メディア・リサーチ

メディアとコンテンツをめぐる雑感と考察

カテゴリ: 書評・レビュー

 雑誌『Lightning』最新号に、「絶対に観なければいけない映画」という特集があり、その中で、「いま、40代以上の男性諸氏に捧ぐ・・・あの頃 俺たちはメグ・ライアンに恋してた」という記事が目を引きました。まさに、私のことを指しているな、と思いました。

 私がメグ・ライアンと出会ったのは、1993年のこと。学会の出張でアメリカに向かう飛行機の中で機内上映されていた Sleepless in Seattle(邦題『めぐり逢えたら』)を見て、すっかり彼女の虜になってしまいました。以来、『ユーガット・メール』『シティ・オブ・エンジェル』『フレンチ・キス』『ニューヨークの恋人』などメグ・ライアンの出演する映画は、ほとんど見てきました。 彼女の魅力は、キュートな笑顔、独特の愛らしい仕草、時折見せるうっとりした表情、コミカルな演技、憎めないパーソナリティ、などにあります。まさに、「ラブコメの女王」にふさわしい存在といえます。

 そんな彼女の魅力が全開したのが、1989年公開の『恋人たちの予感』(When Harry Met Sally)でした。どういうわけか、これまで見逃していた作品で、この雑誌で紹介されて、初めて知り、さっそく見ました。まだ若々しい頃のメグで、体型がスリムで豊かな金髪が魅力的ですが、後の彼女の魅力がすでに存分に発揮されていました。「名作」かどうかはさておき、ラブコメ女王の誕生を告げる、記念すべき一作だと思います。

 しかし、メグ・ライアンを知っている世代は、40代以上のようで、先日学生に「メグ・アイアンって知ってる?」と聞いたところ、だれも知りませんでした。もはや、過去の女優になりかけているようで、残念です。最近は、整形手術が失敗したとかで、映画出演の機会もなくなったようで寂しい限りです。でも、私にとっては、永遠のラブストーリーのヒロインです。

268 | dマガジン 2016-07-09 04-36-05





 
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 この映画は、以前に一度見たことがあります。今回、見直して、すばらしい名作であることを再確認しました。シチリア島の小さな村にある、唯一の娯楽施設の映画館(ニューシネマパラダイス)。そこに、映画好きの少年トトが入り浸り、中年の映画技師アルフレードと親しくなります。少年は成長して、少女と恋に陥りますが、失恋。映画館は火事に遭い、映写技師は失明。少年はそのあとを継ぎます。しかし、アルフレードはトトに、ローマへ行くことを強く勧め、トトもその助言に従い、ローマへと旅立ちます。

 映画監督として成功したトトは、アルフレードの死を知り、故郷に戻りますが、、、

 この映画は、かつて映画が民衆の唯一の娯楽であった時代を懐かしむことができるとともに、過ぎ去りし思春期への回顧、切ない失恋、美しい音楽など、見所満載の映画です。ラストシーンも感動的。


 

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 1950年代の米ソ冷戦を背景に、スパイの交換という大役を果たした弁護士の物語。トム
ハンクスが弁護士役を好演。スピルバーグ監督の最新作。見応えがあり、おもしろかった。
 
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 日曜日に見た映画、『きみに読む物語』(The Notebook)。階級差や第二次大戦などを背景に、次第に惹かれ合い、やがて結ばれる男女を描いた、心温まるラブストーリー。間違いなく、恋愛映画ベストテンに入る、心に残る作品だと思いました。ベストセラー小説を映画化したもの。

詳しいレビューは、こちら:

きみに読む物語

 
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「大戦学理」を翻訳したのは誰か?


 一般には、『大戦学理』(『戦争論』)の翻訳者は、森鴎外だと思われているようですが、これは事実に反しています。『大戦学理』(仏訳 Théorie de la grande guerre)の翻訳作業は、陸軍士官学校によって、1886年の後半から開始されています。この翻訳のもとになった原本は、オリジナルのドイツ語版ではなく、フランス語版でした。

 ところが、このフランス語版は、オリジナルのドイツ語版と同じ内容ではなく、最初の理論編の部分が欠落していました。そのあたりの事情は、『大戦学理』にはっきりと記されています。その部分を次に引用しておきます。
大戦学理 巻一

犬戦学理の序 5頁

附言。本書は前述の如く全部八巻。其の第一及第二の二巻は純粋哲理論にして三の巻以下は皆軍事論なり。クローゼウィツの軍事哲理を我が国に紹介するには先づ其の軍事論より譯し始むるに若くなし。是を以て先づ巻の三より翻訳に着手せり。佛譯者ド。ヴァタリー中佐も亦同上の意見を以て其の翻訳を巻の三より始め、而して巻の三、四及五を首巻と号し逐次に巻號を變更せり。今中佐の下せし巻號に従えば巻號錯綜の恐あるを以て本譯書は独逸原書の巻號に従ふことゝせり。

明治三十四年八月
 調べてみたところ、確かに、Vatry中佐訳の『大戦学理』(Théorie de la grande guerre)が1886年から1887年にかけて出版されていることがわかりました(フランス国立図書館蔵)。その目次を見ると、確かに、原書の第一巻と第二巻がありません。

Theorie de la grande guerre

 森鴎外が訳したのは、フランス語版に欠落していた第一巻と第二巻の部分だったのです。つまり、森鴎外がドイツ語の原本から訳出したものと、陸軍士官学校がフランス語版から訳出したものを合わせて、『大戦学理』として出版したというのが、真相なのです。このことは、あまり知られていないのではないでしょうか?

情報の「鴎外造語説」は正しいか?


 では、鴎外は翻訳を出すに当たって、フランス語版の訳文を子細に検討し、訂正などを加えていたのでしょうか?それについては、疑問符がつきます。なぜなら、訳語の統一が図られている様子が見えないからです。その代表的な例が、「情報」と「状報」の訳語です。

 森鴎外の訳した第一巻と第二巻では、只一カ所を除いて、ドイツ語のNachricht(en)を「情報」と訳しています。これに対し、フランス語版のRenseignementは、一貫して「状報」と訳されていることがわかりました。

 つまり、『情報」という言葉に関する限り、訳語の統一は計られていなかったのです。

 鴎外が小倉に転任したのは、「左遷」ではなく、『大戦学理』の翻訳に集中させるためだった、とする新説(石井郁男『森鴎外と「戦争論」)がありますが、上の事実に照らしてみるとき、この説には疑問符が投げかけられます(「左遷説」が現在でも定説になっています)。

 では、鴎外は、Nachricht(en)をなぜ「情報」と訳したのでしょうか?その理由を調べると、当時の最新軍事用語独和辞典で、Nachrichtに「情報」という訳語が当てられていたことがわかりました。

独和兵語辞書(明治32年刊行)

 明治32年に発行された『独和兵語辞書』には、「情報」という訳語が明記されていました。鴎外他訳の『大戦学理』が出版されるのが、明治34年ですから、鴎外は、当然この辞書を参照していたと思われます。「鴎外造語説」もまた否定される結果となってしまいました。

 今後の課題としては、鴎外の『独逸日記』『小倉日記』や陸軍の史料などをもとに、裏をとりたいと思っています。(つづく)



 
 
森鴎外と『戦争論』―「小倉左遷人事」の真実
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きのう見た映画は、「パッチ・アダムス」。精神科に入院していた頃、患者から教えられ、人助けがしたくて、退院後、大学の医学部に入学。その後12年間にわたって、困っている人たち数万人を治療したという、トゥルーストーリーです。やはり、感動しました。 ただ、ロビン・ウィリアムズ氏は、2014年、鬱病が原因で自殺したとのこと、信じられない気持ちです。パッチ・アダムズのように、末永く生きて活躍してほしかったと思います。

※ストーリーの詳しい紹介は、こちらです。 
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バックミラー


 マクルーハンは、「われわれはまったく新しい状況に直面すると、つねに、もっとも近い過去の事物とか特色に執着しがちである。われわれはバックミラーを通して現代を見ている。われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく」と述べている。これは、メディアの進化に関してどのような意味をもっているのだろうか?メディアの歴史をたどってみれば、その例はいくつでも見つけることができる。例えば、
電話は最初「話す電報」と呼ばれていた。自動車は「馬無し馬車」、ラジオは「無線機」という具合だ。どの場合においても、バックミラーの直接的な影響は、新たなメディアの最も重要かつ革命的な機能を部分的に不鮮明にするものだった。・・・マクルーハンは、旧いメディアは新しいメディアのコンテンツになり、そこで新しいメディアと誤解されるほど顕著にその姿を現わすことになることを指摘した。これはバックミラーの解釈の一つで、私たちの注目を前方から来て目の前を通しすぎたばかりのものへと向け直すものだ。・・・例えば、彼のグローバル・ヴィレッジという概念もまた、もちろんそれ自体がバックミラーだ。つまり、新しい電子メディアの世界を古い村の世界を参考にすることによって理解しようという試みだった。

 「ウェブは、新旧のいろいろなことを新しい方法で実証できる場であり、バックミラーの紛れもない宝庫だ」と著者はいう。例えば、インターネットでリアルオーディオを聴くとき、それをラジオと考えることもできる。インターネットで調査するとき、それは図書館を利用しているかのようだ。オンラインのチャットルームは、カフェと同じようなものだと感じる。

 しかし、バックミラーというメタファーは、しばしば新しいメディアと過去のメディアの相違点を目隠ししてしまう場合がある。例えば、キンドルのリーダーで本を読んでいるとき、それを落としてしまって、壊してしまったとすると、もはやそれは書籍ではなく、ただのジャンクと化してしまう。紙の本なら、ほんの少し汚れるだけで済むだろう。朝日新聞デジタルをiPadで読んでいるとき、それは紙の新聞のイメージとほとんど変わらないが、やはりメディアとしては別ものである。「紙面ビュー」という発想自体が、「バックミラー」の実現という意味を含んでいる。それは、電子化された「紙面」なのだ。だからといって、それを否定するわけではない。読み慣れた紙面をパソコンの画面やiPadで再現するというのは、旧メディアに慣れ親しんだユーザにとってはありがたいサービスだ。大切なことは、同じ「紙面」といっても、その機能、性質は新旧メディアの間で異なることを認識することだろう。そのメリットとデメリットをしっかりと把握しつつ、新旧メディアを適切に使い分けることが大事なのだ。
 どのようなメディアにも欠陥があり、その欠陥を補うように、あるいは克服するようにして、新しいメディアが発明され、普及してきた。これを著者は「治療メディア」の進化と呼んでいる。
 メディアの相対的な進化は、まず最初に視聴覚という生物学的な境界線を越えてコミュニケーションを拡張するメディアを発明することで想像力の切なる願いを満たし、次に、最初の拡張で失われた自然の世界の要素を再び取り戻すための試みであると考えることができる。こうした視点からみると、メディアの進化全体が治療だろ考えられる。そしてインターネットは、新聞、本、ラジオ、テレビなどを進化させたものなので、治療メディアの中の治療メディアだといえよう」(p.295)

 インターネットそれ自体、現在では、数多くのメディアの複合体となっており、その内部で「治療的」な進化を続けているといえるだろう。マクルーハンのことばでいえば、「内爆発」を起こしているのだ。その内部的な進化の過程は、他の旧メディアを巻き込みながら、次第に大きな「銀河系」を形成しつつあるといえるだろう。そのプロセスは、本書の最後で取り上げられている、「メディアの法則」によってある程度解明できるかもしれない。

メディアの法則


 マクルーハンが遺した最後のアイデアは、4つのメディアの法則(あるいは影響)だった。つまり、「拡充」(amplification)、「衰退」(obsolescence)、「回復」(retrieval)、「逆転」(reversal)という「テトラッド」である。
マクルーハンのテトラッドは、いずれのメディアに関しても、次の4つの質問をする。
(1)そのメディアは、社会や人間の生活のどの側面を促進したり拡充するのか。
(2)そのメディアの出現前に支持されていた(あるいは傑出していた)どの側面をかげらしたり衰退させたりするのか。
(3)そのメディアは何を衰退の影から回復させたり再び脚光を当てたりするのか。
(4)そのメディアは自然に消えたり可能性の限界まで開発されたりするときに、何に逆転したりひっくり返ったりするのか。

 具体的な例として、著者は、ラジオとテレビをあげて、こう説明している。
 ラジオは人間の声を瞬時に拡充して遠距離を超えて大勢の聴衆に届け、重大ニュースの第一報を新聞の「号外」ではなくラジオで聴いたりするように、マスメディアとしての印刷物を衰退させ、印刷物によってほとんど衰退していた町の触れ役を復活させ、聴覚的なラジオは限界に達した時に視聴覚に訴えるテレビへと逆転させる。
 テレビは視覚を拡充することによってラジオを衰退させ、印刷物の可視性がラジオによって衰退させられらたのとはまた違った方法で視覚を回復する。テレビの視覚の回復は新しい種類のもので、依然の視覚と現在の電子の特性をまったく異なるかたちで異種交配したものだ。それが限界まで表現されると、テレビ画面はパソコンの画面に逆転する。 

 それでは、インターネット時代のメディアは、どのようなものへと進化するのだろうか。その進化の方向性を決めるのは、人間のニーズであり、理性的な選択だと著者は考えているようだ。それは「治療メディア」のはたらきであり、それがマクルーハンのメディア決定論を逆転させる。
 インターネットと、それによって具体化され実現される現代のデジタル時代は、大きな治療メディアであり、それ以前に生まれたテレビ、本、新聞、教育、労働パターン、そしてほとんどすべてのメディアとその影響の欠点を逆転させたものなのだ。これらの救済の多くは、テレビの儚さを治療したビデオほどには、故意で意図的なものではなかった。しかしこれらが新しい千年紀において集中したことや、以前のメディアが持つ多種多様な問題を連携良く支援していることは決して偶然の一致なのではない。・・・デジタル・コミュニケーションによって強化された理性の働きの下では、すべてのメディアはいつでも手軽に治療できるようになる。(p.331)

 ある種、楽観的なメディア進化論のように見えるが、もちろん、危険な側面もあることは、著者も指摘する通りである。これ以上の内容については、本書を実際に手にとってお読みいただければと思う。

 なお、著者のPaul Levinson氏の経歴については、Wikipediaに詳しい。Connected Educationは、Wikipediaによると、1985年から1997年まで存続していたが、その後の経緯は明らかではない。若い頃は、ソングライターやレコードプロデュサーなどをしていたり、現在では大学教授などの傍らSF小説を書いたりと、多彩な活動を展開している方のようだ。 
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デジタル・マクルーハン
 気鋭のマクルーハン研究者である、ポール・レヴィンソンが1999年に出版した、『デジタル・マクルーハン』(NTT出版, 2000)。若干の私見と最新動向を交えながら、そのエッセンスを紹介しておきたい。現代のメディア論を理解する上で、いまでも基本的な文献だと思われる。

 レヴィンソン氏は、ニューヨーク大学で「メディア・エコロジー」を学び、博士号を取得している。したがって、メディア・エコロジーの視点から、マクルーハンを解説し、それをデジタル・メディアに応用したのが本書だといってもいいだろう。

  本書は15章から構成されているが、各章は、マクルーハンの唱えた有名なキャッチフレーズや法則について、わかりやすく解説するとともに、それをデジタル時代に読み替えたものとなっている。では、第3章以下、章ごとに内容を紹介していきたいと思う。

メディアはメッセージである


 いうまでもなく、これはマクルーハンの理論でもっとも有名なキャッチフレーズだ。レヴィンソンによれば、
その基本的な意味は、どのようなコミュニケーション・メディアであれ、そのメディアによって伝達されるコンテンツよりそれを利用する行為自体のほうがはるかに大きな影響力を持ち、例えばテレビを見るという行為はテレビ番組やその内容より重大な影響を私たちの生活に与え、電話で話すという行為はその会話の内容よりも人の暮らしに革命的な変化をもたらすということだ。

 これが一部の人々に「コンテンツ」を否定するものと受け取られてしまった。マクルーハンの意図は、われわれの意識をコンテンツからメディア自体に移そうとした点にあった。それは、「コンテンツにばかり気を取られていると、メディアとその周辺すべてのものに対する理解や認識が阻害されてしまうと考えていたからだ」。どのようなメディアも、そのコンテンツは、実は旧来のメディアなのだ、ともマクルーハンは言っている。
 いずれのメディアも他ならぬそれ以前に台頭していたメディアをコンテンツとし、その結果古くなったメディアは以前の粗野で目に見えない状態から飼い慣らされ、ようやく全体像を私たちの前に現わすようになる、ということなのだ。

 映画のコンテンツは小説であり、テレビのコンテンツは映画やラジオの連続ドラマやクイズなどである。それでは、ウェブのコンテンツとなるメディアは何なのだろうか?それは、「ひとつにとどまらず複数のメディアだ」というのが回答である。なぜなら、「ウェブはそのコンテンツとして、ラブレターから新聞までの書き言葉に加え、電話、ラジオ、テレビの一種とでも言うべき音声つきの動画まで取り入れているからだ」(p。76)。ひとことでいえば、ウェブは「マルチメディア」なのである。なかでも、「書き言葉」という共通要素があることを筆者は強調している。さらに、「ユーザーはインターネットのコンテンツだ」とも主張している。なぜなら、「インターネットのコンテンツとなるのは旧いメディアばかりではなく、利用するごとにオンライン上でコンテンツを創り出す人間のユーザーもそうなのであり、そこが他のマスメディアと違う点とも言えるだろう」(p。77)。実際、マクルーハン自身、テレビについて、「ユーザーはコンテンツである」と語っていたそうである。

 これだけでは、「ユーザーがコンテンツ」ということばの意味はわからない。レヴィンソンによれば、ユーザーをコンテンツとするマクルーハンの考え方から、少なくとも三段階の階層構造が浮かび上がってくるという。
(a)人間が眼前に現われるものすべてに対し、込み入った解釈をすることで、すべてのメディアのコンテンツとなる段階、
(b)知覚した人間が、ラジオやテレビなどの一方通行の電子メディアを「通じて」移動し、そこでそのメディアのコンテンツとなる段階、
(c)話し手である人間が電話などの旧いインタラクティブなメディアのすべてのコンテンツを、またインターネットの場合はほとんどのコンテンツを文字通り創造する段階(ッp。79-80)

 さらに、インターネットは、「人間の会話が介在していない時は、テレビの流儀に従って映像を、また印刷の流儀に従って映像を、また印刷の流儀に従って書き言葉を表現するものなので、前記の階層構造の全段階を包括し、人間がコンテンツを決定する過程において、それまでのすべてのコンテンツを完成させたものである」という。
 実際、最近のインターネットTVや、ネット上の電子書籍、電子新聞などは、まさに、旧来メディアをすべて包括した完成形という印象を受ける。

 それでは、インターネットで電子新聞を読む場合、コンテンツはその新聞なのか、ニュースの言葉なのか、その言葉で表現されたアイディアなのか、、、それともすべてがコンテンツなのだろうか?そのおおもとをたどると、最古のメディアである、「話し言葉」に行き着くだろう。いいかえると、「個々の新しいメディアは旧いメディアをコンテンツとして取り入れていて、そのために最古のメディアである話し言葉は、それ以降に誕生したほとんどすべてのメディアの中に存続しているということが分かってくる」。

 例えば、
・表音文字は話し言葉の音を視覚的に表記したものだ、
・印刷機は本や新聞、雑誌などにアルファベットを大量生産したものだ、
・電話、レコード、ラジオはいうまでもなく話し言葉を伝達する、
・サイレント映画は言葉を視覚的におおげさに表現したが、トーキーになって、文字通り話し始めた、
・その映画はテレビのコンテンツになった、
・そして、前記のすべては急速にメディアの中のメディアであるインターネットのコンテンツになりつつある。

 最近普及し始めた、「電子新聞」や「電子書籍」は、「メディアはメッセージである」ということばでどう捉えるべきだろうか?朝日新聞や日経新聞は、電子版で「紙面イメージ」を採用し始めたが、これは、インターネットの中に紙の新聞イメージを取り込んだものである。それは、ニュースサイトで読む新聞とは似て非なる体験をユーザーに呼び起こす。つまり、デジタル形式で、紙の新聞を読んでいるような、ある種のノスタルジー的な快感と効用を与えてくれるのだ。つまりは、旧いメディアのフォーマットがインターネットのデジタル情報空間上で再現し、再生したといってもよい。キンドルなどのeインクを使った電子書籍についても、同じような「既視感」を味わうことができる。紙のような肌触り、ページをめくっているような感覚でデジタル書籍を閲覧することができるからだ。これは、「新しい革袋に旧い酒を入れる」ような感覚である。旧いメディアが、デジタル技術によって、新しい棲み場所を得たような気がするのだ。これもまた、「メディアはメッセージだ」という言葉にぴったりと当てはまる現象とはいえないだろうか?

