メディア・リサーチ

メディアとコンテンツをめぐる雑感と考察

カテゴリ: 書評・レビュー

 今回は、マクルーハンの『メディア論』を読みながら、メディアの進化について考えてみたいと思う。この本が出版されたのは、1964年である。ちょうど、テレビが黄金時代を迎えた時期である。しかし、まだパソコンやインターネットが登場する以前である。それにもかかわらず、本書はいきなり、次のようなメッセージで始まっている。
 西欧世界は、3000年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発」(explosion)を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発」(implosion)を起こしている。機械の時代に、われわれはその身体を空間に拡張していた。現在、一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に、われわれは人間拡張の最終相に近づく。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という創造的なプロセスも集合的、集団的に人間社会全体に拡張される。さまざまのメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。

 ここで、「内爆発」とは「地球が電気のために縮小して、もはや村以外のなにものでもなくなってしまった」という事実をさしている。また、「電気」とは、通信やテレビのことをさしているように思われる。現代なら、さしずめインターネットや衛星放送などを思い浮かべるところだろう。

第1章 メディアはメッセージである


 マクルーハンは、メディアを「人間の拡張」と定義している。第1章は、次のような有名なメッセージから始まる。
 われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し、区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージでる」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい(感覚)尺度に起因する、ということだ。

 これは、明らかに「技術決定論」的な考え方だ。続くいくつかのパラグラフは、「メディアはメッセージである」ということを、言い換えたものだ。
 電気の光というのは純粋なインフォメーションである。それがなにか宣伝文句や名前を描き出すのに使われないかぎり、いわば、メッセージをもたないメディアである。この事実はすべてのメディアの特徴であるけれども、その意味するところは、どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである、ということだ。書きことばの内容は話しことばであり、印刷されたことばの内容は書かれたことばであり、印刷は通信の内容である。
 これを言い換えると、古いメディアが新しいメディアにとっては「メッセージ」になっている、ということだろうか。現代のインターネットに置き換えて考えると、インターネットのメッセージ内容は、既存メディアであるテレビや新聞(メディア)だということになろうか。つまりは、オールドメディアのメッセージは、新しい技術革新の結果、ニューメディアに取り込まれる、というメディア=メッセージ間の共進化が起こっているということだろうか。
 映画の「内容」は小説や芝居や歌劇である。映画という形式の効果はプログラムの「内容」と関係がない。書記あるいは印刷の「内容」は談話であるが、読者は書記についても談話についてもほとんど完全に無自覚である。
 ここでは、メディアはそれが伝えるメッセージとは関係なく、メディアの形式そのものが多大な心理的・社会的インパクトを与える、といっているようにも思われる。つまりは、メディアそれ自体の特性を考慮することが、その影響力を考察する上で重要なのだ、という意味にも解される。そのように理解すれば、次の章もわかりやすくなるのかもしれない。

第2章 熱いメディアと冷たいメディア


 ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわり「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオはたとえば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。

 マクルーハンは、テレビがクールメディアつまり「低精細度」のメディアだとしているが、現代のハイビジョンなどはどうなのだろうか?高精細度でデータを十分に満たされたメディアになっているのではないだろうか?また、スマートフォンやスカイプなどはどうだろうか?これもまた、ありとあらゆるデータを詰め込んでおり、ホットで「高精細度」のメディアになっているのではないか?だからといって、ユーザーの心理や社会に巨大なインパクトを与えているといえるだろうか?現代は、まさにマルチメディアの時代になっており、もはやマクルーハンのいう「熱いメディア」「冷たいメディア」の単純な二分法は意味をなさなくなっているのではないだろうか。

 技術決定論的なメディア論は、第6章にもあらわれている。

第6章 転換子としてのメディア


 この電気の時代にいたって、われわれ人間は、ますます情報の形式に移し変えられ、技術による意識の拡張をめざしている。 (中略)
 われわれは、拡張された神経組織の中に自分の身体を入れることによって、つまり、電気のメディアを用いることによって、一つの動的状態を打ち立てた。それによって、、これまでの、手、足、歯、体熱調整器官の拡張にすぎなかった技術-都市も含めて、すべてこの種の身体の拡張であった-が、すべて情報システムに移し変えられるであろう。電磁気の技術は、いま頭骨の外部に脳をもり、皮膚の外部に神経を備えた生命体にふさわしい、完全に人間的な穏和と静寂を求めている。人間は、かつて網代舟、カヌー、活字、その他身体諸器官の拡張したものに仕えたときと同じように、自動制御装置のごとく忠実に、いま電気の技術に仕えなければならない。
 コンピュータやインターネットが支配する現代社会を予見させる文章だが、これはいったいメディアの影響を楽観的に見たものなのか、それとも悲観的に見たものなのだろうか?

 話は変わるが、昨日、NTTの電話通信回線が4時間にもわたって麻痺するという事故が起きた。毎日新聞によると、これはスマートフォンの急増によるものだという。
 NTTドコモの携帯電話で相次いだ大規模な通信障害は、スマートフォン(スマホ)の本格普及で通信量が急増し、携帯電話会社のインフラ整備が追いついていない実態を浮き彫りにした。動画やゲームのやりとりなどスマホの多機能化が進み、こうしたデータ通信量は国内で今後数年で10倍以上に膨らむとの見方もある。事業者の対応が伴わないとトラブルもやまず、通信インフラに対する信頼も損なわれかねない。【毎日新聞1月26日】

 若者を中心に、スマートフォンが普及し、使い方も大幅に変わってきているようだ。
 東京都内の男子大学生(22)は「スマホに買い替え、動画投稿サイトなどインターネットを使う時間が増えた」と話し、若者を中心にパソコン代わりに使う場面が増えている。しかもスマホの利用者の多くは、どれだけ通信しても料金が一定の「定額制サービス」に加入しており、スマホの通信量は「(従来の携帯電話に比べて)10倍はある」(通信業界関係者)という。(毎日新聞、同上記事より)

 スマートフォンは、もはや従来のガラケーとはまったく異なる使い方をされているようだ。マクルーハンのことばでいえば、クールだった電話がホットなメディアになっているということなのかもしれない。

 しかし、だからといって、スマホがPCを代替しているのだ、とはいえない。クラウド時代には、PCとスマホは、むしろ、時間的、空間的な情報圏域の中で、相互補完的に使い分けがなされるようになっているのではないだろうか。そうした中で、最近は「ネットブック」を使う人が少なくなっているようにも思われる。自宅や仕事場ではPC+スマホ、移動中はスマホといった使い方が普及しつつあるのかもしれない。それとともに、マクルーハンのように、それぞれのメディア別にその特性を二分法的に捉えるというのは、もはや時代遅れになっているのかもしれない。もっと別の新しいメディア論を構築すべき時期に来ているように思われる。

 ちなみに、私も最近スマホを購入し、いまでは、スマホで毎日、新聞を読んだり、ラジオを聴いたり、音楽を再生したり、ユーチューブで動画をみたり、メールをチェックしたり、とさまざまな使い方をしている。それも、仕事の合間(あるいは仕事をしながら!)。マクルーハンがこれを見たら、スマホとはいったいどんなメディアなんだ、とあきれてしまうかもしれない。ユーザー調査の方法も従来とは大幅に変更しなければいけなくなるような気がしている。

梅棹の情報論 VS マクルーハンのメディア論


 梅棹忠夫さんの「情報産業論」が公表されたのは1963年だった。マクルーハンの『メディア論』が刊行されたのは1964年である。明らかに梅棹さんの方が早い。にもかかわらず、梅棹さんの生態史観にもとづく情報論は、マクルーハンよりも、はるかに大きな広がりと論理的な明晰さを備えている。梅棹さんは「汎情報論」を唱え、マクルーハンは「汎メディア論」を唱えた。しかし、重要なのは、メディアではなく情報であろう。そのことは、後に「情報のメディア戦略」として論じることにしたい。

 梅棹理論の優れた点は、「内胚葉」→「中胚葉」→「外胚葉」というように、生態学的な進化のプロセスを、情報産業の進化にむすびつけて論じ、その中で、外胚葉産業として情報(精神)産業を位置づけた点にある。マクルーハンは、単に脳神経系の拡張としてメディアを論じたにとどまっており、そこには理論性が感じられない。「ホット」「クール」といったメディア特性を論じるが、そこにも理論的な根拠が明確に示されてはいない。マクルーハンのメディア論は、もはやテレビ時代の遺物と化してしまったようである。

 少し残念なのは、梅棹さんが記号やメディアについて生態史的な観点から体系的に論じていないという点である。評者は、「情報」「記号」「メディア」の関連を次のような階層的構造になっていると考えている。

情報・記号・メディアの関係図
 つまり、「メディア」は「記号」の担架体であり、「記号」は「情報」の担架体であるということである。ドーキンスは、『利己的な遺伝子』の中で、遺伝子情報の生存戦略について詳細に論じたが、この考え方から、「情報のメディア戦略」といった考え方を引き出すことができるのではないかと思う。それについては、別途論じることにする。梅棹さんの生態史観と組み合わせるならば、新しいメディア論の構築も不可能ではないような気がする。いずれ稿を改めて論じることにしたい。その前に、ドーキンスの『利己的遺伝子』論を、次回に再読してみようと思う。

 前回は、「情報」の概念について、『基礎情報学』を読みながら考え、「情報は進化す」るという情報史観に行き着いたが、今回は、情報と関連の深い「記号」について、その基本を学びながら、「記号の進化論」を構想することにしたい。

 まず、宇宙の誕生とともに、物質そして情報が発生した。この場合の「情報」とは、物質がもつ独自の「パターン」である。それは吉田民人がいうように、時間的・空間的・定性的・定量的なパターンである。しかし、そうしたパターンを「認識」あるいは「解釈」できる主体というのはいまだ存在してはいなかった。いまから約40億年前、地球が誕生し、その過程で、生命体が発生したが、それは「自らを再生産し、持続的に複製し続ける物質」であった。そこに生命体の本質がある。自らを複製するためには、「遺伝子」という記号が不可欠である。これが、宇宙における「記号」というものの発生である。遺伝子記号は、物質(核酸)の配列パターンである。それは、生物の体内で、情報を発信したり受信したりするという役割を担った最初の物質パターン(記号)であった。遺伝子記号は、生命体をつくるための情報を受発信するという役割を果たした。

 生物は、成長の過程で環境を認識する「感覚器官」(身体メディア=媒体物質)を作り出す。それは、生命体の生存にとって、環境からの情報が決定的に重要だからである。どんな生物においても、環境に含まれる物質を認識する手段として、「感覚器官」があり、それを通して、外部環境の物質パターンを「記号」として取り入れ、環境に適応するような反応ないし行動を起こすようになる。記号はつねに、なんらかの「意味作用」をもっている。つまりは、記号を用いて環境からの刺激を一定の「意味」に変換するというメカニズムが働くのである。「意味」それ自体も、原始生物のそれと、われわれのような人間にとっても意味では、まるで異なったものであるに違いない。同じ「対象」(環境内の物質)であっても、人間が受け取る意味と微生物が受け取る意味は、まったく異なったものだろう。パースの表現を借りるならば、同じ「対象」について、異なる「記号」が用いられ、それを通して、異なる「解釈項」(情報)が引き出されるのである。解釈項=情報というのは、私独自の定義である。記号が進化するとともに、情報もまた進化するのは当然のことである。

パースの記号論


 パースは、記号について、さまざまな三分類を提示している。その一つは、「記号(表意体)」「対象」「解釈項」という三分類である。通常、三角形であらわされている。これを進化史的に考えれば、生命体が発生する以前には、「対象」しか存在しなかったが、生命の誕生とともに、「記号」(遺伝子記号や感覚刺激など)が生まれ、そうした記号を通じて、環境の内外にある「対象」が「解釈項」(=情報)として認識されるようになったと考えられる。この場合、解釈項自身が、一種の「記号」であるとも考えられる。パースの言葉によれば、次のような関係をもつ。
 記号あるいは表意体とは、ある人にとって、ある観点もしくはある能力において何らかの代わりをするものである。記号はだれかに話しかける、つまりその人の心の中に、等値な記号、あるいはさらに発展した記号を作り出す。もとの記号が作り出すその記号のことを私は、始めの記号の解釈項と呼ぶことにする。記号はあるものつまり対象の代わりをする。(パース『記号学』より)

 対象は、必ずしも物質的な対象とは限らない。「記号」が進化するにつれて、認識すべき対象もまた、物質から非物質(概念、イメージなど)へと「進化」する。とくに、人間の場合には、外胚葉たる脳神経系(メディア)の働きによって、記号は、その最終的な進化形である「(自然、人工)言語」を通じて、抽象的な概念や観念、イメージなどの「対象」を表象することができるようになった。つまり、記号の進化は、(情報)認識の進化をもたらすということである。パースの言葉を引用すると、次のようになる。
 「記号」という語は、知覚可能なもの、あるいはただ想像可能にすぎないもの、あるいはまたある意味では想像不可能なものでさえ指示するのに使われる
 対象、表意体、解釈項(情報)の間には、対象→表意体(記号)→解釈項(情報)という方向性が認められる。

 パースの記号論では、もう一つ有名な三分類がある。それは、「類像(イコン)」「指標(インデックス)」「象徴(シンボル)」である。パースによれば、それぞれは次のように定義される。
 類似記号というのは、たとえその対象が現存性を持たなくても、それを意義能力のあるものにする特性を所有している記号である。たとえば幾何学的な線を表わるような鉛筆の線条など。
 指標記号とは、対象との類似性や類比によるのでもなく、また対象がたまたま持っている一般的な特性との連合によるのでもなく、一方では個体的な対象と、他方ではその人にとってそれが記号として役立つ人の感覚や記憶との(空間的なものを含む)力動的な結合関係を持っていることによって、その対象を指示するところの記号あるいは表意体のこと。
 AがBに『火事だ』と言うと、Bは『どこ?』と尋ねるだろう。すると、Aは過去にしろ未来にしろ、実在世界のどこかを考えているだけだとしても、指標記号に頼らざるを得ない。さもなければ、火事のような観念があるということを言っただけということになり、それでは何の情報も与えないことになろうだろう。Aが火を指せば、彼の指はその火と力動的に結合されているが、同じように自動火災報知器もいわば自分の指をすでにその方向に向けているのである。Aの答えが『ここから千ヤード以内』であれば、『ここ』という語が指標記号である。
 象徴記号とは、習慣が自然的なものにしろ、規約上のものにしろ、さらに元々その選択を支配していた動機にも関係なく、記号として使用され理解されているという事実によってのみ、あるいは主にそういう訳で記号になっているものをいう。単語、文、書物、その他の慣習的記号は象徴記号である。

 進化の方向性からいうと、類像→指標→象徴という変化が一般には認められる。また、これら三種類の記号のそれぞれにおいても、歴史的な進化が認められる。たとえば、類像の場合についていうと、原始時代の「洞窟壁画」は、「絵画」へと進化し、さらに、「写真」、「映画」、「テレビ」、「バーチャルリアリティ」へと進化してきた。言語という象徴記号においても、歴史的な進化が認められるだろう。それによって、記号が表象する「情報世界」も、より多様で高度なものとなり、われわれを取り巻く「情報環境」も大きな変化を遂げつつあるのである。パース
の記号論は、記号の分類学に終始しているようにみえるが、このように進化論的に捉え直すこともできるだろう。

 記号についての考察はこの位にして、次回はマクルーハンの『メディア論』を手がかりとして、「メディア」について検討してみたい。 

 前回のブログでは、梅棹忠夫さんの「情報」論をみてきた。あれから50年近くになる。21世紀の現代における「情報」論はどのように進歩しているのだろうか?手元にある『情報学事典』(2002年刊行)で、「情報」の今日的定義を確認しておきたい。この項目の執筆者は西垣通さん(東京大学情報学環教授)である。

情報学事典

情報学事典「情報」の項



 冒頭で、次のように述べられている。
 情報という概念については、いまだに広く社会的に認知された唯一の定義が存在するわけではない。そのため、単なる断片的な「データ」と等値される場合も少なくない。だが学問的には、情報は物質やエネルギーと並んで、宇宙における根源的な概念ととらえることができる。情報を効率的に処理するコンピュータなどの機械が出現したのは20世紀だが、情報そのものははるか以前から存在している。
 物質やエネルギーの存在はビッグバンによる宇宙生成まで遡るが、情報が誕生したのは地球上に生命が出現した約38億年前のことである。すなわち、情報は生命現象と不可分の存在と考えられている。

