう。

グーグルのクラウドビジネス

 グーグルのクラウドビジネスは、Gメールのプロジェクトから始まった。その生みの親は、ポール・ブックハイト(「邪悪になるな」のスローガンを提唱した人)だった。他のメールシステムと差別化するために、彼は1ギガバイトという巨大なストレージを用意した。それは、競争相手の100倍以上であり、しかも無料だった。しかも、メールに最適化された広告を挿入するという新たなビジネスモデルも併せて開発したのである。

Gメールは、クラウドコンピューティングという新しいウェブサービスであった。
グーグルの潤沢なサーバースペースをメールのストレージとして有効活用するというのが、「私がGメールの開発を正当化させるために使った理由の一つだ」とポール・ブックハイトは語っている。「開発をやめるべきだという意見が出たとき、これはその後に続く新たな製品の基礎部分にすぎないと説明した。今の状況がこのまま続けば、やがてあらゆる情報がオンラインで保存されるようになるのは火を見るより明らかだったから」
 それこそ、「クラウドコンピューティング」の核をなす中心的価値観であることを人々はすぐに理解した。それは、従来はパソコンのハードディスクに保存されていたデータがインターネットを経由してどんな場所からでもアクセスできるようになるというものだ。ユーザーにとっては、情報は膨大なデータの「雲(クラウド)」の中に存在するようなもので、実際に物理的にどこに保存されていようと、好きなときに取り出し、また元に戻すことができた。(P.281)

 グーグルのクラウドは、1カ所につき10億ドル以上かけて世界各地に設置された巨大なデータセンターの中に格納されており、それぞれのデータセンターにはグーグルの自社製サーバーが大量に詰め込まれている。

 グーグルは、その意味では世界最大のコンピュータ企業なのであり、世界最大の「頭脳」でもあるのだ。その後、グーグルは、「ユーチューブ」「ピカサ」「グーグルドキュメント」などのクラウドコンピューティングサービスを次々と提供し続けていることは周知の通りである。さらに、携帯電話のマーケットにも参入し、アンドロイドという新しいモバイルOSを提供し、世界中でユーザーを増やし続けている。そのために、iPhoneを開発したアップル社との友好関係にもヒビが入ってしまったのは残念なことである。

 しかし、グーグルの「世界制覇」構想は、中国での思わぬ検閲によってつまづく。そして、2010年1月12日、グーグルは、中国本土からの撤退を表明したのであった。これは、「邪悪になるな」という基本思想に照らしてやむを得ない措置であった。

 もう一つの挫折は、フェイスブックの進出と、ソーシャルメディアでの立ち後れであった。

追われる立場から追う立場へ


 フェイスブックは、「ソーシャルネットワーク革命の最前線に立ち、人々が生涯にわたって築き上げた個人的なネットワークを通じて彼らを組織化することを目標にしていた」(p.583)。それは、グーグルのジーンとはまったく異なる遺伝子をもって誕生し、発展したウェブサービスである。グーグルは、基本的に、自ら世界中のネットワーク上に蓄積された情報を検索し、あるいは自ら築いた巨大な情報ストレージを提供するビジネスである。そこには、「ソーシャル」な側面が抜け落ちていたのではないだろうか。これに対し、フェイスブックは、ネットワークに埋め込まれた「社会関係資本」という巨大な「金脈」を掘り当て、そこから膨大な個人情報のデータベースを「採掘」し、ユーザーに提供することによって、巨額の収益を得るという、まったく新しいビジネスモデルだった、ということができる。グーグルは、この金脈を当てることができなかったため、フェイスブックの後塵を拝することになったのだ。
グーグルにとって最大の皮肉は、SNSが爆発的成長を遂げる瞬間に居合わせながらみすみすチャンスを逃したことだった。日々の喧噪の中で何度も繰り返された機会損失の典型例だった(p.587)。
 いまや、グーグルは追われる立場から、追う立場に変わっているのかもしれない。次の10年間に、グーグルからどのようなサービスが生まれ、それが情報の生態系をどのように作り変えてゆくのか、それは誰にも予想のできないことだろう。フェイスブックが、従来のグーグルとは異なる生態系(エコシステム)を作り出したことだけは確かである。両者の生態系がウェブの世界でどのように棲み分けてゆくのか、注意深く見守ってゆきたいと思う。

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ
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 メディア研究の重要な方法論の一つとして、「内容分析」というものがある。メディアのテキスト(あるいは画像)を数量的に処理することによって、メディアの内容(メッセージ)を分析するのがその目的である。最近では、新聞報道の分析をするときに、「記事データベース」を用いる機会が多くなった。

 それにも拘わらず、記事データベースから内容分析に至るまでのプロセスを解説してくれる本がない、というのが現状である。そこで、私なりに、その手順を考えてみたので、忘れないうちに、ここでメモしておくことにしたい。

 具体的な事例として、朝日、読売両新聞における「原発」報道をあげることにしたい。これは、私自身、来年度にもこれを対象として内容分析を行い、その結果を大学の紀要で発表したいからである。

手順1:
 記事データベースにアクセスし、「キーワード」で分析対象記事を抽出する。キーワードとしては、「原発」を用いることにする。ここでは、読売新聞の記事データベースを用いて説明したい。分析の単位は、1日ごとの記事報道とする。対象期間は、2011年3月12日以降とする。とりあえずは、3月13日の読売新聞(全国版)の記事を対象として、記事を検索したところ、合計39本の記事が得られた。それぞれの記事をコピーして、yomi0313-1.txtといった名称のテキストファイルとして、\c:genpatsu\yomi\yomi0313というフォルダに保存する。このフォルダには、合計39個のテキストが保存されることになる。

手順2:
 次に、この39個のファイルを結合して、yomi0313.txtという一つのファイルをつくりたいと思う。これには、Dosコマンドをつかえば、あっという間に作業が終了する。次のようなコマンドだ。

type *.txt  >  yomi0313.txst

これは実に簡単かつ便利なコマンドだ。39個の長大なテキストが、あっという間に一つのファイルに統合されるのだから、まったく驚くべきことだ。大いに時間の節約になるので、いろいろな機会に、ぜひ試してみたいと思う。このやり方は、ネットで検索しているうちに発見した方法だ。コマンドは、上記のフォルダ内で実行することが必要である。

手順3:
 こうしてできたyomi0313.txtにテキスト処理を施す。余計な部分を削除したり、整形するのが目的だ。見出しの部分は、本文と重複するので、その部分だけを削除したいと思う。読売新聞の場合、見出しには■または◆が先頭についているので、「■または◆を含む行」をすべて削除することにしたい。

 実は、このような処理は、「秀丸」など、通常のテキストエディタではできないので、Perlというテキスト処理用のプログラムを使わざるを得ない。私のようなプログラミングの苦手な人間にとっては、かなり高いハードルの作業だったが、「入門書」を購入して初歩の勉強をしたのに加えて、ネット上でPerlの見本サンプルを入手することができたので、そのプログラムを紹介することにしたい。

 入力ファイルは、yomi0313.txt、出力ファイルはyomi0313b.txtとして、次のようなPerl スクリプトを書いて、perlで実行させればよい。yomi0313.txtから入力して、yomi0313b.txtというファイルに出力させるのである。これらのファイルは、いずれも同じフォルダにあることに注意されたい。このプログラムでは、「■または◆を含む行を削除する」という作業を行っている。私などの超初心者には、このプログラムの意味の半分もわからないのだが、これで実行した結果、首尾良くできたので、正解なのだろうと思う(結果良ければ、すべて良しw)。高性能のパソコンを使っているせいか、計算はあっという間にできた。

$file="yomi0313.txt";
$outfile="yomi0313b.txt";

open (IN, $file) or die "$!"; # ファイルを開く
open (OUT, ">$outfile") or die "$!"; # ファイルを開く

flock(IN, 2); # ファイルをロックする
while(){
push(@lines,$_);
}
foreach $line (@lines) {
if($line !~/■|◆/) {
push(@new,$line); # 配列@newの最後にlineを追加する

}
}
truncate(IN,0); # ファイルINのサイズを0に変更する
seek(IN,0,0); # 書き込み位置を先頭に戻す
print OUT @new;
close(IN);
close(OUT) ;

 これで、テキスト処理の前準備の段階は完了である。あとは、KH Coderというテキスト・マイニングソフトを活用して、内容分析を行えばよい。KHCoderを使った分析については、稿を改めて紹介することにしたい。

 

 今回は、高名な動物行動学者であるリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(1976)を読みながら、情報あるいはメディアというものの本質を探ってみたい。ここでの情報は、ヒトや動物の遺伝子レベルの情報であり、それが「身体」というメディアを通していかに生存を確保する役割を演じているかが考察の対象となっている。以下では、本書の中でとくに情報と関連の深いと思われる章を読みながら、それを情報史観の観点から再解釈してゆきたいと思う。

1 人はなぜいるのか


 この本の主張するところは、われわれおよびその他のあらゆる動物が遺伝子によって作り出された機械にほかならないというものである。成功したシカゴのギャングと同様に、われわれの遺伝子は競争の激しい世界を場合によっては何百万年を生き抜いてきた。このことは、われわれの遺伝子に何らかの特質があることをものがたっている。私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちでもっとも重要なのは無情な利己主義である、ということである。ふつう、この遺伝子の利己主義は、個体の行動における利己主義を生みだす。しかし、いずれ述べるように、遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、もっともよく自分自身の利己的な目標を達成できるような特別な状況も存在するのである。

2 自己複製子


 ドーキンスは、地球上に生命が誕生した経緯を次のように推論する。
 あるとき偶然に、とびきりきわだった分子が生じた。それを自己複製子とよぶことにしよう。それは必ずしももっとも大きな分子でも、もっとも複雑な分子でもなかったであろうが、自らの複製を作れるという驚くべき特性をそなえていた。(中略) 自己複製子は生まれるとまもなく、そのコピーを海洋じゅうに広げたにちがいない。
 このようにして、同じもののコピーがたくさんできたと考えられる。しかしここで、どんな複製過程にもつきまとう重要な特性について述べておかねばならない。それは、この過程が完全ではないということである。誤りがおこることがあるのだ。(中略)
 誤ったコピーがなされてそれが広まってゆくと、原始のスープは、すべてが同じコピーの個体群ではなくて、「祖先」は同じだが、タイプを異にしたいくつかの変種自己複製子で占められるようになった。あるタイプは本来的に他の種類よりも安定であったに違いない。このようなタイプのものは、(原始)スープの中に比較的多くなっていたはずである。
 ある自己複製子には、個体群内に広がってゆく上でさらに重要であったに違いないもう一つの特性があった。それは複製の速度、すなわち「多産性」である。選ばれてきた自己複製分子の第三の特徴は、コピーの正確さである。
 この議論における次の重要な要素は、ダーウィン自身が強調した競争である。自己複製子が増えてくると、構成要素の分子はかなりの速度でつかい果たされてゆき、数少ない、貴重な資源になってきたにちがいない。そしてその資源をめぐって、自己複製子のいろいろな変種ないし系統が、競争をくりひろげたことであろう。 (中略)おそらくある自己複製子は、化学的手段を講じるか、あるいは身のまわりにタンパク質の物理的な壁をもうけるかして、身をまもる術を編みだした。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らのいれもの、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械を築いたものたちであった。

 少し引用が長くなったが、これが生命体誕生の経緯の推論である。ここで、「細胞」というのは、遺伝子という記号の入れ物という意味では、最初の「メディア」といってもよいかもしれない。この細胞からやがてさまざまな器官が生まれ、人間の身体や心を生みだしたのだろう。その意味では、ヒトもまた、遺伝子たちの「生存機械」なのだ、とドーキンスは述べている。
彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的な論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という名で歩き続けている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。

