メディア・リサーチ

メディアとコンテンツをめぐる雑感と考察

2014年11月

 いよいよ、Office (Word、Excel、Powerpointなど)がiPadやiPhoneでも正式に使えるようになった。うれしいニュースだ。さっそく、iPadとiPhoneにインストールしてみた。基本的には無料で利用できる。

 ただし、表計算ソフトで、たとえばグラフの形式を細かく指定したりするには、「Premium」の有料版を購入する必要がある。月額約1200円だ。私は、細かい設定のグラフを作成したいので、プレミアム料金を払うことにした。

 まだ、使いこんでいないので、なんともいえないが、iPad版は使い勝手が非常によいようだ。iPhone版は、やはり文字が小さいので、パワポはいいが、ワードやエクセルは、やや視認性の点でiPadには劣るように感じる。

 とりあえずの、ファーストインプレッションでした。 

 
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ハロウィーン前夜の出来事

 1938年10月30日、この夜に起きた出来事は、20世紀最大のハプニングとして、後世に長く記憶されることになった。それはまた、当時破竹の進撃を続け、新聞など既存のマスメディアを脅かしつつあった「ラジオ」というニューメディアの威力をまざまざと見せつけるメディア・イベントでもあった。
 
 午後8時、アメリカ3大ネットワークの一つ、CBSラジオでは、毎週恒例の「マーキュリー劇場」の放送が始まった。今回は、H.G.Wells原作の『宇宙戦争』(The War of the Worlds)のラジオドラマ脚色版を取り上げることになっていた。 しかし、この脚色は、ハロウィーン前夜にふさわしい、一風変わったストーリーに仕立てられていた。通常の番組にみせかけて、音楽や天気予報を流している間に、「臨時ニュース」を流し、あたかも火星人が地球に来襲し、アメリカ中心部に攻め込んできたかのような、実況中継を繰り返し流すという趣向のドラマだったのである。

 主演および演出を務めたのは、当時23歳、売りだし中の若きオーソン・ウェルズ(Orson Welles)であった。

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番組の冒頭、ウェルズはおごそかな口調で次のようなセリフから始めた。「20世紀前半の今日、われわれの世界は人類よりも頭脳明晰な生命から監視されているのです」。続いて、ドラマが始まるのだが、それは通常のラジオ番組のような雰囲気であった。天気予報が読み上げられたあと、アナウンサーが「それではみなさんをニューヨークのダウンタウンにあるホテル・パークプラザのメリディアン・ルームにご案内します。Ramon Raquelloと彼のオーケストラをお楽しみいただきましょう」と語りかけた。

 しばらく後、通常の番組とは違った臨時ニュースが挿入された。「みなさん、ここでダンス音楽を中断して、「インターコンチネンタルラジオニュース(Intercontinental Radio News)からの臨時ニュースをお伝えします。8時20分前、イリノイ州シカゴにあるジェニングス山天文台のファレル教授が、火星で高温ガスが連続的に爆発しているとのレポートを発表しました」。このあと、番組はもとのダンス音楽の演奏に戻った。

 その後、音楽はしばしば臨時ニュースによって中断されるようになり、火星の異常現象についての最新情報が次々と放送された。ニュースレポートは、プリンストン天文台に移り、「カール・フィリップ記者」が「リチャード・ピアソン教授」と、不可思議な天文学上の異常現象について語り合った。通常番組に戻ってからしばらくして、再び「インターコンチネンタルラジオニュース」が入り、アナウンサーがこう告げた。「みなさん、最新ニュースをお伝えします。午後8時50分、ニュージャージー州トレントンから22キロ離れたグローヴァーズミル(Grover's Mill)近郊の農場に、隕石と思われる巨大な燃える物体が落下しました。・・・」

 再び通常の音楽が続いたあと、隕石墜落現場からの臨時ニュースが入ってきた。「隕石」と思われた物体は、「金属製の円筒型物体」と分かり、アナウンサーは、この金属物体から巨大な足が伸び、中から火星人と思われる異様な生物が現れ、光線銃から火炎放射を浴びせ始め、これに抵抗する人々を殺戮する様子を、効果音などを使って、緊迫感をもって伝えた。さらに、グローヴァーズミルの現場(ウィルマス農場)付近で、州兵6名を含む少なくとも40名が死亡したと伝え、さらなる惨事を次々に伝え続けた。「臨時ニュース」はますますエスカレートしていった。現場のアナウンサーは、ついに火星人の来襲を告げる。

 みなさん、重大な発表を申し上げます。信じられないことではありますが、科学的観測と実際に現場でみらところによりますと、ニュージャージー州の農場に着陸しました奇妙な生物は、火星からの侵入軍の先遣隊であると考えざるを得ません。グローバーズミルで今夜行われた戦闘は、現代の陸軍がかつて受けたことのない壊滅的な敗北によって終止符が打たれました。ライフルと機関銃で武装した7千人の兵隊が、火星からの侵入者のたった一つの武器を相手に戦いました。わずか1020人が生き残っただけであります。・・・(中略)・・・通信はペンシルバニア州から大西洋岸まで不通であり、鉄道も分断され、アレンタウンとフェニックスビル経由の線を除いては、ニューヨークからフィラデルフィアへの鉄道はふつうになっております。北部、南部、および西部へのハイウェイは、狂乱状態の人々でいっぱいで大混乱を呈しています。(『火星からの侵入』(邦訳22ページ)

火星からの侵入者は、次第にニューヨークへと向かい、多数の金属円筒型兵器が地上に落下し、米軍の攻撃を退けて、ニュージャージーだけではなく、バッファローやシカゴ、セントルイスなどにも進攻していることが報告された。火星人と州兵の激しい戦闘状況が、刻々と緊迫感をもって伝えられた。

 この頃には、番組をドラマではなく、実際の臨時ニュースと勘違いした少なからぬリスナーが、これに驚き、車で避難したり、なかには自殺をはかった者もいたという。この放送の反響について、のちに詳しい実態調査を行ったキャントリルは、次のように表現している。

 この放送が終了するずっと前から、合衆国中の人びとは、狂ったように祈ったり、泣き叫んだり、火星人による死から逃れようと逃げ惑ったりしていた。ある者は愛する者を救おうと駆け出し、ある人びとは電話で別れを告げたり、危険を知らせたりしていた。近所の人びとに知らせたり、新聞社や放送局から情報を得ようとしたり、救急車や警察のクルマを呼んだりしていた人びともあった。少なくとも6百万人がこの報道を聞き、そのなかで少なくとも百万人がおびえたり、不安に陥ったりしていた。(『火星からの侵入』邦訳47ページ)

新聞による「パニック」報道

翌日(10月31日)の新聞各紙は、CBSラジオドラマが引き起こした「パニック」について、センセーショナルに報道した。


NY Daily Panic Report
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 たとえば、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、翌日の朝刊で、「Radio Listeners in Panic,Taking War Drama as Fact (ラジオ聴取者がパニックに:戦争ドラマを事実と勘違いして)」と題して、1面で大きく伝えた。

 昨夜午後8時15分から9時30分の間に、H.G.WellesのSF小説『宇宙戦争』のドラマ化が放送されたとき、何千人ものラジオ聴取者がマス・ヒステリー状態に陥った。何千人もの人々が、侵略した火星人との宇宙間戦争に巻き込まれ、彼らのまき散らす致死性ガスでニュージャージー州とニューヨークを破壊しつくしていると信じた。
 家庭を混乱に陥れ、宗教礼拝を妨げ、交通渋滞を引き起こし、通信障害を招いたこの番組は、オーソン・ウェルズによって制作されたものである。今回の放送によって、少なくとも数十名の成人がショックとヒステリー症状で治療を受けることになった。 
 ニューアークでは、20以上の家族がウェットハンカチとタオルを顔にかけて家を飛び出し、毒ガス攻撃を受けたと思い込んだ地域から逃亡をはかった。家事道具を持ちだした者もいた。ニューヨーク中で多くの家族が家を後にし、近くの公園に避難した者もいた。数千人が警察や新聞社やラジオ局に電話をかけ、アメリカの他の都市やカナダでも、ガス攻撃への対策にアドバイスを求める人々が相次いだ。