 この情報概念は、梅棹さんの情報定義とほぼ同じである。また、吉田民人さんの「最広義」の情報概念とも近い。吉田さんによる情報の定義は、「物質、エネルギーと並ぶ自然現象の根源的要素であり、物質-エネルギーの時間的・空間的・定性的・定量的なパターン」というものである(吉田, 1974=1990)。吉田さんのいう最広義の情報は、ビッグバン直後にまで遡ることができると思われるので、「情報学事典」よりも歴史的には古い。宇宙の誕生とともに、物質、エネルギーと並んで情報が出現したと考えることができる。ただし、情報が意味を生成するようになるのは、西垣さんのいうとおり、生命が誕生してからのことだろう。情報学事典では、情報をあらためて「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」というように、再帰的(循環的)な定義を示している。いいかえれば、再帰的ではない(意味作用を伴わない)情報は、宇宙の初めから存在していたと考えることができる。情報は記号やメディアとも深い関連をもっているが、これについては、別途考察することにして、以下では、西垣通さんの著書『基礎情報学』(2004)を読みながら、21世紀的な情報概念についての理解を深めていきたいと思う。


基礎情報学


基礎情報学

 本書では、情報概念を「生命活動」のなかで定義している。
 本書で述べる情報学とは、端的には「意味作用」に関する学問である。「意味」を媒介として理系のと文系の知とがつながるからこそ、これを基礎からとらえ直す思考が重要になってくる。「意味(significance)」という言葉は、「意義」「重要さ」「価値」をもあらわす。生命にとって重要なもの、価値あるものが「情報」なのだ。ゆえにそれは、生命活動と不可分である。物質やエネルギーは生命の誕生以前から存在するが、情報はそれらとは本質的に異次元にあるのである。

第1章 基礎情報学とは何か

物質としては異なる対象を同一のパターンとしてとらえる認知活動が、情報の成立と深く関わっているのである。観察という世界介入のメカニズムを等閑視して、「知識を増やすもの」といいった日常的な実態概念から出発する情報学は、決して厳密な学問とは成りえない。あらゆる情報は、基本的に生命体による認知や観察と結びついた「生命情報(life information)」なのである。

 本書では、情報を「機械情報」「生命情報」「社会情報」の3つのレベルに分けている。「機械情報」(mechanical information)とは、情報工学/情報科学における情報、より端的にはITの操作対象となる情報のことである。機械情報は原則として、意味を捨象して取り扱うという点で、生命情報や社会情報とは異なっている。「社会情報(social information)」とは、ヒトの社会において多様な伝播メディアを介して流通する情報のことである。言語や映像などはその例であり、いずれも意味作用を伴っているという点では、生命情報と共通している。この3つのレベルの情報について、西垣さんは、「表向きは別次元にあるように見えるが、実はそうではない。三者は密接に結びついている」と述べている。「ヒトの社会においては、生命情報が意味解釈のズレの少ない社会情報となる傾向があり、ゆえに機械的に扱える機械情報が出現するのである(p.19)」。

 情報はこのように生命活動と密接に結びついてあらわれるものである。それでは、「生命」とはどのような性質をもっているのだろうか?著者は、生命システムの特徴として、「歴史性」「閉鎖性」の2つをあげている。歴史性については、こう述べられている。
 あらゆる生物は、約40億年にわたる進化という膨大な歴史、また個体として誕生して以来の体験史を負っている。したがって、ある入力に対して、生命システムは常に同一の出力を与えるわけではない。これは情報の意味解釈の多様性に対応している。これは機械システムとはかなり異なるである。(p.20)

 閉鎖性については、こう述べている。
 生命システム自体の観点に立てば、システムは閉じており、入力も出力も存在しないと言ったほうが精確なのである。入力と出力を見極めるのは外部にいる観察者であるが、生命システム自体は決してその視点に立つことはできず、ただ環境のなかで訳も分からず行為し続けるのみなのである。(p.21)

 このような特徴は「オートポイエーシス=自己創出性」の一面をあらわしている、と著者は考える。そして、生命システムを「オートポイエティック/システム」として定義している。そして、生命と情報の関連をこう表現している。
生物が情報の意味を解釈するということは、実はオートポイエティックな生命システムが、自らを取り巻く環境からの刺激に対して自己言及的に反応していることに他ならない。したがって、情報とは外部から生命システムのなかに「入ってくる何か」ではない。情報を外部に実在するモノのようにとらえるのは誤りである。むしろ、刺激に応じて生命システムのなかに「発生する何か」ととらえるほうが精確であろう。情報は、物質やエネルギーと違って、生物とともに地球上に出現したのである。

 この「生命」=「情報の発生」という定義づけには、私自身は若干の疑問を感じる。情報が生命によってはじめて認知可能になったことは確かだが、「情報」(パターン)それ自体は、宇宙の起源から存在していたのではないだろうか。生命の誕生と進化によって、情報は初めて「捉える」ことのできるような存在になったのではないか、と評者は考える。

 それはさておき、著者は続いて、生命現象の特徴をもとに、「情報の定義」を行っている。
 実は、すでに述べてきたように、情報とは生命体の外部に実体としてあるものではなく、刺激を受けた生命体の内部に形成されるものである。あるいは、加えられる刺激と生命体とのあいだの「関係概念」であると言ったほうがいっそう精確であろう。(中略)
 一言で粗っぽくあらわすなら、情報とは「生命体にとって意味作用をもつもの」ということになる。(p.26)

 このように述べたあと、「情報」を次のように定義している(『情報学事典』の定義と同じ)。

 情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」である(p.27)。

 ここで、「パターンをつくりだす」とは、「意味作用を行う」といいかえてもよいだろう。私自身は、かつてある本の中で、情報を「記号の意味作用によって表象されるもので、生物、人間、機械、集団、組織、社会が、変化する環境に適応し、存続、発展するために必要な基本的資源の一つである」と定義したことがある。本質的には、西垣さんの定義と変わらないものではないか、と考えている。ここで、「意味作用」を行う主体は、もちろん生物(ヒトやその集まりである社会を含む)である。

第2章 情報の意味解釈


 この章では、従来の情報モデルをレビューした上で、「生命情報」のモデルを提示し、生命体によって意味と価値が生み出されるメカニズムを探求している。ここで、従来モデルとは、シャノン&ウィーバーの通信モデルと、それを応用した社会的コミュニケーションモデルである。この部分は既知のところなので省略し、著者独自の概念である、「生命情報」モデルと、意味・価値との関連についての考察を検討することにしたい。

意味と価値

 基礎情報学では、ヒトに限らずあらゆる生命体による情報の意味解釈に注目するが、その出発点となるのは、ホフマイヤーの生命記号論と同じく、パースの記号論である。
 まず、パースの記号(過程)について簡単に説明しよう。これは、「第一項=記号表現。第二項=対象、第三項=解釈項」の三項関係としてあらわされる。「記号表現(sign/representamen)」とは、記号の物理的な乗り物(媒体上の表現)である。「解釈項(interpretant)」とは、解釈者の内部に形成される、「対象(object/referent)」の摸像である。たとえば、「火事だ」という叫び(記号表現)によって、それを聞いた解釈者の心のなかに、めらめら燃える家のイメージという「解釈項」が生成されるわけだ。いまの場合、「対象」とは、火事で燃えている具体的な家そのものである。(p.52)

  この部分はよく理解できる。その通りだと思う。しかし、これにつづくパラグラフには、率直に言って疑問を感じる。
 
 端的に言うと、パースの記号(過程)とは、何か(記号表現)が自分とは違う何か(対象)を代置し、指し示しているというメカニズムをあらわすものである。ここで「情報(パターン)」は、言うまでもなく「記号表現」に対応するが、それがあらわす「意味内容」は「対象」と「解釈項」のいずれであろうか。代置というメカニズムからすれば、「対象」のような気がするが、必ずしもそうとは言えない。「火事だ」という記号表現そのものは、ある特定の家が火事になっている状況だけをあらわすのではなく、より広く「めらめら燃える家のイメージ」という一般的・抽象的な意味内容をもっているのである。そうすると「解釈項」ということになるであろう。

 この部分が私には不可解である。私の考えでは、情報は「記号表現」ではなく、「解釈項」(ソシュールのいう「記号内容(シニフィエ)」ではないかと思うのだ。上の具体例でいえば、「火事だ!」という表現はあくまで「記号」なのであって、その記号を通して表象される「めらめら燃える家のイメージ」こそは、聞き手が受け取る「情報」なのではあるまいか?というのも、そう解釈したほうが、日常的な「情報」概念と一致するからである。多数の人が何らかのメッセージ(記号)に接したとき、そこから受け取る情報は、人によってさまざまである。ある人は、「めらめら燃える家」という情報を受け取るが、他の人は、「自分の命が危ない」という情報を受け取るかもしれない。さらに他の人は、家の中にいるかもしれない家族の安否という情報を得るかもしれないのである。記号表現(パターン)=情報という、誤った解釈は、吉田民人さんの情報論から脈々と受け継がれたものなのかもしれない。
 こうした概念上の混乱は、やや意味不明な次のパラグラフにもあらわれている。
 「火事だ」という短い言葉は、「めらめら燃える家」という豊かな具体的イメージから比べるとあまりに貧弱であり、切りつめられた記号表現である。情報の「意味内容」とは、伝達された記号表現そのものが担うというより、むしろ「外情報」つまり明言されず処分された情報が担うとすれば、この一連の推量過程で出現する解釈項の全体が「意味内容」にあたると考えることもできるであろう。(p.52)

 いや、「火事だ!」という記号は決して貧弱ではないと思う。そこに含まれる情報は、非常に多様性をもった、豊かなものではないのだろうか?ここで、わざわざ「外情報」(言語が具体的に用いられるときの「文脈」「状況」「背景」など)という曖昧な概念を持ち出す必要はないのである。「外情報」とは、記号→情報への変換過程で、解釈に取り込まれる文脈的要因(コンテクスト=暗黙のコード)にすぎないのはないだろうか。

 次に、情報と「意味」「価値」の関連性についての叙述に移る。
 生命体は情報の意味解釈をおこなうのだが、「意味」とは天下りに与えられるものではない。基礎情報学では、「意味」は生命体の生存と関連しており、進化によって発生したものであると考える。(中略) ここでいう「意味」とは、ジェイムズ・ギブソンの生態心理学における「アフォーダンス」に近い。それは環世界のなかに存在する、生命体にとっての「価値」のことなのである。
 生命体が情報(パターン)を受信するということは、生命体を取り巻く環世界のなかに「意味」が立ち現われることに等しい。それは外から既成のパターンが与えられることではない。解釈者との「関係」において、意味をもつパターンである情報が出現するのである。



 このパラグラフでは、「意味」と「価値」をほとんど同義にものとして捉えられているように思われるが、これも少し違和感を覚える。私の感覚では、「情報」と「意味」はほぼ同義であり、「価値」は、情報のもつ特性(送り手あるいは受け手、あるいはマーケットによる情報の評価、格づけ)のような気がするのだが、、、。情報には意味や価値のあるものとないものがある、と一般にはいわれるが、梅棹さんの「コンニャク情報論」ではないが、脳神経系に刺激を与えるという意味では、無意味な情報というのはないのかもしれない。

   今回の書評は、ここまでで終わりにしておき、次回は、「記号論」「メディア論」について検討を加えたいと思う。参照する文献は、(1)エーコ『記号論』、(2)パース『記号学』、(3)バルト『神話作用』、(4)マクルーハン『メディア論』である。


※【追記】 なお、西垣さんのいう「機械情報」「生命情報」「社会情報」の三分類だが、私としては、これに「物質情報」を付け加えてもいいのではないか、という気がしている。「物質情報」とは、生命が誕生する以前から、(宇宙の生成以来)物質「とともに」存在していた情報(意味が生成する以前の原情報)のことをさしている。これは、梅棹さんの情報論とも共鳴する考え方だ。これによって、汎情報論は完結することになるだろう。情報史観からすると、宇宙のはじめに「物質情報」があり、次いで「生命情報」があらわれ、「社会情報」が生まれ、最後に「機械情報」が誕生し、今日に至っていると考えることができるかもしれない。インターネット上の情報などは、まさに「機械情報」の進化の極みだといってもよいだろう。

情報の文明学


 こんな本をご存じだろうか。

梅棹忠夫「情報の文明学」

 1988年に刊行された梅棹忠夫さんの論文集。研究室の書棚に埋もれていたが、ウメサオタダオ展に行ったこともあって、久しぶりに開いてみた。目次の中から、主立ったところだけを抜き出してみると、、

・放送人の誕生と成長(1961年)
・情報産業論(1963年)
・情報産業論への補論(1988年)
・四半世紀のながれのなかで(1988年)
・情報産業論再説(1968年)
・実践的情報産業論(1966年)
・情報の文明学(1971年=1988年)
・情報の考現学(1971年=1988年)

 上の目次の中で、=としてあるのは、梅棹さんが1971年に大量のメモ(おそらくは、こざねと京大カード)を書きためておいたものを、1988年に中央公論社から正式に刊行したという意味である。ここにも、梅棹式の知的生産技術の成果が見て取れる。

 ここでは、梅棹さんの「知的生産の技術」を逆さまにして、本書の内容から、とくに印象に残る「メモ」を再現するという形で、梅棹情報学を紐解いてみたい。

放送人の誕生と成長


じつは、ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間をうることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。そして、放送の「効果」が直接に検証できないという性質を、否定的にではなしに、積極的に評価したときに、放送人は誕生したのである(p.14)
 「情報産業」「放送人」という、今日では当たり前のように使っていることばは、梅棹さんのこの論文で初めて使われたのである。つまり、1961年である。「情報産業論」が刊行される2年前のことだ。 
かれら(放送人)のエネルギー支出を正当化する文化的価値というのは、もっともひろい意味での「情報」の提供ということであって、倫理的、道徳的な価値とはまるで尺度のちがうものである。その点では、おなじジャーナリズムあるいはマスコミとよばれる世界の住民のなかでも、新聞人のほうが、まだしも倫理的、道徳的な尺度を保存している。(p.17)

情報産業論

 

「情報産業」の定義


 本論文の第1章は、「情報産業」というタイトルがつけられている。そして、冒頭に「情報産業」の定義が記されている。
なんらかの情報を組織的に提供する産業を、情報産業とよぶことにすれば、放送産業というものは、まさにその情報産業jの現代におけるひとつの典型である。放送産業は、そのすみやかな成長ぶりで目をみはらされたけれど、かんがえてみれば、情報産業は放送だけではない。新聞雑誌をもふくめて、いわゆるマスコミという名でよばれるものは、すべて情報産業に属する。現代をマスコミの時代とよぶことができるならば、現代はまた、情報産業の時代といってもいいかもしれない。(p.29)

 これが、有名な「情報産業」の宣言文である。 このあと、「情報」をさらに広く定義し、情報産業のカバーする領域を広く定義し直している。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、そのような情報のさまざまの形態のものを「うる」商売は、新聞、ラジオ、テレビなどという代表的マスコミのほかに、いくらでも存在するのである。出版業はいうまでもなく、興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで、おびただしい職種が、商品としての情報をあつかっているのである。こういうものをも情報産業とよぶのがおおげさでおかしければ、単に情報業とよぶことにしてもよい。(p.30)

 続いて、情報業の歴史をたどってみれば、
たとえば、楽器をかなで、歌をうたいながら村むらを遍歴した中世の歌比丘尼や吟遊詩人たちも、そのような情報業の原始型であったとみることもできる。(p.30)


産業史の三段階


 この章は、情報産業を文明史的に位置づけ、「三段階」説を唱えた部分である。「農業の時代」→「工業の時代」→「精神産業の時代」という独自の図式である。
情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上にはでなかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化がすすんだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、精神の産業化が進行するであろうという予察のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもよい。(p.41)

 人類の産業の展開史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。現在は、第二段階の工業の時代にあって、いまなお世界の工業化は進行中であるが、すでに一部には第三段階の精神産業の時代のきざしがみえつつある、そういう時代なのである。(p.42)

 まさに、1960年代というのは、工業時代から精神(情報)産業の時代への転換期にあったということができる。いま、2010年代は、そうした情報産業が成熟期を迎えた時代と捉えることができよう。