3 不滅のコイル


 「生存機械」説は、ここでもさらに続く。
われわれは生存機械である。だが、ここでいう「われわれ」とは人間だけをさしているのではない。あらゆる動植物、バクテリア、ウィルスが含まれている。 (中略) われわれはすべて同一種類の自己複製子、すなわちDNAとよばれる分子のための生存機械であるが、世界には種々さまざまな生活のしかたがあり、自己複製子は多種多様な機械を築いて、それらを利用している。サルは樹上で遺伝しを維持する機械であり、魚は水中で遺伝子を維持する機械である。

 ここで、「生存機械」とよばれるものは、「身体メディア」と呼び変えてもいいのではないかと思う。遺伝子(DNA)が記号であるとすれば、遺伝子記号にとって、「生存機械」は、その「乗り物」にすぎないからである。

 DNA分子という記号は、さまざまな働きをしている。
DNA分子は二つの重要なことをおこなっている。その一つは複製である。つまり、DNA分子は自らのコピーをつくる。人間は、おとなでは10の15乗個の細胞からできているが、はじめて胎内に宿ったときには、設計図のマスター・コピー一つを受け取った。たった一個の細胞である。この細胞は二つに分裂し、その二つの細胞はそれぞれもとの細胞の設計図のコピーを受け取った、さらに分裂が続き、細胞数は、4,8,16,32と増えていき、数兆になった。(中略)ここで、DNAのおこなっている第二の重要なことへと話が移る。DNAは別の種類の分子であるタンパク質の製造を間接的に支配している、4文字のヌクレオチド・アルファベットで書かれた、暗号化されたDNAのメッセージは、単純な機械的な方法で別のアルファベットに翻訳される。それは、タンパク質分子をつづっているアミノ酸のアルファベットである。(P.46)

 DNA遺伝子記号は、さらに複雑で専門分化した身体メディア、すなわち、目や耳、口、手などの器官を作り出すことにも成功した。その結果、人間をはじめとする生物は、外部の環境との間でさまざまな情報をやりとりしたり情報処理する能力をもつに至ったと考えることができる。それでは、DNA遺伝子は、なぜ「利己的」とよばれるのだろうか?
個々の細部にとらわれずに、あらゆるすぐれた(つまり長命の)遺伝子に共通するなんらかの普遍的な特性を考えることができるだろうか?こうした普遍的な特性はいくつかあるかもしれないが、この本にとくに関係のふかい特性がある。すなわち、遺伝子レベルでは、利他主義は悪であり、利己主義が善である。利己主義と利他主義のわれわれの定義からしてこうなることは避けられない。遺伝子は生存中その対立遺伝子と直接競い合っている。遺伝子プール内の対立遺伝子は、未来の世代の染色体上の位置に関するライバルだからである。対立遺伝子の犠牲のうえに遺伝子プール内で自己の生存のチャンスをふやすようにふるまう遺伝子は、どれも、その定義からして、生きのびる傾向がある。遺伝子は利己主義の基本単位なのだ。(p.65)

 

4 遺伝子機械


 メディアとしての身体を考えるとき重要なのは、「脳神経系」だろう。生物が情報伝達、情報処理を行う器官だからだ。これについて、ドーキンスはどのように説明しているだろうか。
 生物コンピュータの基本単位である神経細胞、すなわちニューロンは、その内部作用がトランジスターとはすこしも似ていない。たしかに、ニューロンからニューロンへ伝えられる信号はディジタル型コンピュータのパルス信号といくぶん似ているように思われる。だが、個々のニューロンには、他の成分との連絡がわずか3つではなく、数万もついている。ニューロンはトランジスターよりも情報処理のスピードは遅いが、過去20年間エレクトロニクス業界が追求してきた小型化という点では、はるかに進んでいる。これは、人間の脳には数十億のニューロンがあるが、一個の頭骨にはわずか数百個のトランジスターしか詰め込めないことを考えれば、よくわかる。

 神経系は現代社会でいえば、電話ケーブルなどの情報通信ネットワークに相当するが、生物の場合は、ニューロンという細胞を基本単位としている。その集合体が、神経ネットワークとなって、行動の場合には、筋収縮の制御・調整を司っているのである。それが、生物の生存にとって不可欠なものであることはいうまでもない。
 脳が生存機械の成功に貢献する方法として重要なものに、筋収縮の制御・調整がある。脳がこれをおこなうには、筋肉に通じるケーブルが必要である。それが運動神経である。しかし、筋収縮の制御・調整が遺伝子の保存につながるのは、筋収縮のタイミングが外界のできごとのタイミングとなんらかの関係があるときだけである。

 それでは、生物相互間のコミュニケーションというのは、遺伝子進化論の立場からは、どのように説明されるだろうか。ドーキンスは次のように言う。
 ある生存機械が別の生存機械の行動ないし神経系の状態に影響を及ぼすとき、その生存機械はその相手とコミュニケーションしたということができよう。影響というのは、直接の因果的影響をさす。コミュニケーションの例は無数にある。鳥やカエルやコオロギの鳴き声、イヌの尾を振る動作や毛を逆立てる行動、チンパンジーの歯をむき出すしぐさ、人間の身ぶりやことばなど、生存機械の数々の動作は、他の生存機械の行動に影響をおよぼすことによって間接的に自分の遺伝子の繁栄をうながす。動物たちはこのコミュニケーションを効果的にするために骨身を惜しまない。

 こうしたコミュニケーションは、情報を伝える働きをしている、とドーキンスは述べている。
 望むならば(ほんとうは必要ないのだが)、この鳴き声をある意味をもったもの、つまり情報(この場合には「迷子になったよ」という情報)を伝えるものと考えることができる。この情報を受け取りそれに従って行動する動物は利益をうける。したがって、この情報は真実だといえる。(中略) 動物のコミュニケーション信号はもともと互いの利益をはぐくむために進化したものであって、その後意地の悪い連中にあくようされるようになったのだと信じるのも、やはり単純すぎる。動物のあらゆるコミュニケーションには、そもそも最初からだますという要素が含まれているのではなかろうか。なぜなら、動物のすべての相互作用には少なくともなんらかの利害衝突が含まれているからだ。

 さて、以下の数章はとばして、次に、「ミーム」という、ドーキンスが発明した概念についての説明をみることにしよう。これは、人間の文化という特異な特性を扱ったものであり、人間というメディアに特有の記号単位(遺伝子)をあらわす概念だからである。

11 ミーム - 新登場の自己複製子 -


 人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼようやくできる。もちろん、私は、この言葉を通俗的な意味でではなく、科学者が用いる際の意味で使用しているのだ。基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。(中略) 言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、しかも、その速度は、遺伝的進化より格段に速いのである。
 言語は、その多くの側面にすぎない。衣服や食物の様式、儀式・習慣、芸術/建築、技術・工芸、これらすべては、歴史を通じてあたかもきわめて速度の速い遺伝的進化のような様式で進化するが、もちろん実際には遺伝的進化などとはまったく関係がない。(p.303)

 そこで、このような別種の「遺伝子」を、ドーキンスは「ミーム」と名づけたのである。
 (DNAとは)別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方jの世界へ出かける必要はあるのだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。(中略) 新登場の(遺伝子)スープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシア語の語根をとれば<mimeme>ということになるが、私のほしいのは、<ジーン(遺伝子)>という言葉と発音の似ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシア語の語根を<ミーム(meme)>と縮めてしまうことにする。
 こうして、かの有名な「ミーム」という言葉が登場したのである。 それでは、ミームとは具体的にどのようなものであり、どのような働きをするのだろうか。これについて、ドーキンスは次のように解説している。
 楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例である。精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームがミームプール内で繁殖する際には、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。
 広義の意味での模倣が、ミームの自己複製を可能にする手段である。しかし自己複製しうる遺伝子のすべてが成功を収めることができるわけではないのとまったく同様に、一部のミームはミーム・プール中で他のミーム以上の成功を収める。これは自然淘汰と相似な過程である。ミームに生存値を付与するような特性については、すでにいくつか特殊な例をあげた。しかし、一般化して考えると、、その特性は、第二章で自己複製子に関して論じられたものと同じものになるはずである。すなわち、寿命、多産性、そして複製の正確さの三つである。ミームのコピーが示す寿命は、遺伝子の場合に比べると、さほど重要ではなさそうだ。私の頭の中にある楽曲の旋律は、私の余命の間しか生きながらえないだろう。しかし、それでも、同じ旋律のコピーは、紙に印刷され、人々の頭に刻まれて、今後幾百年にもわたって存在し続けるだろうと私は考えている。遺伝子の場合と同様、ここでも特定のコピーの寿命より、多産性のほうがはるかに重要なのである。歌謡曲というミームの場合、ミーム・プールの中での繁殖の程度は、その曲を口笛でふきながら町をゆく人の数で測れるかもしれない。
 続いて、自己複製子が成功するための第三の一般的性質、すなわり複製の正確さの問題がある。この点に関して私は、私の議論の土台がやや頼りないことを認めねばならない。一見したところ、ミームという自己複製子は、複製上の高度の正確さをまったく欠いているように見えるからである。

 最後の部分については、近年のデジタル化革命によって、ミームの複製も、いっそう正確に行われるようになている、という解釈をつけ加えておきたい。ミームは、脳内でつくられ、伝播すると考えられる。
人間の脳は、ミームの住みつくコンピュータである。そこでは、時間が、おそらくは貯蔵容量より重要な制限要因となっており、激しい競争の大勝となっていよう。人間の脳と、その制御下にある体は、同時に一つあるいは数種類以上の仕事をこなすわけにはゆかないからである。あるミームがある人間の脳の注目を独占しているとすれば、「ライバル」のミームが犠牲になあっているに違いないのである。ミームが競争の対象とする必需品は他にもある、たとえば、ラジオ、テレビの放送時間、掲示板のスペース、新聞記事の長さ、そして図書館の棚のスペース等々。

 少々引用が長くなったが、これでミームという「文化的遺伝子」のもつ重要性、意義がおわかりいただけたかと思う。そして、ミームの伝播において、人間の外部にあるさまざまなメディアが重要な役割を果たしているのである。インターネット時代の今日、ミームが広がる場は、大幅に拡張され、また多様化しつつあるということができるだろう。

利己的な遺伝子 (科学選書)
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 今回は、マクルーハンの『メディア論』を読みながら、メディアの進化について考えてみたいと思う。この本が出版されたのは、1964年である。ちょうど、テレビが黄金時代を迎えた時期である。しかし、まだパソコンやインターネットが登場する以前である。それにもかかわらず、本書はいきなり、次のようなメッセージで始まっている。
 西欧世界は、3000年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発」(explosion)を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発」(implosion)を起こしている。機械の時代に、われわれはその身体を空間に拡張していた。現在、一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に、われわれは人間拡張の最終相に近づく。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という創造的なプロセスも集合的、集団的に人間社会全体に拡張される。さまざまのメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。

 ここで、「内爆発」とは「地球が電気のために縮小して、もはや村以外のなにものでもなくなってしまった」という事実をさしている。また、「電気」とは、通信やテレビのことをさしているように思われる。現代なら、さしずめインターネットや衛星放送などを思い浮かべるところだろう。

第1章 メディアはメッセージである


 マクルーハンは、メディアを「人間の拡張」と定義している。第1章は、次のような有名なメッセージから始まる。
 われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し、区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージでる」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい(感覚)尺度に起因する、ということだ。