キャントリル『火星からの侵入』パニック研究プロジェクト

火星からの侵入 
 
 ラジオドラマの「現場」からほど近くにある、プリンストン大学では、1937年からロックフェラー財団の助成により、Paul Lazarsfeldを主任とし、Frank StantonおよびHadley Cantrilを副主任として「ラジオ研究施設」が設立され、ラジオが聴取者に果たす役割についての調査研究が行われていた。この「ラジオ・パニック」事件は、当時ニューメディアであったラジオの及ぼす影響力を研究するための絶好のテーマと受け取られ、プリンストン・ラジオ・プロジェクトの一環として、キャントリルを中心に研究を進めることが決まった。その裏には、研究の影の推進役となったLazarsfeldの存在があったといわれる。 実際、Cantrilは、『火星からの侵入』の序文で、Lazarsfeldに対する次のような謝辞を送っているのである。

 プリンストン・ラジオ研究施設の主任であるポール・ラザーズフェルド博士には心から感謝したい。博士にはこの研究の分析と解釈について数多くの指導をしていただいたばかりでなく、厳密ですぐれた方法論的助言とともに、筆者にはかりしれないほど知的な経験をさせてくださった。博士の強い意見によって、この研究は何回も改められたが、その度に統計的資料と事例研究のなかにかくれている新しい情報が取りだされることになったのである。(『火星からの侵入』邦訳xiiiページ)

 調査研究は、Cantrilを中心に行われ、1940年に、『火星からの侵入-パニックの心理学に関する研究』(The Invasion from Mars : A Study in the Psychology of Panic)として出版され、大きな反響を呼んだ。ある意味で、オーソン・ウェルズの『火星からの侵入』ラジオ放送が全米にパニックを引き起こしたとする「通説」は、本書によってデータ的な裏付けを与えられ、定着したといっても過言ではない。

 しかし、このラジオ放送は本当に全米に一大パニックを引き起こしたのだろうか?それは事実を誇張したものではなかったのか、あるいは一部にみられた混乱を過大評価したものではなかったのか?といった批判が、その後、社会学者を中心に出され、通説に修正が加えられるにいたっている。以下では、こうした問題点を中心に、Cantrilらの調査結果をレビューしてみることにしたい。

調査の概要

Cantrilらの調査結果は、主として、事件「現場」に近いニュージャージー州に住む135人の人びとに対する詳細なインタビュー調査をもとにしている。つまり、ラジオドラマで火星人が上陸し、州兵を相手に破壊的な殺戮を行ったとされる地域の住民が調査の対象者として選ばれたのである。Cantrilはその理由として、「この放送によって混乱状態に陥ったという理由から選ばれた」と述べている。また、放送にびっくりした人たちの名前の大半は、個人的に問い合わせたり、インタビューアーが探し出したものである」という。つまり、調査対象に代表性はなく、きわめて偏ったサンプルが調査対象になっていたのである。いわば、放送によってパニック状態に陥った人々だけが調査対象になっていたといっても過言ではない。

「パニック」の判定

どれほどの聴取者がパニックに陥ったかを測定するために用いた調査データは、アメリカ世論調査所(AIPO)が放送後6週目に実施した世論調査の結果である。数千人の成人サンプルからなる全国調査において、「オーソン・ウェルズの火星からの侵入の放送を聞きましたか?」という質問に対し、「はい」と答えたのは12%だった。サンプルは、投票権をもっている人に限られていたが、これに相当する人口は約7500万人だったと推定された。その12%ということは、900万人が放送を聞いていたことになる。他の調査機関によると、10月30日のマーキュリー劇場の聴取者は約400万人だったと推定している。これらの数値をもとに、Cantrilは、およそ600万人がこの放送を聞いた、と推定している。

 次に、AIPOでは「あなたはこの放送をドラマだと思いましたか。それとも実際のニュース放送だと思いましたか」という質問をしたが、これに対し28%の人びとがニュースだと信じた、と答えた。そして、ニュースだと信じた人のなかで70%が驚いたか不安に陥ったと答えた。「このことは、約170万人がこの放送をニュースとして聴き、約120万人がこのことで興奮したことを意味している」とCantrilは結論づけている。

 しかし、この数値は、「驚いた」人びとの割合や数であって、実際に「パニック」反応を示した人びととは必ずしもいえない。なぜなら、パニックとは、恐怖におびえた人々が示す集合的な逃走反応というのが厳密な社会学定義であり、その点からみると、実際にパニックに陥った人々の数はこれよりはるかに少なかった可能性が強い。

 また、パニックが実際に起こったとしても、それは主として、番組で実名で放送された「事件現場」である、ニュージャージー州とニューヨーク州の周辺に限定されていたという可能性が高いことも指摘されている。番組にリアリティを持たせるために、火星人の襲来地は、たまたま、ニュージャージー州のグローバーズミル(Grovers Mill)に決められた。脚本を担当したハワード・コックは、ガソリンスタンドで入手したニュージャージ州の地図に当てずっぽうでシャープペンを立てたところ、たまたまGlovers Millだったという単純な理由だったと回想している。

 筆者はたまたまニュージャージー州に滞在した折に、興味に任せて、Grovers Millを車で訪れたことがある。どこにでもある農村であり、かの有名な火星人来襲地を思わせる農場は見つからず、ただ、道端に「火星人襲来の地」を示す、小さな記念碑があるのみだった。実際、ドラマの中心となった農場は架空のもので、実在するはずもなかったのである。

 
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なぜドラマが「ニュース」と信じ込まれたのか?

  「火星からの侵入」ラジオ放送は、「マーキュリー劇場」というラジオ・ドラマ番組であり、ニュース番組ではなかったにも関わらず、少なからぬリスナーはこのドラマを「本当のニュース」と信じ込み、驚いた。それでは、なぜ多くのリスナーが、荒唐無稽に思える「ニュース」を本物と信じ込み、驚いたのだろうか?

 Cantrilは、その理由として、「番組のリアリズム」と「遅れてダイヤルをまわしたこと」の二つをあげている。
番組のリアリズム
ドラマの中で、臨時ニュースは、音楽の演奏中に挿入される形で放送された。これは戦時という危機的な状況の中では、ラジオの速報性とも合わせて、よく使われる放送テクニックだった。「人びとは緊急事態発生の場合には、音楽番組やドラマなどすべての番組が中断され、熱心に耳を傾ける不安に駆られた人々に事態が報道されるということを知っていた」(邦訳69ページ)。このような状況の中でこそ、音楽演奏中に挿入された「ニュース」は、本物と信じられやすかったのである。

 また、「送り手の威光」もまた、「ニュース」を信じ込む大きな要因となっていた。番組中の「ニュース」の中では、「天文学者」「大学教授」などのコメントが頻繁に登場したが、これも送り手の威光として、聴取者が信じ込む要因として作用したと考えられる。インタビューを受けた一人は、「わたしはプリンストン大学の教授の話とワシントンのお役人の話を聞くとすぐに、この放送を信じてしまいました」と証言している。

 さらに、「ニュース」の中で、現実に存在する地名が出てきたことは、とくに周辺地域に住む人びとが信じ込む一つの理由になったと思われる。「ニュージャージーとマンハッタン地区の住民がとりわけびっくりしたのは、自分たちのよく知っている地名が出てきたことだった。グローバーズミル、プリンストン、トレントン、プレーンズボロ、アレンタウン、・・・といった地名は、ニュージャージー住民やニューヨーク市民にはおなじみのものであった。
遅れてダイヤルをまわしたこと
番組の最初で、アナウンサーは「CBS放送は、オーソン・ウェルズとマーキュリー劇場によって、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』をお送りします」とい読み上げており、定例のドラマであることを告げていたが、少なからぬリスナーは、この番-巣組冒頭のアナウンスとウェルズのコメントを聞きのがし、その後の「ニュース」を本物と勘違いした可能性がある。

 放送の1週間後にCBSが行った調査では、920人がインタビューの対象になっていたが、この中で、「この番組のどの部分でダイヤルを合わせましたか?」「それがドラマだとわかりましたか。それとも本当のニュースだと思いましたか?」という2つの質問をしている。前者の質問に対しては、「番組開始後に放送を聴き始めた」人が42%に上っていた。そして、遅れて聴き始めた人びとは、放送をニュースとして受け入れやすかったという結果が得られている。これに対し、最初から番組を聞いていた人の80%はドラマだと受け取っていたこともわかった。