聴覚的空間


 マクルーハンは、「聴覚的空間」を強調した。なぜなら、歴史的にみれば、聴覚こそは、視覚に先立って誕生した<始原のメディアだからである。
マクルーハンの「聴覚的空間」という概念は、視覚的空間とアルファベットとの関係に関する彼の立場を非常に明快にする。つまり、聴覚的空間はアルファベト以前に出現したものだということだ。それは文字の出現以前の視点で見た世界であり、境界がなく、情報が固定された場所からではなく、あらゆる場所から生み出される世界だ。それは音楽や神話、全身が包み込まれる世界であり、したがってマクルーハンの考えによると、主にテレビというものはやはり音楽的かつ神話的で、包み込む形態でアルファベットより後に私たちの前に現われ、本や新聞とは異なり、視点や対象物との距離感を持たない世界だ。(p.90)

 それでは、インターネットのサイバースペースは、どのような世界なのだろうか?この点について、著者は、サイバースペースはまさしく聴覚的空間だという。アルファベット以前の世界において、「私たちは世界を探索するとき、視覚と聴覚を用い、関わりを持つ時は触覚と味覚を用いる。視覚は私たちが目を向けているものの詳細を正確かつ詳細に伝えてくれるが、聴覚は私たちが世界に耳を傾けようとするかしないかに拘わらず、一日24時間、絶えず私たちと世界の接点を用意している」。深い眠りから目をさまさせてくれるのも、聴覚のおかげである。アルファベットが進化したのも、聴覚のおかげである。印刷の発明後も、出版といえども、声が多くの人の耳に届くことはできなかった。その点では、テレビのもつ聴覚的性質は、「一国のいずれの場所においても、またCNNなどが出現して以来、世界のいずれの場所でも、同じ映像がテレビ画面上で見られるという点にある」。ラジオも同じだ。そして、「アルファベットはインターネットの画面に表示されることで、同じ言葉を、世界的なケーブルテレビの画面よりはるかに容易かつ効率的に世界中に送ることができ、印刷よりはるかに身近で直接的に遠方まで広がりを持つ聴覚的空間のコンテンツになると同時にその媒介にもなったのだ」(p.94)。インターネット上の聴覚的空間は、テレビやラジオよりも拡大したものとなっている。すなわち、その非同期性、非場所性などをもっているからである。また、インタラクティブ性など。「オンラインのアルファベットのコミュニケーションの容易でインタラクティブな性質は、直接に音を聴くことが始まって以来、電話以外ではどのメディアにも欠けていた聴覚的性質の根本的な原動力を回復し増強する」。

 ここで、著者は、やや唐突ともいえるが、独自の「メディア進化論」を提示している。
 私は「人間の再生-メディア進化論」を皮切りに過去20年間にわたって、コミュニケーションの未来を予言するという困難な仕事のためにメディアの一般n理論を構築してきた。その理論の核心は、メディアはダーウィンの説のように進化し、そこで人間はメディアの発明者であると同時に選択者でもあるということだ。そしてその選択の基準は、(a)私たちは、単なる生物学的な視覚や聴覚の境界を越えてコミュニケーションを拡張するようなメディアを求める、(b)初期の人工的な拡張の過程で失ったかもしれない、生物学的なコミュニケーションの要素を再び取り戻すようなメディアを求めるというものだ。つまり、私たちは自然のコミュニケーションという炉床を求めつつも、私たちを拡張することでそれを凌駕するメディアを求めていく、という二つの点だ。

 例えば、電話は、私たちの進化の過程で、一旦は失われた音声という要素を回復する双方向のコつりょミュニケーション・システムの強い進化的な圧力によって、電報に取って代わった。白黒映画からカラー映画での進化、白黒テレビからカラーテレビへの進化も同じ。また、最近のハイビジョン・テレビも、よりリアリティの高い映像や音声への進化を示している。

グローバル・ヴィレッジ


 このキャッチフレーズは、「メディアはメッセージである」と同じくらい人口に膾炙されたことばだが、こちらは誤解されることもなく、広く受け入れられた。電子メディアの登場によって、世界は小さな村のようになったということだ。
かつて、小さな村の住人は触れ役の声が全員に行き届くことで、公的な情報にほぼ同じ程度に接触していた。その情報の届く範囲を拡大したのは印刷だった。それは最初の大量の読者、つまり目と耳の届く範囲を超えた反応の速い大衆を初めて創出したが、その結果として本来の聴覚的な村人の同時性が失われてしまった。誰もが同じ朝刊、同じ夕刊を購読しているわけではなく、また同じ新聞を購読しているにしても、同じ瞬間に同じ記事を読んでいることなど考えられないからだ。それからラジオが、そしてテレビが出現し、国中の誰もが居間に腰を下ろして、同時にニュースを読むアナウンサーの声を聴き、同じ顔を見ることが可能になった。80年代にCNをはじめとするグローバルなケーブルテレビの出現によって、村はグローバルとまでは言わないまでも、全国的に再構成され、放送メディアがグローバル・ヴィレッジを実感させるものになっていった。(p.121)

 しかし、テレビによって実現したグローバル・ヴィレッジは不完全なメタファーだった。というのは、人々はテレビを通じて双方向のコミュニケーションをすることができなかったからだ。その意味では、インターネットこそが、グローバル・ヴィレッジの正しいメタファーとなりつつあるといえよう。

 ラジオからテレビへの変化は、「地球村」の性格を大きく変化させた。著者によると、それは「子供の村」から「のぞき見趣味の村」への変化である。家族内で、子供は重要な問題には両親の意見に逆らうような意見を口にすることは一切許されない。同じように、ラジオという一方通行の音声メディアでは、聴取者はラジオから流れる時の支配者のことばに反論を言うことを許されていなかった。それゆえに、「ラジオ時代は20世紀でもっとも影響力の強い、スターリン、ヒットラー、チャーチル、フランクリン・ルーズヴェルトという4人の政治家を生み出した」(p。123)。日本でいえば、戦時中の政治家や軍部をあげることができるだろう。「聴取者は年齢に関係なく、ラジオという父親の子供になった」のである。ちなみに、マクルーハンは、「テレビがラジオよりも先に登場していたら、そもそもヒットラーなぞは存在しなかったろう」と述べている。

   著者によれば、「グローバル・ヴィレッジは、テレビを介することにより聴取者の村から視聴者の村へ、つまり子供からのぞき見趣味の大人へと成長した」という。例えば、1960年当時、ジョン・F・ケネディはその発言よりも、ハンサムなルックスで賞賛を集めていた。それは映画スターとファンのような関係である。また、ケネディの悲劇的な死も、「父親を亡くした子供の心境というより、ティーン・エージャーの子供の自動車事故死による衝撃に近いものだった」という。のぞき見趣味の人たちは、その対象を愛しも恨みもする。その結果、テレビ時代の政治家達は愛憎両方の対象になった。歴代の大統領や日本の最近の首相が頻繁に交代するのも、テレビを通じて視聴者による愛憎の対象とされるからなのかもしれない。

 それでは、オンライン時代のグローバル・ヴィレッジはどのようなものになるのだろうか?

 実際のところ、政治の世界において、「オンラインのコミュニケーションは、アテネの地方民主政治、もしくは少なくとも国の立場から言えば、直接民主政治を行なう年を地球規模で実現するための道を開き始めている。インターネットは既に、数多くの議論の場と機会を提供している。また、意思統一の実現や評価のためのソフトエアも、投票をし集計するためのソフトウェアも、容易に入手できるようになった」。問題は、私たちがそれを使用したいと思うか、ということだ。

 かつて、ウォルター・リップマンは、「国や社会の出来事はあまりにも大きく複雑で、その影響がわかりにくく、個々の市民の理解の範囲を超えているので、間接的な代議制政府が必要だ、と述べ、直接民主主義を全面的に否定した。しかし、インターネットによって、状況は大きく変化した。
 今やインターネットでは何百万人もの人々が積極的に話し合い、個々の市民はリップマンの言う「後ろの座席にいる耳の聞こえない観客」ではなく、1927年当時の議員よりずっと簡単にほとんどの事柄に関する情報にアクセスできるようになった。(中略)リップマンは現代でも、オンラインのグローバル・ヴィレッジは原則的に情報の配布をするだけで、誰もが立法府の議員になれるわけではない、と言うかもしれない。しかしグローバル・ヴィレッジはそれにとどまらず、議論、ディベート、世論の確立、投票の手段でもあり、本来統治の手段なのだ」(p.130)

 今日のデジタル世界は膨大な情報で溢れかえっている。その中から、どうやって適切な情報、データを引き出せるのか?この点については、検索エンジンが大きな威力を発揮してくれるだろう。そのことは、「確かに、オンライン上での情報入手、論議、投票が可能になった直接民主制の政府がきちんと機能する、あるいは現行の代議制より優れた機能を発揮することを何一つとして保障するものではない。」現代社会は、古代アテネよりはるかに複雑で多くの問題に対処しなければならず、それを統治するには、それなりの能力が必要とされることもたしかだ。したがって、「直接民主制はおそらく、政府の一部の側面でのみその機能を十分に発揮できるのだろう」と著者は述べている。

 しかし、現実には2008年のアメリカ大統領選挙では、オバマ候補がインターネットを駆使して、大統領選を勝ち抜くなど、インターネットあるいはソーシャルメディアが草の根の有権者パワーを動員して、政治を大きく変えるなど、ある種の直接民主制が実現しつつある。日本でも、今年の参議院選挙までに、公職選挙法が改正され、インターネットを通じて、国民の意思がより直接的に国政選挙に生かされる道が見えてきたのは、周知の通りである。著者は、「現在の代表民主制の実績とそれに対する人々の満足度が、過去数百年の何らかの目安となるのであれば、インタラクティブなオンライン・グローバル・ヴィレッジで直接民主制が成功する見込みを少し試してみるのもいいかもしれない」と控えめに提案しているが、2010年代の政治は、少なくともアメリカでは、それを着実に実現しているように思われるが、どうだろうか?

 オンライン・グローバル・ヴィレッジの進展は、政治だけではなく、ビジネスの世界で、それ以上に進展していることは、周知のとおりである。これについての紹介は、割愛させていただく。

ホットとクール


 レヴィンソンによれば、マクルーハンのホットとクールの区別は、新たなメディアの影響を理解するために彼が使った道具の中で、もっとも有名で誤解を受けながらも有益なものだった、という。マクルーハンのホットとクールは、もともと、ジャズの世界のスラングを引用したもので、大音響のビッグバンドの魂を揺り動かし酔わせる「ホット」な音楽と、もっと小さなバンドの心を惑わせ誘い込む「クール」な演奏を比較する言葉だったという(p.183)。マクルーハンの考えによると、「ホットメディアは、飽和しやすい私たちの感覚に近づいて襲いかかる、声高で明るく目立つ情報の発信方法であり、逆にkウール・メディアは、曖昧でソフトで目立たない、静かな夕べにぴったりの、私たちの関与を誘うメディア」である。例えば、「大スクリーンで色鮮やかなホットな映画と小さな画面で見るクールな白黒テレビ、小説や新聞に印刷されたホットな散文とクールな詩や落書き、など。

 ただし、小さなブラウン管をもつ白黒テレビが「クール」というのは分かるが、現代のように、40インチ以上の高精細度ハイビジョンの時代に、テレビが依然として「クール」だというのは、やや感覚的にずれているように思われる。もっとも、「クール」と「ホット」は、二分法的に捉えるべきではなく、「温度」と同じように、程度の差をもった、連続的な尺度と考えたほうがよさそうである。現代のテレビは、かつてのちっぽけなアナログ白黒テレビに比べると、はるかにホットなメディアになっているのではないだろうか?

 問題は、インターネット時代の「電子化されたテクスト」の性格である。レヴィンソンによれば「電子化されたテクストは必然的にテレビを遙かにしのぐほどクールになり、またその出現は最近のラップ・ミュージックやクエンティン・タランティーノの映画のような、クールなものの成功と時を同じくしている」という。

 レヴィンソンによれば、ホットとクールは、文化全般に影響を及ぼし、その文化が今度は適当な温度のメディアを選択することになるという。実際、テレビが登場して以降、文化もまたクールなものになり、その中で、コンピュータやインターネットのような「クール」なメディアが出現したのである。

 電話は、音質が比較的悪いため、人間の声のほんのうわべだけしか伝達できず、最初から本質的にクールなメディアだった。また、本質的にインタラクティブな性格をもっており、ベルが鳴るとそれを無視することが非常に難しい。「そうしたインタラクティブな牽引力、つまり電線の向こうにいる生きた人間の引力がとても強いために、電話は音声の強さや明瞭さとは関係なくクールなメディアだった」という。

 インターネットは、まさしくテレビ以上にクールなメディアだ。「パソコンは全世界に広がる電話システムに接続すると同時に、テレビと本に変身する。そして特殊な電話となり、強力でクールなインタラクティブな性質を持ち続けるばかりかそれは強まる。それを生み出したのは実際には、電話、テレビだけではなく、本を加えた三つのメディアだ。そして最初の二つがクール・メディアなのだから、オンライン・テキストがクールになるのは至極当然のことなのだ」(p.196)。

 最近の例でいえば、電子メールやチャット、ソーシャルメディアなどは、ユーザーの関与度が高く、いかにもクールなメディアと呼ぶのにふさわしいように思われる。また、レヴィンソンによれば、彼自身が実践しているオンライン教育も、きわめてクールなメディアであり、学生の参加度を高めるという意味で、すぐれた教育システムだと考えているようだ。

 つづきは、こちら
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 今月から朝日新聞デジタル(電子版)に、「紙面ビューアー」のサービスが開始された。日経電子版と同様に、縦書きの紙面のイメージをそのままPC画面上で閲覧できるようになったのだ。これはまさに、待望の新機能といえる。さっそく、毎朝のように試しているが、従来のウェブ版にくらべて、「新聞を読んでいる」という雰囲気を味わうことができるので、たいへん重宝している。

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(『朝日新聞デジタル』2013年1月25日朝刊1面より)


紙面ビューアーの利点は、次のところにあると思われる。

(1)縦書きの印刷書体なので、とても読みやすい。
(2)両面を開けるなど、一覧性が高い。
(3)字体を大きくできるので、読みやすい
(4)広告を紙版と同様に読める
(5)一つ一つの記事が、ウェブ版と連携しているので、スクラップをとれる
(6)目次機能(またはサムネイル)を使えば、紙面を自由に飛ぶことができる
(7)モバイルPCやタブレット(2月に登場?)を使えば、どこでも読める
(8)毎朝、紙の新聞を読むような新鮮な気分を味わえる(punctuating time function)
(9)記事の重要度が見出しや紙面のサイズ、位置で確認できる(agenda-setting function)

というわけで、私は紙の新聞購読をやめて、デジタル版一つとすることにした。なによりも、紙資源の無駄をなくせるというのが最大のメリットだと感じる。要望としては、紙面ビューアーからダイレクトにスクラップできるとか、紙のイメージでのスクラップが可能になるといいのではと思っている。技術的に難しいのかもしれないが、、、
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 必要があって、約10年ぶりにローレンス・レッシグ著『CODE』を再読した。オリジナルの原書が出版されたのは、1999年。日本語訳が出たのは、2001年3月27日。私が直接レッシグ教授にお目にかかったのは、2001年3月15日のことだった。それは、ちょうど日本語訳が出版される2週間前のことで、私自身、たまたまプリンストン大学で開かれた講演会に招かれて、同席したのだった。原書も日本語訳も知らないままで、同席したため、また専門領域が異なっていたため、残念ながら、英語でのやりとりをちんぷんかんぷんで拝聴するにとどまった。その当時に書いたウェブ日記には、そのときの状況が次のように記されていた。
 
きょうの講演の内容は、電波の周波数の配分とインターネットの自由の問題であった。私の英語力がいま一つのために、議論の詳細は紹介できないが、とにかくいかにも頭が切れる(超スマート!)という感じのレクチャーとディスカッションが、1時間30分にわたって行われた。私はもちろん専門外だったので、おとなしく聴講しているだけだったが、参加者からの鋭い質問やコメントにも、実にスマートに答えていたのが印象的であった.

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2001年3月15日、プリンストン大学での講演会にて
(ローレンス・レッシグ教授)


 レッシグによれば、われわれの社会において、人のふるまいに影響を及ぼすものには、(1)法、(2)規範、(3)市場、(4)アーキテクチャ(またはコード)という4種類あるが、サイバー空間においては、とくに4番目の「アーキテクチャ」が重要な規制手段だという。

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 実空間での事例として、「公共空間における携帯電話の利用」を取り上げてみよう。車内
、病院、劇場など公共的な空間において、携帯電話の利用はさまざまな方法で規制されている。
(1)法律による規制
 自動車運転中の携帯電話利用は、「道路交通法」によって禁止されており、違反者にはきびしい罰則が科せられる。これによって、運転中のドライバーのふるまいは規制されている。
(2)規範による規制
 電車やバスなどの車内での携帯利用に関しては、車内のアナウンスや、乗客の冷たい視線などの「規範」によって、とくに音声通話利用というふるまいは規制されている。
(3)市場による規制
 喫茶店、レストランなどでは、携帯電話が利用できるスペースを設け、それ以外の場所では携帯電話はできないようにしているところもある。これは、市場の中で、携帯電話をできる空間を制限しているという意味では、市場による規制といえるだろう。
(4)アーキテクチャによる規制
 劇場、病院などの一部では、建物内に携帯電波をシャットアウトする装置が設置されている場所がある。これは、アーキテクチャによる規制といえる。

 サイバー空間においても、これと同じような4種類の規制が加えられている。
(1)法律による規制
 著作権法、名誉毀損法、わいせつ物規制法などは、サイバー空間にも適用され、違反者には罰則を課することができる。
(2)規範による規制
 アニメに関するコミュニティサイトで、だれかが民主政治のあり方に関する議論を始めたら、たちまちフレーミングの嵐(炎上)にあうだろう。
(3)市場による規制
 インターネットの料金体系はアクセスを制約する。商用サイトにおいて、人の集まらない電子会議室は閉鎖されてしまうだろう。
(4)アーキテクチャによる規制
 サイバー空間の現状を決めるソフトウェアとハードウェアは、利用者のふるまいを規制する。たとえば、一部のサイトでは、アクセスするのに、IDとパスワードを要求される。

 レッシグの独創性は、この4番目のアーキテクチャが、利用者にも知られることなく、利用者のふるまいを規制していること、また、実空間以上に、インターネット上でアーキテクチャによる規制力が無際限に大きくなり得ることを発見した点にある。それが行き過ぎると、インターネットから自由が奪われてしまう恐れがあるのだ。そうした事態を防ぐためには、アーキテクチャの規制を管理できるような対策を講じる必要がある。それは、私見によれば、(1)から(4)までのそれぞれにおける対応が必要ではないかと思われる。

 レッシグ教授の講演会に誘ってくださったのは、プリンストン大学の助手をされていた、Eszter Hargittaiさんだった。下の写真の中で、左側にいるのが、エスターさんだ。

Lessig2



 現在は、Northwestern Universityの准教授をされており、そこでのWeb Use Projectリーダーでもある。とてもチャーミングな方だが、頭脳も明晰で、さすが超秀才の集まるプリンストン大学出身という印象を受けた。彼女がいかに超秀才かということは、彼女のウェブサイトをごらんいただければ分かるかと思う。

http://www.eszter.com/
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 ニクラス・ルーマンは、パースの記号論にまったく触れていないが、彼のコミュニケーション・メディア論モデルを、パースの三項関係に当てはめてみると、どのように理解できるだろうか?次のような三項関係になるのではないか、と思われる。

ルーマンのメディア論の三項関係



 ルーマンによれば、社会システムは、コミュニケーションの連鎖からなる閉鎖的、オートポイエティックなシステムである。そのコミュニケーションは、情報→伝達→理解という3つの位相から成っている。この場合、「情報」とは知覚的意味形象(パースいう記号と同義か?)、「伝達」とは他者の意図から特定の意図を選択する位相を示し、「理解」とは、誤解や曲解と区別される選択をあらわす。コミュニケーションは、この三重の選択の総合と考えられる。この過程を通して、社会システムにおける「複雑性」が縮減されることになる。