 これは、明らかに「技術決定論」的な考え方だ。続くいくつかのパラグラフは、「メディアはメッセージである」ということを、言い換えたものだ。
 電気の光というのは純粋なインフォメーションである。それがなにか宣伝文句や名前を描き出すのに使われないかぎり、いわば、メッセージをもたないメディアである。この事実はすべてのメディアの特徴であるけれども、その意味するところは、どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである、ということだ。書きことばの内容は話しことばであり、印刷されたことばの内容は書かれたことばであり、印刷は通信の内容である。
 これを言い換えると、古いメディアが新しいメディアにとっては「メッセージ」になっている、ということだろうか。現代のインターネットに置き換えて考えると、インターネットのメッセージ内容は、既存メディアであるテレビや新聞(メディア)だということになろうか。つまりは、オールドメディアのメッセージは、新しい技術革新の結果、ニューメディアに取り込まれる、というメディア=メッセージ間の共進化が起こっているということだろうか。
 映画の「内容」は小説や芝居や歌劇である。映画という形式の効果はプログラムの「内容」と関係がない。書記あるいは印刷の「内容」は談話であるが、読者は書記についても談話についてもほとんど完全に無自覚である。
 ここでは、メディアはそれが伝えるメッセージとは関係なく、メディアの形式そのものが多大な心理的・社会的インパクトを与える、といっているようにも思われる。つまりは、メディアそれ自体の特性を考慮することが、その影響力を考察する上で重要なのだ、という意味にも解される。そのように理解すれば、次の章もわかりやすくなるのかもしれない。

第2章 熱いメディアと冷たいメディア


 ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわり「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオはたとえば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。

 マクルーハンは、テレビがクールメディアつまり「低精細度」のメディアだとしているが、現代のハイビジョンなどはどうなのだろうか?高精細度でデータを十分に満たされたメディアになっているのではないだろうか?また、スマートフォンやスカイプなどはどうだろうか?これもまた、ありとあらゆるデータを詰め込んでおり、ホットで「高精細度」のメディアになっているのではないか?だからといって、ユーザーの心理や社会に巨大なインパクトを与えているといえるだろうか?現代は、まさにマルチメディアの時代になっており、もはやマクルーハンのいう「熱いメディア」「冷たいメディア」の単純な二分法は意味をなさなくなっているのではないだろうか。

 技術決定論的なメディア論は、第6章にもあらわれている。

第6章 転換子としてのメディア


 この電気の時代にいたって、われわれ人間は、ますます情報の形式に移し変えられ、技術による意識の拡張をめざしている。 (中略)
 われわれは、拡張された神経組織の中に自分の身体を入れることによって、つまり、電気のメディアを用いることによって、一つの動的状態を打ち立てた。それによって、、これまでの、手、足、歯、体熱調整器官の拡張にすぎなかった技術-都市も含めて、すべてこの種の身体の拡張であった-が、すべて情報システムに移し変えられるであろう。電磁気の技術は、いま頭骨の外部に脳をもり、皮膚の外部に神経を備えた生命体にふさわしい、完全に人間的な穏和と静寂を求めている。人間は、かつて網代舟、カヌー、活字、その他身体諸器官の拡張したものに仕えたときと同じように、自動制御装置のごとく忠実に、いま電気の技術に仕えなければならない。
 コンピュータやインターネットが支配する現代社会を予見させる文章だが、これはいったいメディアの影響を楽観的に見たものなのか、それとも悲観的に見たものなのだろうか?

 話は変わるが、昨日、NTTの電話通信回線が4時間にもわたって麻痺するという事故が起きた。毎日新聞によると、これはスマートフォンの急増によるものだという。
 NTTドコモの携帯電話で相次いだ大規模な通信障害は、スマートフォン(スマホ)の本格普及で通信量が急増し、携帯電話会社のインフラ整備が追いついていない実態を浮き彫りにした。動画やゲームのやりとりなどスマホの多機能化が進み、こうしたデータ通信量は国内で今後数年で10倍以上に膨らむとの見方もある。事業者の対応が伴わないとトラブルもやまず、通信インフラに対する信頼も損なわれかねない。【毎日新聞1月26日】

 若者を中心に、スマートフォンが普及し、使い方も大幅に変わってきているようだ。
 東京都内の男子大学生(22)は「スマホに買い替え、動画投稿サイトなどインターネットを使う時間が増えた」と話し、若者を中心にパソコン代わりに使う場面が増えている。しかもスマホの利用者の多くは、どれだけ通信しても料金が一定の「定額制サービス」に加入しており、スマホの通信量は「(従来の携帯電話に比べて)10倍はある」(通信業界関係者)という。(毎日新聞、同上記事より)

 スマートフォンは、もはや従来のガラケーとはまったく異なる使い方をされているようだ。マクルーハンのことばでいえば、クールだった電話がホットなメディアになっているということなのかもしれない。

 しかし、だからといって、スマホがPCを代替しているのだ、とはいえない。クラウド時代には、PCとスマホは、むしろ、時間的、空間的な情報圏域の中で、相互補完的に使い分けがなされるようになっているのではないだろうか。そうした中で、最近は「ネットブック」を使う人が少なくなっているようにも思われる。自宅や仕事場ではPC+スマホ、移動中はスマホといった使い方が普及しつつあるのかもしれない。それとともに、マクルーハンのように、それぞれのメディア別にその特性を二分法的に捉えるというのは、もはや時代遅れになっているのかもしれない。もっと別の新しいメディア論を構築すべき時期に来ているように思われる。

 ちなみに、私も最近スマホを購入し、いまでは、スマホで毎日、新聞を読んだり、ラジオを聴いたり、音楽を再生したり、ユーチューブで動画をみたり、メールをチェックしたり、とさまざまな使い方をしている。それも、仕事の合間(あるいは仕事をしながら!)。マクルーハンがこれを見たら、スマホとはいったいどんなメディアなんだ、とあきれてしまうかもしれない。ユーザー調査の方法も従来とは大幅に変更しなければいけなくなるような気がしている。

梅棹の情報論 VS マクルーハンのメディア論


 梅棹忠夫さんの「情報産業論」が公表されたのは1963年だった。マクルーハンの『メディア論』が刊行されたのは1964年である。明らかに梅棹さんの方が早い。にもかかわらず、梅棹さんの生態史観にもとづく情報論は、マクルーハンよりも、はるかに大きな広がりと論理的な明晰さを備えている。梅棹さんは「汎情報論」を唱え、マクルーハンは「汎メディア論」を唱えた。しかし、重要なのは、メディアではなく情報であろう。そのことは、後に「情報のメディア戦略」として論じることにしたい。

 梅棹理論の優れた点は、「内胚葉」→「中胚葉」→「外胚葉」というように、生態学的な進化のプロセスを、情報産業の進化にむすびつけて論じ、その中で、外胚葉産業として情報(精神)産業を位置づけた点にある。マクルーハンは、単に脳神経系の拡張としてメディアを論じたにとどまっており、そこには理論性が感じられない。「ホット」「クール」といったメディア特性を論じるが、そこにも理論的な根拠が明確に示されてはいない。マクルーハンのメディア論は、もはやテレビ時代の遺物と化してしまったようである。

 少し残念なのは、梅棹さんが記号やメディアについて生態史的な観点から体系的に論じていないという点である。評者は、「情報」「記号」「メディア」の関連を次のような階層的構造になっていると考えている。

情報・記号・メディアの関係図
 つまり、「メディア」は「記号」の担架体であり、「記号」は「情報」の担架体であるということである。ドーキンスは、『利己的な遺伝子』の中で、遺伝子情報の生存戦略について詳細に論じたが、この考え方から、「情報のメディア戦略」といった考え方を引き出すことができるのではないかと思う。それについては、別途論じることにする。梅棹さんの生態史観と組み合わせるならば、新しいメディア論の構築も不可能ではないような気がする。いずれ稿を改めて論じることにしたい。その前に、ドーキンスの『利己的遺伝子』論を、次回に再読してみようと思う。

 前回は、「情報」の概念について、『基礎情報学』を読みながら考え、「情報は進化す」るという情報史観に行き着いたが、今回は、情報と関連の深い「記号」について、その基本を学びながら、「記号の進化論」を構想することにしたい。

 まず、宇宙の誕生とともに、物質そして情報が発生した。この場合の「情報」とは、物質がもつ独自の「パターン」である。それは吉田民人がいうように、時間的・空間的・定性的・定量的なパターンである。しかし、そうしたパターンを「認識」あるいは「解釈」できる主体というのはいまだ存在してはいなかった。いまから約40億年前、地球が誕生し、その過程で、生命体が発生したが、それは「自らを再生産し、持続的に複製し続ける物質」であった。そこに生命体の本質がある。自らを複製するためには、「遺伝子」という記号が不可欠である。これが、宇宙における「記号」というものの発生である。遺伝子記号は、物質(核酸)の配列パターンである。それは、生物の体内で、情報を発信したり受信したりするという役割を担った最初の物質パターン(記号)であった。遺伝子記号は、生命体をつくるための情報を受発信するという役割を果たした。

 生物は、成長の過程で環境を認識する「感覚器官」(身体メディア=媒体物質)を作り出す。それは、生命体の生存にとって、環境からの情報が決定的に重要だからである。どんな生物においても、環境に含まれる物質を認識する手段として、「感覚器官」があり、それを通して、外部環境の物質パターンを「記号」として取り入れ、環境に適応するような反応ないし行動を起こすようになる。記号はつねに、なんらかの「意味作用」をもっている。つまりは、記号を用いて環境からの刺激を一定の「意味」に変換するというメカニズムが働くのである。「意味」それ自体も、原始生物のそれと、われわれのような人間にとっても意味では、まるで異なったものであるに違いない。同じ「対象」(環境内の物質)であっても、人間が受け取る意味と微生物が受け取る意味は、まったく異なったものだろう。パースの表現を借りるならば、同じ「対象」について、異なる「記号」が用いられ、それを通して、異なる「解釈項」(情報)が引き出されるのである。解釈項=情報というのは、私独自の定義である。記号が進化するとともに、情報もまた進化するのは当然のことである。

パースの記号論


 パースは、記号について、さまざまな三分類を提示している。その一つは、「記号(表意体)」「対象」「解釈項」という三分類である。通常、三角形であらわされている。これを進化史的に考えれば、生命体が発生する以前には、「対象」しか存在しなかったが、生命の誕生とともに、「記号」(遺伝子記号や感覚刺激など)が生まれ、そうした記号を通じて、環境の内外にある「対象」が「解釈項」(=情報)として認識されるようになったと考えられる。この場合、解釈項自身が、一種の「記号」であるとも考えられる。パースの言葉によれば、次のような関係をもつ。
 記号あるいは表意体とは、ある人にとって、ある観点もしくはある能力において何らかの代わりをするものである。記号はだれかに話しかける、つまりその人の心の中に、等値な記号、あるいはさらに発展した記号を作り出す。もとの記号が作り出すその記号のことを私は、始めの記号の解釈項と呼ぶことにする。記号はあるものつまり対象の代わりをする。(パース『記号学』より)