 このように、かなりのリスナーが、番組を途中から聴き始め、ドラマを「ニュース」と信じ込むことになったと推定される。聴取者のかなりの部分が、途中から「マーキュリー劇場」を聴き始めた理由としては、人気の「裏番組」という存在があった。実は、この時間帯にもっとも高い聴取率をあげていたのは、チャーリー・マッカーシーの番組だったのである。多くのリスナーは、最初、この人気番組にダイヤルを合わせていたが、つまらない部分に差しかかったところで、かなりのリスナーが「マーキュリー劇場」にダイヤルをまわし、驚くべき「ニュース」を耳にしたものと思われるのである。

聴取者の4分類と「批判能力」

Cantrilらは、この番組の聴取者を次の4つに分類し、情報確認行動とパニック反応の関連を明らかにしようと試みた。
  1. 番組のなかに手がかりを見つけ出して、本当であるはずがないと考えた人びと(内在的チェックに成功したグループ)
  2. ドラマであることをチェックすることに成功した人びと(外在的チェックに成功したグループ)
  3. うまくチェックできず、ニュースだと信じつづけた人びと(チェックに失敗したグループ)
  4. 放送だから本当だと信じて調べようとしなかった人びと(チェックを試みなかったグループ)

 この分類は主として135のインタビュー事例のもとづくものであり、一般化することは難しい。ともあれ、それぞれのグループに含まれる人びとは、どのように反応したのだろうか?
内在的チェックに成功した人びとの反応
このグループの約半数は、かれらが入手した情報をもとに、ドラマと見抜くことができた。なかには、ウェルズの『宇宙戦争』を読んでいて、それを思い出した人もいた。「・・・怪物が姿を現したとき、これはオーソン・ウェルズの番組だということが突然頭に浮かびました。そしてそれが『宇宙戦争』という番組であることを思い出したんです」。また、番組の内容自体に含まれる矛盾に気づいて、ドラマであることに気づいた人もいた。「・・・わたしはアナウンサーがニューヨークから放送しており、火星人がタイムズ・スクエアにあっているのを眺めながら、摩天楼と同じくらいの高さだといっているのを聴きました。それで十分でした。・・・ドラマに違いないと思ったんです」。
外在的チェックに成功した人びとの反応
このグループに属する人びとは、新聞のラジオ番組欄を調べたり、他のラジオ局にダイヤルを回したりして、チェックすることによって、ドラマであることを確認していた。また、友人を呼び出したりしてチェックした人もいた。「・・・本物のように聞こえましたが、WOR局にダイヤルをまわして、同じことが放送されているかどうか確かめました。そうでなかったのでつくり話だとわかりました」。
チェックに失敗した人びとの反応
このグループの人びとは、チェックを試みたものの、それがまったく信頼できるものではなかったという特徴をもっていた。もっともよく使われた方法は、窓から外をみるとか家の外に出てみるといったものであった。なかには、警察や新聞社に電話をかけた人もいた。しかし、他のラジオ局にダイヤルをまわしてみるとか、新聞のラジオ欄をみるなどの外在的チェックをとることには失敗していた。「僕らは窓から外を見ました。ワイオミング街は車でまっくろになっていました。みんな急いで逃げようとしているなど思いました」。「私はすぐに警察に電話して、何がおこっているのか聞きました。警察は、<あなたと同じことしか知りません。ラジオを続けて聞いてアナウンサーの忠告に従ってください>ていうんです。当然、電話をかけた後では前よりもいっそう恐ろしくなりました」。
チェックを試みなかった人びとの反応
このグループの半数以上は、驚きのあまりラジオを聞くのをやめて逆上して走り回ったか、麻痺状態におり言ったとしかいいようのない行動をとった。「わたしたちは聞くことに夢中で、他の中継を聞いてみようなどという考えは全く浮かびませんでした。わたしたちはこわくてしかたがなかったんです」。「あたしは天気予報のときにラジオをつけました。小さな息子といっしょでした。主人は映画に行っていましたから。わたしたちはもうだめだと思いました。子どもしっかり抱いて座りながら泣きました。こちらに向かってくると聞いたときは、もうがまんができなくなり、ラジオをとめて廊下へ走りでました。お隣の奥さんもそこで泣き叫んでいました」。

 Cantrilらは、第4のグループの記述にいちばん大きなスペースを割いている。これは、なんらのチェックもせずに、パニック反応を示したグループをある意味では、パニック的反応を誇大に記述するという誤りを犯しているように思われる。そもそも、Cantrilがインタビューの対象者として選び出したのは、番組を聞いて「驚いた」という反応を示した人びとだったという点を、ここで思い出しておきたい。
批判能力の発揮
Cantrilらの研究で、その後もっとも有名になったのは、番組を聞いてパニックに陥った人びとが、総じて「批判能力」を欠いた人びとであり、それが「学歴」などのデモグラフィックな指標と結びついていたという指摘であった。その根拠となっよたデータは、主にCBSが行った調査である。データを分析した結果、「より高い教育を受けた人びとはより多くの人がこの番組をドラマであると考えた」ことがわかった、としている。また、番組をチェックしてドラマだとわかった人は、学歴の高い人に多かったという調査結果も明らかにしている。ただし、教育程度の高い人びとのすべてが冷静であったり、チェックに成功したわけではないし、教育程度の低い人びとの中にも番組がドラマであることをすぐに理解した者もいた、と注釈している。

 批判能力というのは、個人が生得的にもっている心理的特性ではなく、特定の環境の影響の結果として生じたものである。批判能力を発揮させなかった条件を明らかにしなければならない、として、Cantrilは「個人的感受性」と「聴取状況」という二つの要因をあげている。

 感受性とは、放送番組からの影響を受けやすくしているパーソナリティの一般的特性であり、Lazarsfeldに(1)不安定感、(2)恐怖症、(3)悩みの量、(4)自信の欠如、(5)宿命論、(6)信心深さ、(7)教会へ行く回数の7つによって測定されている。放送に対してうまく適応できた者は、暗示に対する感受性が低いという傾向がみられた。

 聴取状況は、人びとの番組に対する反応に一定の影響を与えていた。第一に、他人の行動の補強的効果と他人の恐怖の感染が考えられる。親しい者から聞いたり、ラジオをつけるようにいわれた者は、驚く傾向が強くみられた。「姉さんが電話をかけてきて、あたしはすぐにおびえてしまったの。ヒザがガクガクしました」。ある場合には、ビックリした人々を目撃したり、その声をきいたりしたことが、そうでなければ比較的冷静な者の感情的緊張をまし、その結果、批判能力を低下させてしまった。「電話ボックスから出た時には、店の中はだいぶヒステリックになった人たちでいっぱいでした。僕はこわくなっていましたが、そうした人たちをみて、何か起こったのだなと確信しました」。調査データによると、他人からラジオを聞くようにいわれた人びとは、そうでない人々よりも非合理的な行動をとる率が高いという傾向がみられた。また、CBSの全国調査の結果をみると、ニュージャージーのグローバーズミルの「現場」から離れている人ほど、驚きの程、度が低くなっていた。

 このように、一般に、「批判能力」だけではパニック状態に陥るのを防ぐことはできず、個人のもつ感受性や異常な聴取状況が批判能力を低下させることがあることも明らかにされている。

「パニック報道」の問題点

しかしながら、オーソン・ウェルズの「火星からの侵入」放送が全米にパニックをひきおこしたという印象を与えた決定的な要因は、事件直後のマスメディアの過大でセンセーショナルな報道にもあったことも事実である。それは、マスメディアの送り手側の「批判能力」欠如にも起因していたことは明らかである。それが、一般国民、ラジオ局、政府当局、研究者などに過剰な反応を引き起こす原因ともなったと推測される。最後に、こうした過大報道を産み出した原因を探ることにしたいと思う。 