 大黒岳彦氏の『<メディア>の哲学--ルーマン社会システム論の射程と限界』にあげられている例を引用すると、Bという人物がAという人物に『雨だ』という言葉(言語)を発した場合、「情報」の次元では、「晴れだ」「曇りだ」「雪だ」とは異なる表現を選択していることになる。また、「伝達」の選択とは、『傘を持って行った方がいいよ』『洗濯物をはやく取り込め』『運動会は中止だ』『外出はやめて家にいよう』といった様々な意図からの選択を意味している。さらに「理解」の次元は、こうした発話者の意図が正しく理解されているか、それとも誤解されるかといった選択を意味している。それぞれにおける不確実性を縮減するのが、「言語メディア」「伝播メディア」「成果メディア」だということになる。

 以上をパースの三項関係にあらわしたのが、上の図である。この三項関係において、発話者の意図が正しい「理解」につながれば、コミュニケーションが成立し、社会システムの複雑性が縮減されたということができる。

 しかし、この図式は、パースの本来のモデルとは似て非なるものである。ということは、ルーマンのコミュニケーション図式は、パースのモデルで説明できるものではない、といえるかもしれない。あるいは、ルーマンのモデルを換骨奪胎して、次のようなモデルも考えられるかもしれない。

ルーマンの三項関係の換骨奪胎


 これだと、私の考える三項関係モデルとほぼ一致するので、理解しやすい。ただし、ルーマン研究者からは、誤解も甚だしいと怒られそうだ。もっとも、ルーマン自身は、彼の社会システム論は「発見のツールにすぎない」といっているので、ツールとして使わせてもらうのは、決して的外れともいえないのではないかと思う。

 『雨だ』という例に則してモデル化すると、次のようになる。

伝達・理解・情報の三項関係




 なお、ルーマンは、「伝播メディア」と「成果メディア」を次のように定義づけている。

(1)伝播メディア
 「言語」「文字」「出版」「電子メディア」など。コミュニケーションの範囲を拡張する働きをするもの。
(2)成果メディア
 「貨幣」「権力」「真理」「愛」など。コミュニケーションの内容を一定方向に誘導し、ただしい理解に導く役割を果たすもの。それぞれ、「経済システム」「政治システム」「学問システム」「親密関係システム」に対応する。

 問題は、ある状況において、コミュニケーションが円滑に成立することであり、つまりは意図した「情報」が相手に正しく伝わることなので、上の図は、あながち間違った理解ともいえないと思うのだが、いかがだろうか?それとも、これだと、ルーマン論者からは、例の悪しきコミュニケーションの「乗り物」「小包」モデルだと決めつけられる可能性もある。しかし、私自身は、「小包」モデルのどこが悪いのか、いま一つ理解に苦しむのだが、、、

 なお、付け加えれば、ルーマンがなぜ、「貨幣」「権力」「真理」「愛」の4つを「メディア」と呼んだかも、理解に苦しむ。このような「汎メディア論」の有効性の有無も問われるところだろう。従来の記号論のタームでいえば、「成果メディア」は、「コンテクスト」あるいは「コード」と重複する概念のような気がする。この点も、今後さらに検討すべき課題といえるのではないだろうか?ルーマンの原書(とくに『社会の社会』)を熟読しながら、少しずつ検討を加えてみたいと思っている。

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アーキテクチャ  私は、大学で2000年以来、「メディア・エコロジー」という授業を受け持っているが、これに関連する書籍になかなか巡り会えず、苦労しているが、最近では、メディアに関連して「エコシステム」(生態系)という表現をあちこちで見かけるようになった。これは喜ばしい限りだ。ここでは、その中の一つ、濱野智史著『アーキテクチャの生態系』という本を取り上げて、紹介してみたい。
 「アーキテクチャ」ということばが少しなじみにくいので、その説明をまず。著者によれば、



アーキテクチャという用語は、米国の憲法学者ローレンス・レッシグが『CODE』(2001年)のなかで論じたものです。レッシグは、このアーキテクチャという概念を、規範(慣習)・法律・市場に並ぶ、ヒトの行動や社会秩序を規制(コントロール)するための方法だといいます。その後、この概念は、日本の哲学者・東浩紀氏によって、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズといったフランス現代思想の論者たちの権力論とひきつけながら、「環境管理型権力」と概念化されています。(p。16)

 具体例として、著者は飲酒運転の問題をあげているが、ここでは、もっとわかりやすい例として、「喫煙防止」の問題をあげておきたい。喫煙は体に悪いし、他人に迷惑をかけるのでやめましょう、というのが「規範」。喫煙を法律的に規制するのが「法律」、たばこ代を大幅に値上げするのが、「市場」、そして、「喫煙できる場所」を強制的に限定してしまうのが「アーキテクチャ」だといえる。アーキテクチャは、どちらかというと、「技術的な方策」といえるかもしれない。

 レッシグは、アーキテクチャのもう一つの特徴をあげている。それは、「規制されている側がその規制(者)の存在自体に気づかず、密かにコントロールされてしまう」(p.18)というものだ。デジタル社会における典型的な例は、「デジタル・コンテンツの不正コピーを制限・管理するDRM(電子著作権管理)技術」だ。レッシグは、こうした著作権管理システムが、自由な著作物の創造、表現を阻害する危険があるとして、「クリエイティブ・コモンズ」を提唱している。

 さて、著者は、アーキテクチャの概念を、より肯定的に捉えている。

 むしろ筆者は、
「アーキテクチャ=環境管理型権力」が持つ「いちいち価値観やルールを内面化する必要がない」「人を無意識のうちに操作できる」といった特徴を、より肯定的に捉えて、むしろ積極的に活用していくこともできるのではないか。それがレッシグのいうように、法律や市場といったものと並ぶ「社会秩序」を生み出す手法の一つであるならば、私はアーキテクチャを用いた社会設計の方法について、いままでにないさまざまな方法を実現する可能性を持っている」
と考える。

 本書で取り上げるメディアは、「ソーシャルウェア」と呼ばれるもので、ある特定のグループが協働で用いるソフトウェアで、その利用者の規模が「社会」にまで拡大したものをいう。具体的には、グーグル、2ちゃんねる、はてなダイアリー、ミクシイ、ユーチューブ、ニコニコ動画、などである。

 こうしたソーシャルウェアが、一種の生態系を構成している、と著者は考える。
 ソーシャルウェアが「台地」のように成長し、その上にまた別の「島」が生まれ、あるいはまたまったく別の場所に「風船」のような閉鎖系が形成される。こうした一連の「進化」の過程を、ISOが策定した「OS階層モデル」と、「生態系」や「系統樹」の比喩をかけあわせることで表現したのが、「アーキテクチャの生態系マップ」になります(p.25)

グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか?


 本章では、ソーシャルウェアの代表として、グーグルとブログについて、生態学的視点から論じている。グーグルの誕生のいきさつ、検索エンジンについては別のブログでも取り上げたので、ここでは省略する。「グーグルは機械か、それとも生命か?-梅田望夫VS西垣通論争」というのがおもしろかったので、それを紹介しておこう。これは、西垣通著『ウェブ社会をどう生きるか』(2007)で取り上げられた論点である。
 その中で西垣氏は、梅田氏が「神の視点」を実現すると述べたグーグルに対し、その検索結果は単なる「機械情報」の寄せ集め(データベース)にすぎないのであって、「生命情報」(あるいは社会情報)を有していないとの批判を行っています。(中略) しかし、筆者の考えによれば、こうした西垣氏の批判は、半分正しく、半分まちがっています。
 たしかにグーグルは、西垣氏もいうように、その裏側の仕組みそのものは「機械情報」で構成されており、その検索結果は、どれだけ正確にみえたとしても、機械的な産出に基づいて配置されているにすぎません。ましてグーグルは西垣氏もいうように、いわゆる「人工知能」ではない。その点では、西垣氏による批判は正しい。
 しかし、その一方で、グーグルは単に「機械情報」しか提供していないのかといえば、これは誤りです。なぜならグーグルというのは、ウェブ上の人々が、はたしてどの情報をリンクしているのかに関する文脈情報を、ページランクによって解析し、検索結果に反映させているからです。つまり、グーグルの検索結果で上位にランクされる情報は、すでに多くの人々によって指さされ、評価されたものです。
 筆者の考えでは、こうしたグーグルが「当たり前」のような存在になったという事実が、グーグルが「生命情報」の提供者であるということを意味しているように思われます。(pp.46-47)

ブログの本質は何か?

 アーキテクチャの視点からいうと、ブログの本質は、「グーグルに検索されやすいウェブサイト」を自動的につくる仕組みだったという点にある、と著者はいう。それは、ブログが「パーマリンク」(ブログの記事単位で発行されているURL)を持っていることを意味している。ちなみに、今私が書いているブログも、公開された途端に、グーグルの検索結果に反映されることがわかる。著者にいわせると、「パーマリンクという仕組みはウェブページの情報を細かい単位に切り分け、情報のありかを「指差す」というリンクの効能(価値)を高めることに寄与するのです」ということになる(p.50)。また、ブログでは、SEO対策が自動的に施されているという点でも優れた特性をもっている。この他にも、ブログの特徴として、「ウェブサイトの見出しや要約などのメタデータを記述する「RSS]を自動的に発行することで、RSSリーダーですばやく、まとめて読むことができるようになったり、他サイトのコンテンツに再利用されやすくなったりするという点」などがある、と指摘している(p.53)。これらの特徴により、ブログは情報の「検索されやすさ」「発見されやすさ」「指示のしやすさ」を高めるのに寄与しているのである。このことは、「ブログが、グーグルに検索されやすいというアーキテクチャ的特性を備えていた」(p.57)ことを示している。つまり、「ブログとグーグルという二つのアーキテクチャの相互作用によって、結果的には優れたものが生き残っていく「淘汰」のメカニズムを作動させている」ともいえるのである。

 こうしたソーシャルウェアの成長を進化論的にいうと、<ウェブ→グーグル→ブログ>という流れになっていることがわかる。
 この矢印の関係は、「新世代=後続世代のソーシャルウェアは、先行世代のアーキテクチャの特性を生かし、それに最適化するような仕組みを採用することで、自らの効用や価値を高めてきた」と記述できます。
 逆に、<ウェブ←グーグル←ブログ>と、←の関係を逆に遡っていくとします。すると、その矢印の関係は、「後続世代のソーシャルウェアは、先行世代の効能をさらに高めるのに寄与してきた」ということができます。つまり、新世代と旧世代のソーシャルウェアが、互いの成長を促進し、支えていくという、いわば「共進化」的な構図を見出すことができるのです。(pp.60-61)

「生態系(エコシステム)」を示す三つの現象


 次に著者は、ウェブ上のソーシャルウェアの進化・成長メカニズムを「生態系(エコシステム)」の比喩で説明している。
①人や情報の流れについて
 ウェブ上の情報流通のただ中に一度身を置いてしまうと、あたかもミームの自然淘汰が起こっているかのように実感されます。こうした感覚は、これも英語圏でよく用いられる「ブロゴスフィア(ブログ圏)」というブログ全体を指した英語にも表れているということができます。
 また、ブロガーと呼ばれる集団のなかには、よく名前の知られていて読者も多い「アルファブロガー」と呼ばれるユーザーも存在すれば、あまり有名でないユーザーも存在しており、そこにはある種の「弱肉強食」的な階層構造があることが知られています。・・・アルファブロガーの存在は、基本的にブログ全体から見ればごく少数に限られており、その希少なポジションを維持するために、さらに下位のレイヤーから情報=餌を捕食しようとしているわけです。このように、ブロガーたちが「新鮮なネタ」を追い求めてウェブ上を徘徊することで、弱肉強食的なハイエラーキーをつくりだしている状態は、しばしば「食物連鎖」にたとえられます。
②Web2.0的と呼ばれるサービス間の関係について
 Web2.0系と呼ばれるサービスは、それぞれ別個のURLとサーバの上で動いていたとしても、互いに緩やかな協調関係をつくっていることがしばしば強調されます。ブログであればトラックバックやRSSリーダーやpingがこれに相当します。また、「グーグルマップ」や「ユーチューブ」は、必ずしもそのサービス上にアクセスしなくとも、外部のサイトからその機能を呼び出し、埋め込むことができます(マッシュアップ)。
 こうしたサービス間の緩やかな関係は、ある生態系のなかで、さまざまな生命体や種族がそれぞれ完全に孤立することなく、相互に影響しあい、その循環的な関係のネットワークを通じて、共棲的な「生態環境」を生み出している様子にたとえられているのです。
③お金の流れについて
 ウェブ上のお金の流れについても、生態系の比喩を当てはめることができます。
 たとえば、「グーグル・アドセンス」という広告システムがあります。これはグーグル外部のウェブページに、そのページと連動した広告を自動的に掲載するという仕組みです。たとえばあなたのブログに、アドセンスを表示するためのコードを埋め込んでおくと、そのページの内容が瞬時に解析され、その内容と関連性が高いと判断された広告が自動的に表示されます。その広告へのリンクがクリックされると、事前にオークションへ入札された広告価格の一部が、ページの運営者に支払われます。
 ここでグーグルは、外部パートナーの代わりに広告主を捜し、どの媒体にその広告を表示すればいいのかを選別する「交渉」を肩代わりしているといえます。・・・さらに、ハードウェアコストの低下もあいまって、自社が運営するサービスのアクセス向上に専念すれば、ソーシャルウェアを事業とするベンチャー企業の持続可能性は担保されやすくなったといわれています。
 このようにアドセンスの成功は、グーグルと外部パートナーの間に、「Win-Win」の関係が築かれたことを意味しています。
 (つまり)グーグルをいわば苗床(プラットフォーム)にして、新たなソーシャルウェアが次々と(しかも安定的に)生まれる「生態系(エコシステム)」が形成されたといえるでしょう。(pp.61-67)

 引用が長くなってしまったが、要は、ウェブ上のプラットフォームであるグーグルと、ブログなどウェブ上の各種サービス運営者との間には、生態学的な「自然淘汰」「共生」「共進化」「棲み分け」などが生まれ、そこに新しい生態系(エコシステム)が形成されつつあるということだろう。

 本書における生態系のとらえ方については、次のように書いています。
生態系の比喩のポイントは、「ある環境において、膨大な数のエージェントやプレイヤーが行動し、相互に影響をしあることで、全体的な秩序がダイナミックに生み出されており、しかもそこから新たに多様な存在が次々と出現する」ということにあります。
 その光景は、「生態系」という言葉以外にも、「進化」「ミーム」「自然淘汰」「ニューラルネットワーク」「創発」など、さまざまな言葉で比喩形容されてきました。
 使われる言葉はさまざまですが、それらは基本的に、「部分が相互作用することで全体が構成されている」というシステム論的構図を持つという点で共通しています。(p.67)

 このような考え方に対して、さまざまな批判があることを指摘した上で、著者は、生態系の「相対主義」という観点に立つことによって、問題を解決することができるとしています。
 私たちがいま目の前に見ているウェブの生態系は、どれだけ目的合理的に進歩しているように見えたとしても、それはあくまで偶然の積み重ねによって生まれたものであり、しかもその進化の方向性は多様なものであるうるはずです。
 (中略) いま目の前にある単一のアーキテクチャの存続だけを願うことや、ある一つの進化の道筋だけを原理主義的に正しいものとして信仰することは退けなければなりません。ウェブの生態系は、グーグルの周辺だけに発生するわけではない。だとするならば、私たちは、ウェブ上のさまざまなアーキテクチャの生態系が生み出す多様性を捉えるために、「相対主義」的認識を取るべきなのです。(pp.72-73)

 以下の章では、2ちゃんねる、ミクシー、ツイッターなど個別のウェブサービスについて、アーキテクチャ生態系の視点から論じている。

第3章 どのように<グーグルなきウェブ(2ちゃんねる)は進化するか?


 2ちゃんねるに関しては、「便所の落書き」といった批判がある一方で、ときには目を見張るような高レベルの議論や情報収集・交換が行われるという肯定的な評価もある。これらは、2ちゃんねるのコンテンツを問題にしたものだが、著者は「内容」に注目するのではなく、「どのようにして2ちゃんねるという巨大で広大なウェブ空間上において、「検索」という認知限界をサポートする仕組みを有しないままに、膨大なユーザーの間でのコミュニケーションや情報交換がうまくワークしているのか、そのメカニズムを生態系の視点から捉えようとする。

2ちゃんねるは、「dat落ち」といって、一つのスレッドに1000以上の書き込み(レス)が入ると、自動的にそれ以上書き込めなくなり、過去ログを参照することができなくなります。・・・こうしたアーキテクチャ上の特徴から、2ちゃんねるはグーグルなどの検索エンジンには捕捉されにくいという性質を持っていたわけです。
 2ちゃんねるのアーキテクチャ上の特性としてよく指摘されるのが、「スレッドフロー式」と呼ばれる仕組みです。2ちゃんねるでは、たとえば「哲学」「ノートPC」「ニュー速」といった具合に、特定の話題ごとに「板」と呼ばれる単にで分割されており、その中に数十から数百の「スレッド」がぶら下がるという構成になっています。
 スレッドフロー式では、基本的に「直近でなんらかの書き込みがあったスレッド」から順にソート(整列)されていきます。(そのため)「スレッドがフローする」ということになる。
 2ちゃんねるのコミュニケーション・メカニズムの特性は、まさに「フロー」(流動する)という点にあるように思われます。ですから、ある特定のトピックに関するスレッドが寿命を迎えた場合、そのトピックについての議論を続けたいと願うのであれば、新たにだれかが同一トピックのスレッドを立ち上げる必要があります。逆にいえば、たいして盛り上がりもしないトピックは自動的に2ちゃんねるの生態系から淘汰されていくわけです。
 また、「最大1000スレまで」という2ちゃんねるの寿命に関する情報は、逆にそのスレッドの熱狂度や勢いを計測するためのバロメーターとしても使われます。たとえば「祭り」と呼ばれるようなイベントについて、スレッド上の書き込み数が急速に伸びていく際には、たいてい「10分で1スレ消費:と書き込まれ、いまこのスレッドが盛り上がっていることが、そのスレッドの読者たちの間で共有されるのです。
 さらに、2ちゃんねる上の情報流通メカニズムで重要な役割をはたすのは、「コピペ」です。・・・2ちゃんねる上の書き込みというのは、そのユーザーが別の2ちゃんねる上の場所で見かけた、ネタ的におもしろいと思った文章を、そのままコピペしたか、あるいは文章の一部分だけを改変したものであることが多いのです。(pp.85-87)

 このようなコピペによる情報伝播は、ドーキンスの「ミーム」伝播にもたとえられる、と著者は指摘している。ブログが「リンク」と検索エンジンの力によって広く伝搬していくが、これに対し、2ちゃんねるでは「コピペ」がミームとしての機能を果たしているのである。
 このように、2ちゃんねるでは、アーキテクチャ自体が「生態系」を運営するというよりも、ユーザーたちが進んでソフトウェアのように作動することで、そこでの情報流通メカニズムが全体的に機能しています。(p.89)
 2ちゃんねるには、「dat落ち」などを通じて、「常連を排除する」という仕組みが設けられている。また、「匿名制」が導入されているこれは、ウェブ上のアソシエーションが次第に「コミュニティ」に変質するのを防ぐという効果を生んでいる。ただ、それは運営者自身が特定のアーキテクチャを設計したということを意味するものではない。
2ちゃんねるの「dat落ち」という特性は、事後的に見れば、「常連を排除する」というコミュニティ活性化(流動化)機能をはたしているように見えるけれども(機能論=存続の論理)、その機能自体は、決してあらかじめそうした目的のために設計されたのではなく、また別の制約条件を受けて生み出されたものだった(発生論=生成の論理)。2ちゃんねるのアーキテクチャが生まれてきた背景にも、こうした進化論的な図式を当てはめてみることができるのです。(pp.93-94)

 それでは、2ちゃんねるという広大な情報フローの空間において、なぜ人々(2ちゃんねらー)はコピペをしたちまとめサイトをつくったりという「協力」をしているのだろうか?この問いに対し、著者は次のように答えている。
 そこで北田氏の考察が参考になるのは、「2ちゃんねらーたちは互いを『内輪』として認識している」という点です。しかも2ちゃんねるの内輪は、いわゆる「内輪」プロパーが持つイメージをはるかに超えて巨大なのです。その集合意識ないしは帰属意識が、互いに顔も見えないウェブ上での協働を支える信頼財(社会関係資本)として機能しているのではないかと考えることができます。

 2ちゃんねるのような匿名の巨大掲示板がこれほどの人気を博している理由は、おおきな謎であるが、これについて、著者は、「2ちゃんねるの匿名掲示板というアーキテクチャが、日本の集団主義/安心社会的な作法・慣習・風土にマッチしていたからではないでしょうか」と述べている(p.114)。これは、かなり説得力の高い説明といえるだろう。

第4章 なぜ日本と米国のSNSは違うのか?