 対象は、必ずしも物質的な対象とは限らない。「記号」が進化するにつれて、認識すべき対象もまた、物質から非物質(概念、イメージなど)へと「進化」する。とくに、人間の場合には、外胚葉たる脳神経系(メディア)の働きによって、記号は、その最終的な進化形である「(自然、人工)言語」を通じて、抽象的な概念や観念、イメージなどの「対象」を表象することができるようになった。つまり、記号の進化は、(情報)認識の進化をもたらすということである。パースの言葉を引用すると、次のようになる。
 「記号」という語は、知覚可能なもの、あるいはただ想像可能にすぎないもの、あるいはまたある意味では想像不可能なものでさえ指示するのに使われる
 対象、表意体、解釈項(情報)の間には、対象→表意体(記号)→解釈項(情報)という方向性が認められる。

 パースの記号論では、もう一つ有名な三分類がある。それは、「類像(イコン)」「指標(インデックス)」「象徴(シンボル)」である。パースによれば、それぞれは次のように定義される。
 類似記号というのは、たとえその対象が現存性を持たなくても、それを意義能力のあるものにする特性を所有している記号である。たとえば幾何学的な線を表わるような鉛筆の線条など。
 指標記号とは、対象との類似性や類比によるのでもなく、また対象がたまたま持っている一般的な特性との連合によるのでもなく、一方では個体的な対象と、他方ではその人にとってそれが記号として役立つ人の感覚や記憶との(空間的なものを含む)力動的な結合関係を持っていることによって、その対象を指示するところの記号あるいは表意体のこと。
 AがBに『火事だ』と言うと、Bは『どこ?』と尋ねるだろう。すると、Aは過去にしろ未来にしろ、実在世界のどこかを考えているだけだとしても、指標記号に頼らざるを得ない。さもなければ、火事のような観念があるということを言っただけということになり、それでは何の情報も与えないことになろうだろう。Aが火を指せば、彼の指はその火と力動的に結合されているが、同じように自動火災報知器もいわば自分の指をすでにその方向に向けているのである。Aの答えが『ここから千ヤード以内』であれば、『ここ』という語が指標記号である。
 象徴記号とは、習慣が自然的なものにしろ、規約上のものにしろ、さらに元々その選択を支配していた動機にも関係なく、記号として使用され理解されているという事実によってのみ、あるいは主にそういう訳で記号になっているものをいう。単語、文、書物、その他の慣習的記号は象徴記号である。

 進化の方向性からいうと、類像→指標→象徴という変化が一般には認められる。また、これら三種類の記号のそれぞれにおいても、歴史的な進化が認められる。たとえば、類像の場合についていうと、原始時代の「洞窟壁画」は、「絵画」へと進化し、さらに、「写真」、「映画」、「テレビ」、「バーチャルリアリティ」へと進化してきた。言語という象徴記号においても、歴史的な進化が認められるだろう。それによって、記号が表象する「情報世界」も、より多様で高度なものとなり、われわれを取り巻く「情報環境」も大きな変化を遂げつつあるのである。パース
の記号論は、記号の分類学に終始しているようにみえるが、このように進化論的に捉え直すこともできるだろう。

 記号についての考察はこの位にして、次回はマクルーハンの『メディア論』を手がかりとして、「メディア」について検討してみたい。 

 前回のブログでは、梅棹忠夫さんの「情報」論をみてきた。あれから50年近くになる。21世紀の現代における「情報」論はどのように進歩しているのだろうか?手元にある『情報学事典』(2002年刊行)で、「情報」の今日的定義を確認しておきたい。この項目の執筆者は西垣通さん(東京大学情報学環教授)である。

情報学事典

情報学事典「情報」の項



 冒頭で、次のように述べられている。
 情報という概念については、いまだに広く社会的に認知された唯一の定義が存在するわけではない。そのため、単なる断片的な「データ」と等値される場合も少なくない。だが学問的には、情報は物質やエネルギーと並んで、宇宙における根源的な概念ととらえることができる。情報を効率的に処理するコンピュータなどの機械が出現したのは20世紀だが、情報そのものははるか以前から存在している。
 物質やエネルギーの存在はビッグバンによる宇宙生成まで遡るが、情報が誕生したのは地球上に生命が出現した約38億年前のことである。すなわち、情報は生命現象と不可分の存在と考えられている。

 この情報概念は、梅棹さんの情報定義とほぼ同じである。また、吉田民人さんの「最広義」の情報概念とも近い。吉田さんによる情報の定義は、「物質、エネルギーと並ぶ自然現象の根源的要素であり、物質-エネルギーの時間的・空間的・定性的・定量的なパターン」というものである(吉田, 1974=1990)。吉田さんのいう最広義の情報は、ビッグバン直後にまで遡ることができると思われるので、「情報学事典」よりも歴史的には古い。宇宙の誕生とともに、物質、エネルギーと並んで情報が出現したと考えることができる。ただし、情報が意味を生成するようになるのは、西垣さんのいうとおり、生命が誕生してからのことだろう。情報学事典では、情報をあらためて「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」というように、再帰的(循環的)な定義を示している。いいかえれば、再帰的ではない(意味作用を伴わない)情報は、宇宙の初めから存在していたと考えることができる。情報は記号やメディアとも深い関連をもっているが、これについては、別途考察することにして、以下では、西垣通さんの著書『基礎情報学』(2004)を読みながら、21世紀的な情報概念についての理解を深めていきたいと思う。


基礎情報学


基礎情報学

 本書では、情報概念を「生命活動」のなかで定義している。
 本書で述べる情報学とは、端的には「意味作用」に関する学問である。「意味」を媒介として理系のと文系の知とがつながるからこそ、これを基礎からとらえ直す思考が重要になってくる。「意味(significance)」という言葉は、「意義」「重要さ」「価値」をもあらわす。生命にとって重要なもの、価値あるものが「情報」なのだ。ゆえにそれは、生命活動と不可分である。物質やエネルギーは生命の誕生以前から存在するが、情報はそれらとは本質的に異次元にあるのである。

第1章 基礎情報学とは何か

物質としては異なる対象を同一のパターンとしてとらえる認知活動が、情報の成立と深く関わっているのである。観察という世界介入のメカニズムを等閑視して、「知識を増やすもの」といいった日常的な実態概念から出発する情報学は、決して厳密な学問とは成りえない。あらゆる情報は、基本的に生命体による認知や観察と結びついた「生命情報(life information)」なのである。

 本書では、情報を「機械情報」「生命情報」「社会情報」の3つのレベルに分けている。「機械情報」(mechanical information)とは、情報工学/情報科学における情報、より端的にはITの操作対象となる情報のことである。機械情報は原則として、意味を捨象して取り扱うという点で、生命情報や社会情報とは異なっている。「社会情報(social information)」とは、ヒトの社会において多様な伝播メディアを介して流通する情報のことである。言語や映像などはその例であり、いずれも意味作用を伴っているという点では、生命情報と共通している。この3つのレベルの情報について、西垣さんは、「表向きは別次元にあるように見えるが、実はそうではない。三者は密接に結びついている」と述べている。「ヒトの社会においては、生命情報が意味解釈のズレの少ない社会情報となる傾向があり、ゆえに機械的に扱える機械情報が出現するのである(p.19)」。

 情報はこのように生命活動と密接に結びついてあらわれるものである。それでは、「生命」とはどのような性質をもっているのだろうか?著者は、生命システムの特徴として、「歴史性」「閉鎖性」の2つをあげている。歴史性については、こう述べられている。
 あらゆる生物は、約40億年にわたる進化という膨大な歴史、また個体として誕生して以来の体験史を負っている。したがって、ある入力に対して、生命システムは常に同一の出力を与えるわけではない。これは情報の意味解釈の多様性に対応している。これは機械システムとはかなり異なるである。(p.20)

 閉鎖性については、こう述べている。
 生命システム自体の観点に立てば、システムは閉じており、入力も出力も存在しないと言ったほうが精確なのである。入力と出力を見極めるのは外部にいる観察者であるが、生命システム自体は決してその視点に立つことはできず、ただ環境のなかで訳も分からず行為し続けるのみなのである。(p.21)

 このような特徴は「オートポイエーシス=自己創出性」の一面をあらわしている、と著者は考える。そして、生命システムを「オートポイエティック/システム」として定義している。そして、生命と情報の関連をこう表現している。
生物が情報の意味を解釈するということは、実はオートポイエティックな生命システムが、自らを取り巻く環境からの刺激に対して自己言及的に反応していることに他ならない。したがって、情報とは外部から生命システムのなかに「入ってくる何か」ではない。情報を外部に実在するモノのようにとらえるのは誤りである。むしろ、刺激に応じて生命システムのなかに「発生する何か」ととらえるほうが精確であろう。情報は、物質やエネルギーと違って、生物とともに地球上に出現したのである。

 この「生命」=「情報の発生」という定義づけには、私自身は若干の疑問を感じる。情報が生命によってはじめて認知可能になったことは確かだが、「情報」(パターン)それ自体は、宇宙の起源から存在していたのではないだろうか。生命の誕生と進化によって、情報は初めて「捉える」ことのできるような存在になったのではないか、と評者は考える。

 それはさておき、著者は続いて、生命現象の特徴をもとに、「情報の定義」を行っている。
 実は、すでに述べてきたように、情報とは生命体の外部に実体としてあるものではなく、刺激を受けた生命体の内部に形成されるものである。あるいは、加えられる刺激と生命体とのあいだの「関係概念」であると言ったほうがいっそう精確であろう。(中略)
 一言で粗っぽくあらわすなら、情報とは「生命体にとって意味作用をもつもの」ということになる。(p.26)

 このように述べたあと、「情報」を次のように定義している(『情報学事典』の定義と同じ)。

 情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」である(p.27)。

 ここで、「パターンをつくりだす」とは、「意味作用を行う」といいかえてもよいだろう。私自身は、かつてある本の中で、情報を「記号の意味作用によって表象されるもので、生物、人間、機械、集団、組織、社会が、変化する環境に適応し、存続、発展するために必要な基本的資源の一つである」と定義したことがある。本質的には、西垣さんの定義と変わらないものではないか、と考えている。ここで、「意味作用」を行う主体は、もちろん生物(ヒトやその集まりである社会を含む)である。

第2章 情報の意味解釈


 この章では、従来の情報モデルをレビューした上で、「生命情報」のモデルを提示し、生命体によって意味と価値が生み出されるメカニズムを探求している。ここで、従来モデルとは、シャノン&ウィーバーの通信モデルと、それを応用した社会的コミュニケーションモデルである。この部分は既知のところなので省略し、著者独自の概念である、「生命情報」モデルと、意味・価値との関連についての考察を検討することにしたい。

意味と価値

 基礎情報学では、ヒトに限らずあらゆる生命体による情報の意味解釈に注目するが、その出発点となるのは、ホフマイヤーの生命記号論と同じく、パースの記号論である。
 まず、パースの記号(過程)について簡単に説明しよう。これは、「第一項=記号表現。第二項=対象、第三項=解釈項」の三項関係としてあらわされる。「記号表現(sign/representamen)」とは、記号の物理的な乗り物(媒体上の表現)である。「解釈項(interpretant)」とは、解釈者の内部に形成される、「対象(object/referent)」の摸像である。たとえば、「火事だ」という叫び(記号表現)によって、それを聞いた解釈者の心のなかに、めらめら燃える家のイメージという「解釈項」が生成されるわけだ。いまの場合、「対象」とは、火事で燃えている具体的な家そのものである。(p.52)