ニューメディアに対する新聞の敵対心
第一の要因は、当時の新聞が、巨大な力をふるうラジオという新興マスメディアに対して脅威を感じており、このたびの「不祥事」を、ラジオを叩く絶好の機会と捉えたということが考えられる。ちょうど、現代社会において、インターネット上の不祥事や犯罪などがマスコミで過剰に取り上げられ、叩かれるのと同じような状況が、1930年代のアメリカにもあったと想像されるのである。事実、当時の新聞各社は、こぞってCBSラジオとオーソン・ウェルズを非難したのである。
締め切り時間の問題
第二の要因として考えられるのは、放送時間と新聞の締め切り時間の関係である。放送は午後8時から9時まで行われ、8時30分頃から聴取者の混乱と、新聞社や警察などへの問い合わせが殺到し始め、事件が明るみに出た。新聞社の朝刊の締め切りまで、時間はわずかであり、「パニック」報道記事を作成するためには、おそらく電話取材が中心となったと想像される。その中で、「パニック」を裏付ける証言などの情報が選択的に採用され、センセーショナルな見出しをつけて大きく報道されるようになったものと思われるのである。これが、いわば独り歩きして、その後の「パニック」報道の下地をつくったのではないだろうか。その裏には、「パニック」に対する送り手側の思い込み(パニック神話)もあったものと思われる。
センセーショナリズム
第三には、19世紀末以来、「イエロー・ジャーナリズム」とも言われて厳しく批判された、大衆新聞の性癖として、事件をセンセーショナルに取り上げる傾向は、戦争の危機にさらされた1930年代の当時にも存続しており、それが、「大パニック」といった過大報道につながったのではないか、と考えられるのである。

 以上は筆者による予備的考察であり、詳しくはさらに先行文献などを通じて検証を続けていきたいと思う。

「パニック報道」異聞


  マスメディアが「パニツク」をセンセーショナルに報道する傾向は、アメリカに留まるものではない。日本でも過去に「パニック」と報道されながら、実態がそれとは違っていたというケースがいくつかあった。そのなかで、筆者自身が調査に関わった事例を二つ紹介したいと思う。


「余震情報パニック」事件


  この事件は、1978年1月18日に起こった。4日前の伊豆大島近海地震のあと、しばしば余震が続いていたが、18日正午、静岡県災害対策本部から「余震情報」が発表された。この中で、今後一カ月程度、最大でマグニチュード6程度の余震が発生する可能性があるので、注意してほしいとの情報が出された。

  翌朝、主要全国紙はいつせいに、この余震情報が静岡の全域でパニックを引き起こした、と報じた。


  しかし、筆者を含む研究グループが現地調査を行なった結果、住民が大量に避難したとか、パニック的な集合行動があったという事実は確認できなかった。また、「震度6の大地震が来る」といった流言(デマ)が拡がったが、これに対する住民の反応も、「半信半疑」というものが多く、受けとった情報を確認する人が比較的多いという調査結果が得られた。

誤報「警戒宣言」パニック報道


  1981年10月31日午後9時頃、平塚市で広報無線の拡声機から、東海地震の「警戒宣言」が発令されたとの誤放送が流れた。翌朝の『読売新聞』は、この誤放送が住民の間にパニックを引き起こしたかのような報道を行なった。


  しかし、筆者を含む研究グループが現地調査を行なった結果、住民がパニックを引き起こしたという事実は、まったくないことか"明らかになった。

  筆者らは、事件から約3週間後、平塚市民1803名(有効回収)を対象として、面接調査を実施した。その結果、いくつかの予期せぬ結果が得られた。

  第一に、放送当時、平塚市内にいた1631人のうち、「警戒宣言が出た」あるいは「地震が来る」という話を同報無線(広報拡声機)から直接あるいは人づてに聞いて知った人はわずかに20%であり、残りの80%はどこからも聞いていなかった、という事実である。つまり、市民に広く緊急情報を伝えるべき同報無線というニューメディアが充分な機能を発揮していなかったことが明らかになったのである。

  第二に、同報無線から直接「警戒宣言」を聞いた223人のうち、本当に警戒宣言が出たと思った人は17.5%で2割にも満たなかった、という事実である。これに対し、警報を信用しなかった人びとが44.8%と半数近くにも達していた。つまり、全体としてみると、同報無線から聞いた「警戒宣言」に対する信用度は非常に低かったのである。「警戒宣言」放送に対しては、「半信半疑だった」人が37.7%ともっとも多く、「何かの間違いだと思った」人が25.1%でこれについで多かった。信じなかった理由としてもっとも多かったのは、「テレビ・ラジオで放送されなかったから」というもので、多くの人が信頼できる情報源でチェックするという確認行動をとっていたことがわかったのである。

 第三に、「警戒宣言」放送内容を信じた人のうち、64%は「火の始末をしたり、ガスの元栓を閉めた」と答え、また41%の人が「非常食や飲料水の用意、貴重品などの持ち出し準備をした」と答えたが、「安全な場所に避難した」という人は、わずか2.6%にすぎなかった、という事実である。「避難した」と答えた人にフォローアップのインタビューを行ったところ、彼らは決してパニック的な逃走反応を示したわけではなく、念のために近所の指定避難所に行った、という比較的冷静な反応だったことがわかった。

 このように、「警戒宣言」誤放送は、大半の住民に届かなかった上、届いた住民からは信用されず、パニック的な反応を引き起こすこともなかったのである。
読売「パニック」報道の真相
 この出来事について、全国紙の『読売新聞』は一面トップで、次のように報じた。
 31日夜、神奈川県平塚市で市内全域に設置されているスピーカーから、激しいサイレンが鳴り出し、「地震警戒宣言が発令されました。食糧などを持って避難してください」と避難命令が出された。このため避難袋を抱えて戸外へ飛び出す市民も出るなど、市内はパニック状態に陥り、警察や消防署、市役所などへ市民からの電話が相次いだ。結局、スイッチの操作ミスから地震警戒警報テープが回り出したためと分かり、騒ぎは約1時間でおさまったが、同市は大規模地震対策特別措置法に基づく東海地震の「地震防災対策強化地域」に指定されているだけに、市民の驚きと混乱は大きく、怒りの声が沸き上がっていた」
 『朝日新聞』も、「パニック寸前の騒ぎ」という表現ながら、やはり1面トップで、同報無線が引き起こした混乱を報じている。 

 このうち、『読売新聞』の記事には、住民の反応以外の事実関係でいくつかの誤りが含まれていた。一つは、「避難命令が出された」というものである。実際には「いつでも避難できるように準備しておくように」という避難準備の呼びかけにとどまっていた。もう一つは、「激しいサイレンが鳴り出し」という部分で、実際にはそのような事実はなかった。

 筆者らの研究グループでは、このような「誤報」ともいえる新聞報道が行われたことの実態を探るために、朝日、読売、神奈川3紙の記者や編集者にインタビューを行い、事件当夜の取材、報道過程の解明を試みた。ここでは、読売新聞の事例を紹介しておきたい。

  事件の取材、報道を主に担当した部局は、東京本社の編集部と整理部、横浜支局、および平塚通信局だった。このうち、直接本文および前文の記事の原稿を作成し、送稿していたのは、横浜支局および平塚通信部の記者だった。

 事件の第一報はまず横浜支局に入った。午後9時5分ごろ、平塚市内の読者から「いま広報無線で放送しているが、警戒警報があったのか」という問い合わせがあった。これを聞いて、横浜支局のA記者は、最初何かの間違いではないかと半信半疑だった。というのは、この種のイタズラ電話は以前にも経験していたからである。

 しかし、とにかく取材を開始することにし、そのとき支局内にいた4人全員に指示して、電話取材に当たらせた。

 まず、気象台に電話を入れ、警戒宣言が本当に出たのかどうか確認したところ、「そんな警報は出していない」というので、もし実際に出たとすれば誤報であることが確認された。次に、県警に電話をしたところ、「そういう話は聞いていない」というので、今度は平塚警察に電話して問いあわせた。すると、「そういう話があるので電話が殺到している」という返事だったので、誤報が出たのは事実らしいと判断した。平塚市役所へも電話したが、話し中でつながらなかった。 

 A記者と支局デスクは、こうした初動の電話取材を通じて、この事件について、もし誤報が事実だとすれば、これは東海地震では初めてのケースであり、ニュースバリューとしてはかなり高く、「全国版の頭を張れるニュースだ」と判断した。以後の取材は、この基本方針に基づいて行われることになった。

 平塚通信部駐在のB記者との電話連絡は、輻輳のためなかなか取れなかったが、約10分後にやっとつながった。A記者はB記者に対し「大変なことが起きているようだね」と言ったが、B記者はこのとき当の平塚で何が起きているかをほとんど把握していなかった。

 誤放送のあった当日の夜9時ごろ、B記者は平塚市内の自宅で家族とともに、テレビを見たり新聞を読んだりしてくつろいでいた。9時3分すぎ、突然外でスピーカーらしきものから何かワーワー音がするので、何事かと思い、窓を開けてみたがはっきりせず、妻と一体何だろうと話し合った。最初は広報無線からの放送とは気づかず、廃品回収車の拡声器か何かかと思ったが、この時間にしてはおかしいので、調べてみようという気持ちになった。