 上で述べられていたこと、つまり、日本独特の文化にマッチしたアーキテクチャが受け入れられやすいことは、この章でミクシィについても当てはまると、著者は考える。

 ミクシィは2004年にオープンして以来、急成長を続け、いまや1500万以上の登録数を誇っている。その理由として、「招待制」という閉鎖的なアーキテクチャを備えていたことが大きな要因ではないか、と著者は考える。
 ミクシィは現在に至るまで招待制を堅持し続けており、それでもユーザー数を獲得しにくいはずの「招待制」を採用しているからこそ、ミクシィは日本最大のユーザー数を獲得しているという逆説的な事態を見出すことができます。(p.126)
※2010年3月、ミクシィは招待制を止めて登録制に移行した(評者の注)
 なぜ閉鎖的なミクシィは日本でとりわけ受容されたのか。その問いは一般的には次のように考えられています。それはミクシィの「外側」のウェブ空間に比べて、安心で安全なコミュニティだからである、と。
 逆にいえば、ミクシィの外側に広がっているウェブ上の空間は、不健全で、不安感なしでは使えず、居心地がよくないものであるというニュアンスが込められています。

 たしかに、2000年代半ばまで、ネット空間は2ちゃんねる上での「誹謗中傷」「爆弾の作り方」、ネット炎上など、ネガティブな印象をもたれてきた。そこに「ミクシィというSNSが、雑多で猥雑なウェブ空間から「隔絶」したアーキテクチャとして、人々の目の前に登場した」(p.129)のである。

 ミクシィに独自の機能として、「足跡」機能があった。これはマイミクのだれかが日記を読んだことを示す機能だ。これについても、筆者は「互いに繋がっていることだけを確認する、自己目的型のコミュニケーションであり、日本に特有の「繋がりの社会」を反映したものだ、と述べている。
 米国の状況とは大きく異なり、日本のミクシィは、予期せぬ他者との接触や討議の機会に開かれたウェブという「公共圏」から退却するための「コクーン」(繭)として人々に受容されるに至りました。しかも、その安全な空間の内側において、人々がまだしも公共的で有益な議論を展開するのならばまだしも、ミクシィ上のコミュニケーションは、そのほとんどが、友人同士のたあいもない日記とそこにつくコメントと「足あと」を日々確認しあるというものでした。(中略) ミクシィの「足あと」機能は、「私はあなたの日記を読んだ」という<事実>を、もはやコメント欄で言葉を使うことなく通知できるという意味で、まさに「繋がりの社会性」をアーキテクチャ的に実現したコミュニケーション機能といえるでしょう。(pp.135-136)
※ミクシィの「足あと」機能は、2011年6月をもって廃止された(評者注)

 それでは、人々はミクシィに何を求めているのか?なぜ特定のミクシィ利用者は、ミクシィに「はまって」しまうのか?「ミクシィ中毒」と呼ばれる現象もあるが、それはなぜ起こるのだろうか?この点について著者は、「ミクシィが、さまざまな行動履歴を自動的に記録し、観察可能なものにすることで、人間関係の「距離感」という曖昧なものを認識し、評価し、解釈し、推察するためのリソースを提供してくれるアーキテクチャ」だからだと説明する。

 ミクシィは、招待制(だった)ということもあり、実名で登録するユーザーが少なくない。これも、「繋がりの社会性」を考えると、説明がつく。
 ミクシィに実名を登録するという行為は、実はミクシィ内における「SEO対策」のようなものとして-実名を登録しておけば、プロフィール検索で検索される可能性が高まるという意味で-機能しているといえます。「実名」という情報資源は、これまでネットをめぐる議論においては、議論や情報の信頼性を高めるものとして扱われてきましたが、ミクシィにおいては、「繋がりの社会性」を効率的に高めるものとして利用されているのです。(p.144)

 著者は、以上の理由から、米国初のSNS「フェイスブック」が日本で成功を収める可能性は99%ない、と論じている。
その理由はきわめてシンプルです。なぜなら、すでに日本では、ミクシィが確固たるポジションを築いているからです。ほとんどのミクシィユーザーにとって、同サービスを利用する価値は、「周囲の知人・友人がすでにミクシィを利用している」という点、つまり「ネットワーク外部性」にあります。ミクシィは、フェイスブックなどの米国型SNSとは異なる形で、「ソーシャルグラフ」(人間関係)を扱うアプリケーションとして日本の若者たちのコミュニケーション文化に深く根づいており、今後も日本では、フェイスブックのような新興SNSへのスイッチングが直ちに起こるとは考えにくいといえます。(p.149)

 この著者の見解は、最近のフェイスブックの急速な普及ぶりを見ると、必ずしも当たっているとはいいがたい。大学生に聞くと、「就活の道具」としてフェイスブックに登録する若者が急増しているようだ。これは、就活マーケットという情報圏において、フェイスブックのもつアーキテクチャがきわめて適合的だから、と説明することができるだろう。今後、フェイスブックが、どのような形で日本社会に浸透してゆくのか、見極めていきたいところだ。

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか? 


 本書を通じて明らかにしてきたのは、技術(アーキテクチャ)と社会(集合行動)が、密接に連動するかたちで変容していくプロセスでもありました。(中略)社会が技術を形作り、技術がまた社会をつくる、アーキテクチャと社会の間には、こうしたフィードバック・ループが複雑に絡み合って存在しています。本書が明らかにしてきたのは、規範・法・市場、そして文化といった他の要素との相互影響のなかで、アーキテクチャの進化プロセスが進んでいく過程です。私たちの社会は、これからも、上に見たようなアーキテクチャと社会の諸システムとの「共進化」的現象を目の当たりにすることになるでしょう。

 最後に、筆者は「生態系」の認識モデルの適用先を「ウェブ」から「社会」へと引き上げることを提案している。その理由は、「「社会」というものは、本来であればウェブよりもさらに複雑で、多様なプレイヤーたちが織り成すエコシステムのようなものとしてあるはず」(p.335)だからである。
 だとすれば、それもまた、偶然的で多様な進化のパスに開かれている。そしてその進化のパスに、私たちはアーキテクチャという新しい道具立てを通じて、関わりうる
と結んでいる。「メディア・エコロジー」の視点からも、たいへん参考になる本だと思う。

(おわり)
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基礎情報学 前回は、西垣通著『基礎情報学』の第2章までをレビューした。今回は、第3章と第4章を対象として、引き続きレビューを行ってゆきたいと思う。







第3章 情報の意味伝達


1 メディアのつくる擬制


 本章では、意味が「共有」され、社会的に安定して通用していくメカニズムを論じている。著者の「コミュニケーション」観は、オートポイエーシス理論にもとづくものであり、次のように表明されている。
 シャノン&ウィーバーのモデルを拡張したコミュニケーション・モデルを用いて、二人の人物XとYが対話しているとき、意味内容がXY間で小包のように往来していると考えるのは誤りである。XとYはそれぞれ、やりとりされる符号(パターン)という刺激に対応して構造的な変容をおこなうだけであり、マトゥラーナとヴァレラが主張するように、「情報は伝達されない」のだ。基礎情報学では、いわゆる社会的な「対話コミュニケーションによる合意形成」に対して懐疑的な立場をとるのである。(p.118)

 これも不可解な見解だ。「情報は伝達されない」とはどういうことだろうか?それでは、コミュニケーションはそもそも不可能ということなのだろうか?これに対する著者の回答は次の通りだ。
 しかし、このことは、コミュニケーション・モデルの単なる否定にはつながらない。むしろ、そういう本質的な不可能性にもかかわらず、あたかも情報伝達がおこなわれ合意が形成されていくように見える点に注意を払う必要がある。そこには社会的な「擬制(フィクション)のメカニズム」が存在するのであり、基礎情報学はその探求へと向かうのである。(p.118)

 著者は、コミュニケーションのメカニズムをオートポイエティック・システムの理論をもとに、次のように説明する。
 このことを、単に言葉の意味が文脈や使用者よるといった従来の観点から分析するのではなく、システム論的にとらえなくてはならない。その鍵は、第2章の末尾で述べた階層的自律システム(階層的オートポイエティック・システム)にある。すなわち、オートポイエティック・システム同士の対等な相互関係としてではなく、両者が構造的カップリングしてできる一段高レベルの複合的オートポイエティック・システムのなかで、コミュニケーションが生起しているととらえるのである。(p.119)

 ここで、「構造的カップリング」とは何を意味しているのだろうか。
 構造的カップリングは、オートポイエティック・システム同士の関係としてよく知られているものであり、当初は次のように定義された。

 二つ以上の単位体の行為において、ある単位体の行為が相互に他の単位体の行為の関数であるような領域がある場合、単位体はその領域で連結(カップリング)していると言ってよい。カップリングは、相互作用する単位体が、同一性を失うことなく、相互作用の過程でこうむる相互の変容の結果として生じる。

 自律システムが再帰的に攪乱される環境において絶えず相互作用するとき、自律システムは絶えず構造を選択する。これによって自律システムは、環境のなかで崩壊せずに作動し続けることが可能になる。ヴァレラは、このような構造変化の過程を「構造的カップリング」と呼んでいる。

 そこで、「まさに、対話システムという高次オートポイエティック・システムが安定して作動しているという事実こそ、「XとYのあいだで情報の意味)」ということに他ならない。(p。120)

 著者は、生命圏というものを、階層性をもったものとして捉えている。それはホフマイヤーの主張でもあった。
 生命記号論では、生命圏を、分子レベルから単細胞生物レベル、多細胞生物レベル、さらに生態系レベルにいたる「階層的構造体」としてとらえる。規則性(宿命)と自由(逸脱)とのせめぎ合いのなかで、次々に高次なレベルが創発してきたとホフマイヤーは主張するのだ。(p.122)

 これを基礎情報学の観点から読み替えると、次のようになる。
 基礎情報学ではこれを作動における制約・拘束関係と読み替えることになる、すなわち、高レベルのオートポイエティック・システムは自立性を制約され、アロポイエティック・システムと化す。たとえば多細胞生物の個々の細胞は、筋肉細胞や神経細胞などに分化し、決まった機能を果たすように作動を制約されるのである。そして、個々の細胞が決まった機能を果たすということは、多細胞生物の観察者から見ると、それらのあいだで情報の「意味の伝達」がおこなわれていることに等しい。すなわち、細胞間で情報が伝達されコミュニケーションがおこなわれていることは、個々の細胞から眺めるのではなく、視点のレベルを切り替えて多細胞生物という全体を眺めてこないと見えてこないのである。(p.123)

 さて、それでは次に、「コミュニケーションとメディア」についての著者の見解をみることにしよう。

コミュニケーションとメディア

著者は、コミュニケーションを情報学の視点から次のように定義している。
 「コミュニケーション」は、社会システムという自律システムの構成素である。それは基本的には一過性の出来事であり、社会システムにより生成され、また消滅する。したがって、社会システムは「オートポイエティック・システム」に他ならない。コミュニケーションの素材は、対話者のあいだで交換される「メッセージ」が代表的なものと言えるが、そればかりではない。より一般的には、対話者の「記述」をベースに織りあげられるのがコミュニケーションである。(p.131)」

 メディアについては、次のように幅広く定義されている。
 ここで「伝播メディア」とは、通常いわれる「メディア」に近いが、音波、文字、画、伝播といった物理的要素のみならず、郵便、テレビ放送、新聞、雑誌、書籍、映画といった社会的要素をもふくんでいる。すなわち、技術のみならず、社会制度によって成立しているものである。

 メディアは、当然のことながら、コミュニケーションと密接な関連をもっている。著者は基礎情報学の立場から次のように述べている。
 基礎情報学において、メディアとは単なる情報伝達用の補助媒体ではなく、「コミュニケーションを秩序づけるメカニズム」であり、それゆえ、社会システムと一体不可分の存在である。メディアが通信技術ばかりでなく社会制度をふくむことは言うまでもないが、それだけにとどまらない。コミュニケーションはメディアなしには存立しえないわけであり、コミュニケーションから社会システムが構成される以上、メディア抜きの社会システムなどまったく考えられないのである。

 このあたりの論述は、私にも十分理解できる。著者はさらに、メディアの分類を試みている。「伝播メディア」と「成果メディア」の区分である。
 メディアはコミュニケーションを二つの位相において秩序づける。第一は物理的・符号表現的位相であり、第二は論理的・意味内容的位相である。前者・後者に対応して、メディアを「伝播メディア」と「成果メディア」に分類することができる。両者は基本的には、ルーマンによって考察されたものであるが、基礎情報学では成果メディアのなかにさらに「連辞的メディア」と「範列的メディア」との区分をもうける。ここで、ルーマン社会学の成果メディアは「連辞メディア」に対応している。(p.138)

 ここで、「伝播メディア」とは、コミュニケーションの伝播する物理的(空間的/時間的)な範囲を拡大する機能をもつメカニズムと定義されている。こえは通常メディアと呼ばれるものである。一方、「成果メディア」とは、コミュニケーション同士の論理的なつながり、さらにはより広く意味内容的なネットワークを保証するメカニズムである。

 「連辞的メディア」と「範列的メディア」の区分については、次のように述べられている。
 成果メディアの中で、「連辞的メディア」とは、コミュニケーションの時間的・継起的な接続に関するものである。(中略) たとえば、土地の売買契約に関するコミュニケーションが生起したとき、本来その後続のコミュニケーションは広大な選択肢をもっている(侮辱だとして怒るとか、愛のしるしとして受けとるなど)。しかし、現実には「貨幣」という存在によって、意味的なつながりは経済的な地平に局限され、脇道に逸脱することなくコミュニケーション連鎖が実現することになる。同様に、学問的なコミュニケーションは、「真理」という存在によって、理論的に正しいか否かの検証をめぐり連鎖的に展開されていく。(p.140)

 基礎情報学では、さらに「範列的メディア」が加わる。それは、次のようなものである。
 「連辞的メディア」は、「二値コード」と「プログラム」を用いて後続コミュニケーションの実際の選択をナビゲートしていくのだが、一方、「範列的メディア」は、「概念の分類関係」を用いて意味内容的な一種のデータベース/知識ベースへのアクセスを実現し、コミュニケーションの並列的・代置的な選択肢そのものを整理し準備するのである。

 このあたりは若干難解なので、著者のあげる例で理解してみたいと思う。
 たとえば、「貨幣」に関連する経済的コミュニケーションの場合には、公共経済、労働経済、マクロ/ミクロ経済などといった分類にしたがって、選択の候補となるコミュニケーションがあらかじめ準備される。したがって、仮に公共経済についてのコミュニケーションがおこなわれているとすれば、公共経済以外の経済的な意味内容の地平は選択以前に排除されることになる。実際のコミュニケーション生成の場では、連辞的メディアと範列的メディアという二種類の成果メディアが協働して機能すると言ってよい。

 あまりよい例とはいえない気もするが、なんとか理解できた。次に、「マスメディア」の項に移ることにしよう。

近代社会とマスメディア

 著者はまず、情報の意味内容の伝達の仕方は、社会の様相が変化するにしたがって変わってきたという。ルーマンを中心とする社会学では、「環節的分化社会」(歴史以前の太古時代)、「成層的分化社会」(歴史時代の古代から中世まで)、「機能的分化社会」(近代)に分類しているが、それぞれにおいて特有のコミュニケーションがみられる。環節的分化社会では、口頭コミュニケーションが主役をしめる。成層的分化社会でも、口頭コミュニケーションが首座を占める。機能的分化社会になると、印刷技術の発達に伴い、一般国民がコミュニケーションに参加するようになった。メディアの進化とコミュニケーションの進化は、このように並行的に起こってきたと思われる。
 一般に、口頭コミュニケーションから文字、印刷物、さらに電子メディアへといたる歴史的な伝播メディアの発展過程において、メディアの形式は複雑化したと考えられる。そしてパーソンズやルーマンのいう「成果メディア(象徴的一般化メディア)」の有効性は、印刷物との連関において初めて位置づけることができる

 それでは、成果メディアは、機能分化システムにおいてどのような役割を果たしてきたのだろうか。この点については次のように述べられている。
 「成果メディア」すなわち「象徴的一般化メディア」とは、それぞれの機能分化システムにおいて意味内容的な逸脱が起きないようにコミュニケーションを継続的に生成させ、システムの破綻をふせぐメカニズムである。経済システム、政治システム、学問システム、家族友人システムなどそれぞれの機能的分化システムのコミュニケーションに関連して、それぞれ、貨幣、権力、真理、愛といった成果メディアが存在する。
 このような近代社会のコミュニケーションにおいて重要な役割を果たしているのは、マス・コミュニケーションだろう。これについて、著者は次のように述べている。
 基礎情報学においては、「社会システムと構造的にカップリングして複合体をつくっている、観察者という心的システムによる行為」が観察なのである。すなわち、本書における「観察」とは、基本的にあくまでヒトの心的システムがおこなう行為に他ならない。ヒトという生命単位体をベースに成立する心的システム(観察者)が世界を機能ごとに記述し、これをベースに機能別のコミュニケーションが形成され、さらに、これらコミュニケーション群の生成消滅を観察している別の心的システム(社会的観察者)が記述した結果をもとに「マス・コミュニケーション」が形成され、マス・コミュニケーションを構成素として「マスメディア・システム」という社会システムが成立する。これが、基礎情報学における全体社会の見取り図なのである。(p.151)

 この記述はわかりやすく、よく理解できる。著者はさらに、ルーマンとは違って、基礎情報学では、マスメディアは他の機能的分化システムよりも一段階上位の社会システムとして位置づけられるとしている。
 マスメディア・システムとは、「マス・コミュニケーション」を構成素とするオートポイエティック・システムである。マス・コミュニケーションは、各機能的分化システムと構造的カップリングした「社会観察者」の記述を素材として、新聞/ラジオ/テレビなどの伝播メディア上で織りあげられるものである。

 ここでの「社会観察者」とは、具体的にはジャーナリスト、キャスター、評論家、広告作成者、ライターなどがこれに相当する。また、マス・コミュニケーションが行う観察/記述行為は、機能的分化システムにおける「観察/記述についての観察/」であるから、一種のメタ・コミュニケーションである。それゆえ、マスメディアは一般の社会システムより一段抽象度の高い「メタ社会システム」だ、と著者はいう。

 その結果、社会の構成メンバーである個々の心的システムは、間接的にマスメディアの拘束を受けることになる。具体的には、それはマスメディアの与える「現実・像」としてあらわれる、と著者は考える。n

それでは、「現実」とは一体どのようなものなのだろうか?著者によれば、「それは、社会システム(機能的分化システムおよびマスメディア・システム)が人々の心的システムに与える「拘束・制約」に他ならない」(p.163)という。とくに、国家を根底に置く近代社会においては、マスメディアの提示する「現実-像」が重要な役割を果たしていると考えることができる。
 近代社会では現実が潜在化・断片化するため、人々を支える共同体性は失われてしまう。(中略) 近代社会でも擬似的な共同体性が希求されるのは当然のことであろう。こうして、擬似的共同体を与える「マスメディア」が必要不可欠になる。政治学者ベネディクト・アンダーソンが見抜いたように、近代国家とはマスメディアが支える「想像の共同体」なのだが、これを具体的に支えるのが、マスメディアのつくる「現実-像」に他ならない(p.169)
 さて、ここから先は、「図書館情報学」に関連したテーマについての論述が中心になっているので省略し、最後に「第4章 総括と展望」の部分を、抄録して書評を締めくくりたいと思う。

第4章 総括と展望


1 生命/社会/機械の情報学


 情報学は、世界を「情報」から眺めていく学問である。とくに本書で述べる基礎情報学では、情報の「意味」がヒトによっていかに解釈され、さらに他のヒトにいかに伝達されていくのかに関する基礎的な概念や枠組みがおもな検討の対象となる(p.199)

 ヒトレベルでは、情報=意味だと考える私にとっては、基本的に承服しがたい考え方だが、それはひとまず括弧にくくるとしても、情報学の対象が「情報の意味解釈」「情報の意味伝達」だけであるというのは、不十分ではないだろうか。情報活動には、「記号化(エンコード)」「伝達」「処理(変換)」「蓄積(記憶)」「情報化(デコード)」などがあり、それらを包括的に取り扱うのが、本来の基礎情報学ではないか、と私などは思っている。この点では、著者の「二項」的なアプローチには不満を覚える。
 基礎情報学では、基本的に三種類の情報概念を扱う。まず、情報とは本来すべて「生命情報」であり、これが第一の情報である。基礎情報学における広義の「情報」とは、生命情報に他ならない。(中略) 情報は生命の誕生とともに発生したのであり、それは「意味」の発生と同時の出来事であった。換言すると、情報とは、生物が生きる上での「意義=価値」に関連して出現したのである。(p.202)

 最後の「意義=価値(significance)」というのは、それ以前で定義された「意味=価値」と微妙に違うが、どうしてなのだろうか?「価値」はvalueであり、これを意義(significance)とか意味(meaning)と等値することは、情報の本質を曖昧にする恐れがないだろうか?この2つは、いずれも情報の意味とは異なり、情報の一特性として把握すべきではないのか、といった疑問を抱かせる。
情報を担う物理的存在は、一種の「パターン」である。より精確には、それは「生物がパターンをつくるパターン」と定義される。ここには、生物がおこなう情報の意味解釈の自己言及性=再帰性が反映されている。なお、「パターン」とは、生物すなわち解釈者から独立して存在するわけではなく、時空間にあらわれるフォルムとそれを認知する生物という、二者からなる関係概念である。(p.202)

 ここで、突然出てきた「フォルム」なる概念であるが、これは「パターン」と、どう違うのであろうか?それは、私が、生命誕生以前から存在していた「物質パターン=原情報」のことなのではないか?そう考えると、生命体は、原情報=フォルムを記号の表象作用によって「情報」として認識するようになり、そこから遺伝子による生命体の創造と維持、発展という新たな進化が誕生した、と解釈することが可能になるのではないだろうか?