  この部分はよく理解できる。その通りだと思う。しかし、これにつづくパラグラフには、率直に言って疑問を感じる。
 
 端的に言うと、パースの記号(過程)とは、何か(記号表現)が自分とは違う何か(対象)を代置し、指し示しているというメカニズムをあらわすものである。ここで「情報(パターン)」は、言うまでもなく「記号表現」に対応するが、それがあらわす「意味内容」は「対象」と「解釈項」のいずれであろうか。代置というメカニズムからすれば、「対象」のような気がするが、必ずしもそうとは言えない。「火事だ」という記号表現そのものは、ある特定の家が火事になっている状況だけをあらわすのではなく、より広く「めらめら燃える家のイメージ」という一般的・抽象的な意味内容をもっているのである。そうすると「解釈項」ということになるであろう。

 この部分が私には不可解である。私の考えでは、情報は「記号表現」ではなく、「解釈項」(ソシュールのいう「記号内容(シニフィエ)」ではないかと思うのだ。上の具体例でいえば、「火事だ!」という表現はあくまで「記号」なのであって、その記号を通して表象される「めらめら燃える家のイメージ」こそは、聞き手が受け取る「情報」なのではあるまいか?というのも、そう解釈したほうが、日常的な「情報」概念と一致するからである。多数の人が何らかのメッセージ(記号)に接したとき、そこから受け取る情報は、人によってさまざまである。ある人は、「めらめら燃える家」という情報を受け取るが、他の人は、「自分の命が危ない」という情報を受け取るかもしれない。さらに他の人は、家の中にいるかもしれない家族の安否という情報を得るかもしれないのである。記号表現(パターン)=情報という、誤った解釈は、吉田民人さんの情報論から脈々と受け継がれたものなのかもしれない。
 こうした概念上の混乱は、やや意味不明な次のパラグラフにもあらわれている。
 「火事だ」という短い言葉は、「めらめら燃える家」という豊かな具体的イメージから比べるとあまりに貧弱であり、切りつめられた記号表現である。情報の「意味内容」とは、伝達された記号表現そのものが担うというより、むしろ「外情報」つまり明言されず処分された情報が担うとすれば、この一連の推量過程で出現する解釈項の全体が「意味内容」にあたると考えることもできるであろう。(p.52)

 いや、「火事だ!」という記号は決して貧弱ではないと思う。そこに含まれる情報は、非常に多様性をもった、豊かなものではないのだろうか?ここで、わざわざ「外情報」(言語が具体的に用いられるときの「文脈」「状況」「背景」など)という曖昧な概念を持ち出す必要はないのである。「外情報」とは、記号→情報への変換過程で、解釈に取り込まれる文脈的要因(コンテクスト=暗黙のコード)にすぎないのはないだろうか。

 次に、情報と「意味」「価値」の関連性についての叙述に移る。
 生命体は情報の意味解釈をおこなうのだが、「意味」とは天下りに与えられるものではない。基礎情報学では、「意味」は生命体の生存と関連しており、進化によって発生したものであると考える。(中略) ここでいう「意味」とは、ジェイムズ・ギブソンの生態心理学における「アフォーダンス」に近い。それは環世界のなかに存在する、生命体にとっての「価値」のことなのである。
 生命体が情報(パターン)を受信するということは、生命体を取り巻く環世界のなかに「意味」が立ち現われることに等しい。それは外から既成のパターンが与えられることではない。解釈者との「関係」において、意味をもつパターンである情報が出現するのである。



 このパラグラフでは、「意味」と「価値」をほとんど同義にものとして捉えられているように思われるが、これも少し違和感を覚える。私の感覚では、「情報」と「意味」はほぼ同義であり、「価値」は、情報のもつ特性(送り手あるいは受け手、あるいはマーケットによる情報の評価、格づけ)のような気がするのだが、、、。情報には意味や価値のあるものとないものがある、と一般にはいわれるが、梅棹さんの「コンニャク情報論」ではないが、脳神経系に刺激を与えるという意味では、無意味な情報というのはないのかもしれない。

   今回の書評は、ここまでで終わりにしておき、次回は、「記号論」「メディア論」について検討を加えたいと思う。参照する文献は、(1)エーコ『記号論』、(2)パース『記号学』、(3)バルト『神話作用』、(4)マクルーハン『メディア論』である。


※【追記】 なお、西垣さんのいう「機械情報」「生命情報」「社会情報」の三分類だが、私としては、これに「物質情報」を付け加えてもいいのではないか、という気がしている。「物質情報」とは、生命が誕生する以前から、(宇宙の生成以来)物質「とともに」存在していた情報(意味が生成する以前の原情報)のことをさしている。これは、梅棹さんの情報論とも共鳴する考え方だ。これによって、汎情報論は完結することになるだろう。情報史観からすると、宇宙のはじめに「物質情報」があり、次いで「生命情報」があらわれ、「社会情報」が生まれ、最後に「機械情報」が誕生し、今日に至っていると考えることができるかもしれない。インターネット上の情報などは、まさに「機械情報」の進化の極みだといってもよいだろう。

情報の文明学


 こんな本をご存じだろうか。

梅棹忠夫「情報の文明学」

 1988年に刊行された梅棹忠夫さんの論文集。研究室の書棚に埋もれていたが、ウメサオタダオ展に行ったこともあって、久しぶりに開いてみた。目次の中から、主立ったところだけを抜き出してみると、、

・放送人の誕生と成長(1961年)
・情報産業論(1963年)
・情報産業論への補論(1988年)
・四半世紀のながれのなかで(1988年)
・情報産業論再説(1968年)
・実践的情報産業論(1966年)
・情報の文明学(1971年=1988年)
・情報の考現学(1971年=1988年)

 上の目次の中で、=としてあるのは、梅棹さんが1971年に大量のメモ(おそらくは、こざねと京大カード)を書きためておいたものを、1988年に中央公論社から正式に刊行したという意味である。ここにも、梅棹式の知的生産技術の成果が見て取れる。

 ここでは、梅棹さんの「知的生産の技術」を逆さまにして、本書の内容から、とくに印象に残る「メモ」を再現するという形で、梅棹情報学を紐解いてみたい。

放送人の誕生と成長


じつは、ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間をうることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。そして、放送の「効果」が直接に検証できないという性質を、否定的にではなしに、積極的に評価したときに、放送人は誕生したのである(p.14)
 「情報産業」「放送人」という、今日では当たり前のように使っていることばは、梅棹さんのこの論文で初めて使われたのである。つまり、1961年である。「情報産業論」が刊行される2年前のことだ。 
かれら(放送人)のエネルギー支出を正当化する文化的価値というのは、もっともひろい意味での「情報」の提供ということであって、倫理的、道徳的な価値とはまるで尺度のちがうものである。その点では、おなじジャーナリズムあるいはマスコミとよばれる世界の住民のなかでも、新聞人のほうが、まだしも倫理的、道徳的な尺度を保存している。(p.17)

情報産業論

 

「情報産業」の定義


 本論文の第1章は、「情報産業」というタイトルがつけられている。そして、冒頭に「情報産業」の定義が記されている。
なんらかの情報を組織的に提供する産業を、情報産業とよぶことにすれば、放送産業というものは、まさにその情報産業jの現代におけるひとつの典型である。放送産業は、そのすみやかな成長ぶりで目をみはらされたけれど、かんがえてみれば、情報産業は放送だけではない。新聞雑誌をもふくめて、いわゆるマスコミという名でよばれるものは、すべて情報産業に属する。現代をマスコミの時代とよぶことができるならば、現代はまた、情報産業の時代といってもいいかもしれない。(p.29)

 これが、有名な「情報産業」の宣言文である。 このあと、「情報」をさらに広く定義し、情報産業のカバーする領域を広く定義し直している。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、そのような情報のさまざまの形態のものを「うる」商売は、新聞、ラジオ、テレビなどという代表的マスコミのほかに、いくらでも存在するのである。出版業はいうまでもなく、興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで、おびただしい職種が、商品としての情報をあつかっているのである。こういうものをも情報産業とよぶのがおおげさでおかしければ、単に情報業とよぶことにしてもよい。(p.30)

 続いて、情報業の歴史をたどってみれば、
たとえば、楽器をかなで、歌をうたいながら村むらを遍歴した中世の歌比丘尼や吟遊詩人たちも、そのような情報業の原始型であったとみることもできる。(p.30)


産業史の三段階


 この章は、情報産業を文明史的に位置づけ、「三段階」説を唱えた部分である。「農業の時代」→「工業の時代」→「精神産業の時代」という独自の図式である。
情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上にはでなかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化がすすんだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、精神の産業化が進行するであろうという予察のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもよい。(p.41)

 人類の産業の展開史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。現在は、第二段階の工業の時代にあって、いまなお世界の工業化は進行中であるが、すでに一部には第三段階の精神産業の時代のきざしがみえつつある、そういう時代なのである。(p.42)

 まさに、1960年代というのは、工業時代から精神(情報)産業の時代への転換期にあったということができる。いま、2010年代は、そうした情報産業が成熟期を迎えた時代と捉えることができよう。

外胚葉産業の時代


 この章もまた、梅棹さんの独創的な着想があふれている。三段階発展史を「生物学」的に捉え直しているのだ。
 それぞれの時代は、有機体としての人間の機能の段階的な発展ともかんがえることができるのである。まず、農業の時代にあっては、生産されるものは食料である。(中略)この時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官充足の時代であり、これを内胚葉産業の時代とよんでもよいであろう。
 つぎに、第二の工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物資とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる。
 そして、最後にくるものは、いうまでもなく外胚葉産業の時代である。外胚葉諸器官のうち、もっともいちじるしいものは、当然、脳神経系であり、あるいは感覚器官である。脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である。(p.42-43)

 この考え方は、マクルーハンのメディア論を思わせるものがある。つづく次の文章は、それを如実に物語っている。
 こうして系列化してみるとき、人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史のながれのうえにたつとき、わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜あけ現象として評価することができるのである。


情報の価格決定


 この章もまた、ユニークな情報論だ。新しい情報経済学といってもよい。現在の経済学はどれも、中胚葉産業時代の経済学jにすぎないとして、梅棹さんは、「情報」という財の価格決定の不確定性を指摘し、情報財独特の価格決定システムに言及する。
 外胚葉産業が優越するような時代になれば、やはり外胚葉産業が経済の中心になるだろうし、ものの価格決定も、外胚葉産業の生産物の価格決定法に歩調をあわせなければならないようになるだろう。いまは情報が擬似商品としてあつかわれているけれど、そうなれば逆に商品が擬似情報としてあつかわれるようになるかもしれない。そのとき、情報あるいは擬似情報の価格というものは、どうしてきまるであろうか。(p.48)

 そこで持ち出されたのが、有名な「お布施の原理」である。

お布施の原理


じつはここで、情報の価格決定法についてひとつの暗示をあたえる現象がある。やはり宗教家の場合だが、坊さんのお布施である。あれの価格はどうしてきまるか。お経のながさによってきまるわけでもなし、木魚をたたく労働量できまるのでもない。お経のありがたさは、何ビットであるか、とうてい測定はできない。それでも、どこの家でもなんとなくお布施の額を限定して、それだけをつつんでわたす。(p.49)

 なにか、謎解きのような問いかけだ。それに対する梅棹流の答えは、、、。

 お布施の額を決定する要因は、ふたつあるとおもう。ひとつは、坊さんの格である。えらい坊さんに対しては、たくさんだすのがふつうである。もうひとつは、檀家の格である。格式の高い家、あるいは金もちは、けちな額のお布施をだしたのでは、かっこうがつかない。お布施の額は、そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働には無関係である。まして、お経の経済的効果などできまるものではけっしてない。(中略) 情報の提供者と、うけとり手との、それぞれの社会的、経済的格づけは、いちおう客観的に決定することができるはずのものである。このふたつの格の交点において価格がきまる、というかんがえかたなのである。(p.50)