外胚葉産業の時代


 この章もまた、梅棹さんの独創的な着想があふれている。三段階発展史を「生物学」的に捉え直しているのだ。
 それぞれの時代は、有機体としての人間の機能の段階的な発展ともかんがえることができるのである。まず、農業の時代にあっては、生産されるものは食料である。(中略)この時代は、消化器官系を中心とする内胚葉諸器官充足の時代であり、これを内胚葉産業の時代とよんでもよいであろう。
 つぎに、第二の工業の時代を特徴づけるものは、各種の生活物資とエネルギーの生産である。それは、いわば人間の手足の労働の代行であり、より一般的にいえば、筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能の拡充である。その意味で、この時代を中胚葉産業の時代とよぶことができる。
 そして、最後にくるものは、いうまでもなく外胚葉産業の時代である。外胚葉諸器官のうち、もっともいちじるしいものは、当然、脳神経系であり、あるいは感覚器官である。脳あるいは感覚器官の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける中心的課題である。(p.42-43)

 この考え方は、マクルーハンのメディア論を思わせるものがある。つづく次の文章は、それを如実に物語っている。
 こうして系列化してみるとき、人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史のながれのうえにたつとき、わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜あけ現象として評価することができるのである。


情報の価格決定


 この章もまた、ユニークな情報論だ。新しい情報経済学といってもよい。現在の経済学はどれも、中胚葉産業時代の経済学jにすぎないとして、梅棹さんは、「情報」という財の価格決定の不確定性を指摘し、情報財独特の価格決定システムに言及する。
 外胚葉産業が優越するような時代になれば、やはり外胚葉産業が経済の中心になるだろうし、ものの価格決定も、外胚葉産業の生産物の価格決定法に歩調をあわせなければならないようになるだろう。いまは情報が擬似商品としてあつかわれているけれど、そうなれば逆に商品が擬似情報としてあつかわれるようになるかもしれない。そのとき、情報あるいは擬似情報の価格というものは、どうしてきまるであろうか。(p.48)

 そこで持ち出されたのが、有名な「お布施の原理」である。

お布施の原理


じつはここで、情報の価格決定法についてひとつの暗示をあたえる現象がある。やはり宗教家の場合だが、坊さんのお布施である。あれの価格はどうしてきまるか。お経のながさによってきまるわけでもなし、木魚をたたく労働量できまるのでもない。お経のありがたさは、何ビットであるか、とうてい測定はできない。それでも、どこの家でもなんとなくお布施の額を限定して、それだけをつつんでわたす。(p.49)

 なにか、謎解きのような問いかけだ。それに対する梅棹流の答えは、、、。

 お布施の額を決定する要因は、ふたつあるとおもう。ひとつは、坊さんの格である。えらい坊さんに対しては、たくさんだすのがふつうである。もうひとつは、檀家の格である。格式の高い家、あるいは金もちは、けちな額のお布施をだしたのでは、かっこうがつかない。お布施の額は、そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働には無関係である。まして、お経の経済的効果などできまるものではけっしてない。(中略) 情報の提供者と、うけとり手との、それぞれの社会的、経済的格づけは、いちおう客観的に決定することができるはずのものである。このふたつの格の交点において価格がきまる、というかんがえかたなのである。(p.50)


 「格づけ」によって情報財の価格が決まるという考えは、今日のインターネット時代では、当たり前のようになっている。いわゆる口コミサイトやソーシャルメディアでは、ユーザーによる「格づけ」(評価)が、情報財の価値を決定しているからである。お布施の原理の適用例として、梅棹さんは、他にもいくつかの例をあげている。「原稿料」と「電波料」だ。(これは、「ウメサオタダオ展」でも、陳列されたファイルの中に見て取れた)。

原稿料と電波料


 まず、原稿料について。
 たとえば、講演料やラジオ、テレビの出演料などは、実質的にやはりこのお布施原理によって支はらわれているのだろう。もっとも、現行の格づけが妥当であるかどうかは別問題である。原稿料などというものも、ほぼおなじ原理にしたがっているようだが、これのほうは、一枚あたりの単価がお布施原理できまるのであって、あとはそれに枚数を乗じて計算するようである。
 次に、電波料について。 
 放送産業のほうでは、ちかごろ民間放送において各局ともに、電波料の算定基準をいかにすbげきかということが重大な問題となりつつあるようだ。 (中略) そこは外胚葉産業時代の開拓者にふさわしく、いっそのこと、はじめからお布施の理論によって決定することにしてはいかがであろうか。つまり、電波の価格はすべて、放送局の格と、スポンサーの格と、このふたつによってきめるのである。

 この論文の最後は、次のように締めくくられている。

企業の公共性と経済学


 「格」というのは、いわばそれぞれの存在の、社会的、公共的性格を相互にみとめあうということにほかならないのである。社会的、公共的性格を前提としないで、個別的な経済効果だけを問題にしてゆく立場からは、情報産業における価格決定理論はでてこない。
 わたしは、お布施の原理が、これからの外胚葉産業時代における最大の価格決定原理になってゆくのではないかとかんがえている。

 このように、お布施原理にもとづく社会的・公共的価格決定理論を基礎とする「外胚葉産業時代」の経済学を唱えたのである。これが、現代の情報経済学にどのような影響を与えたのかは、寡聞にして知らない。着想としてはたいへん興味のある理論であり、だれでも受け入れられる形で一般化できれば、すばらしいのだが、、、。

 次に、梅棹さんによる「情報」論を、いくつかの論文で見ておこう。

情報産業論への補論


補論 2 感覚情報


梅棹さんはここで、「情報」という概念を、さきの「情報産業論」よりも、はるかに広く定義し直している。
 さきに「情報産業論」のなかでは、情報というものをまた、人間と人間とのあいだで伝達されるいっっさいの記号の系列」というふうにいった。情報ということばを、せまい意味に解すればこれでもよいが、より一般的な理解のためには、情報の概念をもっとひろく解しておくほうがいいようにおもう。まず、情報はひととひととの関係とはかぎらない。たとえば、イヌもまたシッポをふり、ほえたてて情報を発信しているのである。人間はまた、命令という形の情報をイヌにむかっておくりだすことができる。おなじように、動物以外のもの、あるいは無生物さえも情報をおくりだしているものとかんがえることができる。たとえば、月や星という天体さえも情報のおくり手である。光という形で、あるいは電波やX線という形でおくられてくる情報を、われわれはとらえることができる。そしてそれを解読して、その天体の本性をあきらかにすることができる。 (中略) 正確にいえば、天体が情報をおくりだしているのではない。情報はその天体とともに存在するのである。その情報を情報としてうけとめ、それを解読するのは人間の側の問題である。よりいっそうふみこんでいえば、受信されることもなく解読されることのない情報はいくらでも存在する、ある意味では、世界はそのような情報でみちているのである。

 こうした情報概念は、いわゆる記号論では、当たり前のように論じられているのではないだろうか。梅棹さんは、さらに「汎情報論」ともいえる論を展開する。
 情報はそれ自体で存在する。存在それ自体が情報である。それを情報としてうけとめるかどうかは、うけ手の問題である。うけ手の情報受信能力の問題である。(中略) もっともひろい意味に解すれば、人間の感覚諸器官がとらえたものは、すべて情報である。

 このような「汎情報論」をもとに、梅棹さんは、人間の感覚にうったえかける情報を、「感覚情報」と名づけ、それを産業化したものを「感覚情報産業」と呼んでいる。具体例としては、音楽、映像、嗅覚産業(香料など)、繊維産業、ファッション、観光産業、スポーツなども、感覚(体験)情報産業としてあげている。たしかに、これらの産業では、情報的な付加価値が大きな比重を占めているので、すべて「情報産業」の一部だといってもさしつかえないだろう。

 さて、時間もないので、途中の論文をはしょって、本書初出の論文「情報の文明学」の紹介へと移ろう。
 

情報の文明学


情報の意味


 「情報とはなにか。人間にとって情報とはなにか。」これが、本論文のテーマのようである。軍事情報、産業情報など、いわゆるプラグマティックな情報とは別に、無意味な情報というのも数多く存在する。そこに、梅棹さんは情報の本質を見るのである。有名な「コンニャク情報論」がそれだ。

コンニャク情報論


 コンニャクとはどういう食品かというと、
 サトイモ科の植物で、地下におおきな球茎を生じて、それから食用のコンニャクをつくる。その主成分はマンナンとよばれる物質で、これはたべてもほとんど消化されない。つまり、栄養物としては価値のない食品である。いくらたべても、消化管のなかをすどおりするだけである。栄養的に価値がないにもかかわらず、われわれはこれを食品として常用し、そのために大規模なコンニャク栽培もおこなわれている。これはいったいどういうことであろうか。
 栄養価がないからといって、食品として無価値であるとはいえない。それは、歯ざわりその他で味覚に満足をあたえ、消化管のなかにはいることによって満腹感をあたえる。(中略) これの通過によって、消化器官系はおおいに興奮し、活動する。

 情報も、コンニャクみたいなものだ、と梅棹さんはいう。
 情報をえたからといって、ほとんどなんの得もない。それは感覚器官でうけとめられ、脳内を通過するだけである。しかし、これによって感覚器官および脳神経系はおおいに緊張し活動する。それはそれで生物学的には意味があったのである。 (中略) 情報には、なんの利益ももたらさないし、プラグマティックな意味ももたないものもたくさん存在するのである。
 コンニャクもまた食品の一種であったように、コンニャク情報もまた情報の一種である。情報理論では、有意味情報以外のものをノイズとして排除するが、コンニャク情報論の立場にたてば、ノイズも情報の一種であり、排除するわけにはいかない。ノイズさえも感覚器官、脳神経系を興奮させるのである。(p.189)

 まさに生物学者、梅棹忠夫の面目躍如といったところだろうか。今日的にいえば、「道具的情報」に対する「コンサマトリー情報」の重要性を説いたということだろうか。

次のメッセージは、「ウメサオタダオ展」でも、パネルに大きく引用されていた部分である。(前回のブログの写真を参照されたい)

情報とコミュニケーション


 世界は情報にみちている。すべての存在それ自体が情報である。自然もまた情報であるからこそ、観光という情報産業が成立する。社会もまたすべて情報である、だからこそ社会探訪のルポルタージュが成立し、フォト・ジャーナリズムが流行するのである。
 情報はあまねく存在する。世界そのものが情報である。(p.193)

情報の生態学


 情報を生態学的に捉えると、どのように表現できるだろうか。また、情報と文化との関連はどのようなものか。それをまとめたのが本章である。それを、「メモ」の束で解きほぐしてみよう。
 地球はひとつのおおきな磁石であるといわれる。北磁極と南磁極をつらぬく線を軸として、全地球が磁場を形成している。 (中略) 今日の地球上の情報的状況は、これと似ている。地球上のすべての地域は情報場となった。情報は全地球をおおいつくしているのである。(p.206)

 情報はすでにひとつの環境である。環境と生物との相互作用をとらえるのが生態学(エコロジー)の仕事であるとすれば、人間と、環境としての情報の関係をとらえるのは、情報生態学の問題である。情報は、生態学の観点からとらえなおす必要があるだろう。(p.206)

 これは、私が探求している「メディア・エコロジー」の考え方と非常によく似ているので、共感がもてる。梅棹さんは、つづけて、「情報力学」の構想も披露している。
 環境としての情報は、いまや個々の人間のいとなみから独立しつつあるようにみえる。情報はそれ自体の存在様式をもち、運動形態をもつ。ほとんど個々の人間とはかかわりをもたない形での情報のうごきを、それ自体としてとらえることが必要であろうし、可能でもあるとおもわれる。情報は、ときには奔流のように急速にながれ、ある場合には停滞する。あるときは渦をまき、あるときは噴出する。その運動は、あるいは流体に似ているかもしれない。流体のうごきを流体力学がとらえるように、情報のうごきをとらえる情報力学をかんがえることができるかもしれない。(p.206-207)

現代でいえば、ツイッターの流体力学などを連想することができるかもしれない。

 次に、情報と文化の関係についての論述にみておきたい。梅棹さんは、文化と情報の類似性を指摘している。
 個人の存在をこえて、情報が環境を形成しているという点では、情報は文化にちかい。文化は人間がつくりだしたものであるけれど、個々の人間にとっては、すでに存在する環境である。あるいは与えられた環境である。個人は、その環境としての文化から自由になることはできない。しかし、それにはたらきかけて、なにごとかをなすことはできる。情報もおなじである。それは人間がつくりだしたものではあるが、個々の人間にとっては、あたえられた環境である。しかし、その環境むかって、自分自身もなんらかのはたらきかけをすることはできるのである。(p.207)

 文化とは、集団の共通の記憶のなかに蓄積された情報のたばである。それは個人の生命をこえて存在する。だれがつくったにせよ、人間はそれから自由になることはできない。その意味では、文化文字補も空気に似ている。あるいは酸素に似ている。それは、はじめからあったものではない。われわれは、そのなかでいきてゆくほかはないのである。(p.207)

 このようにみていくと、梅棹さんの情報論は、数々の生物学的、あるいは生態学的なアナロジーで満ちているように思われる。最後に、「文明の情報史観」という章からいくつかのフレーズを抜粋して、本稿を締めくくりたいと思う。

文明の情報史観


文明史的にみて、情報そのものの存在は、文明のもっとも初期の段階までさかのぼることができるであろう。しかし、情報の伝達、処理、蓄積のための装置群の大規模な開発は、それほどふるいことではない。現代を特徴づけるのは、それら情報関連装置群の爆発的展開である。それによって、いまやあたらしい時代がひらけようとしているのである。(p.222)

工業の時代というのは、人類史における、単なる過渡期にすぎなかったのかもしれない。(中略) 工業の時代は、人類の文明史における究極の時代ではなかったのだ。情報の時代、あるいは情報産業の時代こそは、この一連の過程のなかでは、人類史が到達しうる最終段階なのかもしれない。人類はそれを目ざして営々と、装置群すなわち人工環境づくりにはげんできたわけではないけれど、結果においてそうなったのである。こうして文明は、情報というあたらしい人工環境を大規模に展開しはじめているのである情報こそはあたらしい装置群の一種である。人間は、みすからつくりあげた情報という環境ととtもに、あたらしいシステムを構築しつつある。文明系は新段階にはいろうとしている。

 最後に、情報による価値の大転換を予言して、この章は完結している。
 工業の時代のはじまりとともに、人類は価値のあたらしい基準を発見したように感じた。工業は人間の環境をかえ、制度、組織をかえた。それは価値の大転換をもたらした。しかし、それはほんとうに大転換であったのかどうか。それは単に、情報という、より根源的な価値転換の先駆形態であったのかもしれない。あたらしい時代において、情報は人間の装置、制度、組織に、いっそう根本的な変革をもたらすであろう。人間はそのときにこそ、根本的な価値の大転換を経験することになるであろう。(p.223)

(おわり)

J.Palfrey and U.Gasser, 2008, Born Digital: Understanding the First Generation of Digital Natives.
born-digital
 きょう入手した本。『生まれながらのデジタル:デジタルネイティブ第一世代を理解する』
 この本では、1980年以降に生まれた世代を「デジタルネイティブ」と呼んでいる。彼らは、デジタル技術を縦横に使いこなす新世代だ。彼らの行動は、それまでの世代とまったく異なっている。彼らは新聞を読まずに、ブログを読む。彼らは現実に知り合う前に、オンラインで知り合いになる。彼らはレコード店でCDを買うのではなく、オンラインで音楽を購入する。待ち合わせをケータイでする。ライフライフがこれまでの世代と異なっているのだ。

 情報という視点からみると、1980年代からのデジタル技術革命は、歴史上最大の革命的な出来事だ。

 1980年以前に生まれた人は、伝統的なアナログメディアとともに育った。彼らは人生の途中からデジタル技術に触れた世代だ。それに対し、デジタルネイティブは、生まれたときからデジタル技術があった。だから、ライフスタイル、人間関係がそれまでの世代とは決定的に違っているのだ。彼らの生活の中で、オンラインとオフラインの境界がなく、相互が融合している。また、オンラインでいる時間が長い。彼らは、24時間、友達とつながっている。

 デジタルネイティブは、きわめて創造的でもある。彼らはマイスペースで自分のプロフィールを自由にい設定したり、ウィキペディアの項目を編集したち、オンラインビデオを制作したりすることができる。彼らは新しいソフトウェアをあっという間に使いこなせるようになる。

 本書の目次は、次のようになっている:

第1章 アイデンティティ
第2章 デジタル書類
第3章 プライバシー
第4章 安全性
第5章 創造者
第6章 海賊
第7章 クオリティ
第8章 情報過剰
第9章 侵略者
第10章 イノベーター
第11章 学習者
第12章 活動家
第13章 総括

 全体的に読みやすい、平易な英文だが、なにしろ350頁以上あるので、少しずつ読み進めていきたいと思う。
ただ、この本には、図表のたぐいがまったくない。文章だけの本。また、文献リストも少ない。したがって、専門書というよりも、デジタルネイティブを子供にもつ親たちに、「デジタルネイティブ」とはこういう世代だということを啓蒙するための読み物という感じがする。