 そう考えると、情報基礎学はまず、宇宙の創成とともにあらわれた原情報=フォルム、すなわち「物質情報」か説き起こし、遺伝子という記号によるフォルムの「情報」としての認識と生命体の誕生、すなわち「生命情報」の誕生への「進化」を扱うという順序で議論を進めるのが妥当なのではないか、と思うのだが、いかがだろうか?

 また、本書では一貫して、情報を記号と等値しているが、これにも疑問を感じざるを得ない。
 「パターン」としての情報の定義は、精確には「情報の担体」の定義である、記号論における「記号」と同様、基礎情報学における「情報」は、意味作用を担う物理的存在だけでなく、一般に広く意味作用の全体をあらわすことが多い。

 この記述も両義的である。情報=情報の担体=意味作用の全体、と読めるが、ここには、情報と記号という別概念の混同がみられる。先に図式で説明したが、情報の担体は記号であり、記号の担体はメディアだというのが正しいとらえ方ではないか、と私は思う。
原-情報を、観察者が観察し、抽出し、外部の伝播メディア上に記述することにより、初めて「社会情報」が出現するのである。これこそが第二の情報であり、基礎情報学が主として対象とする狭義の「情報」に他ならない。(中略) ヒトによって取り出され、言語をはじめヒト特有のシンボルで記述された生命情報が「社会情報」であり、これが人間社会で通用する狭義の「情報」なのである

 本書ではつねに、社会情報を一次元上の「観察者」「記述者」によって記述される情報をもって「社会情報」と定義づけているが、私はむしろ、上の引用部分中の「言語などのシンボル」で記述する能力が、人間特有の意味作用様式である点に注目すべきなのではないか、と考えている。パースの記号分類でいえば、生命体が扱う記号は、「イコン」→「インデックス」→「シンボル」へと進化してきたが、「インデックス」→「シンボル」への進化こそ、ヒトの「社会情報」生成の証といえるのではないだろうか?イヌが尻尾をふったり、鳴き声をあげて、特定の情報を伝えようとするのは、「インデックス」である。しかし、イヌは決して「シンボル」を操ることはできない。そこに、ヒト特有の情報伝達能力が認められるのである。そして、ヒトにおいても、低次元のシンボル(イコン的な性格をもつシンボル)から、最終的には「平和」など、恣意的な契約にもとづく「言語」というシンボルへという進化が認められるのである。
  (機械情報 (mechanical information) とは)社会情報の意味内容が潜在化し、表現形式である「パターン」という面だけをもつ情報であり、基礎情報学では最狭義の情報として位置づけられる。機械情報は効率的処理のために社会情報が変換されたもので、当初は日常的情報の効率的伝達のために用いられた。効率的伝達が可能になるには、信号の意味解釈が送信者と受信者のあいだであらかじめ共有されていなくてはならない。のろしのようなシステムでも電子的ネットワークでも、この点は同様である。(p.204)

 こうした「機械情報」の定義にも、疑問が投げかけられる。私の解釈では、情報の歴史的進化プロセスは、「物質情報」→「生命情報」→「社会情報」→「機械情報」という四段階を経て起こってきたと考えたい。したがって、「機械情報」が「表現形式であるパターンだけをもつ情報であり、最狭義の情報」だといわれても、ぴんとこないのである。むしろ、機械情報を「社会情報」が進化した、より高次の情報として位置づける方が、現実に沿っているのではないか、と考える。すなわち、情報(メディア)の進化過程をみると、グーテンベルクの「活版印刷機」が、最初の機械情報メディアであり、次いで、「写真機(カメラ)」の発明によって、写真という情報が現れ、映写機による映画、電話、ラジオ、メディアというように、電子メディアが発展し、コンピュータの発明により、デジタル化した情報が登場する。こうしたメディアで伝達される情報は、記号表現とともに、意味内容を伝えるものである。このように、情報やメディアというものを、進化論的な視点から捉えることが重要ではないだろうか?
 以下は中略して、結論部の「新たな社会システム」の部分を若干紹介しておきたい。

2 新たな社会システム


知識社会はくるのか

 近年のITの急速な発展によって、従来の産業社会は21世紀には「ポスト産業社会」あるいは「知識社会」へと変容するという声が聞かれる。規格品を大量生産する産業社会からサービス中心の知識社会に移行するとき、戦略資源も変化する。たとえば、ダニエル・ベルによれば、前者の戦略資源は土地と労働力だったが、後者の戦略資源は情報と知識であるという。(中略) (しかし、)20世紀産業社会のパラダイムのもとで「知識社会」論を単線的に理解するならば、かえって大きな誤りをおかす恐れも大きいのである。

(中略) マスメディア・システムは各機能的分化システムの上位に位置する「メタ社会システム」であり、各機能分化システム、さらに一歩進んで社会の構成メンバー全員の心的システムに一種の拘束・制約を与える。そして、この拘束はまさに、常識ベースと私的コミュニケーションとに反映される「現実-像」を介してはたらくのである。(p.227)

 しかし、インターネットが地球上に普及する近未来に、このような斉一的な現実-像が引き続き有効でありつづけることができるかどうかは疑わしい。インターネットが発達し、国境をこえて、あるいは国内の多元的なグループのなかで頻繁に情報が交換されるネット社会では、状況はおそらく一変してしまうであろう。
 インターネット・コミュニケーションは、従来のマス・コミュニケーションとは異なる「意味ベース」を形成し、それにもとづいて多種多様な「現実-像」を描き出す可能性が高い。思考や感性が多様化し、消費の欲望も多元化する。

  そして、最後に次のように締めくくっている。
 マスメディア・システムが唯一のメタ社会システムである近代産業社会に比べ、21世紀ネット社会ではインターネット・システムもメタ社会システムに加わるとすれば、両者の相互観察/相互批判の効果が期待できるであろう。すなわち、マスメディア・システムのなかにインターネットについてのコミュニケーション。インターネット・システムの中にマスメディアについてのコミュニケーションが生成展開されることで、それらにより構築される「現実-像」は変容していくはずだ。多面的、複眼的な広がりを獲得し、両者の補完的役割も期待できるかもしれない。

 以上が本書の概要である。問題点はいくつか散見されるものの、本書で展開された「基礎情報学」は、壮大なスケールをもつものであり、今後これをさらに発展させ、「応用情報学」へとつなげてゆくことが最大の課題といえるのではないだろうか。

(おわり)
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基礎情報学  今回と次回は、西垣通氏の『基礎情報学』(2004)を読みながら、情報、メディア、心、社会についての理解を深めていきたいと思う。

 本書は、文系情報学の立場から、「意味作用に注目し、生命/心/社会をめぐる情報現象を、統一的なシステム・モデルによって論ずることにある」(II)」。そこで用いられている概念装置ないしキーワードは、「生物による意味作用」「オートポイエーシス理論」「ニクラス・ルーマンの理論社会システム論」「ホフマイヤーの生命記号論」「パースの記号論」「レジス・ドブレのメディオロジー」などである。これを著者独自の情報論をもとに、生命情報、社会情報、機械情報の各レベルにおいて情報システム論を考察したのが本書である。

 正直言って、これらの諸理論に十分通じていない私にとって、本書は難解である上、基本的な概念のとらえ方に関して疑問を感じる場面が少なくなかったので、やや的外れな批判的評価も多くなるかもしれないが、その点はあらかじめお許しいただきたいと思う。また、2つのやや難解な著書を読むのには少々時間がかかるので、このブログも、少しずつ更新しながら書き進めるということになろうかと思う。この点についても、気長におつきあいいただければ幸いである。

第1章 基礎情報学とは何か


 情報学という学問領域がいつ成立したかは知らないが、現在では、日本学術振興会の科研費対象研究領域においても、「情報学・人文社会情報学」として公式に認知されているところである。本書はこの2つの学際的な領域を包括する分野での基礎研究という位置づけを与えることができるだろう。本書は、「『生命と機械』という視点から、情報という概念を根本的にとらえ直し、情報の『意味』がいかに解釈され、いかに伝達されうるかを問うことから情報学にアプローチしようとする(p.6)」ものである。

 ただし、本書の扱うテーマはやや狭く、次の2つに絞られている。
(1)情報の意味作用はいかにして生まれるのか。
(2)情報の意味はいかにして社会的に共有され、社会的リアリティを形成するのか。

 著者によれば、情報はあくまで非物質的存在であり、実体概念ではなく関係概念である、としている(p.11)
果たしてそうだろうか?確かに「非物質的」であることは確かだが、だからといって「関係概念」だと決めつけるのはいかがかと思う。むしろ、梅棹さんがいうように、情報は世界の至る所に存在するものであり、感覚器官や脳神経系などによって知覚されるものと考える方が自然ではないだろうか?私見を述べさせていただければ、情報は宇宙の始め(ビッグバンによる生成)から、「物質」とともにあった「パターン」なのではないだろうか。つまりは、物質の形態を維持する働きをしているのが、情報の始原(これを私は「原情報」と名づけたい)ではなかっただろうか?

 もっとも、著者は「情報」が一種の「パターン=形相」であることは認めている(P.11)。

生命情報/社会情報/機械情報


 著者は情報を「生命情報」「社会情報」「機械情報」の3つに分類している。「生命情報」は、生命のレベルにおける意味作用として情報を扱うものである。社会情報とは、ヒトの社会において多様な伝播メディアを介して流通する情報をさしている。機械情報は、意味を捨象した「情報科学」や「情報工学」で対象とする情報のことをいう。私の考えでは、これに加えて、生命誕生以前から存在した「物質のパターン」もまた、情報といえるのではないか、と思う。これは、情報科学や情報工学で扱う情報と関連するが、「進化論」モデルの視点からは、厳密に区分されるものであり、繰り返しになるが、私たちの住む現在の宇宙の始めにあらわれた「存在」だと考えられる。これを「物質情報」と呼ぶことにしたい。そうすると、歴史的には、物質情報→生命情報→社会情報→機械情報という進化を認めることができるだろう。これはあくまでも評者の視点であり、著者はこうした進化論的な視座はとっていない。このレビューでは、むしろ、本書を土台として、これを進化論的(あるいは生態史観的)な視点から読み解くことにしたいと思っている

 著者によれば、生命システムと機械システムとの違いは、「歴史性」と「閉鎖性」にあるとしている。歴史性とは40億年にわたる歴史を背負った、あるいは生命体の誕生から現在までの歴史をもった存在ということで、生命は歴史をもつが、機械はそうした歴史性に欠けている。だから、「生命システムの反応(行為)は、常に予測をこえ、創発的に発展する可能性を秘めている。問題は、「閉鎖性」という点である

 著者によれば、「生命システム自体の観点に立てば、システムは閉じており、入力も出力も存在しないと言った方が精確なのである」(p.21)という。「入力と出力を見極めるのは外部にいる観察者であるが、生命システム自体は決してその視点に立つことはできず、ただ環境のなかで訳もわからず行為し続けるのみなのである。さらに、自らの内部と外部(環境)を区別することも生命システム自体にはできない。(p.21

 この部分は、評者にはまったく理解できない。細胞システムのレベルにおいても、器官レベルのシステム、個体レベルのシステムにおいても、さらには社会システムのレベルにおいても、入力と出力は明確に存在し、また「訳もわからず行為し続ける」わけでは決してないことは、むしろ自明の事実ではないだろうか?つまり、生命システムは、環境との間でモノ、エネルギー、情報を絶えず交換しているという意味では、「開放システム」としてとらえるほうが正しいのではないかと、評者は考える

 著者が生命を「閉鎖システム」としてとらえようとするのは、「オートポイエーシス」理論の影響によるのではないかと思われる。著者によれば、

 歴史性や閉鎖性という特徴は、実は「オートポイエーシス性=自己創出性」という特徴の一面にすぎない。これが生命システムと機械システムとを分かつ最大の相違点と言えるであろう。自動車やコンピュータは他の誰かが設計し、製作するものである。これを「アロポイエティック・システム」と呼ぶ。これに対して生命システムとは、外部の誰かによって設計製作されるものではなく、(変容を繰り返しつつ)自己複製する存在である。すなわち、過去の歴史にもとづいて、自己言及的・閉鎖的に自らをつくり続ける存在なのである。

 本書では、生命システムを「オートポイエティック・システム」として定義する。

 しかし、最近発展している「遺伝子工学」や「クローン技術」などに関しては、こうした生命システムの定義ではあてはまらないのではないだろうか。また、生命体が決して「閉鎖システム」ではなく、「開放システム」であることは、先に述べたように明らかな事実ではないだろうか。自己言及的=閉鎖的とはいえないのではないか?

情報とは何か


 著者によれば、「情報とは生命体の外部に実体としてあるものではなく、刺激を受けた生命体の内部に形成されるものである。あるいは、加えられる刺激と生命体とのあいだの「関係概念」である」(p.26)という。この「関係」という考え方にも疑問がある。私は情報を従来から「記号によって表象されるもの」と定義しているが、それは「関係」とは無関係である。上の文章からいうと、「刺激」はそれ自体としては情報ではないということになってしまう。生命体が感知する刺激は、一つのパターンであり、それ自体として情報としての資格要件を満たしていると考えられる。「関係」という用語を持ち出さずとも定義し得ると思うのだが、いかがだろうか

 著者によれば、情報とは「生命体にとって意味作用をもつもの」(p.26)だという。私の定義では、「意味作用によって表象されるもの」が情報ということになり、両者の間には微妙な違いがある。これに対し、著者はあくまでもオートポイエーシスにこだわって、情報を定義しようとする。
 生物はオートポイエティック・システムであり、刺激ないし環境変化に応じ、あくまで自分自身の構成にもとづいて自ら内部変容を続ける、その変容作用ことが意味作用である。したがって情報に関するこういった「自己言及=自己回帰」的な性質を明示しなくてはならない。

 その結果、著者は情報を次のように定義している。
情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターンである」(p.27)

 記号論との関連でいえば、「基礎情報学における具体的な「パターン」とは、いわばソシュール記号学における「記号表現」に対応するようなものと言えるであろう」(p。30)としている。私のとらえ方は逆で、情報とはむしろ「記号内容」に対応する存在ではないかと考えている。情報は、記号表現=記号内容という「意味作用」を通して、解釈主体に対し表象されるものではないだろうか?

記号と情報


 記号論には、ソシュールの系統とパースの系統があるが、本書の依拠する記号論は、主としてパースである。そこでパースの記号論についての著者の理解をみておきたい。
パースによれば、人間の思考とは一種の記号作用であり、それは記号(sign/representation)とそれが代替する指示対象(object/referent)および両者の関係を把握する解釈項(interpretant)という三項関係であらわされる。たとえば、医者が患者の発疹から病名を麻疹と診断するとき、記号は発疹、指示対象は麻疹であり、解釈項は医者の心のなかでつくられる麻疹のイメージである。すなわち、医者は発疹から麻疹という「意味」を読み取るわけであり、それが「仮説推量(abduction)」と呼ばれる思考の過程に他ならない(p.32)」
 もう一つ、著者が基礎情報学において依拠する記号論は、デンマークの生物哲学者ジェスパー・ホフマイヤーが提唱する「生命記号論」である。これは、著者によると、
その基盤はパース記号論である。端的に言えば、記号論の対象領域を生物にまで拡大し、「意味解釈を行う存在」のなかに微細な細胞から地球規模の生態系までもふくめようというのが、生命記号論である。すなわちパースの三項図式において、解釈項を担うのは通常ヒトの意識なのだが、それが生命体一般に拡張されるのである(p.33-34)」

 この考え方は、進化論的な視点からみると、よく理解できる。しかし、著者は、生命記号論からさらに進む。
生命記号論は、意味的な情報(記号)作用について述べるものの、意味解釈の図式を外側から示すだけで、その内部には目を向けない。情報を扱う内部メカニズムとして、生命体と通常の機械との決定的な相違は何であろうか。この点に関して洞察を与えるのは、前述のオートポイエーシス理論である。この理論によって、生命体がズレをともないつつ自らを創出し続けていく存在であること、歴史的・自己言及的な存在であって。アロポイエティックな機械とは本質的に異なることが初めて明らかになってくる(p.36)」

 以上が、第1章の若干批判的な紹介である。第2章では、オートポイエーシス理論に則って、「情報の意味解釈」を論じている。

第2章 情報の意味解釈


意味と価値


 この章では、まずシャノン&ウィーバーの「情報理論」モデルについて検討し、そこには意味が含まれていない、という自明の事実を指摘している。そのあと、コミュニケーション・モデルについて検討し、「情報の意味内容は基本的に、オートポイエティックな生命体である送信者と受信者の「内部」以外に存在しえないと考える」と結論づけている。

 問題はその次の節である。社会的コミュニケーションのモデルにおいては、「意味内容」「コード」などが検討の対象となってくる。記号学との関係でいえば、情報学では次のように考えることになるという。
 言葉とそのあらわすもの(意味内容)の対応に関しては、記号論/記号学において種々検討されてきた。この分野では一般に、言語に限らず、記号表現と記号内容(意味内容)とを結ぶ対応規則は「コード」と呼ばれているが、基礎情報学においても、「コード」が情報(パターン)と意味内容との対応を与えるものとしよう。言語の場合、コードは語彙や文法に支えられており、それなりの規則性をもっていることは当然だが、そこには恣意性や流動性が常に含まれている。(中略) 現実の言語においては多義語も多く、コードは不完全である。大半の意味内容は、文脈に依存して、すなわち「外情報」(実際の発話において切り捨てられた情報のこと)として受信者に伝えられるのだ。
 ゆえに基礎情報学ではむしろ、既存の決まった「意味内容」を伝達するというより、言語記号とともに「意味内容」が立ち上がってくるダイナミックスに注目しなくてはならない。・・・すなわち、「受信者が情報(パターン)を受けとって、そこでいかに意味を解釈するか」から考えていくわけだ。(p.51)

 ここで問題なのは、著者が「情報=記号表現」としている点だ。繰り返しになるが、私は「情報=記号内容」と考えているので、上の文章がどうにも理解できない。なぜ情報=記号内容かといえば、それは、情報の進化という視点に立って、生命体の出現によって、もっぱら「情報を表象する」という働きをもつパターン、すなわち「記号」というものが自立的に出現した、と私が考えるからだ。パースのいう「イコン」「インデックス」「シンボル」は、いずれも情報を表象することを主たる機能とするパターンの例である。そう考えると、記号表現=記号、記号内容=情報という関係性が素直に理解されるだろう。「言語記号とともに意味内容が立ち上がってくるダイナミックス」などという意味不明な表現を用いずに済むのである。次の文章も、なにかしら本質から外れた指摘のように思われるのだ。
 この場合には、「送信者→チャネル→受信者」というシャノン&ウィーバーの構図ではなく、送信者とチャネルをいったん括弧に入れた「情報→受信者」という構図にもとづくことになる。すなわち「受信者が情報(パターン)を受けとって、そこでいかに意味を解釈するか」から考えていくわけだ。(p.51)

