梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』を久しぶりに購入。じっさいには「再購入」だ。本書が刊行されたのは、1969年。いまから40年以上も前のことだ。ちょうど、東大紛争真っ最中の時代だ。当時の私は学生時代で、非常に興味をもって読み通したことを覚えている。さっそく、本書の中にある「発見の手帳」を自分でもつけ始めたものだ。京大式カードにも興味を覚えたが、こちらは長続きしなかった。

 「知的生産の技術」ということばは、湯川秀樹博士からヒントをもらったとのことだが、梅棹さんが1963年に唱えた「情報産業論」と根っこは通じるところがある。実際、本書には、次のような記述がある。
(知的生産とは)さまざまな情報をもとにして、それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。・・・こういう生産活動を業務とする人たちが、今日ではひじょうにたくさんになってきている。研究者はもちろんのこと、報道関係、出版、教育、設計、経営、一般事務の領域にいたるまで、かんがえることによって生産活動に参加している人の数は、おびただしいものである。情報の生産、処理、伝達、変換などの仕事をする産業をすべてまとめて、情報産業とよぶことができるが、その情報産業こそは、工業の時代につづくつぎの時代の、もっとも主要な産業となるだろうと、わたしはかんがえている。(『知的生産の技術』11ページ)
 「発見の手帳」とは、日々の体験の中で、「これはおもしろい」と思った着想を記録するものである。レオナルド・ダ・ヴィンチがつけていた手帳からヒントを得たそうだが、私自身、このアイデアが大変気に入って、さっそく文房具店で小さなサイズの手帳を買い求め、「発見の手帳」と銘打って、そのときどきの着想などを書き綴ったりしたことを覚えている。それが学問の活動にどう役だったかはわからないが、大いなる知的刺激を受けたことは間違いない。

 梅棹さんが予見した「コンピュータが家庭に入り込み、それを知的生産ツールとして活用する」という環境は、今日、パソコン、インターネット、iPhone、iPadなどによってフルに実現するに至っているが、かといって、手書き式の「発見の手帳」が古くさくなったとは思われない。たしかに、エバーノートなど、なんでもメモにして記録することのできるソフト(アプリ)が簡単に手に入るようにはなったが、「手書き式」の「発見のノート」の意義は、ますます大きくなっているのではないだろうか?すべての入力をパソコンやIPhone、iPadなどで済ませるようになると、漢字を忘れてしまうし、なによりも、創造的な思考力が低下するようになるのではないか、と危惧される。また、手帳ならば、パッとひらめいたアイディア、着想をすぐその場で手帳に書き込むことができるが、パソコンやスマートフォンなどでは、そうはいかない。スマホの場合、キーボードが小さいので、入力に時間がかかる。その間に、せっかくの着想を忘れてしまいかねない。手書き式だと、書くそばから新しい発想がわいてくるし、書き付けるという操作自身、脳に記憶として定着させるのに役に立つのではないだろうか?

 いま、東京の科学未来館で、「ウメサオタダオ展」というのが開催中だ。「知の巨人」の一端に触れるためにも、あすはぜひお台場まで足を延ばしてみたいと思っている。「発見の手帳」「京大式カード」の現物を目にするのが楽しみだ。

・「ウメサオタダオ展:未来を探検する知の道具」(科学未来館)
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