 ドン・タプスコット『デジタルネイティブが世界を変える』とどこが違うのか、いまいちはっきりしない。

 手元に、ウィキペディアに関する本が3冊ある。

山本まさき・古田雄介『ウィキペディアで何が起こっているのか』オーム社〔2008年〕
ピエール・アスリーヌ他『ウィキペディア革命:そこで何が起きているのか?』〔2008年〕
アンドリュー・リー『ウィキペディア・レボリューション』(2009年)

 いずれも、ほぼ同時期に発売されているので、内容にはかなりのだぶりがみられる。ウィキペディアに対しては、擁護的な見方と批判的な見方が分かれている。3冊目の本は、もっとも好意的に記述されているようだ。これに対し、前2作は問題点も多く指摘されている。最初の本は、ウィキペディア日本語版が主に扱われている。過去の主要な事件などの事例が詳しい。二番目の本は、フランスのジャーナリストが書いたもの。三番目は、中国のインターネット専門家が書いたもの。

 ウィキペディアの入門的内容や構成、運営方法、問題となった事例、ウィキペディアンに対するインタビューなどは、最初の本が詳しい。ウィキペディアに対する批判的見解を知りたければ、二番目の本がよいだろう。ウィキペディア誕生までのいきさつ、ウィキペディア創設者のエピソードを知るには、三番目の本が詳しい。

 この3冊を読んでも、ウィキペディアをどう評価すべきかは分からない点が多い。最近は、英語版など、収録されている項目が膨大になり、これ以上の進化は望めないという悲観論もある。日本語版は、匿名性の問題、組織上の問題などがあるようだ。今後、コンテンツの質的な向上をどうはかるかが、ウィキペディアに課せられた最大の課題といえるだろう。また、財政的な基盤が脆弱という問題も指摘されており、安定した財源の確保も大きな課題だろう。利用する側からみると、ウィキペディア利用リテラシーといった能力を涵養することも重要だ、と改めて感じた。

武田隆著『ソーシャルメディア進化論』〔2011〕ダイヤモンド社

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 先週、この本を入手したので、さっそく読んでみた。前半はインターネットの歴史とソーシャルメディアの特徴について書かれている。後半は、「企業コミュニティ」サイトに特化し、著者自身の経験をもとに、豊富な事例を交えての、一種のサクセスストーリーが書かれている。

 本書で一番参考になったのは、「ソーシャルメディアの4象限」の図だろうか。
ソーシャルメディアの4象限
(武田隆『ソーシャルメディア進化論』p.90より)

  縦軸には、「現実生活」を拠りどころにするソーシャルメディア対「価値観」を拠りどころにするソーシャルメディアが対極的に描かれている。「現実生活」型ソーシャルメディアでは、実名性が高くなり、現実生活の範囲の人間関係でのつながりが強くなっている。これに対し、「価値観」を拠りどころにするソーシャルメディアでは、匿名性が高くなり、趣味や想い、価値観を通してつながる傾向がみられる。

 横軸には、「情報交換」を求めるソーシャルメディア対「関係構築」を求めるソーシャルメディアという両極が描かれる。「情報交換」型のソーシャルメディアは、規模が大きく、重複を排除する特徴があり、集合知を生成する。これに対し、「関係構築」型ソーシャルメディアでは、規模は20人前後、中心となるリーダーの数だけ重複を許す特徴があり、親密な思いやり空間を生成するという。

 各種のソーシャルメディア具体例は、上の図のように配置されている。それぞれのソーシャルメディアには、以上4つの特徴が多少なりとも含まれているので、かならずしも各象限にフィットするとは限らないと思うが、傾向としては概ね当たっているように思われる。ブログやツイッターの位置づけは、これでいいのか、若干疑問も感じるが、大勢はこんなものだろうか、、、。勉強になりました。

 詳しい内容紹介は、こちらのサイトで → ソーシャルメディア進化論

ドン・タプスコット著『デジタルネイティブが世界を変える』〔2009〕
デジタルネイティブが世界を変える

 これは2年以上も前に出版された本だが、最近購入したばかりので、さっそく読み始めたところだ。まだ100頁くらい読み進めたところ。全部で450頁くらいの本なので、読みながら、注目したい点をメモしておきたい。この本で、いちばんのオリジナルなポイントというと、「デジタルネイティブ」(ネット世代)の8つの行動基準という点だろうか。次の8つだ:

(1)自由(ネット世代は何をする場合でも自由を好む)
(2)カスタム化(ネット世代はカスタマイズ、パーソナライズを好む)
(3)調査能力(ネット世代は情報の調査に長けている)
(4)誠実性(ネット世代は商品を購入したり、就職先を決めたりする際に、企業の誠実性とオープン性を求める)
(5)コラボレーション(ネット世代はコラボレーションとリレーションの世代である)
(6)エンターテインメント(ネット世代は、職場、学校、そして、社会生活において、娯楽を求めている)
(7)スピード(ネット世代はスピードを求めている)
(8)イノベーション(ネット世代はイノベーターである)

 それぞれもっともだと思うが、考えてみると、これらの基準は、いわゆるWEB2.0の特徴とほぼ重なっているように思われる。言い換えれば、デジタルネイティブ(ネット世代)は、Web2.0をフルに活用する(できる)世代だということもできるだろう。

※追加:
 300頁ほど読んでみると、上記の8つの基準をもとに、それぞれを「教育」「人材管理(企業)」「消費者」「家族」「政治(民主主義)」に応用したものであることがわかった。それぞれについて、ネット世代になって、「~2.0」へという動向がみられるというもの。2.0の波に乗り遅れては、ダメになるという論調のようだ。その意味では、本書の第3章「ネット世代の8つの行動基準」が、やはり本書の主眼点ということになろう。それ以上でもそれ以下でもない。結局、本書の「ネット世代」とは、「ウェブ2.0世代」と同義ということになる。同語反復ではないが、ウェブ2.0を若者ユーザーに置き換えたネット社会論といえるだろうか。







梅田望夫(2006)『ウェブ進化論』(ちくま新書)を再読してみた。出版当時は、ベストセラーになり、巷で話題に上ったという記憶がある。これに対して、単にトレンディなキーワードを並べただけで、中身が薄いといった批判も、当初からあった(池田信夫ブログなど)。あれから5年たった現時点で、本書のキーワードをもとに、どれだけの変化があったかを検証してみたい。

「チープ革命」
 これについて、著者はムーアの法則にもとづいて、「映像コンテンツの製作・配信能力は、皆が持っているパソコン、周辺機器、インターネットの基本機能の中に組み入れられ、テレビ局の特権ではなく誰にも開かれた可能性となった」と述べている。たしかに、ユーチューブ、u-streamなどを通じて、無限に近い映像が一般人によって配信されていることは事実だ。けれども、5年経ってもなお、コンテンツの質が大幅に向上しているようには見えない。テレビ局(プロダクション)が莫大なコストをかけて製作する番組コンテンツがやはり圧倒的に多いことも事実だ。ユーチューブでもっとも人気のあるコンテンツも、既存のテレビ番組というのが現状ではないだろうか。「総表現社会」というの言葉も、いまなお行き過ぎのきらいがある。新しいメディアを使って「表現」したいという欲求をもつ人々の割合は、30年前と同じく、せいぜい1割くらいというのが実情ではないだろうか。それはそれでいいような気がする。可能性と現実のギャップは依然として大きいのだ。

「グーグルが主役」
 ネット検索の世界では、いまなおグーグルが主役であることは確かだ。しかし、グーグルが玉石混淆問題を解決してくれるという点も、やはり楽観的すぎる意見のような気がする。専門用語などをグーグルで検索すると、必ずといっていいほどウィキペディアが出てくる、などを考えると、「石」のようなウェブサイトが上位にランクされる可能性は否定できない。ネット上での「人気」や「評判」と実力は必ずしも比例するわけではないのだ。

「オープンソース」
 この言葉は、1990年代のリナックス開発に端を発したもので、知的財産の無償公開という流れのことをいう。ウィキペディアなども、マス・コラボレーションによるオープンソースの一つだ。これがうまく集積されれば、知の自動秩序形成システムが生まれるだろう、と著者は言う。これも今では常識になっている現象で、新鮮みは感じられない。

ネットの「あちら側」と「こちら側」
 この言葉は、梅田さんの造語のようだ。いまの言葉でいうと、「あちら側」は「クラウド」、こちらがわは市販のソフトウェアということになろうか。個人のパソコンにインストールされているソフトウェアは、こちら側に属し、グーグルのGメールや、グループウェアなどは「あちら側」のサービスといえるだろう。この二分法も、いまや常識になっている。

ロングテールとWeb2.0
 ロングテールという言葉は、クリス・アンダーソン氏(米)がつくった造語で、いわゆるパレートの法則に反し、売り上げ曲線の「恐竜の首」部分が圧倒的に大きな売り上げを生むのではなく、「しっぽ」(テール)部分がかなり大きな売り上げを生み出す、という新しいビジネスモデルのことをいう。アマゾンコムなどがその典型的な例としてげられている。いまでは、普通名詞として「ロングテール」とか「ニッチ」などが使われているようだ。

 ウェブ2.0は、2005年半ばから広く使われるようになった新語で、「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく同能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」をさしているという。SNS、ブログ、ツイッター、はてな、などはその一例だ。

 どの言葉も、現在では「ソーシャルメディア」と呼ばれるようなネットサービスの特徴をもっており、いまでは常識化している。言葉そのものは、梅田さんも書いているように、ネット世界では、次々と新語が生まれては、すぐに消えてゆく運命にあるようだ。もっと本質をつくような概念なり理論モデルが生まれないものだろうか?単なる造語では、いまのテクノロジーの進化に追いつくことはできないように思われる。

 ともあれ、梅田さんの著書『ウェブ進化論』は、5年前の世界では、一般の読者に対しては、かなりの衝撃をもって受け止められたが、5年たった今では、一般人にとっても「常識の世界」になっており、改めてこの5年間の変化を感じる。

 梅田さんご自身は、東日本大震災以降、ご自身のブログを更新されていない(オープンな情報発信をされていない)ように拝見するが、そちらの方が少し気になるところだ。

Environment, Media and Communication (Routledge Introductions to Environment)
Environment, Media and Communication (Routledge Introductions to Environment)
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 今日は、次の本をとりあげ、内容を紹介することにしたい。1年ほど前に入手したのだが、まだ全部読み切っていないので、読み進めながら、その要点をこのブログで公開しようと考えたのである。

Anders Hansen, 2010, Environment, Media and Communication. Routledge.
(レビュー)



まずは、目次から

第1章 序説 
第2章 コミュニケーションと環境問題の構築
第3章 環境問題に関するクレイム申し立て
第4章 ニュースとしての環境問題:新しい価値、ニューメディア、ジャーナリストの活動
第5章 ポピュラー文化
第6章 「自然」の売り込み:広告、自然、国家のアイデンティティ、ノスタルジア、環境のイメージ
第7章 メディア、公衆、政治と環境問題

次に、第1章でまとめられている各章の概要を訳出しておきたい。

第2章 コミュニケーションと環境問題の構築

 ここでは、環境問題に関してメディアやコミュニケーションが果たしている役割を理解し、分析するための概括的な枠組みを概説している。環境は「それ自体が語る」というものではなく、環境問題というのはクレイム申し立てやコミュニケーションを通じて初めて、公衆の関心や政策決定の対象たる問題や争点になる、という考え方を導入する。本章では、社会構築主義的なアプローチを環境問題やニュースやその他のメディアの社会学に適用する。そこでは、メディアの役割を理解する上で、メディア報道のバイアスや客観性に対する伝統的な関心よりも、競合的な定義に焦点を当てた構築主義的なアプローチの方が生産的であることを論じている。そして、このアプローチでキーとなるいくつかの分析ツールを指摘する。具体的には、クレイム申し立て者に焦点を当てること、ディスコースへの注目、争点キャリア、争点の共鳴、争点の所有と競争、などが含まれている。社会問題としての環境の構築は本質的にレトリカルな行為であるので、本章ではコミュニケーション分析においてレトリカルなイディオム、モチーフ、クレイム申し立てのスタイル、フレーム、環境をめぐる公共的なディスコースにおける公衆のアリーナの中心的な重要性が指摘されている。

第3章 環境に関するクレイム申し立てとニュースの管理

 この章では、構築主義的な視点をニュースに適用し、環境ニュースには「自然」なものはほとんどないことを示す。「自然災害のニュース」でさえ、積極的に構築されたものという視点でもっともよく理解できることを示す。本章では、環境問題の議論や論争において、主要なステークホルダーたちや利害をもつ政党の用いるコミュニケーション戦略に焦点を当てている。環境圧力団体、政府当局、学会、個々の科学者/専門家、ビジネスや業界などがマスメディアを通じて論争的な環境問題をめぐってコミュニケーションを管理し影響力を行使しているのか?彼らはどのようにメディア報道に依存しており、環境ストーリーを彼らの有利なように「紡ぎ出して」いるのか?彼らは綿密に計画されたコミュニケーションやPRの実践を通じて、どのように世論や政策決定に影響力を行使しているのか?環境問題に関して成功するクレーム提示の主な構成要素はどのようなものか?

 成功の基準が検討され、成功した、あるいは失敗したコミュニケーション戦略やメディアキャンペーンの事例が示されている。本章でとくに焦点を当てているのは、いかにして主要なクレイム申し立て者(企業と環境圧力団体を含む)が情報提供とキャンペーンの目的でインターネットやその他の新しいコミュニケーション形態を活用しているかということである。コミュニケーション関連の文献では環境圧力団体のコミュニケーションやキャンペーン戦略に焦点が当てられることが多いが、本章では次第に大きな影響力をもつようになた企業コミュニケーションやイメージ管理戦略で締めくくっている。

第4章 ニュースとしての環境:ニュース価値、ニューメディア、ジャーナリスティックな実践

 前章ではメディア外部にある情報源やクレイム申し立て者に重点が置かれていたが、本章ではマスメディアについて扱う。ここでの焦点は、メディアやメディア専門家の役割、組織構成、コミュニケーション実践にある。そして、なぜ特定の環境問題がニュースになり、他の環境問題がニュースにならないのか、また、なぜある環境問題が争点になり、他の問題は争点にならずに終わるのか、という点を関連した調査研究を通じて解明する。

 また、環境問題の専門記者の発展が検討され、環境ジャーナリストが他のタイプの記者とどう違っているのかについても論じている。環境問題を報じるジャーナリストは、環境をめぐる論争に特徴的な科学的不確実性をどう取り扱っているのか、彼らはどのように客観性やバランスなどの伝統的なジャーナリスティックな基準をどう展開しているのか?新しい情報通信技術がジャーナリストの実践に及ぼす影響についても検討する。新しい技術やニュース組織に対する経済的プレッシャーは、ジャーナリストと情報源との間での力関係を情報源の方に死すとさせているのか、という点について検討する。本章の最後では、ニュースの社会学という枠組みがもつ限界について論じている。

第5章 ポピュラー文化、自然と環境問題

 本章では、伝統的なニュースの社会学が強調する、経済的プレッシャー、組織の構造、プロフェッショナルな価値/実践に加えて、より広い文化的共鳴やナラティブをも考慮する必要性について検討する。まず、スクリプト、文化的パッケージ、解釈パッケージ、文化的共鳴という概念に焦点を当て、それをもとに自然や環境についてのポピュラーメディアの表象のもつ特性と潜在的な「パワー」を理解する。

 本章では、環境問題のニュース報道を超えて、自然や環境がどのように他のメディアジャンル(テレビの娯楽番組、とくに野生生物に関する映画、テレビの自然番組)がイデオロギー的に構築されているのかを考察している。また、主要な文化的ナラティブやストーリーやイデオロギー的なクラスター、パッケージ、スクリプトなどの存続について探求している。

 本章では、メディアによる環境問題の構築における語彙選択の重要性を探究している。また、野生生物の映画や自然番組を通じて伝えられるより深いところにあるイデオロギー的価値を発見するためにナラティブ分析が重要な貢献をしていることにも触れる。選定された映画ジャンル(例:SF、自然映画など)に関する歴史的研究を取り上げながら、本章ではいかにして文化的ナラティブが自然や環境についての特殊なイデオロギー的解釈を反映し、形成しているかを論じている。これには、環境についての有力な解釈がコントロールや搾取の対象から保護されるべきものへと変化していることなどが含まれる。