 まず、警察署に電話してみたが通じなかったので、次に市役所、消防署の順に電話してみたが、結局どこにもつながらなかった。横浜支局のA記者から電話が入ったのはそのときである。B記者はまだ正確な情報を何一つ得ていなかったが、「大変なことが起きているようだね」という問いかけに対し、とっさに「ええそうですね。そちらにはどんな情報が入っていますか?」と受け返し、「誤報が出たという情報が入っている」という返事を得て、初めて事件の発生を知ることになったのである。

 この電話で取材の打合せが行われた。A記者も支局デスクも「平塚ではパニックが起きている」と思っていたので、おそらく市民が街の中をゾロゾロ歩いているだろうと想像し、「市役所へ行く途中でパニック状態になっている住民の表情がわかるような写真を撮れ」とB記者に指示した。

 B記者はただちにカメラを片手に市役所の記者クラブへと急いだ。しかし、市役所へ向かう途中、市民の様子は冷静で「とくに混乱は起きていない」という印象を受けた。結局、A記者に指示されたような「絵になる」被写体を見つけることはできなかった。その夜いっぱい、B記者は市役所内の記者クラブにいて、誤報関係者の取材をしたり、3~4人の市民に電話で取材をしたが、市民の反応は冷静だったため、誤報の原因解明に取材のポイントをおくこととし、、取材の大半はこれに費やされることになった。

 一方、横浜支局では、B記者から市民の反応が予想外に冷静だとの情報を得、またパニックの証拠となるような写真も入手できなかったので、当初の「パニックが起きた」との判断が若干揺らいだ。しかし、支局で平塚市の電話張をめくって市民に直接電話取材をしたところ、「防災頭巾をかぶったりして家の中でワーワーやっている」人が何人かいたし、「避難袋を抱えて外に出ている人もいる」と答えた市民もいた。また、B記者からの連絡でも、市役所に行く途中、外に出ている人を何人か見たということだったので、「完全なパニック」とはいえないまでも、それに近い状態が起きているのではないかと判断し、「パニック状態」と若干ニュアンスを弱めた表現にして記事を書き、東京本社へ送稿したのである。

 こうして、「パニック」記事が作られることになったわけであるが、その主たる原因としては、当初から「パニックが起きた」とA記者が速断していたこと、原稿の締め切り時間が迫っていたこと、現地での取材要員が一人しかおらず十分な取材ができなかったこと、取材して得た情報が誇張ないし歪曲して解釈されたこと、などをあげることができる。

 記事全体の要約ともいえる「前文」をA記者が書き上げたのは午後11時頃だったが、この時点ではまだ、パニックが起きたかどうかを最終的に確認することはできず、前述のように「パニック状態」という若干あいまいな表現で報道することになった。しかし、この記事が東京本社に送られ、整理部が見出しをつけたときには、こうした微妙なニュアンスは伝わらず、「夜の警報パニック」というセンセーショナルで断定的な表現にされてしまったのである。

 以上の点から明らかなように、「パニック」報道は、送り手側が日ごろから持っている「パニック神話」にもとづいて、取材の過程で知らず知らずのうちに一定方向への誇張ないし歪曲が加えられた結果つくられたものであった。「メディア・リテラシー」は、情報の受け手側だけではなく、送り手側にも求められるという教訓を残した事件だったということができよう。 1938年の『火星からの侵入』パニック報道にも、同じようなプロセスが働いていた可能性も、あながち否定できないのである。

参考文献: 
H.Cantril, 1940, Th Invasion from Mars: A Study in the Psychology of Panic. 齋藤耕二・菊池章夫訳『火星からの侵入-パニックの社会心理学』(1971)
R.Bartholomew and H.Evans, 2004, Panic Attacks: Media Manipulation and Mass Delusion.
The War of the Worlds (Wikipedia)
The night that panicked America (YouTube)1975
Jefferson Pooley and Michael J. Socolow, 2013, The Myth of the War of the Worlds Panic
東京大学新聞研究所編『地震予知と社会的反応』(東大出版会)(1979)
東京大学新聞研究所編『誤報警戒宣言と平塚市民』(1982)
三上俊治(1984)「パニックおよび擬似パニックに関する実証的研究」『東洋大学社会学部紀要』21号 
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 Lazarsfeldは1930年代末から40年代にかけてもっとも精力的に活動したマス・コミュニケーション研究のリーダーであった。それは、ちょうどラジオがニューメディアの覇者として全盛期にあり、『火星からの侵入』『ラジオと印刷物』『大衆説得』などの研究は、ラジオのもつ圧倒的な力を証明するもののように思われた。

 この延長上で、Lazarsfeldの関心は、大統領選挙での有権者の投票行動と、マスメディアの影響に関する新たな研究へと向かったのである。1940年の大統領選挙は、その格好のターゲットとなった。1年近くに及ぶ選挙期間中に、有権者はマスメディアからの情報に大量に接触する。したがって、マスメディアは有権者による投票の意思決定に対して、直接的な影響力を及ぼすものと想定された。オハイオ州エリー郡で行われた一連の調査は、このような文脈のもとで実施されたものである。

ピープルズ・チョイス

 

パネル調査

 『ピープルズ・チョイス』(People's Choice)は、「いかにして有権者が大統領選挙において意思決定を行うか?」という問題意識のもとで実施された、先駆的な業績である。Lazarsfeldとともに調査に当たったスタッフは、Bernard BerelsonとHelen Gaudetという若手の研究者であった。この研究は、その後の「投票行動」に関する研究の嚆矢をなすものであると同時に、方法論の上でも画期的なものであった。

 研究の目的は、「有権者が長いキャンペーンの期間中に、どのようにして投票意図を形成しているのか?」という、ダイナミックなプロセスを探求することにあった。そのためには、1回限りの調査を実施するのでは十分ではなかった。同じ対象者に繰り返し調査を実施することによってはじめて、こうしたダイナミックスを明らかにすることができると考えられた。そこで考案されたのが、「パネル調査」(Panel Method)と呼ばれる調査手法であった。これは、同じ有権者に繰り返し、「誰に投票するつもりか」を複数回にわたって質問し、投票意図の変化を追跡する調査方法であった。

オピニオン・リーダーの発見

 フォローアップ・インタビューの中で、まだ投票意図を決めかねている人、無関心な人はしばしば、他の人々が最終的な意思決定に影響を与えているという実像が浮かび上がってきた。こうした人々は、家族であったり、友人であったり、知人であったりした。また、特定の人々が「オピニオン・リーダー」になっていることも判明した。彼らは、選挙に対する関心が高く、新聞やラジオで情報をフォローしていた。彼らは、選挙について明確な意見をもっていた。しかし、こうしたオピニオン・リーダーは、必ずしも高所得層や高学歴層など上位の階層に所属しているというわけではなかった。彼らは、異なる社会階層やコミュニティに「水平的」に分布しているように思われた。

 オピニオン・リーダーは、いわばメディア(政治的情報源)と有権者の間を媒介する位置にあった。それゆえ、コミュニケーションはメディアから政治的関心の高い個人に流れ、彼らから家族、友人、知人に流れるように思われた。つまり、「観念はしばしばラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、彼らから関心度の低い人々へと流れる」という仮説が立てられたのである。これは、本研究における最大の発見の一つであった。

ディケーター研究

 『ピープルズ・チョイス』の研究が一段落したあと、すぐに上記の「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説を検証するための新たな調査研究が企画された。それが、「パーソナル・インフルエンス」に関する研究である。この調査研究の成果は、調査実施から10年後の1955年に、『パーソナル・インフルエンス』(Personal Influence)として刊行されている(邦訳は、さらに10年後の1965年に刊行されている)。本書は理論編(人々が果たしている役割:マスメディア効果研究に対する新しい視点)と調査編(ある中西部の町における日常的影響の流れ)の二部構成となっている。このうち、第一部はElihu Katzの博士論文を要約したものである。第二部は、KatzとLazarsfeldによる現地調査の報告となっている。ここでは、LazarsfeldとKatzの共同研究に焦点を当てるために、第二部のみを取り上げることにしたい。