 「格づけ」によって情報財の価格が決まるという考えは、今日のインターネット時代では、当たり前のようになっている。いわゆる口コミサイトやソーシャルメディアでは、ユーザーによる「格づけ」(評価)が、情報財の価値を決定しているからである。お布施の原理の適用例として、梅棹さんは、他にもいくつかの例をあげている。「原稿料」と「電波料」だ。(これは、「ウメサオタダオ展」でも、陳列されたファイルの中に見て取れた)。

原稿料と電波料


 まず、原稿料について。
 たとえば、講演料やラジオ、テレビの出演料などは、実質的にやはりこのお布施原理によって支はらわれているのだろう。もっとも、現行の格づけが妥当であるかどうかは別問題である。原稿料などというものも、ほぼおなじ原理にしたがっているようだが、これのほうは、一枚あたりの単価がお布施原理できまるのであって、あとはそれに枚数を乗じて計算するようである。
 次に、電波料について。 
 放送産業のほうでは、ちかごろ民間放送において各局ともに、電波料の算定基準をいかにすbげきかということが重大な問題となりつつあるようだ。 (中略) そこは外胚葉産業時代の開拓者にふさわしく、いっそのこと、はじめからお布施の理論によって決定することにしてはいかがであろうか。つまり、電波の価格はすべて、放送局の格と、スポンサーの格と、このふたつによってきめるのである。

 この論文の最後は、次のように締めくくられている。

企業の公共性と経済学


 「格」というのは、いわばそれぞれの存在の、社会的、公共的性格を相互にみとめあうということにほかならないのである。社会的、公共的性格を前提としないで、個別的な経済効果だけを問題にしてゆく立場からは、情報産業における価格決定理論はでてこない。
 わたしは、お布施の原理が、これからの外胚葉産業時代における最大の価格決定原理になってゆくのではないかとかんがえている。

 このように、お布施原理にもとづく社会的・公共的価格決定理論を基礎とする「外胚葉産業時代」の経済学を唱えたのである。これが、現代の情報経済学にどのような影響を与えたのかは、寡聞にして知らない。着想としてはたいへん興味のある理論であり、だれでも受け入れられる形で一般化できれば、すばらしいのだが、、、。

 次に、梅棹さんによる「情報」論を、いくつかの論文で見ておこう。

情報産業論への補論


補論 2 感覚情報


梅棹さんはここで、「情報」という概念を、さきの「情報産業論」よりも、はるかに広く定義し直している。
 さきに「情報産業論」のなかでは、情報というものをまた、人間と人間とのあいだで伝達されるいっっさいの記号の系列」というふうにいった。情報ということばを、せまい意味に解すればこれでもよいが、より一般的な理解のためには、情報の概念をもっとひろく解しておくほうがいいようにおもう。まず、情報はひととひととの関係とはかぎらない。たとえば、イヌもまたシッポをふり、ほえたてて情報を発信しているのである。人間はまた、命令という形の情報をイヌにむかっておくりだすことができる。おなじように、動物以外のもの、あるいは無生物さえも情報をおくりだしているものとかんがえることができる。たとえば、月や星という天体さえも情報のおくり手である。光という形で、あるいは電波やX線という形でおくられてくる情報を、われわれはとらえることができる。そしてそれを解読して、その天体の本性をあきらかにすることができる。 (中略) 正確にいえば、天体が情報をおくりだしているのではない。情報はその天体とともに存在するのである。その情報を情報としてうけとめ、それを解読するのは人間の側の問題である。よりいっそうふみこんでいえば、受信されることもなく解読されることのない情報はいくらでも存在する、ある意味では、世界はそのような情報でみちているのである。

 こうした情報概念は、いわゆる記号論では、当たり前のように論じられているのではないだろうか。梅棹さんは、さらに「汎情報論」ともいえる論を展開する。
 情報はそれ自体で存在する。存在それ自体が情報である。それを情報としてうけとめるかどうかは、うけ手の問題である。うけ手の情報受信能力の問題である。(中略) もっともひろい意味に解すれば、人間の感覚諸器官がとらえたものは、すべて情報である。

 このような「汎情報論」をもとに、梅棹さんは、人間の感覚にうったえかける情報を、「感覚情報」と名づけ、それを産業化したものを「感覚情報産業」と呼んでいる。具体例としては、音楽、映像、嗅覚産業(香料など)、繊維産業、ファッション、観光産業、スポーツなども、感覚(体験)情報産業としてあげている。たしかに、これらの産業では、情報的な付加価値が大きな比重を占めているので、すべて「情報産業」の一部だといってもさしつかえないだろう。

 さて、時間もないので、途中の論文をはしょって、本書初出の論文「情報の文明学」の紹介へと移ろう。
 

情報の文明学


情報の意味


 「情報とはなにか。人間にとって情報とはなにか。」これが、本論文のテーマのようである。軍事情報、産業情報など、いわゆるプラグマティックな情報とは別に、無意味な情報というのも数多く存在する。そこに、梅棹さんは情報の本質を見るのである。有名な「コンニャク情報論」がそれだ。

コンニャク情報論


 コンニャクとはどういう食品かというと、
 サトイモ科の植物で、地下におおきな球茎を生じて、それから食用のコンニャクをつくる。その主成分はマンナンとよばれる物質で、これはたべてもほとんど消化されない。つまり、栄養物としては価値のない食品である。いくらたべても、消化管のなかをすどおりするだけである。栄養的に価値がないにもかかわらず、われわれはこれを食品として常用し、そのために大規模なコンニャク栽培もおこなわれている。これはいったいどういうことであろうか。
 栄養価がないからといって、食品として無価値であるとはいえない。それは、歯ざわりその他で味覚に満足をあたえ、消化管のなかにはいることによって満腹感をあたえる。(中略) これの通過によって、消化器官系はおおいに興奮し、活動する。

 情報も、コンニャクみたいなものだ、と梅棹さんはいう。
 情報をえたからといって、ほとんどなんの得もない。それは感覚器官でうけとめられ、脳内を通過するだけである。しかし、これによって感覚器官および脳神経系はおおいに緊張し活動する。それはそれで生物学的には意味があったのである。 (中略) 情報には、なんの利益ももたらさないし、プラグマティックな意味ももたないものもたくさん存在するのである。
 コンニャクもまた食品の一種であったように、コンニャク情報もまた情報の一種である。情報理論では、有意味情報以外のものをノイズとして排除するが、コンニャク情報論の立場にたてば、ノイズも情報の一種であり、排除するわけにはいかない。ノイズさえも感覚器官、脳神経系を興奮させるのである。(p.189)

 まさに生物学者、梅棹忠夫の面目躍如といったところだろうか。今日的にいえば、「道具的情報」に対する「コンサマトリー情報」の重要性を説いたということだろうか。

次のメッセージは、「ウメサオタダオ展」でも、パネルに大きく引用されていた部分である。(前回のブログの写真を参照されたい)

情報とコミュニケーション


 世界は情報にみちている。すべての存在それ自体が情報である。自然もまた情報であるからこそ、観光という情報産業が成立する。社会もまたすべて情報である、だからこそ社会探訪のルポルタージュが成立し、フォト・ジャーナリズムが流行するのである。
 情報はあまねく存在する。世界そのものが情報である。(p.193)

情報の生態学


 情報を生態学的に捉えると、どのように表現できるだろうか。また、情報と文化との関連はどのようなものか。それをまとめたのが本章である。それを、「メモ」の束で解きほぐしてみよう。
 地球はひとつのおおきな磁石であるといわれる。北磁極と南磁極をつらぬく線を軸として、全地球が磁場を形成している。 (中略) 今日の地球上の情報的状況は、これと似ている。地球上のすべての地域は情報場となった。情報は全地球をおおいつくしているのである。(p.206)

 情報はすでにひとつの環境である。環境と生物との相互作用をとらえるのが生態学(エコロジー)の仕事であるとすれば、人間と、環境としての情報の関係をとらえるのは、情報生態学の問題である。情報は、生態学の観点からとらえなおす必要があるだろう。(p.206)

 これは、私が探求している「メディア・エコロジー」の考え方と非常によく似ているので、共感がもてる。梅棹さんは、つづけて、「情報力学」の構想も披露している。
 環境としての情報は、いまや個々の人間のいとなみから独立しつつあるようにみえる。情報はそれ自体の存在様式をもち、運動形態をもつ。ほとんど個々の人間とはかかわりをもたない形での情報のうごきを、それ自体としてとらえることが必要であろうし、可能でもあるとおもわれる。情報は、ときには奔流のように急速にながれ、ある場合には停滞する。あるときは渦をまき、あるときは噴出する。その運動は、あるいは流体に似ているかもしれない。流体のうごきを流体力学がとらえるように、情報のうごきをとらえる情報力学をかんがえることができるかもしれない。(p.206-207)

現代でいえば、ツイッターの流体力学などを連想することができるかもしれない。

 次に、情報と文化の関係についての論述にみておきたい。梅棹さんは、文化と情報の類似性を指摘している。
 個人の存在をこえて、情報が環境を形成しているという点では、情報は文化にちかい。文化は人間がつくりだしたものであるけれど、個々の人間にとっては、すでに存在する環境である。あるいは与えられた環境である。個人は、その環境としての文化から自由になることはできない。しかし、それにはたらきかけて、なにごとかをなすことはできる。情報もおなじである。それは人間がつくりだしたものではあるが、個々の人間にとっては、あたえられた環境である。しかし、その環境むかって、自分自身もなんらかのはたらきかけをすることはできるのである。(p.207)

 文化とは、集団の共通の記憶のなかに蓄積された情報のたばである。それは個人の生命をこえて存在する。だれがつくったにせよ、人間はそれから自由になることはできない。その意味では、文化文字補も空気に似ている。あるいは酸素に似ている。それは、はじめからあったものではない。われわれは、そのなかでいきてゆくほかはないのである。(p.207)

 このようにみていくと、梅棹さんの情報論は、数々の生物学的、あるいは生態学的なアナロジーで満ちているように思われる。最後に、「文明の情報史観」という章からいくつかのフレーズを抜粋して、本稿を締めくくりたいと思う。

文明の情報史観


文明史的にみて、情報そのものの存在は、文明のもっとも初期の段階までさかのぼることができるであろう。しかし、情報の伝達、処理、蓄積のための装置群の大規模な開発は、それほどふるいことではない。現代を特徴づけるのは、それら情報関連装置群の爆発的展開である。それによって、いまやあたらしい時代がひらけようとしているのである。(p.222)

工業の時代というのは、人類史における、単なる過渡期にすぎなかったのかもしれない。(中略) 工業の時代は、人類の文明史における究極の時代ではなかったのだ。情報の時代、あるいは情報産業の時代こそは、この一連の過程のなかでは、人類史が到達しうる最終段階なのかもしれない。人類はそれを目ざして営々と、装置群すなわち人工環境づくりにはげんできたわけではないけれど、結果においてそうなったのである。こうして文明は、情報というあたらしい人工環境を大規模に展開しはじめているのである情報こそはあたらしい装置群の一種である。人間は、みすからつくりあげた情報という環境ととtもに、あたらしいシステムを構築しつつある。文明系は新段階にはいろうとしている。

 最後に、情報による価値の大転換を予言して、この章は完結している。
 工業の時代のはじまりとともに、人類は価値のあたらしい基準を発見したように感じた。工業は人間の環境をかえ、制度、組織をかえた。それは価値の大転換をもたらした。しかし、それはほんとうに大転換であったのかどうか。それは単に、情報という、より根源的な価値転換の先駆形態であったのかもしれない。あたらしい時代において、情報は人間の装置、制度、組織に、いっそう根本的な変革をもたらすであろう。人間はそのときにこそ、根本的な価値の大転換を経験することになるであろう。(p.223)

(おわり)

 ムック『梅棹忠夫』を読んでいるところ。
 石毛直道氏によれば、梅棹さんが理系から文系に転身した経緯は、次のようだという。

 1961年に京都大学から理学博士を授与された学位論文、「動物の社会干渉についての実験的ならびに理論的研究」は、わが国における数理生態学の先駆的な業績である。 生態学的な視野と、数学でつちかわれた明晰な論理構成が、ユニークな人文科学者としての梅棹さんの学問をつくりあげたのである。

 なるほど、そうだったのか!