第6章 「自然/ナチュラル」を売る:広告、自然、国家的アイデンティティ、ノスタルジア、環境イメージ

 本章では、広告における自然や環境のプロモーション的利用について検討を加えている。また、前章に続いて、自然や環境の構築が時間とともにどう変化してきたかを検討している。ここでは、広告が環境メッセージや認識を促進するために、「グリーン」や「環境にやさしい」製品を売り込むために、大企業や業界のイメージ改善のためにどのように利用されてきたかを示す。本章では、いかに自然/ナチュラルや環境が製品を販売するために構築され活用されてきたのかについて探求し、自然の利用が適切な定義や自然環境の利用の定義づけに貢献しているかを探求している。広告に含まれる自然や環境のイメージの活用がノスタルジアや国家的・文化的アイデンティティの概念との関連で分析されている。また、本章では、異なる文化間でのイメージのバリエーションについて研究し、こうしたイメージが文化的に固有のものか、それとも次第にグローバルでユニバーサルなものになっているのかという点についても検討を加えている。

第7章 メディア、公衆、政治と環境問題

 本章では、環境についてのメディアの表象や報道が公衆や政治的認識、行為にどう影響するかという永続的な問題に、コミュニケーション研究者たちがどのように取り組んできたのかを考察している。結局のところ、環境問題についてのメディア表象に関する多くの研究の背後にある前提は、これらのメディア表象が社会における人々の理解・意見や政策決定に一定の役割を果たしているということである。本章では、いくつかの主要な枠組みやアプローチ(例えば議題設定研究、世論研究、政策決定研究など)について論じている。ここでは、環境についてのメディア表象がどにょうに政治過程や人々の解釈に影響を及ぼしているか、関連する研究成果を検討している。

 最後に、著者は人々の環境問題理解におけるメディアの役割について、リニアな視点ではなく、「クレイムの循環」的な視点に立つことがより重要だとし、メディア報道が社会における他の「意味創造のフォーラム」と相互作用する複雑で多元的な方法の重要性を指摘している。

 本書は社会構築主義の立場から、環境問題に関するメディア報道の特質および人々の環境理解に及ぼす影響について、実証的なデータを駆使しながら論じた力作である。本書の想定する読者層は、メディア・コミュニケーションを専攻する大学生、環境問題についての専門家、環境運動の活動家などである。類書はほとんどないという現状からみて、貴重な入門的専門書といえる。詳しくは原書を参照されたい。

→ Environment, Media and Communication(2010)

宮田加久子著『きずなをつなぐメディア-ネット時代の社会関係資本』NTT出版〔2005〕
(レビュー)

 本書は、ソーシャルネットワーク論ないし社会心理学の視点から社会関係資本を分析したものである。この立場からみると、社会関係資本は「個人間や組織間のネットワークに埋め込まれた資源」とみなされる。同じ立場から社会関係資本を分析した研究者として、ナン・リン(Nan Lin)があげられている。彼によると、社会関係資本には、①社会構造に埋め込まれた資源(構造的側面)、②個人による資源へのアクセス可能な社会的ネットワークを持つこと(機会的側面)、③目的を持った行動における個人による資源の利活用(行動志向的側面)という3つの要素が含まれている。②は①によって規定され、③は②によって規定されるという関係がある。


 本書では、社会関係資本を「信頼や互酬性の規範が成り立っている網の目状の社会ネットワークとそこに埋め込まれた社会的資源」と定義している。この定義には、3つのキー概念が含まれている。第一に「社会ネットワーク」(人、集団などの相互間で形成される網の目状の関係性の広がりの総体)、第二に「信頼」(特定他者に対する個別的信頼と一般他者に対する一般的信頼からなる)、第三に「互酬性の規範」(一般化された互酬性と、何かをしてくれた人にお礼をする特定的互酬性からなる)である。


 本書では、①インターネット(とくにオンラインコミュニティ)への参加が社会関係資本の形成にどのような影響を及ぼしているのか(第2章)、②オンラインコミュニティにおいてどのような資源が提供されているのか、とくに橋渡し型の社会関係資本の特徴である一般化された互酬性の規範と信頼がどのように形成されているのか(第3章)、③インターネットで補完される社会関係資本の効果(個人レベルでは精神的健康と消費者行動、社会レベルでは市民参加とエンパワーメント)はどのようなものか、意図せざる負の効果としてのデジタルデバイド(社会関係資本の格差拡大)の可能性はどうか(第4章)、が先行研究のレビューと独自調査研究を通して詳しく検討されている。それぞれについて、簡単に紹介しておきたい。


<インターネットでつながるきずな>


 インターネットの利用と対人関係の関連についての従来の研究をレビューしてみると、「インターネットの利用が対人的接触を減じ、社会ネットワークを縮小・弱体化する」という結果と、「対人的接触を増大させ社会ネットワークを維持・補完する」という相反する知見がみられる。このうち、前者の研究では、その理由として、①インターネット利用が他の活動時間と競合するため、インターネット利用が他のソーシャルな活動を代替している、②インターネットではソーシャルなサポートが得られにくいため、電話など他メディアでの相互作用を阻害する場合には既存の社会ネットワークの紐帯が希薄化し、また強い紐帯を築きにくい。逆にフレーミングなど社会ネットワークを阻害する恐れもある、③インターネット利用がストレスとなって、それが人々を抑圧して相互作用から遠ざけ、対面的接触の減少によって抑鬱と孤独感が高まる、などが指摘されている。しかし、これらの先行研究にはいくつかの問題点があると著者は考える。そこで、本書では、社会ネットワークの形成と関わりの深いインターネットサービスとして、「交流型」(電子メール)と「コミュニティ型」(オンラインコミュニティ)に注目し、社会ネットワーク形成との関わりについて実証的に検討を加えている。


 まず、電子メールについてみると、電子メールは遠く離れたネットワークを維持する反面、身近なネットワークを縮小させるかもしれない、という知見が得られている。PCメールと携帯メールの利用度と社会ネットワークとの関連をみると、「電子メールであっても、PCメール送信数は社会ネットワークの規模や多様性と、携帯メール送信数は強い紐帯の数と関連があることがわかった」という。結論として、「少なくともPCメールの利用が弱い紐帯も含めたネットワークの規模や多様性を維持するのに役立っていることが明らかである。それに対して、携帯メールは近くにいてサポートを提供してくれるような強い紐帯をつなげる役割を果たしていることが推測される」としている。これは納得のいく知見である。


 次に、オンラインコミュニティについてみよう。ここでオンラインコミュニティとは、「旅行、スポーツ、地球環境、ゲーム、仕事、健康管理などのように、利用者が共通の関心テーマのもとに集い、コミュニケーションする社会空間(場)であり、その場では利用者が自主的に参加し相互作用し、意見交換や議論を行っている」と定義されている。具体的なサービスとしては、電子掲示板、メーリングリスト、チャット、ブログ、オンラインゲーム、SNSなどがある。著者は、オンラインコミュニティの中の社会ネットワークについて、①「開放性」という構造的次元、②「紐帯の強さ」という関係性の次元、の両面から検討を加えている。


 オンラインコミュニティにおける社会ネットワークの開放性とは、新規参加者によってネットワークが新しく追加され拡大していくことを意味している。各種調査の知見によれば、「インターネット利用者のなかでも、オンラインコミュニティで社会ネットワークを形成している人の割合は低いものの、その新しい友人・知人への評価から考えて、価値観等を共有できる人々の間で弱い紐帯を作るのにオンラインコミュニティが役立っていることがわかる」という。また、オンラインコミュニティ形成のプロセスをみると、「オンラインコミュニティは、全体として文字表現の工夫をしながら、自己開示をすることで参加者のアイデンティティを形成し、さらにはコミュニティ固有のアイデンティティの形成を通じて幅広い社会ネットワークを作り上げ、その間で望ましい社会的雰囲気を維持するための規範を創造していく」という。社会ネットワーク形成を左右する個人的要因についても検討がなされている。それによると、若年層ではインターネットで新しいネットワークを形成する可能性が高いこと、外向的な性格の人ほど、対人関係形成に積極的でかつそのスキルも高いので、オンラインコミュニティを通じて社会ネットワークを形成しやすい、などの知見が紹介されている。その結果、「社会性の高い人々については、オンラインコミュニティで書き込みを行うほど新規のネットワークが形成され、それが日常生活空間での豊かな社会ネットワークに追加されるので、オンラインコミュニティに積極的に参加するほど全体のネットワークが拡大するという現象がみられる。それに対して、社会性の低い人々は、オンラインコミュニティでの書き込みが多いほど、日常生活空間では形成されにくかったネットワークを形成できるので、オンラインコミュニティへの参加が社会ネットワークを補完するという現象がみられる」と述べている。


 紐帯の強さという点をみると、オンライン上でのネットワークは基本的には弱い紐帯だが、これを強い紐帯に変えていく場合もある。第一に、接触時間が長いほど親しい関係になるという傾向がある。第二に、自己開示が増加すると紐帯が強化され、道具的課題志向的な関係から友人関係へと変化する傾向がみられる。第三に、オフ会などの対面的コミュニケーションを利用するなど、メディアの複合的利用が強まるほど、紐帯は強いものになる。オンラインコミュニティでは、参加者が相互作用を繰り返すうちに、互いに強い紐帯を形成し、参加者の同質性が高まるという傾向がみられる。この同質化傾向は、コミュニケーションを促進するというプラスの効果と同時に、排他的になるというマイナスの効果も内包している。


<オンラインでの互酬性の規範と信頼の形成>


 この章では、オンラインコミュニティの中で共通の目標をめざす自発的協力がどのように行われているか、互酬性の規範は協力の促進にどのような影響を持っているかを検討している。また、その過程でオンラインコミュニティの参加者やそこに埋め込まれている資源が信頼できるかを参加者がどのように判断し、信頼がどのように醸成されているかを分析している。また、このようなオンライン上の互酬性の規範や信頼が日常生活空間に拡大する可能性と限界についても論じている。


 オンラインコミュニティでは、社会的ジレンマ(全員協力が最善策とわかりながら、結果として全員非協力になるという事態)が、「ただ乗り」という形で生じやすい。こうした社会的ジレンマを防ぐ要因として、著者は①一般化された互酬性への期待、②オンラインコミュニティへの愛着や関与、③他者への共感的関心、④アイデンティティの表出、⑤自己効力感、⑥コンサマトリー性の動機づけをあげている。このうち、社会関係資本と関連が深いのは、①の「一般化された互酬性への期待」(パットナムのいう橋渡し型の社会関係資本)である。具体的な事例として、著者は「消費者間のオンラインコミュニティ」と「オンライン・セルフヘルプグループ」について、検討している。消費者間オンラインコミュニティでは、「書き込みを通じて他の人と情報を共有したことで自分も得をするから」という回答が約半数あり、全体として一般化された互酬性の規範意識が浸透していることがわかった。オンライン・セルフヘルプグループ(ここでは育児サポートのSHG)参加者への調査が行われている。ここでも、「依然このフォーラムのメンバーが私にサポートを与えてくれたので今度は私が役立ちたいと思うから」と答えた人が約半数と多く、オンラインコミュニティ内部での一般化された互酬性の規範意識が高いことが示された。


 次に、オンラインコミュニティにおける信頼の特質と形成についての検討に入る。ここで著者は、信頼に関する先行研究の成果を整理した上で、オンラインコミュニティでの信頼について、オンラインコミュニティに参加する特定個人が信頼できるかどうか、という「特定的信頼」、ある特定のオンラインコミュニティに参加している人々が信頼できるかどうかという「カテゴリー的信頼」、人間一般を信頼するという「一般的信頼」に分けた上で、それぞれの信頼がオンライン空間でどのように判断、形成されるかを検討している。そこには、①特定の参加者間でのコミュニケーションを繰り返すことを通じて相互信頼の期待を形成する、というコミットメント形成による方法と、②特定他者や特定のオンラインコミュニティについての情報を集めて、それに基づいて信頼するかどうかを判断する、という情報を利用する方法のふたつがある、と著者は指摘している。オンラインコミュニティにおいて「信頼」が重要なのは、「インターネット上では、一般的な信頼を形成することによって、個人にとっては従来にない利益が得られる機会を増やし、集団では協力行動を促進し、社会においては効率化を進めることができる」からである。その意味で、オンラインコミュニティにおける「評判」システムは、信頼を判断し、形成する上で重要な役割を果たしている。評判という情報に基づいて他者の信頼性を判断しているコミュニティでは、橋渡し型の社会関係資本が形成されやすい。そこでは、「ネットワーク内部にある特定個人の実績についての評判情報が豊富に循環していて、それに容易に接することができると、その特定個人に対する期待を発展させ、それが信頼を形成するというメカニズムが働く」という。それが橋渡し型の社会関係資本を形成するのである。

 こうしたオンラインコミュニティ上での社会関係資本形成は、日常生活での一般的信頼度や社会関係資本にも貢献するだろうか?著者が山梨県で実施した調査によると、オンラインコミュニティに書き込みをする人ほど一般的信頼が高いという傾向が見出された。また、子育て支援オンラインコミュニティへの参加者への調査によると、オンラインコミュニティでサポートを受けた経験が、日常生活空間での他者に対するサポートの提供を促すという結果が得られたという。

<社会関係資本が変える暮らし、地域、社会>


 著者は最後に、オンラインコミュニティにおける社会関係資本の形成が、人々の暮らしや社会に及ぼす効果、影響について検討を加えている。ここでは焦点を絞って、肯定的な効果として、参加者個人の精神的健康(ミクロレベル)とエンパワーメントへの効果(マクロレベル)、および否定的な効果として、社会関係資本の悪用とデジタルデバイドの拡大について検討されている。

 オンラインSHGコミュニティに関する調査では、次の3つの点が明らかになったという。すなわち、①オンラインとオフラインのサポートが相互作用的に精神的健康を促進するという効果がみられた。②オンラインSHGからのサポートの受領は自尊心や家族関係満足度には効果があるが、直接抑鬱を抑制する、低減するという効果は低く、その効果は限定的であった。③オンラインSHGへの関与によってオンライン・サポートの受領の効果は異なっていた。オンラインSHGで社会関係資本を活用してサポートを受けることが精神的健康を増進することが確かめられたが、その理由として著者は、①オンラインコミュニティへの参加を通じてコミュニティ意識が醸成され、孤独感が低減されること、②とくに他の人に打ち明けにくいスティグマを抱えている人は、オンラインコミュニティ上での自己開示によってストレスが低減されること、③グループ内で手本になる人を見つけ出し、その人の考え方や行動を模倣することにより、参加への動機づけを高めたり、問題への対処法を学ぶこと、をあげている。ただし、オンラインSHGに限らず、一般のオンラインコミュニティを含めて、知らない人から受けるサポートの有効性には限界と問題点があることも指摘されている。

 次に、社会関係資本のマクロレベルの効果として、エンパワーメントが取り上げられている。エンパワーメントとは、著者によれば、「パワーを持たない人々が力をつけて連帯して行動することによって自分たちで自分たちの状態・地位を変えていこうとする、きわめて自立的な行動」のことである。具体的な実証例として、ここでは消費者間オンラインコミュニティおよびオンラインSHGでのエンパワーメントが取り上げられている。消費者間オンラインCMの事例としては、「東芝事件」が取り上げられている。オンラインSHGでは乳がん患者のオンラインSHGが分析されている。

 最後に、社会関係資本の意図せざる負の効果についても検討されている。具体的には、①結束型社会関係資本の悪用(自殺掲示板の利用など、反社会的な目的で利用されるケース)、②結束型社会関係資本の持つ負の効果(部外者の排除、ただ乗り、個人の自由の束縛など)、③新たなデジタルデバイドの発生(インターネットを利用して社会関係資本を活用できる人々はますます豊かな社会関係資本を築き、利用できない人々との間の格差が拡大するという悪循環)などがある。


<社会関係資本の豊かなインターネット社会を目指して>


 最後の章で、著者は、社会関係資本を豊かにするための提案を行っている。それは、「メディア・リテラシー育成の必要性」(メディア評価能力、メディア表現能力、メディア利用スキルの涵養)、「水平なネットワーク構造を持つ集団の必要性」(人々の自発的な参加によって成り立っている水平な社会ネットワーク構造を持つ集団の形成と維持)、「制度や技術の必要性」(政府や自治体でインターネットの社会関係資本涵養機能と効果を理解した上で、それを促進するための支援制度づくり、P2Pなどの新しい技術の開発)、の3つである。そして最後に、「今後、ますますインターネットは広い範囲に普及し、さらにその技術も進歩すると思われるが、公共性を高めるための社会関係資本をどのようにインターネットが支援していくことができるのかという視点を持ち続けることの重要性」を指摘している。