研究デザイン

 調査対象地域は、デモグラフィック特性がもっとも標準的であるという視点から、アメリカ中西部のイリノイ州ディケーター郡が選ばれた。調査の対象者は、各層を代表する約800名の女性とし、彼らの日常生活において他の女性からの影響がもっとも大きいと考えられる4つの領域(ショッピング、ファッション、時事問題、映画観覧)がテーマとして選ばれた。調査の主要目的は、日常生活における「オピニオン・リーダー」の析出と、かれらの特性を明らかにすること、それを通じて、「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説を検証することにあった。


 
elihu-katz
Elihu Katz

オピニオン・リーダーの析出

 本研究で「オピニオン・リーダー」と呼ばれる人々は、「フォーマルな集団のリーダーであるよりもむしろインフォーマルな集団のリーダーであり、影響領域の広いリーダーであるよりもむしろ対面的な集団のリーダー」(邦訳138ページ)である。この種のリーダーは、人びとの行動を直接に指導するというよりは、むしろ人々の意見とその変容にあたって案内役となる人々と考えられる。

 時事問題の領域についてみると、オピニオン・リーダーは、次の3つの側面から析出した。
  1. 時事問題について、この人の言うことなら信頼できるし、いろいろなことを知っているはずだと思われる人たち(一般的影響者あるいはエキスパート)
  2. 時事的な問題について、ある意見を変えたときに実際に影響を受けた相手(特定意見への影響者)
  3. ラジオで聴いたり新聞で読んだりした事柄についてよく話し合う相手(日常的相談相手)
 日常的相談相手としてもっとも多かったのは、「家族成員」(84%)、とくに「夫」(53%)であった。特定意見への影響者としては、「家族成員」(64%)がもっとも多く、「夫」(32%)が半数を占めていた。一般的影響者については、「家族成員以外」(51%)がもっとも多く、「家族成員」(48%)がこれに続いていた。

 これとは別に、対象者自身の「オピニオン・リーダー」としの自己評価についても質問を行った。具体的には、「あなたは最近これこれのことについて誰かから助言を求められたことがありますか?」という問いである。

 具体的に、どのような人から影響を受けたのか(影響者)、どのような人に助言を与えたのか(被影響者)について、名前を聞き出し、そのうちの634名に対して追跡調査を行った。

 

さまざまな影響のインパクトに対する評価

 日常的な購買行動について、意思決定に影響を与えた源を新聞、ラジオ、雑誌、セールスマン、インフォーマルな接触に分けて、それぞれの役割の相対的な力を評価したところ、パーソナルな働きかけを受けた人々に「効果的な接触」がもっとも多いことがわかった。その次に重要性をもっていtのは、ラジオCMであった。映画観覧行動についてみると、最近見に行った映画を決めたのはどうしてかという質問に対する情報源としては、新聞がもっとも多かったが、効果という点ではパーソナルな接触が大きかった。日用品の購買行動に関しては、「人 の話を聞いて」「人のしていることを見て」というパーソナルな影響が大きいという結果が得られた。

 いずれにしても、日常生活におけるさまざまな意思決定において、マスメディアよりもパーソナルな影響の方が大きいという一般的な知見が得られたのである。

異なる領域におけるオピニオン・リーダーの特性

日用品の購買行動におけるリーダー
   従来のオピニオン・リーダー研究によれば、日常的な影響の流れは、社会の上位層から下位層という垂直的な方向性をもっていると考えられてきた。しかし、本調査の結果、被影響者は異なった地位の人よりも彼女自身と同じ地位の影響者から助言を受けていることがわかった。つまり、購買行動における影響は同じ地位をもった女性同士の間で交換されることが多かったのである。また、購買行動のリーダーは、コミュニティのどの社会的地位にもほぼ均等に散在していることも明らかになった。さらに、社交性の高さも、オピニオン・リーダーの特性の一つであることも確認された。
ファッションに関するリーダー
 化粧品など、ファッションに関する事柄については、ライフサイクル的な要因が関連していることがわかった。一般に、未婚の女性は、他の女性にくらべるとファッション・リーダーになる割合が高かった。未婚女性がこの領域でオピニオン・リーダーとなりやすいことの背景には、彼らのファッションに対する関心度の高さがある。また、未婚女性の間では、情報や影響の流れは一方向的なものではなく、双方向で行われていることも明らかになった。さらに、ファッションにおけるリーダーシップは、社交性の高さとも正の関連をもっているという調査結果も得られた。しかし、社会的地位との関連については、高い地位にある者と中くらいの地位にあるものの間にリーダーシップの強さに差はみられなかった。
時事問題に関するリーダー
   政治などの時事問題に関しては、学い歴などの面で社会的地位の高い女性の方が、オピニオン・リーダーになる傾向が強くみられた。彼らは政治や社会問題に関する知識をより豊富にもっているためである。影響の流れも、社会的地位の高い者から低いものへという方向性が強くみられたのである。  また、購買行動やファッションとは違って、時事問題に関する影響源としては、男性が重要な役割を果たしていることがわかった。社交性との関連についてみると、他の領域と同様に、時事問題に関するリーダーシップは、社交性が高くなるにつれて増大するという傾向がみられた。しかし、ライフサイクル的な要因は、時事問題に関するリーダーシップとほとんど関連をもたないという、興味深い結果も得られている。 う
映画観覧に関するリーダー
 映画を見に行くという行動については、25歳未満の若い人々の観覧頻度が他の層よりも高いという統計調査のデータがある。これを反映して、未婚女性が映画観覧について、圧倒的に強いリーダーシップを発揮していることがわかった。また、「年齢が若いこと、未婚であることが、映画館に足を運び、さらには映画のリーダーになるチャンスと結びついている一方、それぞれの年齢層グループ内部において、しばしば映画を見に行く人はあまり行かない人にくらべてリーダーになりやすい」(邦訳303ページ)という注目すべき結果も得られている。

「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説の検証

 それでは、本研究の主眼であった、「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説の検証の結果はどのようなものだったのだろうか?これについては、本書ではわずか1章を割いて簡単に取り上げるにとどまっている。『ピープルズ・チョイス』研究で定式化された仮説は、次のようなものだった。

 いろいろな観念はラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、さらにオピニオン・リーダーから活動性の比較的少ない人々に流れることが多い。
 本研究を通じて、この仮説は、政治的行動だけではなく、他のさまざまな日常的領域においても成立することが検証された、としている。

 マスメディアへの接触率の高さという点でみると、それぞれの領域において、オピニオン・リーダーはそれ以外の女性たちに比べて、雑誌閲読数が多いという結果が得られた。雑誌以外のメディアに関しても、リーダーは非リーダーよりも多く接触しているという一般的傾向がみられた。また、彼女らのリーダーシップと密接に関連した内容によく接触しているという傾向もみられた。たとえば、映画観覧におけるリーダーは、他の女性に比べて映画雑誌をよく読んでいた。

 マスメディアの影響力という点からいうと、ファッションの場合には、オピニオン・リーダーは非リーダーと比べると、マスメディアから影響を受ける傾向がみられたのに対し、それ以外の領域については、オピニオン・リーダーでもマスメディアよりパーソナルな源から影響を受けるという、「2段階の流れ」仮説とは異なる結果が得られた。

 言い換えれば、日常生活のさまざまな場面において、オピニオン・リーダーと呼ばれる人々は、非リーダーに比べるとマスメディアにより多く接触しているが、意思決定という局面においては、必ずしもマスメディアからの影響を大きく受けるわけではなく、パーソナルなやりとりによって大きな影響を受けていることが判明したのである。

 もともと、「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説を検証する目的で実施された「パーソナル・インフルエンス」研究であったが、小集団研究を中心に博士論文に取り組んでいたElihu Katzの参加によって、この仮説は、影響の流れが必ずしもマスメディアからオピニオン・リーダーを介して個人に流れるという単線的なものではなく、生活領域によって異なるオピニオン・リーダー像、意思決定段階におけるオピニオン・リーダーの受けるパーソナル・インフルエンスといった新しい発見を導き出し、その後の「イノベーションの普及研究」や「利用と満足研究」などの下地をつくったともいうことができる。

 Lazarsfeldらの投票行動調査から始まった、実証的マス・コミュニケーション研究は、Katzらの「パーソナル・インフルエンス」を経て、より社会心理的な媒介変数を重視する、その後の新たなマス・コミュニケーション効果論への大きな橋渡し役を果たしたといえるのかもしれない。

参考文献:
Elihu Katz and Paul Lazarsfeld, 1955, Personal Influence. 竹内郁郎訳『パーソナル・インフルエンス』(1965)