ムック「梅棹忠夫」とカード
 ムック『梅棹忠夫』と京大式カードとこざねと原稿用紙。すべて紙媒体

 今日の午前中、お台場の「科学未来館」で開催中の「ウメサオタダオ展」を見学した(入場料金1000円)。写真撮影を許可されたので、さっそく写真を中心に展覧会の模様をご紹介したい。

 あいにくの雨模様で肌寒い一日だったが、雨ニモマケズ、「知の巨人」の実像に迫るべく、科学未来館を訪れた。交通手段は、新橋からゆりかもめで約15分。「船の科学館」駅下車徒歩5分。
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                科学未来館の外観

  今年は科学未来館開設10周年のようだ。「ウメサオタダオ展」の垂れ幕が目につく。10時に行ったところ、長蛇の行列だった。日曜日だからだろう。梅棹忠夫展が目当ての人は少ないようだ。

ウメサオタダオ展の看板

 館内に入ると、吹き抜けの空間に巨大な地球儀がまわっている。迫力満点だ。その一角に、ウメサオタダオ展の入り口があった。開館直後のせいか、入場者はちらほらという感じで、ゆっくりと見学することができた。

科学未来館の地球儀
     吹き抜け空間の巨大な地球儀。映像がゆっくりと回っている

 展示会場に入ると、すぐに目当ての「フィールド・ノート」を探し、見つけることができた。

モンゴルでのフィールドノート
  モンゴルでつけた膨大なフィールド・ノート

 これは、「知的生産の技術」で紹介されている「発見ノート」に近いものだろうか。いや、実際には、「発見ノート」の実物を見つけることはできなかった。ちょっと残念。0番から48番まで、計49冊ということになる。

 次に見たのは、「京大式カード」。キャビネットに収められている。

アドレスカードと展示場全景
  「京大式カード」(アドレスカード)と展示会場の全景

 京大式カードは、実物が手に触れることができたが、その肌触りは、ざわざわしており、またインクがすぐに吸収されやすいように加工されており、作者の「こだわり」が実感できた。

こざね制作用具
         「こざね」制作用具の一式

 梅棹さんのもう一つの「発明」は、こざねと呼ばれる小さなカードだ。これをつくるために、専用のカッターを使っていたという。その実物が上の写真だ。ここでも、知的生産ツール制作への「こだわり」を強く感じた。

ローマ字研究書
    「ローマ字」研究書

 梅棹さんの、さらなるイノベーションは、「ローマ字」採用の提案だろう。これは普及せずに終わったが、グローバル化を見据えた学者ならではの発想といえよう。

 「図書」と知的生産の技術ファイル
    岩波書店発行の「図書」連載から生まれた『知的生産の技術』

 『知的生産の技術』は、1969年、岩波書店発行の「図書」に連載された記事をもとにつくられたものである。上の写真は、その冊子と、執筆用につくったファイルである(写真は、『続・知的生産の技術』関連ファイル)。数々の独創的なアイディアに満ちた本が生まれる過程を想像することができる。本書はなんと88刷を数える超ベストセラーになった。私も発売直後に購入し、夢中になって読んだことを覚えている。

 「知的生産の技術」原稿
           『知的生産の技術』原稿

  汎情報論のメッセージ
    梅棹さんの「汎情報論」メッセージ

 梅棹さんは、世界で初めて「情報」を広い意味で自然界や社会に遍在し、情報社会の基盤となるものとしてとらえた方だ。そのメッセージは、上の写真でも強調されているとおりである。1963年には、「情報産業論」という革新的な論文を発表し、「工業社会」の次にくる時代を「精神(情報)産業」の時代と位置づけ、知的世界に大きなインパクトを与えたのである。その「情報産業論」執筆に用いたファイルが展示されていた。思わずため息が出る。

情報産業論ファイル

 梅棹さんは、文化人類学のフィールドで、数多くの絵も残している。とてもお上手なので、感心してしまった。さすが、「知の巨人」だけのことはある。
自筆の水彩画
       梅棹さん自筆の水彩画(達筆だ)

  最後に、京大式カードを直に触れて、感想を残せるコーナーがあったので、その肌触りを感じながら、「京大式カードに、スティーブ・ジョブズと同じ”こだわり”を感じた」という感想文を書きつけた。知的(情報)生産ツールへの徹底的なこだわりに、ジョブズを思い浮かべたのであった。

京大式カードに残した感想

 「知の巨人」の一端に触れることができたのは、幸いだった。帰りがけに、『丸善』で、「発見のノート」に使えそうな小型の手帳を購入した。カードは、もはや置いてはいなかったが、手書き式の小型ノートの価値は、いまなお失われてはいないと強く思う。

 たまたま会場では、Science Communicatorの方による15分間のツアーが行われていたので、参加した。参加者は10名ほどだったが、年配のインテリとおぼしき方が多く、さすが梅棹忠夫展だけのことはあると思った。ミュージアムショップで『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡』を購入した。これから少しずつ読み進め、この偉人について、より深く理解したいと願っている。

関連サイト:

ウメサオタダオ展公式サイト


















 梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』を久しぶりに購入。じっさいには「再購入」だ。本書が刊行されたのは、1969年。いまから40年以上も前のことだ。ちょうど、東大紛争真っ最中の時代だ。当時の私は学生時代で、非常に興味をもって読み通したことを覚えている。さっそく、本書の中にある「発見の手帳」を自分でもつけ始めたものだ。京大式カードにも興味を覚えたが、こちらは長続きしなかった。

 「知的生産の技術」ということばは、湯川秀樹博士からヒントをもらったとのことだが、梅棹さんが1963年に唱えた「情報産業論」と根っこは通じるところがある。実際、本書には、次のような記述がある。
(知的生産とは)さまざまな情報をもとにして、それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。・・・こういう生産活動を業務とする人たちが、今日ではひじょうにたくさんになってきている。研究者はもちろんのこと、報道関係、出版、教育、設計、経営、一般事務の領域にいたるまで、かんがえることによって生産活動に参加している人の数は、おびただしいものである。情報の生産、処理、伝達、変換などの仕事をする産業をすべてまとめて、情報産業とよぶことができるが、その情報産業こそは、工業の時代につづくつぎの時代の、もっとも主要な産業となるだろうと、わたしはかんがえている。(『知的生産の技術』11ページ)
 「発見の手帳」とは、日々の体験の中で、「これはおもしろい」と思った着想を記録するものである。レオナルド・ダ・ヴィンチがつけていた手帳からヒントを得たそうだが、私自身、このアイデアが大変気に入って、さっそく文房具店で小さなサイズの手帳を買い求め、「発見の手帳」と銘打って、そのときどきの着想などを書き綴ったりしたことを覚えている。それが学問の活動にどう役だったかはわからないが、大いなる知的刺激を受けたことは間違いない。

 梅棹さんが予見した「コンピュータが家庭に入り込み、それを知的生産ツールとして活用する」という環境は、今日、パソコン、インターネット、iPhone、iPadなどによってフルに実現するに至っているが、かといって、手書き式の「発見の手帳」が古くさくなったとは思われない。たしかに、エバーノートなど、なんでもメモにして記録することのできるソフト(アプリ)が簡単に手に入るようにはなったが、「手書き式」の「発見のノート」の意義は、ますます大きくなっているのではないだろうか?すべての入力をパソコンやIPhone、iPadなどで済ませるようになると、漢字を忘れてしまうし、なによりも、創造的な思考力が低下するようになるのではないか、と危惧される。また、手帳ならば、パッとひらめいたアイディア、着想をすぐその場で手帳に書き込むことができるが、パソコンやスマートフォンなどでは、そうはいかない。スマホの場合、キーボードが小さいので、入力に時間がかかる。その間に、せっかくの着想を忘れてしまいかねない。手書き式だと、書くそばから新しい発想がわいてくるし、書き付けるという操作自身、脳に記憶として定着させるのに役に立つのではないだろうか?

 いま、東京の科学未来館で、「ウメサオタダオ展」というのが開催中だ。「知の巨人」の一端に触れるためにも、あすはぜひお台場まで足を延ばしてみたいと思っている。「発見の手帳」「京大式カード」の現物を目にするのが楽しみだ。

・「ウメサオタダオ展:未来を探検する知の道具」(科学未来館)
特設サイト

知的生産の技術 (岩波新書)
クチコミを見る

 iPhone4Sの使い勝手がいいのは、「クラウド」「同期」の機能が充実しているからだろう。クラウドに関してはいったんiCloudの登録をして、クラウド機能を「オン」にしておけば、Wi-Fi環境において、写真などが自動的に更新、同期されるのがとても便利だ。また、iTunesを通じて、文書、音楽ファイルなども同期させることができる。まだ100%使いこなしたわけではないが、Windows PC、iPad、iPhone間で各種のデータをクラウド化、同期させることが可能である。まさに、現代は「クラウド化社会」といっても言い過ぎではないだろう。

 ミュージックについては、iPhoneの16Gタイプを持っているが、余裕を見ておよそ2000曲の音楽を入れておくことができる。これだけあれば、とりあえずは十分ではないだろうか。本当のところは、32Gタイプのほうが、マルチメディアコンテンツを入れるには望ましいが、クラウドの画像共有サイトやYouTubeなどを活用すれば、16Gでも十分という感じがする。イヤホンによって音質が大きく変わるので、できれば高性能のイヤホンを別途購入するほうがよさそうだ。私の場合は、Bluetoothワイヤレスのイヤホンを購入した。それに加えて、ソニー製の高性能イヤホンを購入(XBA-1SL これはお勧め)。そのおかげで、本体をポケットにしまったままで、クオリティの高い音楽を楽しむことができるようになった。ソニーのウォークマンを持っている感覚だ。

 同期という点で一番助かっているのは、「カレンダー」(スケジュール管理)と「連絡先」だ。私はメインのパソコンとして、Windows PC (Windows7)を使っているが、Outlookで予定などを入力しておけば、Wi-Fi環境で、iPhoneにも、iPadにも同じ内容の予定が自動的に転送、同期されるので、たいへん重宝している。住所録もクラウドで同期される。もはや紙の手帳は不要になりつつあるといえよう。

 きょう、ようやくiPhone4Sを購入することができた。さっそく、いろいろなアプリを入れたり、多様な機能をいろいろと試してみた。想像以上に、すばらしい機能に感嘆した。さすが、スティーブ・ジョブズの作ったスマートフォンだ。外見の美しさも芸術的だが、iPadにくらべて画面が大幅に小さいにも関わらず、使用感は良好だ。ガラケーからiPhoneに乗り換えたことによって、もはやケータイではなく、ミニPCといってもいい程、180度違うデバイスへと変身したという感じだ。