 以上が本書の概要である。社会関係資本という概念を手がかりとして、インターネットとりわけオンラインコミュニティ(現在でいうソーシャルメディア)が人々をつなぐメディアとして、どのようにして豊かな社会を築いてゆくかを、膨大な文献と調査分析を通して論じた、読み応えのある力作である。社会関係資本とインターネットの関係に興味を持たれる方は、パットナムの『孤独なボウリング』、ナン・リンの『ソーシャル・キャピタル』とともに、ぜひ本書を手にとって、詳しい内容をご覧いただきたいと思う。


 → 『きずなをつなぐメディア-ネット時代の社会関係資本』

 社会関係資本とは、パットナムによると、「信頼感や規範意識、ネットワークなど社会組織のうち集合行為を可能にし、社会全体の効率を高めるもの」であり、「互酬性の規範」と「市民的な参加のネットワーク」からなるものである。一般に、「物的資本(土地、財産など)は物理的対象を、人的資本(スキル、知識、経験など)は個人の特性をさすものだが、社会関係資本が指し示しているのは個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範である」とパットナムは述べている(『孤独なボウリング』)。

 ここで、「互酬性」とは、聖書にある「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という一般的互酬性と、「あなたがそれをしてくれたら、私もこれをしてあげる」という特定的な互酬性のことである。パットナムによれば、「信頼は社会生活の潤滑油となるものであり、人々の間で頻繁な相互作用が行われると、一般的互酬性の規範が形成される傾向がある」という。社会的ネットワークと互酬性の規範は、相互利益のための協力を促進させうる。「社会の成員間でこうした互酬性が一種の社会的規範にまで高められると、その規範に基づく社会ネットワークが形成される。このネットワークが社会に埋め込まれることによって、今度はネットワークが社会の成員を常に相互に協力するように差し向けるという(循環的な)プロセスが想定される。つまり、社会関係資本を活用することで社会関係のなかで人々の相互的な利得を獲得させるための協調と調整が促進される」(宮田加久子『きずなをつなぐメディア』)。その結果、社会関係資本は集合行為のディレンマを解決し、民主主義を機能させるための鍵となる、とパットナムは考えた。

 こうした利益は、「結束型」(排他型)の社会資本と「橋渡し型」(包摂型)の社会資本によって、成員の間で共有されることになる。「結束型」の社会資本とは、緊密な、内向きの社会ネットワークの中で共有される強い紐帯である。家族や親密な友人グループなどの関係はその一例である。これに対し、「橋渡し型」の社会資本とは、外向きで、地位や属性をこえて多様な人々との関係をつないでいくことに役立つ、弱い紐帯をさしている。

 それでは、インターネット(ICT)と社会関係資本との間の関係はどのようなものか。また、社会的包摂との関連はどのようなものか。この点について、
 ・Warschauer, 2003, Technology and Social Inclusion
 ・宮田加久子,2005,『きずなをつなぐメディア』
 ・パットナム, 2000=2006, 『孤独なボウリング』
をもとに考察することにしたい。

 社会関係資本を増やすことは、明らかに重要であることは、上記の記述からも自明だろう。ICTやインターネットの活用は、社会関係資本を増大させるのに役に立つことも、過去の実証的研究から明らかにされている。Wauschauerは、トロント市〔カナダ〕のNetvilleと呼ばれる町で行われた研究を紹介している。この町では、すべての新規購入した家にブロードバンドの無料接続が提供された。実際には、6割の家庭でインターネットが提供され、残り4割にはインターネットが提供されなかった。これは、一種の野外実験の場を提供することになった。調査の結果、インターネットを提供された家庭ではNetvilleの内部でも外部との間でも、広汎な社会ネットワークが形成され、相互接触とサポートの提供がみられた。ネットにつながった市民は、50km圏内でも、50~500km圏内でも、500km圏外でも、外部の人々との接触とサポートが増大したのに対し、ネットにつながっていない市民の場合には、いずれの地域圏においても、接触とサポートが減少するという対照的な現象がみられた。とくに、50~500km圏の人々から受けるサポートについて、両者の間に最大の相違がみられた。これはインターネットが、「ちょうど到達できる圏外」にいる人々との間の社会関係資本を構築するのに有効であることを示すものといえる。コミュニティの内部においても、メイリングリストの活用などを通じて、ネットに接続した人々は、相互の紐帯を深めるという傾向がみられた。また、ネットに接続した住民たちは、メーリングリストからの情報をネットに接続されていない家庭にも届けるという効果さえみられたという。

 これに対し、インターネットは社会関係資本の増大をもたらさない、という見解もある。まず、対面的なコミュニケーションは、オンラインのコミュニケーションに比べ、よりリッチなコミュニケーションとサポートをもたらす。もしオンライン・コミュニケーションが対面的な相互作用を「補完」するのではなく、「代替」してしまうと、結果として社会関係資本は弱くなるだろう。また、ネット上では、いわゆる「フレーミング」(炎上)と呼ばれる敵対的なコミュニケーションが生じるが、これも社会関係資本の低下につながるだろう。さらに、インターネット上でチャットなどを通じて匿名的なコミュニケーションにはまるならば、それが対面的なコミュニケーションを低減させるという危険性もある。最後に、人々はインターネットを社会的コミュニケーションに用いるとは限らず、プライベートな、あるいは反社会的なコンテンツを消費することもあり、それが社会関係資本を低減させる可能性もある。

 ウォーシャウアー氏によれば、ICTを社会関係資本の促進のために活用するには、「ミクロ」「マクロ」「メゾ」という3つのレベルで社会関係資本を捉えることが有効だという。

【ミクロレベルの社会関係資本】:バーチャル・コミュニティ対情報化コミュニティ

(1)バーチャル・コミュニティ
 もともとハワード・ラインゴールド氏がオンラインコミュニティであるWELLでの体験をもとにつくった言葉だが、異なるバックグラウンドや地域にいる見ず知らずの人々が、オンライン上で情報を共有し、議論し、必要なときにはサポートを与え合うという体験を語ったものである。しかし、彼自身、見解を和らげ、バーチャルコミュニティと伝統的なコミュニティやネットワークとの接続性を強調するようになった。第一に、どのような技術も、既存の社会関係や社会的文脈の中から生まれるものだということ。第二に、バーチャルコミュニティと伝統的コミュニティとの間の差異は擬似的なものだということ。現実には、人々の社会的ネットワークは他の地域に住む親戚、友人、同僚などを含んでおり、彼らとの間のコミュニケーションは、対面接触の他に、電話、メール、その他のメディアを媒介として行われているのである。ICTの利用は、他のネットワーキングを代替するのではなく、補完する役割を果たしている。

(2)情報化コミュニティ
 社会的包摂に関するテクノロジーの問題を考える上で、情報化コミュニティ(community informatics)の概念はバーチャルコミュニティよりも有用かもしれない。情報化コミュニティとは、コミュニティの社会的、経済的、政治的、文化的な目標達成を助けるためにICTを適用しようとする試みを指している。

 社会関係資本を促進することは情報化コミュニケーションの基本戦略だが、これはオンライン・コミュニケーション単独では達成できない。むしろ、社会関係資本はコミュニティの目標をサポートするために最強の協同とネットワークを構築することによって創造できるものであり、そのためにICT技術の活用が中心的な課題になる。オンライン・コミュニケーションはその一部分となるが、同時に伝統的なコミュニケーション、組織、動員、協同の構築もまた非常に重要である。

【マクロレベルの社会関係資本】:政府と民主主義

 ミクロレベルの社会関係資本がボトムアップだとすると、マクロレベルの社会関係資本はトップダウンで形成されるといえる。ここでは、大規模な制度、とくに政府がどのように資源やサポートを個人や社会に提供するか、という問題を考える。

 マクロレベルの社会関係資本のもっとも重要な構成要素は「シナジー」(国家と社会の間の協同的でポジティブな関係)である。シナジーを発展させることは重要だが、とくに不平等の高い国々では難しい課題である。貧困層の周縁化が進んでいる国では、貧しい人々が政府の資源へのアクセスから切り離され、悪循環を生むケースが少なくない。

 うまくデザインされたICT活用プログラムを実施することにより、政府の情報や資源へのアクセスを増大させ、周縁化を低減させるという好循環を生むことができる。そのためには、電子政府計画は貧困層や周縁にいる人々のニーズにマッチしたものとして周到に企画される必要がある。そうでなければ、すでにネットワークにうまく接続している人々をますます有利にするだけの結果に終わるだろう。電子政府(E-governance)計画は、貧困層に対して少なくとも二つの点で役に立つ。一つは政府の透明性を増大させること、もう一つは市民のフィードバックを増大させることである。

【メゾレベルの社会関係資本】:市民社会の力

 市民社会とは、個人と国家の間にあるネットワーク、グループ、組織などを指している。それは「公共圏において、自分たちの関心、熱情、アイデアを表明したり、情報を交換したり、互いの目標を達成したり、国家に要求を突きつけたり、国家公務員に説明責任を果たさせたりするために、集合的に活動する市民たち」のことを指している。市民社会は民主主義の実現のためにさまざまな機能を果たしている。インターネットなどのICTは、こうした市民社会の発展と民主主義の実現のために重要な役割を果たしている。その一つの事例として、「反グロバリぜーション」グループの運動があげられる。

<反グローバリゼーション運動とインターネット>

 今日では、第三セクター(非政府、非ビジネス)の社会組織(NGOなど)の発展が著しい。ICTはこうした第三セクターの発展において重要な役割を果たしている。国際的なNGOはドキュメントを共有したり、戦略やキャンペーンを展開するためにインターネットを活用してきた。草の根グループは、メンバーを動員し、プロテストを組織するためにインターネットを活用している。インターネットを活用したもっとも大規模な国際的社会運動といえば、反グローバリゼーション運動(antiglobalization movement)だろう。

 反グローバリゼーション運動によるインターネットの利用は1980年代にまでさかのぼる。グリーンピースのような国際的NGOはスタッフのためにグローバルなコミュニケーションのネットワークを開発した。インターネットをベースとする反グローバリゼーション運動は1994年に初めて登場した。この年、メキシコ南部のサパティスタ(Zapatista)民族解放組織は武装闘争を開始した。当初から、サパティスタのリーダーたちはインターネットの活用において高い能力を示した。闘争が始まった直後から、非公式のサパティスタ・ウェブ頁が立ち上がり、サパティスタのメーリングリストやウェブサイトが多数開設された。1995年には約8万1000人がメキシコ国外からサパティスタの主催する会議に出席した。インターネットは多様な反グローバリゼーションのNGOグループにとって重要な役割を果たしてきた。サパティスタを支援するNGOネットワークには、先住民の権利をサポートする争点志向的なNGO、人権擁護団体、持続可能な社会を推進するNGOなどが含まれる。

 反グローバリゼーション運動による次なるネットバトルは、1997~1998年、WTOによる「投資に関する多国間協定」(MAI)の提案直後に起きた。1998年、MAIの提案ドラフトがインターネットを通じてリークされると、あっという間に世界に広がり、これに反対するウェブが多く立ち上がった。多くの国でMAIに反対する運動が組織され、最終的にMAIは採択されずに終わった。

 その後も、1999年シアトルで開催されたWTO会議、メルボルンで開催された世界経済フォーラムなどでも、反グローバリゼーション運動のNGOグループがインターネットを使って反対運動を展開した、インターネットの力を示した。ついには、反グローバリゼーション運動のためのパーマネントなウェブサイトも次々と立ち上がった。The Independent Media Centerはその代表例である。このサイトには、、背景情報、ディスカッションフォーラム、オンライン新聞、検索可能なアーカイブ、関連する写真や動画などが提供されており、反グローバリゼーション運動にとってワンストップの情報センターの役割を果たしている。反グローバリゼーション運動にとって、インターネットは他のコミュニケーションを代替するわけではなく、それを補完したり拡張したりするという役割を果たしているといえる。インターネットは、反グローバリゼーションにおいて重要な社会関係資本であり、政治的エンパワーメントに大きく貢献しているのである。

 

  





 

 ピッパ・ノリス氏のdigital divideは2001年に出版されたが、その2年後〔2003年〕に出版された次の本も、デジタルデバイドをより深く理解する上で有用かと思われるので、少しばかりご紹介しておきたい。すでに刊行から8年経っているので、この本も今の状況からすると古くなっている点もあるが、「社会的包摂」(Social Inclusion)や「社会的排除」(Social Exclusion)をICTの文脈で議論した数少ない専門書として、参考になる部分は少なくないと思われる。日本では、「社会的包摂」は社会福祉の分野で盛んに用いられているように思われる。メディア論の領域では、これとやや近い概念として、「社会関係資本」(Social Capital)があり、こちらの方がインターネットとの関連でよく検討されているようだ。ICTと社会的包摂の関連では、欧州委員会(European Commission)がe-Inclusionという政策を推進しており、本書との関連が深いと思われる。

→ e-Inclusion (European Commission)

・Mark Warschauer, 2003, Technology and Social Inclusion: Rethinking the Digital Divide. MIT Press
『テクノロジーと社会的包摂:デジタルデバイドを再考する』

 著者は、もともとデジタルデバイドという概念を手がかりとして研究を始めたが、世界各地でフィールドワークを重ねるうちに、デジタルデバイドという概念のもつ問題点を感じるようになり、最終的に「ICTと社会的包摂」という研究テーマにたどりついた、と序章に書いている。

 デジタルデバイドに関する従来の議論(1990年代)では、デジタルデバイドを「ICTへのアクセス手段を持つ者と持たざる者との間の格差」として捉えており、持たざる者に対して、ICTへのアクセスを与えることが政策目標になっていたが、著者はフィールドワークを通じて、こうした視点に疑問を抱くようになったという。これを象徴するために、3つのエピソードが紹介されている。ここでは、そのうちの一つだけを翻訳しておきたい。

<スラム街の「壁の穴」>

 2000年、ニューデリー政府はIT企業と共同で、「壁の穴」実験(Hole-in-the-Wall experiment)と呼ばれるプロジェクトをスタートした。これは、スラム街に住む子どもたちにコンピュータへのアクセスを提供する試みだった。ニューデリーでもっとも貧しいスラム街に5台のコンピュータ・キオスクを設置した。コンピュータの本体はブースの内部にあったが、モニターは壁の穴から突き出しており、コンピュータのマウスの代わりに、特注のジョイスティックとボタン類が設置されていた。(2000年の時点では)キーボードは提供されていなかった。コンピュータはダイヤルアップ回線でインターネットに接続されていた。

 最小介入教育という理念に沿って、教師もインストラクターも提供されていなかった。その狙いは、子どもたちが大人の教師の指示を受けることなく、自分自身のペースでいつでも自由に学習ができるようにという点にあった。

 報告書によると、このサイトに群がった子どもたちは、自分たちだけでコンピュータの基本操作を教え合ったという。彼らは、クリックやドラッグの仕方、異なるメニューの選び方、コピペの仕方、ワードやペイントソフトの使い方、インターネットへのつなぎ方、背景の壁紙の変え方、などをすることができるようになった。このプロジェクトは、研究者や政府当局者から、インドや世界中の貧困な人々をコンピュータ時代に招き入れるものとして称賛された。

→(参考) CNNリポート: CNN on slumdog Millionaire's Real inspiration



 しかしながら、コンピュータ・キオスクを実際に訪問してみると、少し違う現実が見えてきた。インターネットはほとんど機能していなかったので、ほとんど使われていなかった。教育番組は利用できなかった。また、子どもたちが唯一理解できるヒンズー語のコンテンツも提供されていなかった。子どもたちはジョイスティックなどの操作を覚えたが、実際に費やす時間のほとんどはペイントソフトやコンピュータゲームだった。子どもたちを指導する教師やインストラクターもいなかった。近隣地区の両親たちは、このキオスクに複雑な感情を抱いていた。歓迎する住民もいたが、大部分の親たちは、キオスクが子どもたちにとって有害だと感じていた。ある母親は、「私の息子は学校での成績もよかったし、宿題も熱心にやっていたのに、今ではコンピュータゲームに夢中になり、学校の勉強がおろそかになっている」と(筆者に)語った。つまり、コンピュータを使った最小介入教育方式は、ほとんど教育効果がないことがわかったのである。

 ※訳者注:著者の現地調査は、2000年時点のものであり、その後「壁の穴」がどう改善されたかは、本書ではわからないが、上記のCNN特番の映像を見ると、コンピュータの仕組みやコンテンツ、ネット接続環境などもかなり改善されているようにも思われる。この社会実験に関する詳しい情報は、次のウェブサイトを参照されたい。

Hole-in-the-wall.com

 このようなICT導入プロジェクトは、ICTを通じて人々の生活を改善しようという真摯な動機で実施されたものだが、思いもかけない失敗に終わるケースが少なくない(日本でも、1980年代、政府のかけ声のもとで各地にニューメディアが導入されたが、ほとんどは失敗に終わったという先例がある)。その大部分は、ハードウェアとソフトウェアを導入することだけに関心が向き、ヒューマンな側面、ソーシャルな側面がおろそかにされた結果だといえる。

 ICTへのアクセスというのは、物理的な、デジタルな、人的な、社会的な資源からなる諸要因の複雑な配置の中に埋め込まれたものである。もし新しい情報技術への有意義なアクセスが提供されるとするならば、コンテンツと言語リテラシーと教育コミュニティと制度などが十分に考慮されなければならないだろう。

 そのためには、従来の「デジタルデバイド」という概念装置に代わって、「社会的包摂」という概念枠組みを採用することが必要だ、と著者は考える。

<社会的包摂>

 社会的包摂、社会的排除の概念は、もともとヨーロッパで開発されたものである。個人や家族や地域社会が社会的に全面的に参画し、自分たちの進路をコントロールできるようにすることを目指すもので、そのために、経済資源、雇用、教育、健康、住宅、余暇活動、文化、市民活動などの関連要因を考慮に入れる点に特徴がある。

 本書では、新しい情報通信技術を用いて新しい知識にアクセスし、採用し、創造する能力が現代における社会的包摂にとってきわめて重要だとの認識に立っている。具体的な研究設問としては、次のようなものがある。
・ICTへのアクセスはなぜ、どのように社会的包摂にとって重要なのか?
・ICTへのアクセスを持つとはどういう意味か?
・社会的包摂へのアクセスは多様な環境の中でどうすれば最大化できるか?
 