 私の場合には、「受信者が記号を受けとって、そこでいかに意味を解釈して特定の情報を受けとるか」という構図になる。そこで、送り手と受け手が情報を共有すれば、コミュニケーションが成立したことになるだろう。これは、日常的な情報概念になじむことはいうまでもない。 情報は、コミュニケーション過程において、何らかの記号とコード(コンテクストを含む)を媒介として伝達され、共有されるものである。

パースの三項図式


 著者と私の認識のずれは、パースの三項図式の解釈においても見られる。著者はパースの三項図式を次のように記述している。
 これは、「第一項=記号表現、第二項=対象、第三項=解釈項」の三項関係としてあらわされる。「記号表現」とは、記号の物理的な乗り物(媒体上の表現)である。「解釈項」とは、解釈者の内部に形成される、「対象」の摸造である。たとえば、「火事だ」という叫び(記号表現)によって、それを聴いた解釈者の心のなかに、めらめら燃える家のイメージという「解釈項」が生成されるわけだ。いまの場合、「対象」とは、火事で燃えている具体的な家そのものである。
 端的に言うと、パースの記号(過程)とは、何か(記号表現)が自分とは違う何か(対象)を代置し、指し示しているというメカニズムをあらわすものである。ここで「情報(パターン)」は、言うまでもなく「記号表現」に対応するが、それがあらわす「意味内容」は「対象」と「解釈項」のいずれであろうか。
 ここでの「情報」が記号表現だというのは、決して自明のことではないと思うのだが、どうだろうか。むしろ、情報=解釈項、記号=記号表現、対象=情報が指し示すものや事象や概念など、と考えたほうが自然なのではないだろうか。上の例でいうと、「火事だ!」という叫びが「記号表現」であり、「めらめら燃えている家のイメージ」が情報だということになる。そうした頭の中のイメージが共有されたときに、はじめて情報は正しく伝達されたということができるだろう。さらに付け加えると、上の引用文中で、「記号表現」 とは記号の物理的な乗り物だというが、これも正しくない。記号の物理的な乗り物は「メディア」だからである。以前のブログでも示した次の図式を考えれば、情報-記号-メディアの間の関係は、次のようになっていると考えられる。

情報・記号・メディアの関係図
 だから、「情報の意味解釈」という言い方は正しくはなく、正しくは、「記号の意味解釈」を通じて、情報世界が立ち上がる、ということになるだろう。それが、われわれにとっての「情報環境」(あるいはリップマンの言葉で言えば「擬似環境」)なのである。

意味=価値の発生


 ここで著者は、情報の「意味」=「価値」としている。
 基礎情報学では、「意味」は生命体の生存と関連しており、進化によって発生したものであると考える。「何かが意味がある」というとき、われわれはそれを「何かが価値がある」と同義で用いることが多い。生命体の生存にとって有用であるもの、重要であるものが「意味」なのである、したがって、それは環世界のなかに存在する、生命体にとっての「価値」のことなのである。

 このように意味=価値とすることにも疑問が投げかけられる。世の中には、「意味」がなくても「価値」のある情報はたくさんあるだろう。たとえば、ツイッターでのつぶやきは、ほとんど意味のない情報かもしれないが、それに「価値」(あるいは「効用」)を見出す人は少なくないだろう。でなければ、ツイッターのはやる理由がわからない。逆に、「価値」はなくても「意味」のある情報というのも数多く存在する。売れない作家の小説などは、そうした例の一つかもしれない。つまり、情報の「意味」と「価値」は別物だということだ。経済的価値は、情報のもつ重要な特性の一つだ。それによって、情報が「財」となり得るからである。

生命システム


 生命体はシステムとして把握することができる。著者は、まず河本秀夫氏の生命体システム論をレビューする。
 河本秀夫によれば、生命システムは三つの世代に分けることができる。第一世代は、開放性の「動的平衡システム」であり、外界とのあいだで物質やエネルギーを交換しながら自己を維持し続けるシステムである。「ホメオスタシス」という生理的な性質が開放性の動的平衡システムによって実現されるのである。
 しかしながら、生命システムの性質はホメオスタシスにとどまるものではない。その最大の特徴は、自らを形づくる機能である。・・・単純な要素から複雑な秩序が生み出されるメカニズム、いわゆる「創発」のメカニズムが解明されなくてはならない。(中略) 
 部分的にせよ、生命体の生成や創発という問題に一定の回答を与えたのが、第二世代の「自己組織システム」であった。これは開放性の動的非平衡システムであり、1960年代から多くの研究者の注目を集めてきた。(中略)
 しかし、第二世代システムは、まだ真の生命体のモデルとしては十分ではない。(中略) 自ら境界をつくりだしながら、継続的に、、あえて言えば半永久的に、多様な創発現象を続けていくシステムこそ、生命体の名に値するのである。これが第三世代システムである「オートポイエティック・システム」なのだ。基礎情報学では、オートポイエティック・システムをもって、生命体のシステムと定義する。(Pp.65-67

 オートポイエティック・システムは神経生理学者のマトゥラーナによって提示された概念であり、「構成素が構成素を産出するという、産出プロセスのネットワークとして定義される。オートポイエティック・システムは環境との相互作用によって変容していくのだが、この変容過程を通じて、構成素は、自己を産出するプロセス(過程)のネットワークを絶えず再生産し、実現し続けるのである。(中略) そこにはもちろん物質やエネルギーの流入・流出はあるから、その意味では開放系と言えるであろう。しかし、産出(生成)プロセスのネットワーク自体としては閉じているから、オートポイエティック・システムである細胞は入力も出力もない自立的な閉鎖系とも言えるのである」(p.68)

 この記述も、私にはあまりよく理解できない。ネットワークは、脳神経系であり、その他の器官はネットワークとはいえないのではないだろうか?また、「システムが閉じている」というのも理解しづらいところだ。これについて、著者は、「観察者」と「行為者」という視点の区別に注目しなくてはならない、という(p.70)。
 生命体は、それ自身の視点から見ると、本来、外部と内部を区別できず、幻覚と現実の区別がない。(中略) 生命体自身は内部も外部もなく、ただひたすら行為をおこなっているにすぎないのだ。

 この部分がまた、よくわからない。生命体それ自身は、動物であるにせよ、人であるにせよ、「内部も外部もなく、ただひたすら行為を行っている」と言われても納得しかねる。ただし、「基礎情報学では、河本とは異なり、純粋なオートポイエーシス理論の発展に沿った議論の方向はとらない。 なぜなら、基礎情報学の分析対象は、オートポイエティック・システム自体というよりむしろ、情報の生成や伝達だからである(p.72)」。そして、とりあえずヴァレラやルーマンの議論を参照しながら、部分的には従来科学の「観察者/記述者の視点」をも併用することにする」としている。

 次のところで、著者独自の概念として、「原-情報」という用語が出てくる。これはもちろん、私の定義する「原情報」(=生命出現以前の物質パターン)とは異なる。著者によれば、生命情報はそのままでは生命体のなかに閉じ込められ、ヒト社会で通用する情報としてわれわれの前に姿をあらわすことはできない。(中略) それはあくまで潜在的・原基的な情報にすぎないモノであり、本書ではこれを「原-情報」と呼ぶ(p.73)」とtしている。

 そして、著者は、こうした「原-情報」が記述された結果を狭義の「情報」と定義している。
 「それによって生物がパターンをつくるパターン」という定義はもともと「生命情報」とくに「原-情報」に対応するが、それはヒトによる観察/記述をへて、狭義の「情報」である「社会情報」の定義ともなる。

 この部分も、正直言ってあまりよく理解できない。生命体のなかに閉じ込められている情報をあえて「原-情報」と定義し、狭義の情報と区別する必要がどれほどあるのだろうか?先に出てきた「外情報」と、「原-情報」は同じものなのか否か、その点も不明である。著者はさらに、「原-情報」「観察者」「両者の相互作用」が、パースの三項図式における、対象、解釈項、記号にそれぞれ対応することになる(p.75)、としているが、本当にそうなのだろうか?原-情報=対象、観察者=解釈項、両者の相互作用=記号ということになるが、このような関連づけがどの程度妥当性をもつかは疑問である。別のところで(p。87)、著者は次のように述べている。
ここで、パースの三項図式を想起しよう。第一項は記号表現、第二項は対象、第三項は解釈項であった。この図式をあてはめると、第一項が相互作用、第二項がシステムの「構造変化=原-情報」、第三項が観察項すなわち対象システムから抽出される「情報」となる。

 ここでの対応づけは、明らかに先の対応関係とは矛盾している。上の引用文が正しければ、記号表現=相互作用、対象=構造変化=原-情報、解釈項=観察項=情報となっている。しかし、解釈項=情報という定義は、著者の定義とは明らかに矛盾する。むしろ、ここでは私自身の定義(解釈項=情報)と一致するという、奇妙なことになるのだ。「構造変化=原-情報」というのも、理解しづらいところだ。

 それはさておき、ヒトの心(心的システム)に関する考察に進むことにしよう。

心的システム


 「心」は、しばしば「心的システム」と等値されるが、精確に言うと心的システムの一種であり、ヒト特有のものである。心的システムは、「意識」を核にして成立し、ヒトに限らず脳神経系をそなえた動物なら広くもっていると推測される。
 心的システムの構成素は、知覚にもとづく神経生理学的な現象、とくに脳神経系の発火がもたらす「イメージ」や「シンボル」にもとづいてつくられる。とくに心つまりヒトの心的システムの構成素を「思考」と呼ぶことにする。(p.89)

 心的システム=思考という定義づけにも、若干理解に苦しむところがある。「思考」だけではなく、「感情」もまた心的システムの重要な構成素なのではないだろうか?これについては、次のように述べられている。
(ヒトの心は)生命単位体とは異次元にあり、とりわけヒト特有の社会的存在である。その構成素である「思考」には、社会的存在である言語などのシンボル体系が投影されている。心は、「観察者」となれる唯一のオートポイエティック・システムであり、ヒト特有のシンボル体系を用いて対象を観察し、記述することができる。すなわち、観察者となりうるのは、ヒトの心だけであり、たとえば動物が観察者となることはできない。(p.90)

 これについても同意しがたいところがある。動物にも「観察力」はあるのではないだろうか。ただし、観察するのに用いる「記号」がヒトとは異なるだけなのではないだろうか。対象について「記述」する能力は、確かにヒト特有のものかもしれないが、「観察」し、それにもとづいて行動するという点では、動物は場合によってはヒト以上の能力をもっているかもしれない。

 制限字数に達してしまったので、今回のブログはこのあたりで終わりにしたい。

(次回へ続く) 
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ミーム・マシン 今回取り上げるのは、スーザン・ブラックモアさんの『ミーム・マシンとしての私』(上・下)(1999=2000)である。

 「ミーム」については、「利己的な遺伝子」というブログで、すでに紹介したが、このアイディアを文化的な現象や情報革命などに適用し、ミーム学の視点から論じたのが本書である。

 オクスフォード大英語辞典によると、ミームとは、「非遺伝子的な手段、とくに模倣によって伝えわたされると考えられる文化」である。「私たち(人類)を特別にしているのは模倣の能力であるというのが本書の主題である」(P.36)と著者はいう。人間は、幼児の段階からすでに、模倣する。模倣によって人から人へと伝えられていくものはすべて「ミーム」と呼ぶことができる。「誰かからの模倣によって学習したことはすべてミームである」(p.43)。ドーキンスのいわせれば、「楽曲、思想、キャッチフレーズ、衣服のファッション、壺の作り方、あるいはアーチの建造法」はすべてミームの例である。利己的遺伝子の用法に従えば、「私たち人類は、その模倣能力ゆえに、ミームたちが拡がるためにまさに必要とする身体的な「宿主」となったのだ。これが「ミームの視点」から見た世界の姿である(p.45)」。

 ミーム理論は、ダーウィンの生物進化論と同様のメカニズムを通じて、私たち人類の精神が進化するという、新たな段階の進化を唱えたものである。そこから見えてくるものは、「巨大な人間の脳の進化、言語の起源、あまりにも多くしゃべり、考えるという私たちの性向、人間の利他主義、そしてインターネットの進化といった多岐にわたる現象」がミーム理論によって説明可能になるということである。

ミームとダーウィン主義


 ミームは、人間のレベルにおける「自己複製子」である。それは、「変異、淘汰、および保持にもとづく進化的アルゴリズムを維持しなければならない。ミームはまちがいなく変異をともなっており、物語が二度とまったく正確に同じに語られることはまずないし、二つの建物が絶対的に同じということもないし。あらゆる会話は独特である(p.56)」。都市伝説の伝播などはそのいい例である。
「このほかの例として、料理のレシピ、衣服のファッション、インテリアデザイン、建築のトレンド、政治的正義のルール、あるいはガラス瓶のリサイクルの習慣などがある。これらすべては人から人へコピーされ、模倣によって拡がる。コピーの過程でわずかな変異が生じ、あるものはほかのものより頻繁にコピーされる(p.59)」。

 ミームは、「空疎なアナロジーにすぎない」という批判があるが、決してそうではない。「ミームは人間の脳に、あるいは書物、絵画、橋、あるいは汽車といった人工物に埋め込まれた指示である(p.62)」。私なりに、あるいはマクルーハン流に言い換えると、ミームは人間レベルあるいは社会レベルの「情報」の基本単位であり、脳や外部の「メディア」を通じて、社会の中に伝達され、蓄積されるのである。ミームの生息域は、私たちの「心」である。
デネットによれば、私たちの心や自己はミームの相互作用によって作り出される。ミームは遺伝子に似た自己複製子であるばかりでなく、人間の意識それ自体がミームの産物である。(中略) 彼が指摘しているように、あらゆるミームが頼りにできる到達すべき安息の地は人間の心である。しかし、人間の心そのものは、ミームたちが自分により都合の良い生息環境にするために脳を再構築するときにつくりだされる人工物なのである。そこで作り出されるものこそは、「文化」と呼ばれるものである。

文化の進化


 文化は、ミームの模倣と淘汰を通じて進化する。言語はその一例である。世界中にはさまざまな言語があり、その多くは、淘汰の過程で絶滅し、あるものは英語のように繁栄を続ける。これは、ミームの文化的進化の一例といえる。農耕技術などの「発明」の伝播も、ミームの文化的進化の例である。ミームは、人間だけが持っている自己複製子なのである。
 私にとってミーム的な進化は、ドーキンスやデネットと同じように、人間がほかの生物と異なっているということを意味する。人間の模倣の能力が自分の利益のために働く第二の自己複製子をつくりだし、それがミーム学的には適応的だが生物学的には不適応な行動を産みだすことができるのだ。これは、強力な遺伝子によって究極的に制御されることになる単なる一時的な逸脱などではなく、恒久的なものである。なぜなら、ミームは遺伝子とまったく同じやり方において強力だからである。つまり、自己複製子としての力をもっているからなのだ(p.92)」。

ミーム 遺伝子の共進化


 人間はなぜ言語能力を発達させたのか、人間の脳はなぜかくも巨大なのか?こうした疑問に、ミーム学は次のように答える。
人間の言語能力はもっぱら遺伝子にではなくミームに淘汰上の有利さを与えた。やがてミームは遺伝子が淘汰を受ける環境を変え、遺伝子がますますよくミームを広める器官をつくるようにし向けた。言い換えれば、言語の機能はミームを広めることなのだ。
 遺伝子は今やミームによっって駆動されている。これが脳の大きさの劇的増大の由来である。

 ドーキンスによれば、成功する自己複製子には3つの規準がある。それは、忠実度、多産性、長寿である。言語は、そのいずれも備えているので、自己複製子としてふさわしい情報単位だといえる。これをミーム的な視点で言い換えると、
 人間の文法は、狩猟や食物最終や社会契約の象徴的な表現といった何らかの特別な話題についての情報を伝えるためというよりもむしろ、高度の忠実度、多産性、長寿をもつミームを伝達するためにデザインされたものである(p.212)」。

 これが上巻の抄録である。以下は大幅に省略し、「メディア論」に該当する章だけを簡単に紹介しておきたい。ミーム理論によれば、メディアはどのように捉えられるのだろうか?

インターネットのなかへ


 私たちは、電話、ファックス、テレビ、ラジオ、コンピュータ、CD、DVD、インターネットなど、実にさまざまなメディアに囲まれて暮らしている。それはなぜなのだろうか。著者によれば、「ミーム淘汰がそれらをつくりだしたのではないか」という。
ミームが出現するやいなや、それはより大きな忠実性、多産性、長寿に向かっての進化を開始した。その過程で、彼らはますますよくミームをコピーしてくれるような機構をつくりだしたのだ。したがって、本、電話、ファックス機は、ミームによってその自己複製のためにつくられたのだ。

 情報のデジタル化も、ミーム理論によれば、「貯蔵および伝達における誤りを減少させるがゆえに忠実度を高めるすぐれた方法」であるがゆえに進化したのである。多産性、長寿という点でも、デジタル・メディアは他のメディアよりもすぐれていることは自明ともいえる事実である。インターネット(ウェブ)は、その意味で、究極のミーム伝播メディアといえるだろう。訳者あとがきにも、次のように述べられている。
 ブラックモアは、遺伝子がセントラル・ドグマという形の確固たる複製機構をつくりあげたように、ミームもまた自らの繁殖のためによりすぐれた情報システムを進化させてきたのであり、印刷に始まり、電話、ラジオ、テレビ、ファックス、インターネットに至る情報革命は究極の複製機構を産みだそうとするミーム進化の産物にすぎないという。(p.231)」。


 次回は、「ミーム的世界論」を読んだ頭でもって、西垣通著『基礎情報学』『続 基礎情報学』を読み進めながら、情報、心、生命、メディア、社会の本質に迫ってみたいと思う。
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出版大崩壊 前回は、佐々木俊尚さんによる『電子書籍の衝撃』を手掛かりに電子書籍の位置づけについて若干の考察をしてみたが、今回は、出版業界のまっただ中にいた方による「電子書籍悲観論」を取り上げてみたいと思う。タイトルは、『出版大崩壊 電子書籍の罠』(文春新書 2011年3月刊行)だ。

 著者の山田順さんは、34年間光文社で編集のビジネスに携わったあと、2010年に退社し、電子出版のビジネスを立ち上げようとしたが、多くのインタビューと取材を通じて「電子出版」の現状を調べるうちに、その未来はきわめて暗いものであることに気づき、本書を上梓するに至った、という。全編、電子書籍に対する悲観論で満ちている。業界インサイダーによる悲観論には、一定の説得力がある。電子出版が活発になれば、大きな利益をあげるのは、プラットフォームを提供するアマゾン、グーグル、アップルだけであり、紙メディアである出版社はますます売り上げを落とし、危機的な状況に陥るだけだ、と著者はいう。

 2010年は、「電子書籍元年」ともいわれ、日本でも主要出版社が「日本電子書籍出版協会」(電書協)を立ち上げ、電子書籍に本腰を入れるようになった(2011年2月現在、43社が加盟)。その背景には、次のような危機意識があったという。
1.これまで再販制(再販売価格維持制度:定価販売を義務づける法律)などで守られてきた日本の書籍の流通制度の崩壊が進む(印刷、製本、取次、書店などの「中抜き」)
2.出版社は書籍の価格決定力を失う(出版社の利益の喪失)
3.著者が著作権法に基づいて独自に電子出版するようになる(出版社を通さない「セルフパブリッシング」)(p.37)

 こうした危機感と、アマゾン、グーグルなどの「黒船襲来」が目前に迫っているという状況で、電書協を中心とする日本の出版業界は、電子出版という「開国」政策をとらざるを得なくなった。その旗振り役となったのは、講談社など大手の出版社であった。講談社の対応については、次のように述べられている。
 講談社は2010年になると、社内に各部署横断的な「デジタル事業委員会」を立ち上げ、月に1回ほどのペースで専門家を招いては社員向けのセミナーを開催するようになった。その一方で、書籍のデジタル化を積極的に進めるために、アマゾン・ジャパンなどとの協議もスタートさせた。
 こうして、「既刊書2万点のデジタル化」が決定され、現在も講談社はその方向に進んでいる(p.38-9)