  
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Tarcott Parsonsと並んで、構造機能主義社会学の大御所といわれた、Robert Merton。彼は一時期、マス・コミュニケーション研究にも手を染めていたことがある。初期のマスメディア効果論の代表作の一つ『大衆説得』(Mass Persuasion)は、Mertonが主導して行った調査研究であった。その過程では、Paul Lazarsfeldが深くかかわっていた。この間の経緯と「大衆説得」研究の概要、マス・コミュニケーション研究における位置づけを、Scannell(2007)などに依拠しながら振り返ってみることにしたい。

「大衆説得」研究までの経緯


Merton の生い立ちと社会学研究

 Robert Merton (1910~2003)の両親は、ロシア系の移民で、フィラデルフィアに移り住んだ。Mertonの博士論文は、「17世紀イングランドにおける科学、技術、社会」という歴史社会学に関する研究であった。1930年代には、ハーバード大学で、Talcott Parsonsらとポスト博士課程を過ごし、交友を深めた。

Merton
その頃のMertonは、Parsonsとともに、ヨーロッパ社会学に深く傾倒していた。Parsonsがウェーバーをドイツ語から英語に翻訳したのに対し、Mertonはデュルケームをフランス語から英語に翻訳し、アメリカの社会学会にヨーロッパ社会学の成果を広めるのに貢献した。その後、両者は構造機能主義的な社会学理論を展開し、アメリカ社会学における金字塔を打ち立てたのである。

Lazarsfeldとの出会い

Mertonとマス・コミュニケーション研究の関わりは、戦時中の一時期に限られている。そのきっかけは、1941年に彼がコロンビア大学に籍を置くようになり、Lazarsfeldの同僚となったことにあった。彼は、1942年から71年にかけて、Lazarsfeldの創設した応用社会学研究所(Bureau of Applied Social Research)の所長を務め、多くの社会学的な業績を残した。かの有名な「大衆説得」研究は、彼の所長時代に行われたものである。そのきっかけは、Lazarsfeldの着想にあった。Lazarsfeldは、戦時債権の募集キャンペーンのためのマラソン放送が、短時間のうちにきわめて大きな影響を及ぼしたことに注目し、これを類まれな「メディア・イベント」として研究することを提案した。実際の事例研究はMertonをリーダーとして実施され、『大衆説得』(Mass Persuasion)という書物に結実することになった。

ケイト・スミスとマラソン放送

研究対象となったマラソン放送とは、1943年9月にCBSラジオで放送された、18時間連続のキャンペーン番組である。番組のホストを務めたケイト・スミスは、アメリカの生んだ国民的な歌手であり、当代随一の人気を誇るラジオ・タレントであった。

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 放送当時、彼女は30代で、その人柄から国民から広く親しまれていた。1938年には「God Bless America」を録音し、それはアメリカ賛歌としての地位を確立したのであった。翌年にはホワイトハウスに招かれて、初来米した英国のエリザベス女王の前で歌を披露するという栄誉にあずかったほどである。ルーズウェルト大統領は席上、ケイト・スミスを「これがケイト・スミスです。これがアメリカです」と紹介したという。

 第二次大戦中、ケイトは2つのラジオ番組に定期出演し、1000万人もの聴取者の人気を博した。こうした文脈の中で、CBSは戦時債権募集のキャンペーン放送のホスト役として、ケイト・スミスに白羽の矢を立てたのであった。

 アメリカの戦時債権は、1945年末までに1850億ドルもの売り上げを記録し、戦争遂行に大きな役割を果たした。アメリカ政府や企業は、各種の広告を通じて債権の販売促進を行ったが、それに加えて、ラジオのキャンペーン放送を通じて、さらに戦時債権の募集を行った。最初のキャンペーン放送は1942年11月に開始され、第3回のキャンペーンは1943年9月に実施された。9月8日にルーズヴェルト大統領の演説が行われたあと、2週間後にCBSラジオはケイト・スミスとともに、聴取者に直接訴えかけるキャンペーン放送を行ったのである。それは、スミスとCBSにとっては3回目のラジオ債権キャンペーンであった。しかし、今回は18時間にわたって、スミスが15分ごとに生出演するという「マラソン放送」であった。彼女の努力によって、多くのリスナーがラジオ局に直接電話をかけたり、手紙を書いたりして、戦時債権を積極的に購入し、4000万ドルもの売り上げを記録したのであった。

「大衆説得」研究とその成果

研究の概要

Lazarsfeldはこの放送を一大メディア・イベントとして捉え、ラジオの影響力を示す格好の出来事として、Mertonを説得して、調査研究に取り組むよう進言した。最初はあまり乗り気ではなかった学究肌のMertonではあったが、結局この研究に引き込まれ、フォーカス・グループ調査など先駆的な手法を駆使した独創的な研究を展開することになったのである。この研究は、(1)ケイト・スミスの放送に関する内容分析、(2)放送を聞いた約100名のリスナーに対するインテンシブなフォーカスグループ・インタビュー、(3)約1000名を対象とする世論調査、の3つから成っていた。

 内容分析は、放送の客観的な特性を明らかにしてくれた。インタビューは、具体的に説得がどのように行われたかを明らかにするものだった。そして世論調査は、インテンシブなインタビューの結果をクロスチェックする素材を提供してくれた。方法論的にみても、この研究調査は、実証的なマス・コミュニケーション社会学におけるお手本を示すものとなったのである。

 このマラソン放送の「時間的な構造」を明らかにすることを通じて、Mertonは、なぜこの番組がかくも多くのリスナーを最後までひきつけ、債権購入に至らせたのかという、巨大なメディア効果を明らかにしたのであった。その中で、ケイト・スミスは、まさにマラソン競争の選手のように、最初から最後までリスナーとともに走り続け、リスナーを番組の虜にしたのであった。

テーマ分析の結果

放送内容を分析した結果、スミスが語ったことの約50%は戦時の犠牲に関するものであり、それが当時のアメリカ人に大きな影響を与えたことがわかった。犠牲を払っていたのは、戦場の兵士、一般市民、そしてケイト・スミス自身の三者であった。

  残りの50%のうち3つは、戦争の努力に対する集合的参加、戦争によって引き裂かれた家族、前2回のキャンペーン放送の達成額を超えること、というテーマに当てられた。これらは、内容や行動に関連するものであった。その他の2つのテーマはこれとは違っていた。「パーソナルなテーマ」と「簡便さのテーマ」は関係性あるいはメディア志向的なものだつた。パーソナルなテーマは、このイベントが会話的な特徴を帯びていたことを反映していた。スミスはリスナーに向って、「あなた」「私」という親密なフレーズで語りかけたのである。「簡便性」とは、電話一本で債券を申し込むことができ、放送局の回線はいつでもオープンだということを強調したことである。多くのリスナーは、直接スミスと話すことができると期待して電話機をとったのである。電話は、ケイトースミスとリスナーをパーソナルに結びつける役割も果たしたのである。

  それでは、何故この放送はかくも大きな説得力を発揮し得たのだろうか。その最大の要因は、スミスのパーソナリテイと、番組に取り組む真摯な姿勢であった。しかし、それは戦争債券を売り込むという搾取的な目的とは相反するもののように思われる。Mertonは、擬似的ゲマインシャフトという用語を用いて、このパラドクシカルな状況を説明している。放送局の送り手は、ケイト・スミスという国民的なアイコンを利用して、受け手の感情に巧みに訴えかけ、莫大な債券を受り込むことに成功したのである。マートンは、背景にある搾取的な戦時体制のディレンマにも批判的な目を向けたのであった。

マス・コミュニケーションの機能

 LazarsfeldとMertonは、同じ大学の同僚として、緊密な関係を続けたが、その間、マス・コミュニケーションの機能に関する重要な論文を共同で執筆している。それは、Lyndon Bryson編集のThe Communication of Ideas (1948)という書物に収録された、「マス・コミュニケーション、大衆の趣味、組織的な社会的行動」  と題する論文である。そのきっかけは、Mertonが『大衆説得』を出版してから数年後、思想のコミュニケーションに関するセミナーでLazarsfeldが発表したメモをMertonが出版することに同意したことにある。Lazarsfeldは、Mertonがまとめた論文に、自分の発表内容に加えて、「マスメディアのいくつかの機能」に関するMerton独自の論考によるページが新たに加えられていることを知り、2人の共同執筆論文として発表することになったのである。この論文は、現代社会におけるマスメディアの影響力について、批判的な視点から分析したものであった。