 研究の焦点をデジタルデバイドから社会的包摂にシフトさせるというのは、次の3つの前提条件にもとづいている:
(1)新しい情報経済とネットワーク社会が出現していること、
(2)ICTがこうした新しい経済と社会のすべての側面で決定的に重要な役割を果たしていること、
(3)ICTへのアクセスがこうした新しい社会経済において、社会的包摂性を規定する要因になっていること

 なお、本書で用いられるデータは、インド、ブラジル、エジプト、中国、アメリカでのフィールド調査にもとづいている。

 著者によれば、社会的包摂を促進するICTへのアクセスは、単に機器やネットワークを提供するだけでは達成できない。目標となるクライアントやコミュニティのもつ社会的、経済的、政治的なパワーを増大するには、さまざまな資源を動員することが必要である。その資源とは、「物理的資源」「デジタル資源」「人的資源」「社会的資源」の4つである。物理的資源とは、コンピュータやテレコミュニケーションへのアクセス(従来のデジタルデバイド論の対象)を意味する。デジタル資源とは、オンライン上で利用可能なデジタル素材(コンテンツや言語)のことをいう。人的資源とは、リテラシーや教育の提供を意味している。社会的資源とは、ICTへのアクセスをサポートするコミュニティ、制度、社会構造(いわゆる「社会関係資本」のこと)をさしている。これら4つの資源とICT利用との間には、反復的な関係がある。つまり、それぞれの資源はICTの有効活用に貢献すると同時に、それぞれの資源はICTの有効活用の成果ともなっているということである。したがって、これらの資源をうまく活用すれば、社会的発展と社会的包摂を促進するという好循環を生むことが期待される。

→以下、詳しくは原書をご参照ください。
 Technology and Social Inclusion: Rethinking the Digital divide.

 

 Pippa Norris, 2001, Digital Divide: Civic engagement, Information Poverty, and the Internet Worldwide.

 
この本が出版されたのは、10年前のことだ。当時は、世界規模のデジタルデバイド研究書として大きな反響を呼んだ。その後、デジタルデバイドが解消に向かいつつあるために、あまり注目されなくなったが、この分野の最重要文献であることは確かだ。ノリス女史はハーバード大学教授で、専門は(国際)政治学だ。多くの重要文献を発表しており、数々の賞を受けている。→www.pippanorris.comを参照。

 分厚い本なので、読まないままでいたが、時間的余裕ができたので、じっくりと全編を読むことにしたい。この本は、インターネットが世界レベルで政治に及ぼす影響に関する、初の実証的研究である。

 本書では、デジタルデバイドを3つの次元からなるものとして捉えている:

(1)グローバル・デバイド:先進国と途上国との間にみられるデジタルデバイド
(2)ソーシャル・デバイド:国家の中での情報リッチと情報プアーとの間のデバイド
(3)デモクラティック・デバイド:公共的な世界でデジタル情報資源を活用し、政治参加に役立てている人と、そうでない人の間のデバイド

(1)グローバル・デバイド

〔原文〕 The UN Development Report argues that productivity gains from information technologies may widen the chasm betweeen the most affluent nations and those that lack the skills, resources, and infrastructure to invest in the information society.

・chasm  (地面、岩などの)幅の広く深い割れ目;深い淵。(意見・感情の)隔たり、食い違い

〔訳〕国連の開発レポートによると、情報技術から得られる生産性の向上は、もっとも豊かな国々と情報社会に投資するだけのスキル、資源、インフラを欠いた国々との間の隔たりを広げるかもしれないという。

〔原文〕 Yet at the same time digital networks have the potential to broaden and enhaunce access to information and communications for remote rural areas and poorer neighborhoods, to strengthen the process  of democratization under transitional regimes, and to ameliorate the endemic problems of poverty in the developing world.

・endemic 一地方独特の、風土性の

〔訳〕しかし同時に、デジタルネットワークは遠く離れた辺境地域や貧しい近隣地域では情報とコミュニケーションへのアクセスを広げ、促進することによって、発展途上の国家における民主化のプロセスを強化し、発展途上国における地域独特の貧困問題を改善するという潜在的可能性を秘めている。

(2)ソーシャル・デバイド

〔原文〕 Equally important , many official agencies have expressed concern about the development of a widening digital divide within societies.  Technological opportunities are often unevenly distributed, even in nations like Australia, the United States, and Sweden at the forefront of the imformation society.

・forefront  先頭、最前部;中心

〔訳〕同様に重要なこととして、多くの当局者たちは社会の「内部」でのデジタルデバイド拡大に対する懸念を表明している。オーストラリア、アメリカ、スウェーデンのような情報社会の先頭を走っている国においてさえ、技術的な機会はしばしば不均等に配分されている。

〔原文〕 The debate divides cyber-pessimists who emphasize deep-seated patterns of social stratification and the growth of an unskilled underclass in technological access, cyber-skeptics who believe that technologies  adapt to society, not vice versa, and cyber-optimists who hope that in affluent postindustrial societies, at least, the digital divide will eventually succumb to the combined forces of technological innovations, markets , and the state.

・succumb  屈服する、負ける

〔訳〕この議論において、サイバー悲観主義者、サイバー懐疑論者、サイバー楽観主義者の間で対立がみられる。サイバー悲観主義者はな深いところにある社会的階層化のパターンを強調し、技術的なアクセスにおける未熟練の下層階級の成長を強調する。サイバー懐疑論者は技術は社会に適応し、その逆ではないと主張する。そして、サイバー楽観主義者は、少なくとも豊かな脱産業社会においては、デジタルデバイドは最終的に技術革新とマーケットと国家に屈服するだろうという期待をもっている。

〔原文〕 Given substantial inequalities in the old masss media, it would be naive to expect that the Internet will magically transcend information poverty overnight. The more intriguing series of questions addressed by this book concern whether there are special barriers to digital technologies, such as their greater complexity or costs, and whether relative inequalities in Internet use will be similar to disparities in the penetration rates of older communication technologies.

・transcend (経験、理解の範囲を)超える;しのぐ
・intriguing 興味をそそる、おもしろい

〔訳〕旧来のマスメディアにおいても実質的な不平等が存続しているという現状を考えると、インターネットが情報の貧困を一夜にして魔術的に乗り越えるだろうと期待するのはナイーブすぎるだろう。本書で提示する、より興味をそそる一連の設問は、デジタル技術に対する特別の障害があるかどうか(例えば複雑さたコストの増大など)、そして、インターネットの利用における「相対的な」不平等が旧来のコミュニケーション技術の普及率格差と同様のものになるかどうか、に関するものである。

(3)デモクラティック・デバイド

〔原文〕 The last challenge, and perhaps the most intractable, concerns the potential impact of the digital world on the distribution of power and influence in political systems. There is growing awareness that a substantial democratic divide may still exist between those who do and do not use the multiple political resources available on the Internet for civic engagement.  

・intractable 御しにくい、手に負えない;処理し(扱い)にくい

〔訳〕最後のチャレンジ(そして、おそらくもっとも手に負えないこと)は、デジタル世界が政治システムにおける権力の分布や影響力に対してもつ潜在的インパクトに関する事柄である。実質的なデモクラティック・デバイドが依然として、市民の政治参加にとってインターネット上で利用可能な複数の政治的資源を利用する者と利用しない者の間で存続するかもしれない、という懸念が増大している。

<本書の概念的枠組み>

本書はインターネットと政治参加に関する包括的な概念枠組みに基づいて執筆されている。その枠組みは、ノリスによれば、次の図のようになっている。きわめて包括的なモデルであることがわかる。

           国家の文脈             政治制度             個人のレベル

Norris2001



〔原文〕 The national context, including the macrolevel technological, socioeconomic, and political environment, determines the diffusion of the Internet within each country. The instututional context of the virtual political system provides the structure of opportunities mediating between citizens and the state, including the use of digital information and communication technologies by governments and civic society. Finally, the individual or microlevel of resources and motivation determines who participates within the virtual political system. 

〔訳〕「国家」の文脈は、マクロレベルの技術的、社会経済的、政治的環境を含んでいるが、各国におけるインターネットの普及を規定している。バーチャルな政治システムという「制度的」文脈は、市民と国家の間を媒介すjる機会の構造を提供している。これには、政府や市民社会による情報通信技術の利用を含んでいる。最後に、資源や動機づけという「個人」あるいはミクロレベルは、誰がバーチャルな政治システムの中で参加するかを規定している。

※「個人」レベルの「資源」には、時間、お金、スキルなどが含まれる。また、「動機づけ」には政治への関心、自信、有効性感覚などが含まれる。

 以上、第1章の抄訳でした。これ以降、関心のある方は原書をお読みください。
 → Digital Divide 

※※ 本書が出版されたのは、2001年である。それから10年。インターネット世界の進歩は目を見張るばかりだ。とくにアメリカでは、大統領選挙でもオバマ氏がインターネット、とくにソーシャルメディアをフルに活用し、市民参加型の選挙を推進したことは、記憶に新しい。したがって、ノリス氏の本書に収録されているデータは、いまとなっては古くなっているものが多いことは否めない。ただし、本書で指摘されているようなグローバル・デバイドは、依然として大きなものがあり、参考にすべき点は少なくないと思われる。10年後のデジタルデバイドの現在はどのようなものか、それは読者であるわれわれ自身が検証すべきところだろう。

 これについては、すでに別の記事で指摘したが、もう一度繰り返しておきたい。

 ウィキペディアには、「デジタルネイティブ」の項目がある。この中で、「ガートナーのPeter Sondergaardが名付けた名称」(2011年11月1日閲覧時点)と記述されているが、これは間違っていると思われる。前掲書( The Digital Divide)の中でMarc Prenskyの雑誌論文が転載されており、Prensky氏が2001年に雑誌On the Horizon で、初めて「デジタルネイティブ」という言葉を使ったというのが正しいようだ。ウィキペディアのこの項目は、まだ「書きかけ」の状態にあり、いずれだれかが修正することを期待したい。ちなみに、英語版Wikipediaでは、語源について、Marc Prensky氏が2001年に初めて唱えた、と正しく記述されている。ウィキペディアの場合、日本語版は英語版に比べて正確度が劣る面があることを示す一例といえるかもしれない。

 正確にいうと、On the Horizonという教育関係の雑誌のVol.9 Isssue 5, issue6(2001年10月~12月)で2回にわたって掲載された、"Digital Natives, Digital Immigrants" という論文が、「デジタルネイティブ」という言葉の初出記事となる。次の文章が初出の箇所である:

   What should we call these "new" students of today? Some refer to them as the N- [for digital] - gen. But the most useful designation I have found for them is Digital Natives. Our students today are all "native speakers" of the digital language of computers, video games and the Internet.

〔訳〕このような今日の「新しい」学生たちをどう呼ぶべきなのだろうか?ある人は彼らを「N世代」と呼んでいる。しかし、私が見つけたもっとも有用な呼称は、「デジタルネイティブ」だ。今日の学生たちはすべて、コンピュータ、ビデオゲーム、インターネットのデジタル言語の「ネイティブスピーカー」なのだ。

 もう一つ、デジタルネイティブと対になって使われる「デジタルイミグラント」も、同じプレンスキー氏の造語だ。
 上記のパラグラフに続いて、次のように、定義している。

   So what does that make the rest of us ? Those of us who were not born into the digital world but have, at some later point in our lives, become fascinated by and adopted many of most aspects of the new technology are, and always will be compared to them, Digital immigrants.

〔訳〕それでは、その他のわれわれはなんと呼ぶべきか?デジタル世界に生まれてはこなかったが、われわれの人生のある時点で新しいテクノロジーの大部分に魅せられ、それらを採用するようになり、つねにデジタルネイティブと比較されるだろう人々、それは「デジタルイミグラント」である。

※なお、NHK「デジタルネイティブ取材班」編『デジタルネイティブ』(NHK出版, 2009)には、「デジタルネイティブという言葉を最初に使ったのは、アメリカの作家、マーク・プレンスキーだといわれている」と、正しく紹介されている。もっとも、上記の引用原文では、The most useful designation I have found for them is Didital Natives となっており、found ということばからすると、プレンスキー氏のオリジナルな造語かどうかは、必ずしもはっきりとはしない。すでに、一部の人々がこのことばを使っていたのを「見つけた」ということなのかもしれない。

 The Digital Divideという本には、ウィキペディアに関する論文もいくつか掲載されている。その中の一つを紹介しておきたい。Cathy Davisonの"We can't ignore the influence of digital technologies"というタイトルの章だ。例によって、わからない英単語の意味を入れながら、抄訳をつくってみよう。

・heresy 異教、異端、異説
・harrumph (おほんと)咳払いをする
〔原文〕 When I read the other day that the history department at Middlebury College had "banned Wikipedia," I immediately wrote to the college's president to express my concern that such a decision would lead to a national trend, one that would not be good for higher education. "Banning" has connnotations of evil or heresy. Is Wikipedia really that bad? (中略) Soon after the Middlebury story was reported, one of my colleagues harrumphed, "Thank goodness someone is maintaining standards!" I asked what he meant, and he said that Wikipedia was prone to error. So are encyclopedias, I countered.
〔訳〕先日、ミドルベリー大学の歴史学科がウィキペディアを「禁止した」という話を読んだとき、私はすぐに学長に手紙を書き、そのような決定は全国的なトレンドをつくり、それは高等教育にとってよいことではないだろう、という懸念を表明した。「禁止」ということばは悪いもの、異端といった意味合いを含んでいる。ウィキペディアは本当に悪いものなのか?〔中略〕 ミドルベリーのストーリーが報道されてから間もないころ、私の同僚の一人が、オッホンと咳払いしながら、「なんというすばらしいことか。誰かが規律を維持している!」と言った。私は彼に「それはどういう意味なの?」と聞いたところ、かれは「ウィキペディアには誤りが多い」と言った。「百科事典にもね」と私は言い返した。

・hone (技術などを)磨く
・knee-jerk (反応などが)反射的な;型にはまった
〔原文〕 The students at Middlebury have grown up honing those skills. Don't we want them to both mine the potential tools in their formal education and think critically about them That would be far more productived than a knee-jerk "Delete".
〔訳〕ミドルベリー大学の学生たちはそうしたスキル(デジタル技術を用いて情報を検索したり学習したりすること)を磨いて育ってきたのだ。われわれは公式教育の中で、そうしたツールのもつ潜在力を発掘すると同時にそれらについて批判的に考えさせたいとは思わないだろうか?