 その後、他の出版社もこれに追随し、次々と電子書籍を出版することになった。その一方で、村上龍さんのような著名な作家が、自身で出版ビジネスを立ち上げ、電子書籍を販売するといった「中抜き」現象も現れるようになった。また、新しい電子書籍リーダーがソニーやシャープなどから発売され、2004年以来という「電子書籍ブーム」が再来したのである。こうした電子出版への流れは、今後とも変わらないと予想されるが、著者は、電子書籍が発展しても、紙の出版マーケットは縮小を続け、また電子書籍は出版業界に利益をもたらすことはなく、かえって自分の首を絞めるような事態になるだけだ、と警鐘を鳴らしている。出版業界の見通しについて、著者は、次のように悲観的な見方をする。
 このまま紙市場がどんどん縮小してしまうという恐怖は、出版社を経営する人間なら、毎日のように味わってきたはずだ。しかも、出版不況は、2008年のリーマンショック以降は加速化している。市場の縮小とともにビジネスを縮小均衡させるのならいいが、このまま座して死を待つわけには行かないと考えれば、電子書籍が出版不況脱出の手段と考えるのは、自然の成り行きかもしれない。
 ところがよく見れば、日本ではアメリカのように、電子書籍リーダーも売れていなければ、「iPad」さえ話題のわりには売れていない。ハードとサー支部が整わないうちに、ソフトをどんどんつくっても市場は形成されない。したがって、いまのところ、日本の電子出版は、出版社にとって不況脱出の手段とはなっていないばかりか、将来もそうなるかどうかは非常に疑わしい。(p.76-7)
 著者は、そう考える根拠として、「自炊」など電子自主出版による「中抜き」現象の拡大、「価格決定権の喪失」による利益の低減、電子書籍で売れる本は、「エロ系」(ボーイズラブやティーンズラブなど)だけというデータなどを指摘している。また、電子出版が進むと、中国などで起こっているように、「海賊版」が横行し、紙の出版に悪影響を与えることも懸念される。

 複雑な著作権問題も、電子出版の前途に暗雲を投げかけている。著者によれば、現行の著作権法は電子出版を想定しておらず、
現行の著作権法を見る限りでは、出版社は電子書籍をつくれないことになっている。ということは、アマゾンやグーグルのような企業が、直接、著者の許諾を得て電子書籍化の権利を得てしまえば、出版社は「中抜き」されてしまう。(p。147)

 一方、コンテンツのデジタル化によって、違法なコピー(複製)が簡単にできるようになっており、ソフトにお金を払う人間は少なくなった。「一般大衆は著作権には無頓着」(p.155)だからだ。その結果、「メディアは経営が成り立たなくなり、著作者は生活すらできなくなってしまう」。
しかし、一般大衆はそんなことにはおかまいなしで、キチンと買えば高価なコンテンツを、いかにタダで手に入れるかに熱中し、それがなにを招くかには関心がない既存メディアが衰退し、著作者の生活が成り立たなくなれば、その結果、良質の書籍も音楽も映像もなくなり、「学術の進歩」「文化の発展」も途切れてしまうかもしれない。
 著者はさらに、ネットワーク社会となった今日、プロの時代は終わり、契約も変わるだろうと予想する。
 20世紀の大衆文化は、ブロードキャスティング・モデルによって大発展し、それを支える多くのプロフェッショナルな職業を生み出した。しかし、ネットワーク時代になったいま、そういう人々の多くは必要なくなるのではないか。電子書籍化がそれを加速させる。
 いまやデジカメ写真と「Photoshop」がプロカメラマンにとって代わった。(中略) もういい加減、既存メディアのなかで、「プロごっこ」は止めるときにきているのではないか。既存メディアは、デジタル技術で置き換えられるプロたちに高いおカネを払う必要はない。この先、既存メディア内において、旧来の職業編集者や職業ライターが生き残るのは難しいだろう。


 著者は、自らの電子出版ビジネスで味わった挫折の経験をもとに、電子出版で儲かるのは結局IT側(アマゾン、グーグルなど)だと結論づけている。
 このことを振り返っていま思うのは、現状の電子出版でビジネスになるのは、IT側だけだということだ。コンテンツ提供側は多大な出費を覚悟して、彼らが用意したスキームに乗って走り出す。しかし、走って気がつくのは、話が違うということである。

 そして、スモールビジネスにとって電子出版がいかに採算の合わないビジネスかを検証している。これには、ユーザー側の要因も大きく作用している。つまり、「ネットはタダ」という文化だ。そのために、電子ジャーナリズムの世界において、課金制を採用して生き残れるのは、ごく少数の企業だけということになる。

 また、電子出版の時代において、「自炊」などのセルフ・パブリッシングが活気づいているが、これについても、「フラット化した世界で成功するのは、すでに作家として名前のある一部の人間だけ」「誰でも作家時代になると、コンテンツが際限なく増える。これは、ゴミが溢れるのと同じ」という否定的見解に賛意を表している。
じつは、セルフパブリッシングでの成功は万に一つのような確率でしか起こらない。メディアは成功例となると大げさに取り上げるが、その向こう側にある膨大な数の失敗例については報じない。

 確かに、著者もいう通り、マスメディアの報道には、そうしたバイアスがあることは事実である。それに乗っかって、甘い夢を見るのは禁物ということだろう。最近はやりのソーシャルメディアを使った宣伝、マイクロインフルエンサーを媒介とした宣伝についても、著者は否定的だ。

結局のところ、「ウェブは、高度情報化社会のシンボルだが、その実態はまったく逆で、じつは低度情報化社会である」としている。

 著者の電子出版悲観論は、長年にわたる紙の出版業界での経験と電子出版の試み、数多くのインタビューから引き出された結論なので、それなりに説得力jのある議論といえる。それを踏まえた上で、電子出版の今後に思いをはせることが必要だろう。 
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電子書籍の衝撃 大学で「メディア・エコロジー」という科目を担当している関係で、メディアを「エコシステム」(生態系)の視点から捉える見方をする本とか論文があると、思わず注目してしまう。といっても、なかなか「メディア・エコロジー」の全体像がつかめず、四苦八苦しているのが実情なのだが、、、。

 電子書籍についても、エコシステムの観点から捉えた本はないものかと思っていたら、佐々木俊尚さんの『電子書籍の衝撃』(2010)という本が、それにぴったりの内容だったので、共感を覚えたのであった。


 キンドルやiPadのような電子ブックは、単なる単体のデバイスではありません。デバイスとキンドルストアという販売サービス、それに購入した電子ブックを管理するシステムが一体になったネットワークです。
 こうしたネットワークが進化していくと、そのプラットフォームを中心にさまざまなビジネスが立ち上がり、他社が開発したアプリケーションも次々に登場し、そしてネットワーク全体がますます繁栄していくことになります。
 このようにあるビジネスの基盤を中心にして、そこにさまざまな企業が参加し、さらには利用者を含めて全体が栄えていくような状態を、生物学でいう「生態系」になぞらえて、エコシステムと呼びます。電子ブックは単体のデバイスではなく、このような大きなエコシステムを作り出していく可能性を秘めているのです。(p.71)

 どうやら、「エコシステム」という言葉は、IT業界では、一種のジャーゴンになりつつあるのかもしれない。そういえば、ソーシャルメディアに関する本でも、「エコシステム」という言葉を最近ではよく見かけるようになった。私の場合は、それを学問的な用語として位置づけたいと思っているが、上の引用文は、その意味でも参考になる。ここでは、
(1)デバイス(キンドル、iPad、リーダーなど)
(2)プラットフォーム(販売サービス=アマゾン、iTunes,グーグルなど)
(3)電子ブック管理システム(デジタル著作権などの管理)
(4)アプリケーション(関連するソフトウェア)
(5)電子書籍の作者(著者、編集者、出版社)
が一体となったものがエコシステムであり、ユーザーがこの中で「読書生活」することが、システムの発展と存続にとって重要な要素となる。最終的には、ユーザー(読者)がこのエコシステムを快適だと感じ、そこで生活してくれる(情報生活する)ことが、電子書籍というエコシステムの持続可能性(サステナビリティ)の鍵を握っていることは確かだろう。音楽のジャンルにおけるiTunes-iPodを中心とするエコシステムは、まさしく、ユーザーからの絶大な支持を得て、繁栄し続けているエコシステムの一つといえるだろう。

 グーグルも、「グーグルエディション」というプラットフォームで、電子書籍の販売を開始するというニュースが2010年に流れた。それによると、「PCやスマートフォンなどWebブラウザを搭載したさまざまな端末で購入・閲覧でき、特定の端末に依存しないのが特徴。Google以外のサイトから購入できる仕組みも提供予定で、「オープンなプラットフォーム」を売りにしている」ということだが、日本では、いまだ実現はしていないようである。米国では、すでにGoogle e-bookstore(2010年12月6日~)というプラットフォームで電子書籍の販売を開始している(New york Timesの記事参照)。グーグルはこの新しい電子書籍販売サービスを「オープン・エコシステム」と称しているのが興味深い。アマゾンとともに、日本上陸がいつになるのか、楽しみなところである。アマゾンについては、噂の段階にすぎないようだが、今年の4月から日本での販売を開始するとのニュースも伝わっている。

米アマゾン、今年4月に電子書籍で日本参入 Kindleシリーズを同時投入か(ガジェット速報)
電子書籍、やはり真打ちは Amazon Kindle か

 日本では、「再販制度」と「取次店」という日本に独自の制度があるために、電子書籍の普及が遅れているという感が否めない。アマゾンやグーグルの日本進出は、そうした隘路を突破して、日本における電子書籍のエコシステムを大きく変えるきっかけとなるかもしれない。これから数ヶ月、電子書籍マーケットの行方から目を離せない状態が続く。

※「エコシステム」という用語は、野村総研編『2015年の電子書籍』(2011年)の中でも使われている。その部分を引用しておきたい。
一度どちらかのOSを選んだアプリケーション開発者、コンテンツホルダーは、得られる収益がそのOSの趨勢(そのOSを搭載した端末のユーザー数やユーザーの質)の影響を受けざるを得ないため、ある程度アップル、グーグルと一蓮托生の関係となる。この構図は自然界におけるエコシステム(生態系)にたとえられる。アップルとグーグルはそれぞれ単体ではなく、一蓮托生関係にあるアプリケーション開発者、コンテンツホルダーを含めたiOSエコシステムとAndroidエコシステムのエコシステム同士で競争を行っているとも言える。(p.54)。

 なお、日本の電子書籍マーケットで大手出版社を中心につくっている業界団体は、「日本電子書籍出版社協会」(電書協)(2010年発足)である。この団体が運営する電子書籍サイト(アプリ)は、「電子文庫パブリ」である。現在電書協には43社が加盟している(2011年2月現在)。パブリはiPhone、iPad、アンドロイド端末に対応している。私のiPhone、iPadにも「パブリ」をインストールしてあり、すでに、文庫など5点を購入している。使い勝手は悪くない。あとは、収録書籍数を大幅に増やしてもらいたい。また、価格もいまよりもっと下げてほしいと思っている。アマゾンやグーグルが日本に上陸する場合、電書協とどのような契約を結ぶのか、興味深いところだ。

 電子書籍の最新動向については、次のニュースサイトを参照されたい:

ebook user (IT Media)
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書物と映像の未来  前回のブログで紹介した『グーグル ネット覇者の真実』では、グーグルブックスについても取り上げていたが、ブログでは、取り上げることはできなかった。

 そこで、この問題を日本の知識人がどう見ているのかを知るために、2010年に出版された『書物と映像の未来』(長尾 真、遠藤 薫、吉見俊哉編)を読んでみることにしたい。本書は、日本学術会議のシンポジウム「世界のグーグル化とメディア文化財の公共的保全・活用」が元になっている。

進行する世界の知のデジタル化


 本書の趣旨は、次の文章で表明されている。
 グーグル的世界戦略の是非については、本書でも様々な論議がなされている。それらへの導入として強調しておきたいのは、現代の世界の知財のデジタル化は、もちろん書籍に限定されるものではなく、映像や音声など全形式に及ぶことである。やがて私たちのメディア環境は映像とテキストが自在に結びつく。そうしたなかで、過去一世紀を通じ、目まぐるしく形式が変化する諸媒体・諸形式で蓄積されてきた人類の文化的記憶は、すべての形式がデジタルに統一されることで、新たなコンテンツ開発や商業的利用のためのリサイクル可能な資源となるだろう。
 こうして現在、グローバルな情報産業が主導する全知のデジタル化を前に、私たちは近代日本とアジア諸国が長い年月をかけて各地で育んできたメディア文化財を公共的に保存・活用する方策を、いかにして生みだしてゆくことができるだろうか。映像とテキストが自在に結びつき、すべてがデジタル形式に統一されていく時代の知とはどのようなものでありうるのだろうか。新しい公共的利用に向けたデジタル社会の知の基盤をつくっていく場合、著作権や財産権に関わる法制度、予算や人材の確保、マネジメント、公的機関と民間の連携など、山積みする課題をどう解決していくのか。これらの問いへの答えが、「それは巨大メディア企業のグローバル戦略に任せておけがいい」というものでないのは明白である。先端技術を活用しつつ、市場原理とは異なる視点に立って、新しい公共的な営みに向けたデジタル社会の知識基盤をいかに築いていくべきなのか。(p. vii)

 こうした課題にこたえていく際のキーワードとして、「文化のサステナビリティ(持続可能性)」「リサイクル」といった生態学的なことばが使われているのは、注目に値する。その理由とは、
私たちの社会全体が、成長型から成熟型へと質的に変化しており、そうしたなかでは、たんに物質やエネルギーの循環だけでなく、文化的創造と享受、循環についての長期的に持続可能なしくみが構想されなければならないという認識からである。(p.xii)

具体的な方策としては、3つの提案がなされている。
(1)この列島に散在する様々な形態のメディア文化資産の財産目録を作成し、できるだけそれらの原資料を安定的な保存環境が保障される国家的な収蔵機関(例:国会図書館など)に集めていくこと。
(2)アーカイビングされたさまざまなメディア文化資料について、XMLなどを用いた共通性のあるフォーマットによりデジタル化を進め、デジタル形式での公開化と横断的な統合化を進めること。
(3)デジタルアーカイブ化されたメディア文化資料は、たんに受け身で公開されるだけでなく、さまざまな人材育成、教育カリキュラムのなかに組み込まれていくしくみの構想。(p.xv)

グーグル問題とは何か


この章(柴野京子著)では、グーグル・ブックス問題の概要と、海外の反応などが論じられている。そのきっかけは、2009年春の『Newsweek日本版』誌の記事だったという。公告は、次のような内容だったという。
グーグル・ブックスが、図書館にある著作物を無断でスキャン、公開することに対して、米国内の出版社・著者の団体が起こしていた訴訟で、グーグル側と和解合意したことを告げていた。(p.19)
 問題は、この和解内容が米国以外の国に対しても適用されることにあった。

その後、さまざまな経緯の結果、この和解合意事項は大幅に修正されることになった(2009年11月)。
この和解案は、その後の各国からの申したて、米国司法省の介入などを受けて、大幅に修正が加えられた。修正案の最大のポイントは、対象となる書籍の範囲がアメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアの英語圏四カ国に限定されたことであり、これによって日本はひとまず対象外となった。

グーグル・ブックスの概要


グーグル・ブックスは、2005年に正式にスタートした文献検索、閲覧、購入システムであり、その内容は、次の3つに分けることができる。
(1)キーワードによる出版物の全文検索
(2)内容の入手(ネット上での閲覧、プリントアウト、ダウンロード)
(3)冊子体の本を閲覧・入手するための、図書館や書店へのリンク
 グーグル・ブックスのリソースは、図書館、著者・出版社である。このうち、図書館については、米国の主要な大学図書館(スタンフォード大学、ミシガン大学、ハーバード大学など)が提携しており、海外でもイギリスのオクスフォード大学、ドイツのバイエルン州立図書館など、日本では慶應義塾大学がグーグルと提携している。スキャナなどの設備や人材などはグーグルが負担しており、これらの図書館では、書籍のデジタル化で大幅なコスト削減というメリットを享受している。

グーグル和解問題


 グーグル・ブックスのプロジェクトに対しては、当初、米国の作家、大手出版社などが著作権を侵害するものとして提訴した(2005年)。その結果、2008年10月、この訴訟は、次の事項で和解することになった。
・著作権者に対して、収益の63%を支払う
・すでにデータ化したものについては、程度に応じて一定の解決金を支払う
・権利処理のための機構(版権レジストリ)を新たに設け、設立と維持の費用をグーグルが負担する
この訴訟は、「集団訴訟」(クラス・アクション)と認定されたことから、この和解事項は米国内だけでなく、、世界中のすべての著作権者にも適用されることになり、世界的に大きな問題に発展した。ここでの主要な争点は、次のようにまとめられている。
①法的争点
・著作権に関して:侵害かフェアユースか
・競争的観点:一企業が世界中の書籍を独占的に管理すること
・裁判の手続き:オプトアウト方式(当事者は申請しなければ承諾とみなされ、決定の枠内に組み込まれること
②出版物の内容・定義
③文化的争点
・公共財としての知や文化を一企業が独占し、収益のために使用すること
・書物の背景にある文脈が破壊され、フラットな断片になることへと懸念
・歴史的な資料としてみた場合のスキャンの精度についての疑義
・グーグルによる「検閲」の問題
・閲覧履歴を掌握し、マーケティングに転用する可能性

 こうした争点を多く含む問題だけに、世界各国からはネガティブな反応、異議申し立ての動きが相次いだ。2012年の現在に至るまで、この問題は継続中である。継続中とはいえ、2010年以降、日本では、この問題に対する関心は薄れてしまったようにも思われる。しかし、グーグルブックス問題は、新たな「黒船」再来とともに、ふたたび大きな争点になることもあり得る。

 グーグル問題とは次元が少し異なるが、アマゾンが4月から「キンドル」日本版を売り出し、本格的に日本の電子書籍市場に参入するといううわさも耳にする。これが実現すれば、デジタル書籍の愛読者として、まことに歓迎すべき動きだと思うが、出版社や著者などはどのように受け止めるだろうか。4月以降の動きも注視していきたい。次回は、「電子書籍」の現状と将来展望について考えてみたいと思う。
 
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グーグル 昨年末に出版された、グーグル本の最新刊『グーグル ネット覇者の真実』(スティーブン・レヴィ著)を購入し、さっそく読んでみたので、その感想を少し。

 本書は、これまでのグーグル本とは違って、初めて、インサイダーの視点からグーグルの歴史と現状について、多数のインタビューとドキュメントをもとに綴ったものである。630ページにも及ぶ大著で、読み進むのに苦労した。半ば斜め読みした感はいなめない。全体を通す筋は、2人の創業者、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンを中心に、グーグルの発展と挫折の歴史ドキュメントを生き生きと描くことにある。いわゆる「ハウツー本」ではなく、あくまでも、一ジャーナリストによるノンフィクションだという点に注意しておきたい。昨年ベストセラーになった『スティーブ・ジョブズ』にも似て、巨大IT企業の真実に迫る、迫真のドキュメントになっている。

"Google"の誕生


 1997年9月、スタンフォード大学の学生であったペイジとブリンは、彼らの開発した検索エンジンに、Googleという名前をつけることにした。その経緯は、次のようなものだった。

 最初に候補に挙がったのは、「何?」を意味する「ザ・ホワットボックス」。(中略) 次に候補に挙がったのは、ペイジのルームメイトが提案した「グーゴル(Googol)」という言葉だった。それは10の100乗を表す数字の単位で、天文学的数字を表す「グーゴルプレックス」という言葉にも使われていた。「僕らがやろうとしている仕事の規模にふさわしい名前だと思った」と、ブリンは数年後に説明している。
 実際はその単語のスペルをペイジが間違えて登録したのだが、それが怪我の功名になった。「グーゴル」というドメイン名はすでに使用済みだったからだ。だが「Google」はまだ使用可能で、しかも「入力するのが簡単で覚えやすいのも利点だった」とペイジは語っている。(P.53)

 興味深いエピソードだ。実際、現在のグーグルは、まさに天文学的単位の情報を検索し、編集しているからだ。

グーグル創業


1998年9月4日、ペイジとブリンは、スタンフォード大学在学(博士課程)のままで、正式に会社設立の手続きを行い、拠点をキャンパスの外に移した。グーグルというIT企業の誕生である。そして、「世界を変える」という野望達成のために、次々に、優秀な頭脳をリクルートした。採用にあたっての基本方針は、「嫌なやつら」は会社に入れるな、だったという。あるべき企業文化についても、こう考えていたのだった。
 