 なかでも、後に有名になったのは、マスメディアのもつ3つの機能に関する部分である。Mertonは今後研究されるべきマスメディアの機能として、次の3つをあげた。
  1. 地位付与の機能
  2. 社会的規範の強制
  3. 麻酔的逆機能
   第一に、メディアは公的争点、人物、組織、社会運動などに地位を付与することによって、正当化のエージェントとして作用する。もしこれらが公認され、メディアによって取り上げられると、それは重要な事柄だと認知されるようになり、取り上げられないと、認知されずに終わる。これは、のちに現れる「議題設定機能」とも符合する考え方であった。第二に、メディアは既存の社会的態度や価値観を、規範から逸脱する考え方に否定的な宣伝を行うことによって強制するという機能を有する。これによって、個人的な態度と公的な道徳との間の乖離が縮小する。以上2つがプラスの社会的機能だとすれば、麻酔的逆機能はマイナスの機能といえる。Mertonによればマスメディアは大衆に対し、民主的なプロセスに参加できるという幻想を創り上げることを通じて、政治的無関心を助長し、民主主義をかえって減退させている。擬似的な世論が形成され、それが民主的な意思決定過程への参加を妨げている、というのである。

  このように、MertonはLazarsfeldとの共同論文の中で、のちの大きな影響を及ぼすことになる、マス・コミュニケーションの機能に関する卓越した洞察力を示したのであった。

参考文献:
 Paddy Scannell, 2007, Media and Communication. Sage Pubication.

 
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シカゴ学派=実証的アメリカ社会学の出現

 毎年、いま頃になると、講義の話題は、いわゆる「メディア効果論」になる。5回位を費やして、歴史的な展開を論じるのだが、その出発点は、1930年代のラジオ研究にまで遡る。1930年代のアメリカは、「ラジオ」というニューメディアが急速に普及し、大きな社会的影響力を及ぼしていると信じられた時期である。ちょうど、いまのインターネット普及時代に類似した、転換期の社会だったといえるだろう。19世紀に入ると、ヨーロッパから大量の移民が流入し、都市部では人種のるつぼ的な状況で「大社会」が現出したともいわれた。シカゴ大学を中心として、多くの社会学者がこうした状況で「社会」とは何か、「コミュニケーション」とは何かという、時代を映し出すテーマについて、理論的、実証的な研究を精力的に行ったのである。

 シカゴ大学では、エスノグラフィックな質的調査が重視され、多くの優れた都市社会学の成果が生み出された。その伝統は、「シカゴ学派」として、現代まで連綿として続いている。

コロンビア大学=定量的コミュニケーション研究の始まり

 一方、ニューヨークのコロンビア大学では、定量的な調査研究によって、ニューメディアであるラジオについて、実証的な調査研究を行おうとするプロジェクトが行われた。その主導者が、Paul Lazarsfeldであった。彼は、のちに「実証的社会学の父」とも称されるようになる。

Lazarsfeldの生い立ちと渡米

 Lazarsfeldは、1901年、ウィーンでユダヤ人を両親として生まれた。父は法律家、母は精神分析家であった。彼は大学で数学と物理学を学び、アインシュタインの重力理論の数学的側面に関する博士論文を書いている。
Lazarsfeld
 その後、ウィーン大学の心理学研究所を創設したKahl Buhlerのもとで研究を続けた。そこで、社会心理学的な応用調査研究を提案している。1930年代はじめ、Lazarsfeldと2人の同僚(妻Marie JahodaとHans Zeisel)はオーストリアの小さな町で失業問題の政治的影響に関する研究を行った。研究の結果は、失業は政治的無関心を助長するという予想外のものだった。この研究の重要性を認めたBuhlerは、ハンブルグでの国際心理学会議で発表するよう勧めた。学会での発表は、たまたま出席していたロックフェラー財団のヨーロッパ代表の目にとまり、Lazarsfeldはアメリカでの1年間の在外研究の機会を得ることになった。1933年10月、Lazarsfeldはニューヨークに到着した。

Lyndとの出会いと縁結び

 渡米した直後、Lazarsfeldはコロンビア大学教授のRobert Lyndとコンタクトをとった。Lyndは妻とともに、有名なMiddletown(1929)という実証研究を出版していた。Lyndはその後、Lazarsfeldがアメリカに定住する上で、いわば縁結びの役割を果たすことになる。

 Lazarsfeldがアメリカに到着してからわずか数か月後、オーストリアでファシストによるクーデいてターが起こり、Lazarsfeldはアメリカに移住することを決意する。LyndはLazarsfeldのために、ニュージャージー州のUniversity of Newarkに就職口を見つけてくれたのである。また、Lyndの示唆により、ロックフェラー財団から研究助成を受けて、ラジオに関する大きな研究プロジェクトに代表として参加することになった。これは彼のキャリアにおいて画期的なものとなった。このプロジェクトでは、プリンストン大学のH.CantrilやF.Stanton (『火星からの侵入』調査でのちに知られるようになった)と協同研究を行っている。

 この研究プロジェクトが発展 的に解消し、数年後には、やはりLyndの仲介のおかげもあり、ニューヨークのコロンビア大学応用社会調査研究所(Bureau of Applied Social Research at Columbia)として結実したのであった。

実証的社会調査研究の推進

 Lazarsfeldが設立した応用社会調査研究所は、大学付属の社会調査研究機関の嚆矢をなすものであった。大学の付属機関でありながら助成資金は企業や政府から獲得するという斬新なスタイルのものであり、その後の同種機関のモデルとなった。  Lazarsfeldの貢献は、実証的社会学研究の方法論を築いたこと、世論調査、投票行動、市場調査研究を推進したこと、などにあった。彼はまた、数々の協同研究プロジェクトを通じて、錚々たる社会学者、コミュニケーション学者たちを輩出する、コラボレータの役割をも果たした。その中には、Theodor Adorno、Robert Merton、Elihu Katz、David Riesman、B.Berelsonなどがいた。

Lazarsfeldと実証的マス・コミュニケーション研究の発展

 1937年、Lazarsfeldは、2年間にわたる大規模な「ラジオ研究プロジェクト」を開始した。このプロジェクトには4つの主要なテーマがあった。
  1. ラジオと読書
  2. 音楽
  3. ニュース
  4. 政治 

 これらの研究において、主たる対象は、マス・オーディエンスであった。ラジオというニューメディアは、商品の販売促進にも利用されるし、受け手の知的水準を向上させるのにも役立つし、政府の政策に関する理解を深めるためにも利用され得る。いずれにしても、Lazarsfeldらの研究の目的は、いかにして送り手のメッセージが受け手に伝わり、効果を生み出すかという点に関する実証的知見を提供することにあった。プリンストン・ラジオ・プロジェクトによって1938年に行われた、『火星からの侵入』研究は、ラジオの受け手がどのように番組を受け止め、それにどのように反応したのか、というマスメディア効果論の嚆矢をなすものだったが、これはLazarsfeldの問題意識と合致するものでもあった。

ラジオと印刷物

 Lazarsfeld自身がラジオ研究所の研究成果として初めて執筆した出版物は、『ラジオと印刷物』(Radio and the Printed Page)という書物だった。これは、コミュニケーションメディアとしての印刷物とラジオの比較研究であると同時に、新しい研究方法論に関する最初の出版物でもあった。それは、当時革新的なコミュニケーション技術であったラジオの社会的影響について書かれた画期的な業績だったのである。とくに現在まで大きな影響力を放っているのは、「人々が、どのような条件のもとで、どのような充足を得るためにラジオや印刷物を利用しているのか?」という「利用と満足」研究のスタンスである。

 方法論的な特徴としては、大量のデータにもとづく定量的な調査研究と小規模でインテンシブな質的研究を組み合わせた点にある。具体的な研究方法としては、(1)番組の内容分析、(2)異なる受け手の分析、(3)充足研究の3つをあげることができる。

 この書物の中でもっとも有名な研究事例は、クイズ番組に関する受け手研究である。対象として選ばれたのは、当時もっとも成功していた『プロフェッサー・クイズ』という番組だった。この研究では、のちにLazarsfeldの二番目の妻となるHerta Herzogが重要な貢献をしている。彼らは、この研究を通じて、リスナーが引き出す多様な充足タイプを明らかにしたのであった。

参考文献:
Paddy Scannell, 2007, Media and Communication. Sage Pubication.

(つづく)

  
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