・hubbub がやがやいう音
・extrapolate (未知の事項を既知の事項から)推定する、外挿する
〔原文〕 I urge readers to take the hubbub around Middlebury's decision as an opportunity to engage students- and the country - in a substantive discussion of how we learn today, of how we make arguments from evidence, of how we extrapolate from discrete facts to theories and interpretations, and on what basis.
〔訳〕私は読者に対し、ミドルベリー大学の決定を一つのチャンスととらえて活発に議論することを勧めたい。それは、学生たち(そしてこの国)が、今日どのように学ぶべきか、どのように証拠にもとづいて議論すべきか、どのように個別的な事実から外挿して理論や解釈を構築すべきか、そしていかなる基礎にもとづいて議論すべきかについてである。

※関連ニュース記事:
(The New York Times:2007年2月21日)
A History Department Bans Citing Wikipedia as a Research Source

(朝日新聞記事:2007年2月23日)
ウィキペディア頼み、誤答続々 米大学が試験で引用禁止

 いま読み進めているThe Digital Divideという本には、web2.0のオリジナル文書の他に、いくつかの関連論考が掲載されている。 その一つは、"Web 2.0: the second generation of the internet has arrived and it's worse than you think"  というもので、このタイトルから想像する限り、Web2.0批判のようだ。著者は、Andrew Keen氏。出典は、The Weekly Standard誌(2006年2月14日)。

 この論考の要旨を、原文と訳文を併記しながら紹介していきたい。

・nimble 動きの速い、すばやい、敏捷な
〔原文〕 We moderns are less nimble at resisting great seductions, particularly those utopian vision that promise grand political or cultural salvation. (中略) Here in Silicon Valley, this seduction has announced itself to the world as the "Web2.0" movement. 
〔訳〕われわれ現代人は、大きな誘惑に抵抗するのに、(古代の人々ほど)敏捷ではない。とくに、政治的、文化的な壮大な救済を約束するユートピア的ビジョンに対しては。(中略) ここシリコンバレーでは、この誘惑は「Web2.0」運動として世界に自ら宣言している。

・opinionated 自説を固執する
〔原文〕 This Web2.0 dream is Socrates' nightmare: technology that arms every citizen with the means to be an opinionated artist or writer.
〔訳〕このWeb2.0の夢はソクラテスの悪夢だ。すべての市民に自説を固執する芸術家や作家になるための手段を装備する技術なのだから。

・eschatology 終末論
〔原文〕 This outlook is typical of the Web2.0 movement, which fuses '60s radicalism with the utopian eschatology of digital technology. The ideological outcome may be trouble for all of us.
〔訳〕この見通し(ユーザー生成的なオンラインコンテンツが約束の地だという考え)は、Web2.0運動にとって典型的なものだ。それは60年代のラディカリズムとデジタル技術のユートピア的終末論を融合したものだ。

・geek コンピュータやインターネット技術に極端にのめり込む人々
〔原文〕 The movement bridges countercultural radicals of the '60s such as Steve Jobs with contemporary geek culture of Google's Larry Page.
〔訳〕こうした運動はスティーブ・ジョブズのような60年代のカウンターカルチャーの過激派とグーグルのラリー・ペイジを結びつけている。

・exuberance 豊富
〔原文〕 We know what happened first time around, in the dot-com boom of the '90s. At first there was irrational exuberance. Then the dot-com bubble popped; some people lost a lot of money and a lot of people lost some money. But nothing really changed. Big media remained big media and almost everything else - with the exception of Amazon.com and eBay - withered away.
〔訳〕われわれは90年代のドットコムブームの最初期に何が起こったかを知っている。最初の頃は、豊穣さがあった。それから、ドットコムバブルがはじけた。なにがしかの人々は多額の金を失い、多くの人はなにがしかの金を失った。しかし、実際にはなにも変わらなかった。ビッグメディアはビッグメディアのままでとどまり、その他のほとんは、アマゾンやeBayを除いては衰退してしまった。

・dinosaur 恐竜
・annihilation 絶滅
〔原文〕This time, however, the consequences of the digital media revolution are much more profound. Apple and Google and craiglist really are revolutionizing our cultural habirts. Traditional "elitist" media is being destroyed by digital technologies. Network television, the modern equivalent of the dinosaur, is being shaken by TiVo's overnight annnihilation of the thirty-second commercial. The iPod is undermining the multi-billion-dollar music industry.
〔訳〕しかしながら、今回は、デジタルメディア革命の影響ははるかに広範囲に及んでいる。アップルやグーグルやクレイグリストは実際にわれわれの文化的習慣を革命的に変化させている。伝統的な「エリート」メディアはデジタル技術によって破壊されている、恐竜の現代版であるネットワークTVは、デジタルビデオレコーダーが30秒のコマーシャルを一晩で絶滅させることによって大きく揺らいでいる。iPodは数十億ドルの音楽産業を根底から覆している。

・drain 排水する;〔飲み干して〕空にする
〔原文〕 Meanwhile, digital piracy, enabled by Silicon Valley hardware adn justified by Silicon Valley intellectual property communists such as Larry Lessig, is draining revenue from established artists, movie studios, newspapers, record labels, and songwriters.
〔訳〕その一方で、(シリコンバレーのハードウェアによって可能にされ、ラリー・レッシグのようなシリコンバレーの知的財産共産主義者によって正当化されている)デジタル海賊行為は、既存のアーティスト、映画スタジオ、新聞社、レコードレイベル、ソングライターから収入を枯渇させている。

・amnesia 記憶喪失
〔原文〕One of the unintended consequences of the Web2.0 movement may well be that we fall, collectively, into the amnesia that Kafka describes. Without an elite mainstream media, we will lose our memory for things learned, read, experienced, or heard.
〔訳〕Web2.0運動の意図せざる結果は、われわれが集合的にカフカの記述する記憶喪失に陥ってしまうということかもしれない。エリート主流メディアがなければ、われわれは学習され、読まれ、経験され、あるいは聴かれたものごとの記憶を失ってしまうことだろう。

(終わり)

 Didital Divideと同様、最近忘れられているネット用語として、WEB2.0ということばがある。ソーシャルメディアにほとんど置き換えられた感がある。

 Web2.0という言葉が初めて登場したのは、いまから7年前の2004年のことだ。同年10月、アメリカの出版社オライリーメディア社のCEOであるテム・オライリー氏が、サンフランシスコで「Web2.0カンファレンス」という会議を開催したのが始まり。翌2005年9月30日、オライリー氏は、ウェブ上で「Web2.0とは何か?」という題名の論文を発表し、その全体像を明らかにした。その直後から、日本でもこの言葉が大きな話題になった。日経ITPROのウェブサイトをみると、10月21日付けの記事として、「web2.0を知っていますか?」という詳しい紹介記事が掲載されている。また、2006年2月には、Internet Watchでも、詳しく紹介されている。そこでは、web2.0 7つの原則という形で整理されている。

(1)ウェブがプラットフォームとして振る舞う → グーグルなど
(2)集合知を利用する → グーグル、アマゾン、はてなブックマーク、@コスメ、ウィキペディアなど
(3)データは次世代の「インテル・インサイド」 → グーグルマップなど
(4)ソフトウェア・リリースサイクルのおわり →ソフトは市販ではなく、自社サーバーにおく
(5)軽量なプログラミングモデル → 迅速に開発できる環境を構築
(6)単一デバイドのレベルをこえたソフトウェア → PCだけではなく、ケータイやスマホにも対応
(7)リッチなユーザー経験 → 待ち時間のない、ユーザー本意のサービス

 これらの原則は、ソーシャルメディア全盛の今日でも十分通用するものではないだろうか。

 では、Web2.0はその後、どのように展開しているのだろうか?まったく消えてしまった訳でもないようだ。オライリー氏自身が2009年に発表した "Web squared: web2.0 five years on"という論文で、その手がかりを探ってみたい。原論文を読もうと思ったら、その抄訳(解説つき)がウェブ上で公開されていたので、とりあえず、リンクをつけさせていただきたい。

 ・web squared (ウェブの2乗 その1)
 ・web squared (ウェブの2乗 その2)
 ・web squared (ウェブの2乗 その3)
 ・web squared (ウェブの2乗 その4)

 例によって、原論文の中に出現する難しい英単語を学びながら、読み進めていくことにしたい。

<序>
・bust  破裂、破産、破綻
 〔原文〕 The original Web2.0 Conference was designed to restore confidence in an industry that has lost its way after the dot-com bust.
 〔訳〕 もともとのweb2.0カンファレンスは、ドットコムバブル破綻のあと、業界が見失った自信を復活させるために企画されたものである。

・sentient 感覚をもった
 〔原文〕We're constantly asked about "Web3.0". Is it the semantic web? The sentient web? Is it the social web? The mobile web?
 〔訳〕われわれは絶えず「ウェブ3.0」について尋ねられてきた。それは意味論的なウェブか?感覚をもったウェブか?ソーシャルなウェブか?モバイルウェブか?、などと。

<集合知を再定義する:新たな入力センサー>
( redefining collective intelligence: new sensory input)

・lingua franca 共通語
 〔原文〕 Consider search - currently the lingua franca of the Web. (中略) Modern search engines now use complex algorithms and hundreds of different ranking criteria to produce their results.
 〔訳〕ウェブの共通語になっているサーチ(検索)を考えてみよう。(中略) 現在のサーチエンジンは、検索結果を作り出すために、複雑なアルゴリズムと数百ものランキング基準を用いている。

<ウェブはどのようにして学ぶのか:明示的 対 暗示的な意味>
(How the Web learns: Explicit vs. Implicit Meaning)

・inferential 推理的、推測的、推論的
〔原文〕But how does Web learn? What we see in practice is that meaning is learned "inferentially" from a body of data.
〔訳〕しかし、ウェブはどのようにして学ぶのか?実際に見るのは、意味がデータの中から「推論的」に学習するということである。

<ウェブと世界の出会い:「情報の影」と「事物のインターネット化」>
(Web Meets World: The "Information Shadow" and the "Internet of Things")

・breakthrough 大きな進歩、躍進、貴重な発見
〔原文〕The increasing richnessof both sensor data and machine learning will lead to new frontiers in creative expression and imaginative reconstruction of the world. (中略)All of these breakthroughs are reflections of the fact noted by Mike Kuniavsky of ThingM, that real world objects have "information shadows" in cyberspace. For instance, a book has information shadows on Amazon, on Google Book Search, on Goodreads, Shelfari, and librarything, on eBay and on BookMooch, on Twitter, and in a thousand blogs.
〔訳〕センサーデータや機械学習におけるリッチさの増大は、創造的な表現や世界のイマジネーションに満ちた再構築における新しいフロンティアへと導いてくれるだろう。(中略) これらすべての画期的進歩はThinfMのmike kuniavskyが述べているように、現実世界の事物がサイバースペースに「情報の影」をもっているという事実の反映である。例えば、一冊の本はアマゾン、グーグルブックサーチ、等々に情報の影をもっている。

・hodgepodge (主に米国で用いられる)ごた混ぜ
〔原文〕Many who talk about the Internet of Things assume that what will get us there is the combination of ultra-cheap REID and IP addresses for everyday objects. The assumption is that every object must have a unique identifier for the Internet Things to work. What the web 2.0 sensibility tells us is that we'll get to the Internet of Things via a hodgepodge of sensor data contributing, bottom-up, to machine-learning applications that gradually make more and more sense of the data that is handed to them.
〔訳〕事物のインターネット化について語る多くの人は、われわれをそこにつれていくのは、日常的な事物に対する超安いREIDタグとIPアドレスの結合だということを想定している。この前提は、事物のインターネット化がうまく働くためには、すべての事物はユニーク(独自)な識別子をもっていなければならないということである。(しかし)Web2.0のセンシビリティがわれわれに教えてくれるのは、我々はセンサーのごたまぜのデータを介して事物のインターネットに到達することができるということだ。こうしたセンサーデータは、ボトムアップ式に機械学習的なアプリケーションに貢献し、次第により多くのデータを意味づけるようになるだろう。

〔注〕(事物のインターネット化の例):
 スーパーマーケットの棚に並んでいるワインが事物のインターネット化に参加するには、RFIDタグは必要ない。それには、単にあなたがワインのラベルをケータイで写真に撮るだけでいいのだ。あとは、あなたのケータイ、イメージ認識装置、サーチ、感覚的ウェブ、GPSなどが(自動的に事物のインターネット化を)やってくれるわけだから。
 
・revelation (今までわからなかったことを)明らかにすること、暴露、発覚
〔原文〕As more and more of our world is sensor-enabled, there will be surprising revelations in how much meaning - and value - can be extracted from their data streams.
〔訳〕われわれの世界がますますセンサーで探知できるようになるにつれて、どれほど多くの意味(そして価値)がそうしたデータ・ストリームから抽出されるという新たな発見が生まれることだろう。

<リアルタイムの台頭:集合的精神>
(The Rise of Real Time: A Collective mind)

・cascade 小滝;階段状に連続する滝
〔原文〕Real-time search encourages real-time response. Retweeted "information cascades" spread breaking news acrosss Twitter in moments, making it the earliest source for many people to learn about what's just happened.
〔訳〕リアルタイムの検索はリアルタイムの反応を促進する。リツイートされた「情報の奔流」はツイッターを通じてあっという間にニュース速報を拡散させ、多くの人々によって、いま起きたばかりの出来事を知るための最初の情報源となる。

・infuse (人・心を)満たす
〔原文〕 Real time is not limited to social media or mobile. Walmart realized that a customer purchasing an item is a vote, and the cash register is a sensor counting that vote.  Real-time feedback loops drive inventory. WalMart may not be a Web2.0 company, but they are without doubt a Web Squared company: one whose operations are so infused with IT, so innately driven by data from their customers, that it provides them immense competitive advantage.
〔訳〕リアルタイムはソーシャルメディアやモバイルだけに限られているわけではない。ウォルマートは顧客の購買行動が「投票」であることに気づいた。そして、キャッシュレジスターが投票を数えるセンサーになっているのだ。リアルタイムのフィードバック・ループが品揃えに反映される。ウォルマートはWeb2.0の企業ではないかもしれないが、間違いなくウェブ2乗の企業である。そのオペレーションはITに満ちあふれている。本質的に顧客からのデータによって動いているので、彼らにとっては巨大な競争上の優位性を提供しているのだ。

<結論:大切なもの>
(In Conclusion: The Stuff That Matters)

・leverage (~に)影響力を行使する
〔原文〕 2009 marks a pivot point in the history of the Web. It's time to leverage the true power of the platform we've built. The Web is no longer an industry unto itself - the Web is now the world.
〔訳〕2009年はウェブの歴史の中でも画期的な位置を占める。それはわれわれが築いたプラットフォームの力を行使する時だ。ウェブはもはや一業界のものではない。ウェブは今や世界そのものなのだ。

〔終わり〕




 最近では、デジタルデバイドという言葉を聞くこともほとんどなくなった。インターネットの世界では、言葉のはやりすたりも非常に速いと感じる。Web2.0もそうだった。

 アマゾンでDigital Divideというキーワードを入れてみたら、2011年に発売された The Digital Divideというタイトルの本が出てきたので、さっそく注文してみた。到着してみると、半分がっかり。1990年代から2000年代にかけての、デジタル社会論の主立ったものの抜粋のような内容で、最新のデジタルデバイド論ではなかったのだ。

 ただし、「デジタルネイティブ」(新世代)対「デジタルイミグラント」(旧世代)の間のデバイドが存在するという論考には、「なるほど」と思った。「デジタルネイティブ」初出の雑誌記事が掲載されていたので、これは引用先としても使えるかもという感じだ。ただ、このことばも、数年後には死語になってしまうかもしれないが、、、

※ウィキペディアには、「デジタルネイティブ」の項目がある。この中で、「ガートナーのPeter Sondergaardが名付けた名称」と記述されているが、これは間違っていると思われる。前掲書の中でmarc prenskyの雑誌論文が転載されており、Prensky氏が2001年に雑誌On the Horizon で、初めて「デジタルネイティブ」という言葉を使ったというのが正しいようだ。ウィキペディアのこの項目は、まだ「書きかけ」の状態にあり、いずれだれかが修正することを期待したい。ちなみに、英語版Wikipediaでは、語源について、Marc Prensky氏が2001年に初めて唱えた、と記述されている。ウィキペディアの場合、日本語版は英語版に比べて正確度が劣る面があることを示す一例といえるかもしれない。

Socialnomics: How Social Media Transforms the Way We Live and Do BusinessSocialnomics: How Social Media Transforms the Way We Live and Do Business
著者:Erik Qualman
Wiley(2009-08-24)
販売元:Amazon.co.jp
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 アマゾンで、このような本を見つけました。4ヶ月前に発売されたばかりの本です。次のブログで内容を紹介したいと思います とりあえず、筆者からのDigital Christmasグリーティングをご覧ください。

Digital Christmas Video

 日本語訳も出るようですね。早い!追いつけない!

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