新入社員には、きわめつけの優れた技術力、ユーザー視点を最優先する姿勢、現実離れしているほどの理想主義を求めた。(p.61)

地球規模の脳の形成

 グーグルの知識は、地球規模の脳神経系にも喩えられる。

 グーグルは、ユーザーの検索内容から自殺を考えている可能性があるケースを探知し、各種の情報を提供することで救いの手を差し伸べられるプログラムを開発したという。つまり、人間の行動から次の行動を予測する手掛かりを集めたことになる。私たちの脳内でニューロンが新たな神経回路を形成するように、グーグルのバーチャル脳もまた学習を繰り返しているのだ。(p.102)

ブリンも次のように語っている。
「グーグルは究極的には、世界中の知識で脳の機能を補佐し増強するものになる。今の段階では、まだコンピュータで文章を入力する必要があるが、将来的には操作はもと簡単になるはずだ。話しかけるだけで検索する端末とか、周囲の状況を察知して、自動的に有益な情報を教えるコンピュータなどが登場するかもしれない。(p.103)

 こうした「人工知能」は、グーグルによって近い将来実現される可能性が高いのではないかと思われる。

 続く章では、グーグルの開発した、まったく新しい広告ビジネスモデル(グーグル経済学 莫大な収益を生み出す「方程式」とは)を扱っており、本書の中心ともいえる部分だが、私の関心とは少しずれるので、ここでは省略したい。

グーグルの基本哲学 「邪悪」になるな


 アップルのスティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学のスピーチで、「馬鹿になれ」という有名な台詞を残したが、グーグルの基本哲学は、「邪悪になるな」というものだった。この言葉が誕生した経緯は次のようなものだったという。
「この会議の何もかもが私の神経を逆なでしていた」とブックハイトは当時を回想している、、「「そこで、みんなを居心地悪くさせるかもしれないが、もっと興味深い提案を行うことにした。突然、『邪悪になるな(Don't Be Evil)』というスローガンが頭にひらめいたんだ。

 これに対する社内の反応は好意的なものだった。
「誰もがそのスローガンに満足してたけれど、とくにエンジニアたちにはその気持ちが強かった。まるで彼らにこう語りかけているかのようだったから。『いいかい、外の世界ではあらゆるタイプの企業が邪悪なことをしているけれども、僕らには常に正しいことだけをする機会が与えられているんだよ』」 (中略) 「邪悪になるな」は、グーグルが他社より「良い」会社であることを社員全員に手っ取り早く自覚させる手段になった。

 このスローガンは、グーグルの「企業文化」を体現するものでもあった。
「邪悪になるな」に象徴される価値観はグーグルの企業文化にあまりにも深く刻み込まれているため、もはや暗黙的なルールとして内面化されていると、ドーアは考えている。(p.222)

 昨年の東日本大震災の直後、いち早く被災者支援のための安否情報サイト「パーソンファインダー」を立ち上げたグーグルは、まさに「邪悪になるな」「良い会社」の価値観が反映されたものと受け止めることができよう。

グーグルのクラウドビジネス

 グーグルのクラウドビジネスは、Gメールのプロジェクトから始まった。その生みの親は、ポール・ブックハイト(「邪悪になるな」のスローガンを提唱した人)だった。他のメールシステムと差別化するために、彼は1ギガバイトという巨大なストレージを用意した。それは、競争相手の100倍以上であり、しかも無料だった。しかも、メールに最適化された広告を挿入するという新たなビジネスモデルも併せて開発したのである。

Gメールは、クラウドコンピューティングという新しいウェブサービスであった。
グーグルの潤沢なサーバースペースをメールのストレージとして有効活用するというのが、「私がGメールの開発を正当化させるために使った理由の一つだ」とポール・ブックハイトは語っている。「開発をやめるべきだという意見が出たとき、これはその後に続く新たな製品の基礎部分にすぎないと説明した。今の状況がこのまま続けば、やがてあらゆる情報がオンラインで保存されるようになるのは火を見るより明らかだったから」
 それこそ、「クラウドコンピューティング」の核をなす中心的価値観であることを人々はすぐに理解した。それは、従来はパソコンのハードディスクに保存されていたデータがインターネットを経由してどんな場所からでもアクセスできるようになるというものだ。ユーザーにとっては、情報は膨大なデータの「雲(クラウド)」の中に存在するようなもので、実際に物理的にどこに保存されていようと、好きなときに取り出し、また元に戻すことができた。(P.281)

 グーグルのクラウドは、1カ所につき10億ドル以上かけて世界各地に設置された巨大なデータセンターの中に格納されており、それぞれのデータセンターにはグーグルの自社製サーバーが大量に詰め込まれている。

 グーグルは、その意味では世界最大のコンピュータ企業なのであり、世界最大の「頭脳」でもあるのだ。その後、グーグルは、「ユーチューブ」「ピカサ」「グーグルドキュメント」などのクラウドコンピューティングサービスを次々と提供し続けていることは周知の通りである。さらに、携帯電話のマーケットにも参入し、アンドロイドという新しいモバイルOSを提供し、世界中でユーザーを増やし続けている。そのために、iPhoneを開発したアップル社との友好関係にもヒビが入ってしまったのは残念なことである。

 しかし、グーグルの「世界制覇」構想は、中国での思わぬ検閲によってつまづく。そして、2010年1月12日、グーグルは、中国本土からの撤退を表明したのであった。これは、「邪悪になるな」という基本思想に照らしてやむを得ない措置であった。

 もう一つの挫折は、フェイスブックの進出と、ソーシャルメディアでの立ち後れであった。

追われる立場から追う立場へ


 フェイスブックは、「ソーシャルネットワーク革命の最前線に立ち、人々が生涯にわたって築き上げた個人的なネットワークを通じて彼らを組織化することを目標にしていた」(p.583)。それは、グーグルのジーンとはまったく異なる遺伝子をもって誕生し、発展したウェブサービスである。グーグルは、基本的に、自ら世界中のネットワーク上に蓄積された情報を検索し、あるいは自ら築いた巨大な情報ストレージを提供するビジネスである。そこには、「ソーシャル」な側面が抜け落ちていたのではないだろうか。これに対し、フェイスブックは、ネットワークに埋め込まれた「社会関係資本」という巨大な「金脈」を掘り当て、そこから膨大な個人情報のデータベースを「採掘」し、ユーザーに提供することによって、巨額の収益を得るという、まったく新しいビジネスモデルだった、ということができる。グーグルは、この金脈を当てることができなかったため、フェイスブックの後塵を拝することになったのだ。
グーグルにとって最大の皮肉は、SNSが爆発的成長を遂げる瞬間に居合わせながらみすみすチャンスを逃したことだった。日々の喧噪の中で何度も繰り返された機会損失の典型例だった(p.587)。
 いまや、グーグルは追われる立場から、追う立場に変わっているのかもしれない。次の10年間に、グーグルからどのようなサービスが生まれ、それが情報の生態系をどのように作り変えてゆくのか、それは誰にも予想のできないことだろう。フェイスブックが、従来のグーグルとは異なる生態系(エコシステム)を作り出したことだけは確かである。両者の生態系がウェブの世界でどのように棲み分けてゆくのか、注意深く見守ってゆきたいと思う。

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ
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 今回は、高名な動物行動学者であるリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(1976)を読みながら、情報あるいはメディアというものの本質を探ってみたい。ここでの情報は、ヒトや動物の遺伝子レベルの情報であり、それが「身体」というメディアを通していかに生存を確保する役割を演じているかが考察の対象となっている。以下では、本書の中でとくに情報と関連の深いと思われる章を読みながら、それを情報史観の観点から再解釈してゆきたいと思う。

1 人はなぜいるのか


 この本の主張するところは、われわれおよびその他のあらゆる動物が遺伝子によって作り出された機械にほかならないというものである。成功したシカゴのギャングと同様に、われわれの遺伝子は競争の激しい世界を場合によっては何百万年を生き抜いてきた。このことは、われわれの遺伝子に何らかの特質があることをものがたっている。私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちでもっとも重要なのは無情な利己主義である、ということである。ふつう、この遺伝子の利己主義は、個体の行動における利己主義を生みだす。しかし、いずれ述べるように、遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、もっともよく自分自身の利己的な目標を達成できるような特別な状況も存在するのである。

2 自己複製子


 ドーキンスは、地球上に生命が誕生した経緯を次のように推論する。
 あるとき偶然に、とびきりきわだった分子が生じた。それを自己複製子とよぶことにしよう。それは必ずしももっとも大きな分子でも、もっとも複雑な分子でもなかったであろうが、自らの複製を作れるという驚くべき特性をそなえていた。(中略) 自己複製子は生まれるとまもなく、そのコピーを海洋じゅうに広げたにちがいない。
 このようにして、同じもののコピーがたくさんできたと考えられる。しかしここで、どんな複製過程にもつきまとう重要な特性について述べておかねばならない。それは、この過程が完全ではないということである。誤りがおこることがあるのだ。(中略)
 誤ったコピーがなされてそれが広まってゆくと、原始のスープは、すべてが同じコピーの個体群ではなくて、「祖先」は同じだが、タイプを異にしたいくつかの変種自己複製子で占められるようになった。あるタイプは本来的に他の種類よりも安定であったに違いない。このようなタイプのものは、(原始)スープの中に比較的多くなっていたはずである。
 ある自己複製子には、個体群内に広がってゆく上でさらに重要であったに違いないもう一つの特性があった。それは複製の速度、すなわち「多産性」である。選ばれてきた自己複製分子の第三の特徴は、コピーの正確さである。
 この議論における次の重要な要素は、ダーウィン自身が強調した競争である。自己複製子が増えてくると、構成要素の分子はかなりの速度でつかい果たされてゆき、数少ない、貴重な資源になってきたにちがいない。そしてその資源をめぐって、自己複製子のいろいろな変種ないし系統が、競争をくりひろげたことであろう。 (中略)おそらくある自己複製子は、化学的手段を講じるか、あるいは身のまわりにタンパク質の物理的な壁をもうけるかして、身をまもる術を編みだした。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らのいれもの、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械を築いたものたちであった。

 少し引用が長くなったが、これが生命体誕生の経緯の推論である。ここで、「細胞」というのは、遺伝子という記号の入れ物という意味では、最初の「メディア」といってもよいかもしれない。この細胞からやがてさまざまな器官が生まれ、人間の身体や心を生みだしたのだろう。その意味では、ヒトもまた、遺伝子たちの「生存機械」なのだ、とドーキンスは述べている。
彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的な論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という名で歩き続けている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。

3 不滅のコイル


 「生存機械」説は、ここでもさらに続く。
われわれは生存機械である。だが、ここでいう「われわれ」とは人間だけをさしているのではない。あらゆる動植物、バクテリア、ウィルスが含まれている。 (中略) われわれはすべて同一種類の自己複製子、すなわちDNAとよばれる分子のための生存機械であるが、世界には種々さまざまな生活のしかたがあり、自己複製子は多種多様な機械を築いて、それらを利用している。サルは樹上で遺伝しを維持する機械であり、魚は水中で遺伝子を維持する機械である。

 ここで、「生存機械」とよばれるものは、「身体メディア」と呼び変えてもいいのではないかと思う。遺伝子(DNA)が記号であるとすれば、遺伝子記号にとって、「生存機械」は、その「乗り物」にすぎないからである。

 DNA分子という記号は、さまざまな働きをしている。
DNA分子は二つの重要なことをおこなっている。その一つは複製である。つまり、DNA分子は自らのコピーをつくる。人間は、おとなでは10の15乗個の細胞からできているが、はじめて胎内に宿ったときには、設計図のマスター・コピー一つを受け取った。たった一個の細胞である。この細胞は二つに分裂し、その二つの細胞はそれぞれもとの細胞の設計図のコピーを受け取った、さらに分裂が続き、細胞数は、4,8,16,32と増えていき、数兆になった。(中略)ここで、DNAのおこなっている第二の重要なことへと話が移る。DNAは別の種類の分子であるタンパク質の製造を間接的に支配している、4文字のヌクレオチド・アルファベットで書かれた、暗号化されたDNAのメッセージは、単純な機械的な方法で別のアルファベットに翻訳される。それは、タンパク質分子をつづっているアミノ酸のアルファベットである。(P.46)

 DNA遺伝子記号は、さらに複雑で専門分化した身体メディア、すなわち、目や耳、口、手などの器官を作り出すことにも成功した。その結果、人間をはじめとする生物は、外部の環境との間でさまざまな情報をやりとりしたり情報処理する能力をもつに至ったと考えることができる。それでは、DNA遺伝子は、なぜ「利己的」とよばれるのだろうか?
個々の細部にとらわれずに、あらゆるすぐれた(つまり長命の)遺伝子に共通するなんらかの普遍的な特性を考えることができるだろうか?こうした普遍的な特性はいくつかあるかもしれないが、この本にとくに関係のふかい特性がある。すなわち、遺伝子レベルでは、利他主義は悪であり、利己主義が善である。利己主義と利他主義のわれわれの定義からしてこうなることは避けられない。遺伝子は生存中その対立遺伝子と直接競い合っている。遺伝子プール内の対立遺伝子は、未来の世代の染色体上の位置に関するライバルだからである。対立遺伝子の犠牲のうえに遺伝子プール内で自己の生存のチャンスをふやすようにふるまう遺伝子は、どれも、その定義からして、生きのびる傾向がある。遺伝子は利己主義の基本単位なのだ。(p.65)

 

4 遺伝子機械


 メディアとしての身体を考えるとき重要なのは、「脳神経系」だろう。生物が情報伝達、情報処理を行う器官だからだ。これについて、ドーキンスはどのように説明しているだろうか。
 生物コンピュータの基本単位である神経細胞、すなわちニューロンは、その内部作用がトランジスターとはすこしも似ていない。たしかに、ニューロンからニューロンへ伝えられる信号はディジタル型コンピュータのパルス信号といくぶん似ているように思われる。だが、個々のニューロンには、他の成分との連絡がわずか3つではなく、数万もついている。ニューロンはトランジスターよりも情報処理のスピードは遅いが、過去20年間エレクトロニクス業界が追求してきた小型化という点では、はるかに進んでいる。これは、人間の脳には数十億のニューロンがあるが、一個の頭骨にはわずか数百個のトランジスターしか詰め込めないことを考えれば、よくわかる。

 神経系は現代社会でいえば、電話ケーブルなどの情報通信ネットワークに相当するが、生物の場合は、ニューロンという細胞を基本単位としている。その集合体が、神経ネットワークとなって、行動の場合には、筋収縮の制御・調整を司っているのである。それが、生物の生存にとって不可欠なものであることはいうまでもない。
 脳が生存機械の成功に貢献する方法として重要なものに、筋収縮の制御・調整がある。脳がこれをおこなうには、筋肉に通じるケーブルが必要である。それが運動神経である。しかし、筋収縮の制御・調整が遺伝子の保存につながるのは、筋収縮のタイミングが外界のできごとのタイミングとなんらかの関係があるときだけである。

 それでは、生物相互間のコミュニケーションというのは、遺伝子進化論の立場からは、どのように説明されるだろうか。ドーキンスは次のように言う。
 ある生存機械が別の生存機械の行動ないし神経系の状態に影響を及ぼすとき、その生存機械はその相手とコミュニケーションしたということができよう。影響というのは、直接の因果的影響をさす。コミュニケーションの例は無数にある。鳥やカエルやコオロギの鳴き声、イヌの尾を振る動作や毛を逆立てる行動、チンパンジーの歯をむき出すしぐさ、人間の身ぶりやことばなど、生存機械の数々の動作は、他の生存機械の行動に影響をおよぼすことによって間接的に自分の遺伝子の繁栄をうながす。動物たちはこのコミュニケーションを効果的にするために骨身を惜しまない。

 こうしたコミュニケーションは、情報を伝える働きをしている、とドーキンスは述べている。
 望むならば(ほんとうは必要ないのだが)、この鳴き声をある意味をもったもの、つまり情報(この場合には「迷子になったよ」という情報)を伝えるものと考えることができる。この情報を受け取りそれに従って行動する動物は利益をうける。したがって、この情報は真実だといえる。(中略) 動物のコミュニケーション信号はもともと互いの利益をはぐくむために進化したものであって、その後意地の悪い連中にあくようされるようになったのだと信じるのも、やはり単純すぎる。動物のあらゆるコミュニケーションには、そもそも最初からだますという要素が含まれているのではなかろうか。なぜなら、動物のすべての相互作用には少なくともなんらかの利害衝突が含まれているからだ。

 さて、以下の数章はとばして、次に、「ミーム」という、ドーキンスが発明した概念についての説明をみることにしよう。これは、人間の文化という特異な特性を扱ったものであり、人間というメディアに特有の記号単位(遺伝子)をあらわす概念だからである。

11 ミーム - 新登場の自己複製子 -


 人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼようやくできる。もちろん、私は、この言葉を通俗的な意味でではなく、科学者が用いる際の意味で使用しているのだ。基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。(中略) 言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、しかも、その速度は、遺伝的進化より格段に速いのである。
 言語は、その多くの側面にすぎない。衣服や食物の様式、儀式・習慣、芸術/建築、技術・工芸、これらすべては、歴史を通じてあたかもきわめて速度の速い遺伝的進化のような様式で進化するが、もちろん実際には遺伝的進化などとはまったく関係がない。(p.303)

 そこで、このような別種の「遺伝子」を、ドーキンスは「ミーム」と名づけたのである。
 (DNAとは)別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方jの世界へ出かける必要はあるのだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。(中略) 新登場の(遺伝子)スープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシア語の語根をとれば<mimeme>ということになるが、私のほしいのは、<ジーン(遺伝子)>という言葉と発音の似ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシア語の語根を<ミーム(meme)>と縮めてしまうことにする。
 こうして、かの有名な「ミーム」という言葉が登場したのである。 それでは、ミームとは具体的にどのようなものであり、どのような働きをするのだろうか。これについて、ドーキンスは次のように解説している。
 楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例である。精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームがミームプール内で繁殖する際には、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。
 広義の意味での模倣が、ミームの自己複製を可能にする手段である。しかし自己複製しうる遺伝子のすべてが成功を収めることができるわけではないのとまったく同様に、一部のミームはミーム・プール中で他のミーム以上の成功を収める。これは自然淘汰と相似な過程である。ミームに生存値を付与するような特性については、すでにいくつか特殊な例をあげた。しかし、一般化して考えると、、その特性は、第二章で自己複製子に関して論じられたものと同じものになるはずである。すなわち、寿命、多産性、そして複製の正確さの三つである。ミームのコピーが示す寿命は、遺伝子の場合に比べると、さほど重要ではなさそうだ。私の頭の中にある楽曲の旋律は、私の余命の間しか生きながらえないだろう。しかし、それでも、同じ旋律のコピーは、紙に印刷され、人々の頭に刻まれて、今後幾百年にもわたって存在し続けるだろうと私は考えている。遺伝子の場合と同様、ここでも特定のコピーの寿命より、多産性のほうがはるかに重要なのである。歌謡曲というミームの場合、ミーム・プールの中での繁殖の程度は、その曲を口笛でふきながら町をゆく人の数で測れるかもしれない。
 続いて、自己複製子が成功するための第三の一般的性質、すなわり複製の正確さの問題がある。この点に関して私は、私の議論の土台がやや頼りないことを認めねばならない。一見したところ、ミームという自己複製子は、複製上の高度の正確さをまったく欠いているように見えるからである。

 最後の部分については、近年のデジタル化革命によって、ミームの複製も、いっそう正確に行われるようになている、という解釈をつけ加えておきたい。ミームは、脳内でつくられ、伝播すると考えられる。
人間の脳は、ミームの住みつくコンピュータである。そこでは、時間が、おそらくは貯蔵容量より重要な制限要因となっており、激しい競争の大勝となっていよう。人間の脳と、その制御下にある体は、同時に一つあるいは数種類以上の仕事をこなすわけにはゆかないからである。あるミームがある人間の脳の注目を独占しているとすれば、「ライバル」のミームが犠牲になあっているに違いないのである。ミームが競争の対象とする必需品は他にもある、たとえば、ラジオ、テレビの放送時間、掲示板のスペース、新聞記事の長さ、そして図書館の棚のスペース等々。

 少々引用が長くなったが、これでミームという「文化的遺伝子」のもつ重要性、意義がおわかりいただけたかと思う。そして、ミームの伝播において、人間の外部にあるさまざまなメディアが重要な役割を果たしているのである。インターネット時代の今日、ミームが広がる場は、大幅に拡張され、また多様化しつつあるということができるだろう。

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