 さっそく入れたアプリとしては、電子書籍、ラジオがある。これによって、文庫本などを出先で自由に読むことができるようになったし、ラジオ番組もiPhoneのイヤホンでいつでもどこでも聴くことができるようになった。ワンセグに対応していないのは少し残念だが、見たい番組はあまりないので、格別の不満もない(動画を楽しみたいなら、YouTubeで十分ではないだろうか)。『朝日新聞デジタル』も入れてみたが、読書感はなかなか良好。ただし、月額3800円という料金がネックだ。『産経新聞』は無料(1面のみ無料、2面以下は月額1500円)で紙面そのままのイメージで読むことができるが、こちらは字が小さく、少々読みづらかった。朝日方式と産経方式のどちらがユーザーの支持を得るのか、興味深いところだ。

 カメラでの写真撮影も試してみたが、よほど固定しておかないと、ブレた写真になることが多かった。ブレ防止機能はついているのだろうか?この点は未確認。なによりもありがたいのは、iCloudによるPCとの連携、同期の機能だ。あらかじめiCloudに登録しておけば、iPhoneで撮った写真を、すぐにPCのフォトアルバムに自動的に転送してくれるのだ。Wi-Fi環境にあることが前提だが、ためにし自宅で撮ってみたところ、約1分くらいで、Windows PCのフォトストリームのフォルダに転送されていた。これは驚きの機能だ。PCに転送された写真を、WindowsのPhotoshopで修正した画像は、下のようになっている。画質も良好だ。

iphone4s-picture


  iPhone4Sは、コンパクトなミュージックプレイヤーとしても使える。PCのiTunes上に保存してある音楽をすべて、USBケーブルを使って、きわめて短時間で簡単にiPhoneに転送することができる。音質も非常にいい。まさに、マルチメディア満載のスマホだ。スマホがガラケーに取って代わるのは、もはや時間の問題ではないだろうか。

※参考:iPhoneで読む「朝日新聞デジタル」(2012年1月17日朝刊より)

 視認性は良好。

iphone朝日新聞デジタル

 個別記事をクリックすると、大きな文字で記事を読むことができる。指の縦スクロールで全文を通して読むことができる。視認性はさらに良好になる。

iPhone朝日新聞デジタル2




 本日の読売オンラインで、次のような報道が、、、
 飲食店の人気ランキングサイト「食ベログ」で業者によるランキング操作があった問題で、質問掲示板「ヤフー知恵袋」でも専門業者が飲食店の依頼で“やらせ投稿”を行っていたことがわかった。不正の横行で、匿名による善意の投稿に支えられる口コミサイトの信頼性が問われそうだ。
 ネット掲示板、とくにYahoo!知恵袋のような「知識共有コミュニティ」では、質問を入れると、即座に適切な回答が返ってくるので、非常に重宝するが、特定のお店や商品に誘導するような、「やらせ」投稿が行われる危険性も少なくない。

 今回のケースでは、次のような手口が明らかになっている。

 「ヤフー知恵袋」にやらせ投稿を依頼していたのは、東証1部上場の商社「JALUX」(東京)が羽田空港内で経営する飲食店。同社によると、昨春、店側が「投稿請負業」を名乗る業者に依頼し、昨年4~7月、4度にわたって「ヤフー知恵袋」にやらせの質問と回答を書き込ませたという。 まず、「羽田空港内でお薦めの店はどこですか」と質問し、「空港で働いているので空港のレストランは詳しいですよ」などと一般回答者を装って「この店が一番いい」などと推奨していた。
 食べログ事件と同じような、請負業者による「やらせ」で、許されざる行為だ。取り締まりを強化することと同時に、ユーザー側のリテラシー向上も求められるといえよう。

出典:『読売オンライン』(1月16日記事)
・「ヤフー知恵袋でもやらせ投稿…揺らぐ信頼性

関連記事(食べログのやらせ投稿問題)
「「食べログ」やらせ書き込み…請負39業者確認
(読売オンライン 1月6日記事)

 ちょっと古くなるが、2011年11月8日にインプレスR&Dが発表した『スマートフォン/ケータイ利用動向調査2012』によれば、スマートフォン普及率は22.9%と、2割をこえたことがわかった。約5人に1人の割合ということだ。車内でも、スマートフォンをいじくる人の姿をよく見かけるようになった。いわゆるキャズムを超える普及状況になってきたということだろう。普及率が5割を超えるのは、時間の問題かもしれない。とくに普及率が高いのは、男女とも、20代だ。

スマホ普及率(性、年齢別)
(出典:インプレス発表文書

 フェイスブックやツイッターの普及も、スマートフォン進撃の後押しをしているようだ。
 私自身も、ようやくiPhone4Sを手にすることができそうだ。どう使いこなすかが問題だ。

参考文献:
本田雅一『携帯電話がなくなる!これからスマートフォンが起こすこと』(東洋経済)2011年

 以前から読みたいと思っていた、山崎豊子さんの最新作『運命の人』を、電子文庫パブリで購入、さっそく第1巻を読み通した。電子文庫版は、昨年の12月に発売されたばかり。原作は、2005年から2009年にかけて、文藝春秋に連載されたもので、山崎豊子さんの小説としては10年ぶりということだ。しっかりとした取材と資料収集、読み込みをもとに書かれたもので、ジャーナリズムの根幹に迫る力作だ。残りの巻を読むのを楽しみにしている。

 電子文庫パブリは、定価が紙版より2割ほど安く手に入る上、iPadの大画面で大きな文字で読めるので、助かっている。iPad愛用者にはお勧めの電子書籍だ。これからも愛読していきたいと思う。

電子文庫パブリ

 本小説のモデルになっているのは、1972年の「沖縄返還」の前後に起きた「外務省機密文書漏洩事件」だ。被告であった元毎日新聞のN記者への取材や、弁護士など関係者への取材、沖縄取材、詳細な裁判記録などをもとに書かれたのが、この小説である。山崎さんご自身、かつては毎日新聞大阪本社の学芸部で記者をしていた経験があり、それもこの小説を書くきっかけになったと思われる。細部に至るまで、ジャーナリズムの現場の生々しい様子がうかがえるもので、天性の小説家としての才能を感じさせる。また、80歳をこえてなお小説家として大作を執筆し続ける著者の気力と力量には頭が下がる。ジャーナリズムの本質、沖縄問題と真摯に向き合う姿勢にも敬意を表したい。

※ 本書『運命の人』が2012年1月15日(日)から、TBS「日曜劇場」で初の連続ドラマ化されることになった。主演は元木雅弘、共演は松たか子、真木よう子、大森南朋、北大路欣也、ほか。どんな出来映えのドラマになるか、楽しみだ。ジャーナリズム関係者必見か、、、

※参考ブログ:

71年沖縄返還協定の裏での日米密約について老外交官が告白


 ワードやイラストレータでは、図形が比較的簡単に描けるが、Photoshopでは、意外に難しい。たとえば、塗りつぶしなしの円や長方形を描く場合、好みの矢印を描く場合など、どうやったらいいか分からなかった。ネット上で検索したところ、参考になるサイトがあり、ようやく習得したという感じだ。いわゆるPhotoshopのハウツー本には、こうしたことのTipsは書かれていないことが多い。参考になったサイトは、次のとおり。

【塗りつぶしなしの図形を描く方法】

Photoshopで塗りつぶしなしの円を描く

 ここでも紹介されているように、「レイヤー」→「レイヤースタイル」で設定するのが一番いいようだ。

【矢印を描く方法】

Photoshop講座(矢印を入れる)

 矢印の「詳細設定」は、Photoshop画面上に隠れているため、わかりづらい。直線ツールを選んだ後、

矢印の作成法1

 矢印の円形部分の▼をクリックすると、詳細設定ダイアログが表示される。これがわからなかった!あまりに小さくて、目立たないためだ。ちょっと不親切な感じ。

矢印作成法2

幅や長さについての解説は、上記のサイトを参照していただきたい。おすすめの設定は、上のように、幅300%、長さ300%だが、もちろん用途によって異なる設定も自由だ。

 以上2つの機能習得で、Photoshopを使った図形描画が飛躍的に簡単になった。ご参考までに、、

※ 曲線の矢印をつくるには、Photoshopは向いていない。いまのところ、ワードかイラストレータを使うしかないようだ。ただし、2月に発売される予定の「花子」(統合グラフィックソフト)では、矢印付き曲線を簡単に作成する機能が付加されているのようなので、発売を期待したい。

「花子2012」公式ウェブサイト



 Windowsパソコンのデスクトップ背景画像は、最初メーカーが提供する画像を使っていたが、オリジナルな画像に変更したいと思うようになった。その方法を習得したので、ここでご紹介しておきたい。

(1) デスクトップ画面でマウスの右ボタンをクリックし、「個人設定」を選ぶ。
(2) 画面左下の「デスクトップの背景」をクリックする。

背景画像2


(3)画面右上の「参照」ボタンをクリックし、使いたい画像のフォルダを指定する(通常は「ピクチャ」ライブラリ内に置く)。このフォルダに、使いたい複数の画像を入れておけば、デスクトップに画像が表示される。幅は、デスクトップの横幅と同じサイズの写真を作っておくと、鮮明な画像が表示される。

背景画像3


 自分の気に入っている写真などを背景画像に使えば、パソコンを「フォトフレーム」のように使うことができる。フォトフレームは通常、1万円以上もするし、場所もとるので、パソコンを使えば一石二鳥ということになる。おすすめの背景づくりでした。背景画像の写真がない場合は、Flickrなどの写真共有サイトの画像を使わせてもらうことも、おすすめです。Flickrサイトには、プロ並みのすばらしい写真画像がたくさん載っています。キーワードでジャンルも選択できるので便利です。


 よく取扱説明書やウェブページで、iPadのキャプチャ画像が使われているが、あれはどうやってキャプチャしているのだろうか?そんな疑問を抱いていたが、さるウェブページをみて、使い方がわかったのでご紹介しておきたい。

 操作はごく簡単。iPadの「電源ボタン」と「ホームボタン」を同時に押すと、「カシャッ」というシャッター音とともに、現在の画面をまるごとキャプチャしてくれるのだ。キャプチャされた画像は、「写真」アプリに自動的に保存されるので、これを開いて使えばよい。

 この画像を「Photo Stream」フォルダに保存すれば、iCloud環境がある場合には、自動的に同期しているPCに転送してくれるので、PC上でこの画像を編集したりして、使うことができる。ほんの1分ほどでこの作業が完了するのだ。iCloudの威力がここでも十分に発揮される。ちなみに、試しにキャプチャした画像を下に示す。iPhoneはまだ入手していないが、おそらく操作はiPadと同じだろうと思われる。


※ (追伸) ネットで検索してみたところ、やはりiPhoneの場合も、「ホーム」ボタンを押しながら、「スリープ
ボタンを押すというやり方で、画面全体のキャプチャが簡単にできることがわかりました。

iPhoneのスクリーンショットを撮る方法


 昨日は、往路で東洋大学が新記録で見事ぶっちぎり優勝した。復路優勝もめざしてがんばってほしい。それにしても、4年連続区間賞の柏原選手は、すごいの一言に尽きる。優勝後のインタビューでのことば「僕が苦しいのはたった1時間ちょっと。福島の人たちに比べたら、全然苦しくなかった」、歴史に残る名言だろう。福島出身ランナーの想いが伝わってきた。

 箱根駅伝関連のリンクを整理しておきたい:

日本テレビ「箱根駅伝」特集ページ

読売新聞「みんなで応援!箱根駅伝」

東洋大学ホームページ

・サッポロビール箱根駅伝応援サイト

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